第44話 逃げない代わりに、背負いすぎない
その日は、珍しく何も起きなかった。
井戸は噴かない。
水量も変わらない。
報告も、増えない。
(……静か)
でも、それが逆に落ち着かなかった。
「……ロウ」
私は、歩きながら声をかけた。
「今日、何も起きてないですよね」
「起きていないな」
即答。
「それが、怖いです」
ロウは、少しだけ口元を緩めた。
「……ようやく慣れてきたな」
「嬉しくない成長です」
街の外れ。
管理区域に入ったばかりの、小さな集落。
人は普通に暮らしている。
水も、ちゃんと出ている。
でも。
(違和感は、消えない)
「……ここ」
私は、井戸を見ながら言う。
「問題、起きてないですよね」
「起きていない」
「でも」
胸に手を当てる。
「何か、起きそうな感じはする」
「それが、勘だ」
ロウが言う。
「君の役割だ」
(勘って、便利だけど曖昧)
「……ねえ、ロウ」
少し、間を置いて聞く。
「私」
「この世界、全部背負わなきゃいけませんか」
ロウは、足を止めた。
そして、はっきり言う。
「……いいや」
「背負いすぎると、壊れる」
その言葉に、肩の力が抜けた。
「……じゃあ」
「どこまで、関わればいいんですか」
「君が、見てきた場所までだ」
「触れた井戸」
「話した人」
「感じた違和感」
「それ以上は」
一拍。
「他の誰かに、渡せ」
(役割分担)
それは、今まで考えてこなかった発想だった。
「……逃げないって」
私は、ぽつりと言う。
「全部引き受けることだと思ってました」
「多くの人が、そう思う」
「だから、潰れる」
ロウの言葉は、淡々としている。
でも、重い。
「……私」
小さく息を吸う。
「逃げません」
「でも」
井戸から目を離す。
「背負いすぎません」
ロウは、うなずいた。
「それでいい」
集落の子どもが、私たちを見る。
警戒でも、期待でもない。
ただの、好奇心。
(それでいい)
「……ねえ」
私は、子どもから視線を外さずに言う。
「もし、ここで何か起きたら」
「私、全部止められません」
「分かっている」
「でも」
ロウは、続ける。
「君が“異常だ”と声を上げれば」
「止まる可能性は、上がる」
(可能性)
それで、十分だ。
世界を救う確率じゃなくて、
最悪を避ける確率。
「……逃げない代わりに」
私は、心の中で繰り返す。
「背負いすぎない」
それは、弱さじゃない。
続けるための、線引きだ。
井戸の水面は、今日も静かだ。
でも。
静かな場所ほど、
長く見続ける必要がある。
私は、歩き出した。
無理のない速さで。




