八話
時間だけが過ぎていく。あれから、どれほどの時が流れたのか。腕時計で時間の確認をする。残り時間はあと十分を切っている。かなり数を調べ終えているが、他のレンタランカーも雑食紳士も見つけた気配はない。
残りの棚はあと四つ。次の棚を調べる為に移動したいのだが――雑食紳士との距離が近づき過ぎている。おそらく、次の棚は雑食紳士の周囲に張られている、あの不思議な空間の範囲に入っているはずだ。
それでも、試しに一歩踏み込んでみるが――やはり駄目だ。さっきと同じ重圧のようなものが全身に覆いかぶさってくる。これでは、本を手に取るどころか探すことすら困難になる。
悔しいが打開策が見つからない。また、俺は元の位置に戻るしかなかった。それでも、俺は諦めたくない。見苦しくても最後まで足掻いてやる。こんな訳の分からない力に屈してたまるか!
今の位置から一歩後方に下がり、隣の棚に目をやる。まず、雑食紳士よりも先に作品を見つける。そして、どうにかして相手の油断を誘い手に入れてみせる。
視力には自信があるので、これぐらいの距離なら棚に並べられた背表紙の文字は読むことができる。一度途切れそうになった集中力を呼び戻し、探索作業に戻る。
一番上の段は……ない。その下の段も……ないか。三段目は――あ、あったぞ! 題名が同じだけで偽物の可能性もあるが、残りわずかなこの状況で、偽物が残っている可能性は少ない筈だ。
まだ、雑食紳士も気が付いていない。くそっ! 先に見つけたというのに、数歩先に目的の物があるというのに手が出せないもどかしさ。
何か方法はないのか。少々減点されてもいい。この不可侵エリアに入る為に、使えるような物は!
慌てたそぶりは見せないよう心がけ、落ち着いているよう装う。ゆっくりと周囲を調べる。余計な物が一切ないAC施設内には、状況を好転させられそうな物は見当たらない。
となると、ここで別の方角を見ながら「見つけた!」と声に出して、動揺を誘い雑食紳士をミスリードさせるか……。
もう、他に考えが浮かばない。策を考えるにしても時間がない。雑食紳士が今の棚を調べ終わるまで、あとわずか。再度、目当ての作品の場所を確認すると、腹をくくり芝居を開始しようと静かに息を吸い込んだ。
このタイミングで――視界の隅から誰かが入り込んできた。
大きな帽子が、滑るように目前へ現れる。
「えっ」
予想もしなかった登場人物に思わず声が漏れた。彷徨える帽子は俺に振り向くと、ニヤリと口元を笑みの形へ変えた。
「見つけてくれて。助かったよ」
その言葉に肌が粟立つ。
な、何だと。何故、発見したのがバレている! できるだけ、自然に装っていたはずだ。正面から顔を見られていたならまだしも、こいつは後方で視線は床に向いていた。そんな状態で俺の変化に気づけるものなのか?
あまりに理不尽な状況に軽くパニックに陥っていた俺の顔を、帽子のつばを親指で持ち上げ、顔を晒した彷徨える帽子の瞳が覗き込んでいた。想と同じように中性的な整った顔している。
「力が使えないのに、ここまでやれたことに正直驚いているよ。だが、勝負は勝負だ」
力だと? こいつも、雑食紳士と同じような変な超能力のようなものが使えるというのか。おいおい、何だそれ……ふざけるなよ、この神聖な戦いに意味不明な力を使いやがって!
俺の中で感情が高ぶる。心の奥底から熱い塊がせり上がってくる。あまりに理不尽な状況に対する、純粋な怒りで体が震える。
無い頭を駆使して策を練り、栄光を手に入れる為に磨き上げた技が全て、意味不明な力――なんてモノに屈するというのか!
「ジャック眼でキミの視界を共有させてもらえて、助かったよ」
……ジャック眼ってふざけているのか、おい。
全身の血が煮えたぎるように熱い。頭に血が上り視界が眩む。
「はっ、なんだそれ。何を言っているのか全く理解できないな。どうやら、お前も見つけたようだが、どっちにしろ、お前もそれを取ることはできない!」
そうだ。こいつだって雑食紳士には近寄れないはず。どんなトリックを使って、俺が見つけたことを当てたのかは知らないが、俺と同様に指をくわえて、雑食紳士が手に入れる瞬間を見届けるしかない。
「ああ、雑食の紳士ゾーンか。それなら、なんの問題もないな」
自信満々で言い切る姿に、言葉を失った。俺がこれだけ頭を悩ませた事を、なんの問題もないだと。
驚きのあまり、言葉が詰まった俺に背を向け、雑食紳士に呼びかけた。
「雑食、そこにターゲットがあるから、紳士ゾーンを切ってくれるか」
「おや、もうお仕舞ですか。了解しました」
恭しく一礼するその姿に、ようやく俺はこの状況を察した。
この二人は初めからグルだったのだ。前回の戦いもお互いが組んでいたのなら、相手の動きを先回りすることは容易だ。
ああ、そうか。俺はこいつらに……遊ばれていただけか。
「もう少し見込みがある若者だと思っていたのですが、所詮この程度でしたね」
雑食紳士は柔和な笑みをガラッと変え、見下した表情でため息をついた。
「お、お前ら初めから」
「ええそうですよ。我が主が一位の座から落とされないように、有力選手を圧倒的な実力で潰す。まあ、そこまでの価値は貴方にはなかったようですが」
「負け犬はそこで、指をくわえて黙って見ていろ。ああ、そうだ。ここで土下座して、ネット放送を見ている全国民に憐れな姿を晒すのなら、あとでこの作品貸してやるぞ」
そうかい。
ヤツラの人を軽蔑した眼差し。クラスメイトの女子にも散々された侮蔑の表情。
俺は、甘酸っぱい高校生活を送れる可能性も全て捨てて、この場にいる。
力が欲しい。
もう、アダルト作品なんてどうでもいい。こいつらに勝てる、この理不尽さを打ち消せるような力が――欲しいっ!
俺の……俺の戦いを馬鹿にするんじゃ――ねえっ!
怒りで異常に熱を帯びた体が、まるで爆発したかのような、体の中心で熱い何かが弾け体を突き抜ける!
「なんだ、この熱量は」
彷徨える帽子が自分の帽子を押さえ、焦った声を上げている。
何をしているんだこいつ。まるで暴風に耐えるリポーターのように、前屈みになり踏ん張っている。
「こ、これは、まさかっ」
雑食紳士までもが取り乱している。その顔には彷徨える帽子と同様に驚愕の表情が浮かんでいる。
彼らが何に対して、焦りを感じているのかは不明だ。
だが、戦闘中にその隙を見せてはいけない。熟練の戦士ともあろう者が、冷静な判断を失うようでは、俺のような新兵に笑われてしまうよ。
さっきまでの怒りは完全に消え失せ、熱の冷めた自分がいる。今なら思考を妨げるものは何もない。雑念もない。
「静かだ……」
この場に俺以外の存在が消滅したかのように感じる。
今なら、紳士ゾーンにも入り込むことができるのではないか。ふと、そんなことを思う。それは何の根拠もない考えのはずなのだが、真実だと確信していた。
「これが紳士ゾーンか」
目の前に薄い黄色――透明な金色の方が近いか。その色をした膜のようなものが見える。今までは見えていなかった。これが紳士ゾーンと呼ばれる結界のようなモノなのだろう。
あり得ない光景なのだが、その現象を素直に受け止められる。
心が穏やかだ。波が一つもない水面のようなイメージ。今の自分ならどんな理不尽な要求や出来事に遭遇しても、心を乱さない自信がある。
紳士ゾーンへ右足を半歩踏み入れる。一瞬だけ足に抵抗を感じたが、その違和感は直ぐに消えた。二歩目は体ごとゾーンへ入り込む。今度は何の抵抗もない。
「雑食、どうなっている。紳士ゾーンは発動しているのかっ!」
「ええ、いつもより放出量を高めているのですが、全く効果がありません。どうやら、彼の目覚めた能力が無効化しているようです!」
能力か。この穏やかな精神状態は、奴らの言う力のおかげなのか。
「こんな力、聞いたことないぞ。相手の力を無効化できるというのか。ジャック眼も効いてない……こいつの視界を奪えない!」
大きく見開かれた目が、俺を凝視している。見下した様子はもう何処にもない。
「こ、この力は」
同様にこちらから目を逸らせない雑食紳士の視線も気にせず、ターゲットへ歩み寄る。彼らの疑問に対する回答が不意に頭へ浮かんだ。俺はその答えを無意識のうちに口にしていた。
「賢者タイム。それが俺の力だよ」
ターゲットを掴み、棚に背を向けたところで、体から何かが抜けていくの理解した。どうやら、力とやらが消えたようだ。
……はい? ええええええっ! 俺は今何を話した? 賢者タイムって、何! 能力って何だよ!
自分の放った言葉に今更ながら恥ずかしくなってきた。なんかもう、この場から逃げ出したい。顔が熱い、大量の血が顔面に集まっているが分かる。
もう手に入れるべき作品は全て手に入れた、ここに居る必要はない。早くこの場を去ろう。急に溢れ出した感情に体が追い付かず、ちぐはぐな動きになってしまう。
後方から呼び止める声が聞こえた気がするが、それどころじゃない。一刻も早くここから逃げないと!
俺は焦る気持ちと格闘しながら、戦場から飛び出していった。




