第37話 制御すれば救えるという理屈
その人は、話しかけてきた。
私たちが井戸から少し離れたところで、
地図を見ていた時だった。
「……失礼」
穏やかな声。
振り向くと、さっき井戸を管理していた人の一人が立っていた。
年齢は、三十代くらい。
武器はない。
敵意も、ない。
「調査の方ですか?」
私は、一瞬ロウを見る。
ロウは、何も言わない。
(選ばせてる)
「……はい」
私は、正直に答えた。
「井戸の様子を見に来ました」
その人は、ほっとしたように息を吐いた。
「よかった」
「最近、井戸に関する噂が多くて」
「不安に思う人も、増えている」
(不安を減らしてる側が言うと、重い)
「……あなたたちは」
私は、慎重に聞く。
「井戸を、どうしたいんですか」
その人は、少し考えてから答えた。
「“どうしたい”というより」
「“どうあるべきか”ですね」
言葉の選び方が、丁寧すぎた。
「井戸は、本来」
「人の生活を支えるものです」
「枯れてはいけないし」
「溢れてもいけない」
全部、正しい。
反論できない。
「だから」
その人は、続ける。
「制御すべきなんです」
「安定させれば」
「救われる人が、確実に増える」
(救われる、って言葉)
「……でも」
私は、ゆっくり言った。
「制御しすぎると」
「別の歪み、出ませんか」
一瞬だけ、間が空いた。
でも、その人はすぐに微笑んだ。
「ええ」
「だから、段階的に行っています」
(想定内)
「失敗は、許容範囲で」
「被害は、最小限に」
胸の奥が、冷える。
「……失敗、する前提なんですね」
「はい」
即答。
「完全な計画など、ありませんから」
ロウが、低く口を開いた。
「……昔も、同じことを言っていた」
管理者は、ロウを見る。
少し驚いたような顔。
「……ご存知でしたか」
「知っている」
短い答え。
空気が、少し張る。
「ですが」
管理者は、視線を私に戻した。
「あなたのような方が、現れた」
「それは、好機でもあります」
(来た)
「……私?」
「ええ」
管理者は、はっきり言う。
「井戸に反応できる」
「異変を察知できる」
「それは、制御を完成させるための要素です」
言葉の意味が、すぐに理解できてしまった。
(私は、部品)
(完成度を上げるための)
「……それ」
声が、少し硬くなる。
「私が断ったら?」
管理者は、困ったように眉を下げた。
「……残念です」
「ですが」
「計画は、止まりません」
はっきり言う。
悪意はない。
でも、引き返す気もない。
「制御すれば、救える」
管理者は、繰り返す。
「救えない不安定さより」
「管理された安定を」
私は、胸の奥に手を当てた。
ここ数日、ずっと感じていた圧。
その正体が、はっきりした。
(この人たち)
(世界を良くしようとしてる)
(でも)
「……ロウ」
私は、小さく呼ぶ。
「この理屈」
「間違ってますか」
ロウは、すぐには答えなかった。
しばらくして、言う。
「……正しい部分はある」
管理者が、うなずく。
「でしょう」
「だが」
ロウは、続けた。
「世界は、均一じゃない」
「制御が届かない場所もある」
「その時」
一拍。
「誰が、切り捨てられる?」
管理者は、答えなかった。
答えられなかった。
沈黙が、重く落ちる。
「……それでも」
管理者は、静かに言う。
「何もしないよりは、いい」
私は、目を閉じた。
(分かる)
(分かるから、厄介)
「……制御すれば救える」
私は、言葉を反芻する。
「確かに」
「誰かは、救われる」
目を開ける。
「でも」
はっきり言う。
「選ばれなかった人は、救われない」
管理者は、何も言わなかった。
否定もしなかった。
それが、答えだった。
井戸の水面は、今日も静かだ。
でも。
その静けさの裏にある理屈は、
思っていたより、ずっと冷たかった。




