第38話 正しさが一つじゃないと知る
その場を離れたあと、
私はしばらく何も喋れなかった。
ロウも、黙って歩いている。
井戸は、相変わらず静かだ。
人は、水を汲み続けている。
(全部、普通)
(なのに)
胸の奥が、ずっと重い。
「……ねえ、ロウ」
耐えきれず、口を開いた。
「さっきの人」
「間違ってましたか」
自分でも、答えが欲しい質問だと分かっていた。
ロウは、すぐには答えなかった。
少し歩いてから、ようやく口を開く。
「……間違っているとは、言えない」
その言葉が、予想以上にきつかった。
「正しい部分もある」
「水が安定すれば、救われる命は確かにある」
私は、拳を握る。
「……じゃあ」
「私が止めようとしてることって」
「正しいんですか」
ロウは、足を止めた。
私も、立ち止まる。
風が吹き、
井戸の水面が、わずかに揺れた。
「……正しさは、一つじゃない」
ロウは、静かに言った。
「誰を基準にするかで、変わる」
「多くを救う正しさもある」
「取りこぼさない正しさもある」
(どっちも、正しい)
(だから、選ばなきゃいけない)
「……私」
声が、少し震える。
「どっちも、嫌です」
「分かる」
即答。
「だが」
一拍。
「世界は、どちらかを選び続けてきた」
その言葉が、胸に刺さる。
(選ばなかった側は、どうなる)
「……さっきの人」
思い出す。
「私のこと、部品って言いましたよね」
「言ったな」
「完成度を上げるための」
自嘲気味に笑う。
「でも」
ロウが、低く言う。
「彼らにとって、それは最大限の評価だ」
「使えるものを、使わない方が無責任だと思っている」
(善意、厄介)
私は、深く息を吸った。
「……私」
「選びたくないです」
「切り捨てるのも」
「管理されるのも」
子どもみたいな本音。
でも、嘘じゃない。
ロウは、少しだけ目を伏せた。
「……だから」
「君は、ここにいる」
その言葉に、顔を上げる。
「選びきれない存在だからこそ」
「問いになる」
問い。
答えじゃない。
「……問いって」
小さく笑う。
「役に立たないやつじゃないですか」
「いや」
ロウは、首を振った。
「答えを固定しないために、必要だ」
井戸の水面を、見つめる。
揺れている。
でも、噴き出さない。
(管理されてる)
(でも、まだ壊れてない)
「……もし」
私は、ぽつりと言う。
「この世界が」
「完全に管理されたら」
「何が、なくなります?」
ロウは、少し考えてから答えた。
「……選ぶ余地だ」
胸の奥が、静かに鳴った。
(それだ)
「失敗する余地も」
「間違える余地も」
「それを、やり直す余地も」
私は、うなずいた。
「……私」
「失敗、しました」
「それでも、ここにいます」
「それを」
言葉を選ぶ。
「消したくないです」
ロウは、何も言わなかった。
でも、その沈黙は否定じゃない。
井戸の水面が、また揺れる。
静かに。
でも、確かに。
(正しさは、一つじゃない)
(だから)
(私がいる意味も、一つじゃない)
答えは、まだない。
でも。
問いを持ったまま立つことは、逃げじゃない。
私は、そう思えた。




