後日談 井戸のそばで
その井戸に、名前はなかった。
地図にも、
管理文書にも、
特別な印はついていない。
町外れにある、
少し古いだけの井戸だ。
「……出るな」
桶を下ろして、引き上げる。
水は、ちゃんと出た。
少し冷たくて、
少し濁っていて、
でも、飲めないほどじゃない。
「まあ、こんなもんか」
水を汲んだ男は、そう言って肩をすくめた。
以前なら、
もっと早く判断が出ていた。
この井戸を補修するか。
管理区域に組み込むか。
それとも、放置するか。
今は、違う。
「で、どうする?」
近くにいた女が聞く。
「管理に報告は?」
「した」
「返事は?」
「まだ」
少し、間が空く。
昔なら、
この“間”はなかった。
決める人がいて、
基準があって、
例外は、最初から弾かれていた。
「……困る?」
女が、桶を覗き込む。
「いや」
男は、正直に答えた。
「水は出てる」
「減ってもない」
「急ぎじゃないな」
「じゃあ」
女は、井戸の縁に腰掛ける。
「返事来るまで、様子見でいいんじゃない?」
その言葉に、
誰も反対しなかった。
決まらない。
でも、止まってもいない。
井戸の水面は、静かだ。
昔、
この井戸の近くに立って、
ずっと考えていた女の子がいた。
名前を知っている人は、少ない。
英雄だと言う人もいる。
厄介者だったと言う人もいる。
でも、
この町の人たちは、
そんな話をほとんどしない。
「……ああ」
男は、桶を担ぎ上げる。
「なんだか」
「決めるの、下手になったな」
女は、少し笑う。
「そう?」
「私は、前より好きだけど」
井戸は、何も答えない。
今日も、水を湛えているだけだ。
誰かが使い、
誰かが迷い、
誰かが話し合う。
それだけのことが、
今日も、続いている。
井戸は、今日も水を湛えている。
選ぶのは、使う側だ。




