蜘蛛の巣
死にたい。
いつからこんな気持ちばかり抱えるようになったのだろう。
中学校という猿山から抜け出した帰り道、仄暗い心を抱えて重い足取りのまま家路を辿る。
灰色に映る景色をぼんやりとやり過ごし、薄汚れたドアの前に着くと、飛び出しそうになる心臓を押さえ、息を整える。
鉄格子の錠前を外すように玄関の鍵をゆっくりとまわす。
少しでも大きな音をあげれば、地雷を踏んでしまう。
怖い。
ただただ、怖い。
早く部屋に逃げ込んでしまいたい。
部屋に入るには、リビングを通らないといけない。
そっとリビングを覗くと、ガリガリと煎餅を囓りながらテレビを観る後ろ姿が見える。
下らないテレビゴシップに興じている、目の下にどす黒いクマを作った年老いた女が怖くて目も合わせられない。
「ただいま、ママ」
目を合わせないように、足早にリビングを横切り自室に飛び込む。
「さっさと台所の洗い物やってよね!」
怒号が縮んだ心臓に突き刺さったけれど、振り向かないで急いでドアを閉めた。
制服も鞄も放り投げて、冷えた部屋の毛布にくるまって目を閉じる。
これ見よがしにテレビの音量が大きくなり、下卑た笑い声が耳に矢を打ち込んだように突き刺さる。
耳を両手で覆い、痛いくらいにぎゅっと瞳を閉じて、良かった日々を反芻するしか許されない日常。
「死のうと思えば、すぐ死ねる」
空っぽな気休めを繰り返すしか知らなかった。
昼行灯なパパはまだ帰って来やしない。
眉間に皺よせたママが、部屋のドアを破るように音を立てて入ってきて、パパの悪口を並べてはわたしを殴り、最後に一蹴りするとまた騒がしく出て行った。
視界が狭まった左目と、じわりとこみ上げる熱を押さえつけ、口内の鉄の味と一緒に飲み下す。
自分で編んだ蜘蛛の巣に絡まって、自らを偽って生きている。ヒステリックに口汚く罵ることしかしないママは、死刑囚をみる看守のようだ。
締め付けられ、自室という独房に押し込まれて独りにされる。
壊れた家の中で、刑期を努める囚人そのものでしかない。
一人で留守番できる歳になるまで預けられていた祖母の家が恋しい。
この家に戻される日、力なく微笑んで見送ってくれた祖母の姿が瞼に焼き付いている。
枕元に溜め込んだ、鈍く銀色に光る薬のシートをお守りのように握りしめて、白く眠る事だけを考える。
「人生は誰にも平等ではない」
騒音でしかないテレビから、その言葉だけがいやに心に響いた。
「無気力な娘と豚に変わった妻! そんな場所にどうして居られる!」
いつの間にか帰ってきたパパは、リビングで責め立てられて叫び声をあげていた。
山のように高い敷居をまたいで帰ってきても、鼓膜を突き破るような罵りあいしかこの家には存在しなくなってしまった。
「お前達の困難で作られたのが俺だ! 今日の俺はお前達が作ったんだ!」
「稼ぎもないのに女を囲ってるあんたが、何を偉そうに!」
「俺には安らぎが必要なんだ!」
金切り声を上げるママとパパ。
何故なんだ、いつからこうなってしまったと、ただ泣くことしかできない弱い自分。
人生に置いてきぼりにされた。生を受けたことが過ちだった。
落ち着かない魂が、奥深くで心の安らぎを求めてる。
死ぬために生きている。
そのこたえに行き当たったとき、荒みきったわたしは初めて声を上げて泣いた。
自分の泣き声さえも消してしまいたい。
枕元の薬を何錠も飲み込んで、机の引き出しを漁り、カッターを手にすると手首を切った。切れるだけ切った。
血まみれの手をそっと首にあてがって、刃を当ててゆっくりと、深く食い込ませて横へ振り抜いた。
ドアの外の金切り声が水中で聞く音のように籠もり出す。
切ったところがすべて心臓になったように熱く脈を打っている。
思考も覚束なくなって強烈な睡魔に意識を奪われていく。
意識を手放す寸前――。
「これでお婆ちゃんのところに行けるかな」
涙でこわばった頬に少しだけ安堵の笑みが零れた。