第29話 名前を呼ばれる覚悟ができた時にだけ、名乗るものらしい
異変は、夜に起きた。
それも、分かりやすく。
「……また、来た」
胸の奥が、ひりつく。
引っ張られる感じじゃない。
押し返される感じでもない。
合図みたいな違和感。
「……別方向です」
私は、即座に言った。
「街の中心じゃない」
「外れ、倉庫の方」
兵士たちが、一斉に動く。
迷いがない。
(もう、慣れちゃったんだよな)
現場は、倉庫街の裏手だった。
人はいない。
灯りも少ない。
でも。
「……井戸、ないですよね」
私は、地面を見ながら言った。
「ない」
フードの人が答える。
「だが」
「井戸“だった”跡はある」
地面に、うっすら残る円形。
(またか)
(増えてる)
「……来ます」
言い切った瞬間だった。
――ごき。
地面が、歪んだ。
水が、噴き出す。
でも、今回は違う。
形が、整いすぎている。
「……制御、されてる」
私は、息を呑んだ。
水が、人の形を取る。
前より、はっきり。
(学習してる)
兵士たちが、距離を取る。
でも、逃げ場は少ない。
「……私、囮になります」
気づいたら、口に出ていた。
「……何?」
フードの人が、即座に振り向く。
「私に、反応してます」
「だったら」
「引き離せます」
震えてる。
でも、迷ってはいない。
「……無茶だ」
「承知してます」
私は、一歩前に出た。
その瞬間。
水のモンスターが、こちらを向く。
(ほら)
来る。
「……今です!」
兵士たちが、左右に散る。
私は、走った。
逃げる、じゃない。
誘導する。
背後で、水が暴れる音。
地面が、揺れる。
(怖い)
(でも)
(逃げない)
角を曲がった、その時。
――影。
視界の端。
「……っ!」
次の瞬間、
水の動きが、止まった。
完全に。
「……え?」
私は、思わず振り返る。
そこには、フードの人が立っていた。
地面に、何かを打ち付けている。
光。
短い詠唱。
水が、悲鳴みたいな音を立てて――崩れた。
静寂。
心臓の音が、うるさい。
「……今の」
私は、息を整えながら言った。
「普通の兵士、できないですよね」
一瞬の沈黙。
フードの人は、フードを外した。
夜の灯りに、顔が見える。
「……隠すつもりはなかった」
低い声。
「だが」
「名乗る理由が、なかった」
私は、じっと見た。
逃げない。
視線を逸らさない。
「……今は?」
「ある」
短い答え。
そして。
「ロウだ」
名前。
「昔、井戸異変の調査と抑止に関わっていた」
それだけ。
でも、十分だった。
「……今は?」
私が聞く。
「今は、ただの協力者だ」
私は、少しだけ笑った。
「じゃあ」
「よろしくお願いします、ロウさん」
一瞬、目を見開いて。
それから、苦笑。
「……その呼び方は、慣れていない」
「そのうち慣れます」
兵士たちが、こちらを見ている。
混乱と、納得の混ざった顔。
「……さっきの判断」
ロウが、私を見る。
「囮になる判断」
「怖くなかったか」
「怖かったです」
即答。
「でも」
「逃げたくなかった」
ロウは、少しだけ目を伏せた。
「……そうか」
それ以上、言わなかった。
でも。
その沈黙が、
信頼の受け取りだと分かった。
水の跡を見ながら、私は思う。
(名乗るって)
(覚悟を渡すことなんだ)
名前を知ったから、強くなったわけじゃない。
でも。
背中を預ける理由は、できた。
夜は、まだ終わらない。
井戸の問題も、終わらない。
それでも。
私は、一歩前に出た。
ロウと一緒に。




