第五話
白い天井。ミオが次に見た景色は、実に殺風景な景色だった。白い天井に白い壁、白いベッドに白い椅子。几帳面なまでに白に統一されているその部屋には、ミオしかいなかった。
地獄の入口にしては妙に綺麗だった。だが窓もなければ扉もない。もしかすると、地獄というのは一般に想像されるような灼熱ではないのかもしれない。完全なる虚無、それが自分に与えられた罰なのかもしれないと思った。
しかしそれは間違いだった。壁だと思ったところは実は扉だったようで、音もなく扉が開いた。
「あなたは……」
日本人が知っている有名人の中で青髪の男なぞ、一人しかいない。「官房長官」と呼ばれている彼は、ミオが許可もしていないのに勝手に白い椅子に座った。
「君の雇い主さ、鏡原ミオくん」
その瞬間、ミオは猛烈な吐き気に襲われた。私は死んでいない。間違いなく死ぬと思ったのに生きている。いや、「雇い主」か「桜花」に生かされたのだ。世界は二人で終わらせたはずなのに。幸せは永遠に固定したはずなのに。
「吐くものもないだろう、君には。この一週間ずっと寝たきりだったのだから」
それでもミオはえずきながら、胃液を口から吐いた。真っ白な空間は黄色がかった粘液で汚れる。
「ふむ……。体調には問題なさそうだね」
「はあ……はあ……これを見て大丈夫と?」
「吐くということは、君の身体が生命活動の維持を試みているということだからね。嬉しいことこの上ない」
死なないと。アーシャはもう地獄に行っている。もしかしたら地獄の門で待っているかもしれない。
「アナスタシア・ヴラドレフは生きているよ」
「え……」
ミオの目の前は真っ暗になった。何が何だか分からなかった。間違いなく私がアーシャを殺したはずなのに。アーシャは私を殺したはずなのに。あの時の手指の感覚が蘇る。
「あの高さじゃ……足りなかった……?」
「いいや。本当に地面に激突していれば即死だった。ただ君たちは、地面に激突しなかった」
「……どういう、ことですか」
「詳しいやり方は私も知らないが、衝突直前に君たちを催眠ガスで気絶させ、あらかじめ敷いてあった救助マットに着地させたそうだよ」
わけがわからなかった。そこまでできる組織は一つしか知らない。自衛隊の特殊部隊だ。なぜそこまでして官房長官は私たちを生かそうとするのか、ミオには分からない。私たちを裁判にかけるため?嫌だ。私以外の人間がアーシャを殺すのは嫌だ。アーシャと一緒に死ねないのは嫌だ。
「どけっ……!」
ミオは吐き気がするほど真っ白な部屋を出ようと歩き出そうとした。でも、できなかった。エージェントとはいえ一週間も昏睡していた彼女の歩行能力は減退していた。官房長官の革靴の前に崩れ落ち、みっともない背中を晒す。
官房長官はそんな惨めなミオの姿を一瞥し、彼女を見下ろしながら提案した。
「ヴラドレフ総統のところに会いに行くかい?彼女もたった今、目を覚ましたそうだ」
ミオは長い廊下を電動車椅子に乗って移動した。廊下も腹立たしいほど真っ白に塗装されていて、居心地の悪いことこの上なかった。そして、そこを悠々と歩く官房長官の姿にも無性に腹が立った。
もう一度扉をくぐると、ミオは見たくなかった顔を見た。本当にアーシャは生きていた。再び吐き気を催し、視界が歪んだ。
アーシャは天井を見つめていたが、ミオの姿を認めるとひらひらと左手を振った。
「ごきげんよう」
しかしミオはアーシャに返事することなく彼女のベッドに突進した。殺す。もう一度殺す。せめてアーシャの最期はこの手で--
「うぐ……」
ミオはアーシャの上半身に馬乗りになり、そのまま色白で細い首を絞めた。官房長官に邪魔などできないと踏んだ上での判断だった。だが、無駄だった。呼ばれるまでもなく現れた二人の女が彼女を引き剥がし、みぞおちに一発食らわせた。今度はミオがうめく番だった。
「うあっ……」
官房長官はため息をついた。
「……はあ。私はバカではない。それくらいのこと、予想がつく」
ミオに首を絞められ、いまだ息が絶え絶えになっていながらもアーシャは笑った。
「私からすれば、あなたもバカどもの一人よ、官房長官」
「バカはバカなりにがむしゃらに生きているのですよ、閣下」
「私はもう総統じゃない」
「そうでした、閣下」
「……挑発のつもり?」
「とんでもない。現在、自衛隊を含む多国籍軍は共和国に民主主義をもたらすべく、軍事政権を掃討しています。彼らに正統性はない。したがって、いまだ閣下は総統なのです」
共和国の内戦は軍部の勝利に終わった。だが、日本政府はそれを望んでいなかった。それゆえに彼らは直接介入を決断した。間接的なアプローチが上手くいかなければ直接的なアプローチを。外交の基本戦略だ。
「あら、そう。じゃあ何?私を捕まえて、それから裁判にでもかけるつもり?」
「それならとっくに手錠をはめていますよ」
「なら拷問かしら。アメリカでは冷酷非情な独裁者に対しては人権が保障されないそうじゃない」
「私の仕事は未来を守ることなのです、閣下。十六の子供に対してそのような残酷なことはしませんよ」
政治家らしく、誰もが不快感を覚えないような最大公約数的な笑顔を見せながら官房長官は言った。
「『未来を守る』?気色悪い。取ってつけたような正義を語ってるんじゃないわよ」
「私はいたって本気ですよ」
みぞおちの痛みを抱えながら、ミオは二人の会話にむずむずしていた。高度な外交戦がそこで展開されていることは彼女にも分かったが、一方で、官房長官に対する憎悪を募らせていた。自分の場所が官房長官に取られたと思った。嫉妬だった。
「官房長官。それならあなたはなぜ私たちの邪魔をするのですか。あなたには関係のない話、ほっといてください!アーシャは世界を殺した。私はアーシャを殺す。そして私も死ぬ。邪魔するな!」
ミオは苛立ちを丸ごと官房長官にぶつけた。しかし彼は、残酷な真実を彼女に告げた。
「まだ分からんかね、鏡原くん。世界は殺されてなんかいないよ。今日も世界は平和に動き続けている」
ふと我に返ってミオがアーシャの方をみると、アーシャはやれやれと首を横に振った。
「私の負けよ。こいつがここにいる時点で、世界は死んでなんかないわ。私の推理では、官房長官はこの映画の監督よ」
「アーシャ、それは、どういう……」
「説明が必要だね」
アーシャに聞いているのだ、と苛立ちの眼差しをミオは官房長官に向けたが、彼はそのまま受け流した。
「君たちはニュースを見ただろう?例えば東京の通り魔事件、ニューヨークの爆発。あれは全て私が君たちだけに流したフェイクニュースだ」
「まあ、そういうことなのでしょうね。それにしても凝ってたわ」
「私が直々に考えたのだよ。リアリティがあっただろう?」
そう胸を張る官房長官は、アーシャにも負けず子供のようだった。彼にとってはフェイクニュースを流すことくらい、子供のお遊びなのだ。しかしその妙なリアリティが気になった。
「……なら、中東戦争も、核戦争も」
「当然、フェイクさ」
「でも、アーシャは全世界に向けて銃火器を送り付けたはずで、お金もばらまいたはずで」
「国境で全部回収したよ。お金は資産凍結。まったく、三千人以上に送り付けるとは骨が折れた。……とはいえ、君たちには最大級の賛辞を送りたい。君たちを見ていて私も心に迫るものがあった。考えさせられもしたよ」
官房長官はそう言うと頭を下げた。
「私たちは舞台の上で踊り狂う役者にすぎなかった、ってことね」
「でも、どうして、そんなこと……」
「あなたは最初から私をここに閉じ込めるつもりだった。違う?」
ミオとは対照的にアーシャは怒っていなかった。ただ彼女は答え合わせがしたいだけなのだ。学生が問題集の丸つけをするように、彼女は自分の推理に丸つけをしている。
「正解です。閣下にはまだ死んでもらう訳にはいきませんので」
「ふうん?」
「共和国の軍事政権はきわめて脆弱。あと数日もすれば崩壊するでしょう。そこで私は……失礼、有志国連合は、共和国に民主的な政権を樹立させるつもりです」
「なら、アーシャは不要なはずでは。憎悪の対象にはなるので、ある意味で国を団結させられるかもしれませんが」
すると官房長官は突然、胸ポケットから紙切れを取り出してそれを棒読みした。
「アナスタシア・ヴラドレフ総統は軍部に支配されていた哀れなお飾りにすぎないため起訴されることはない。これは有志国連合各国の同意事項である」
「……チッ」
アーシャは笑みを消し、官房長官に聞こえるようにわざと舌打ちをした。
「もうお分かりですね。共和国では四代百二十年にわたって独裁が続き、民主主義という概念が存在しない。そんな国に民主主義を根付かせるのは至難の業なのです。そこで……」
「もういいわよ。もし新政権が下手を打てば私を大統領に据え、日本なのかアメリカなのか知らないけれど、とにかくその辺の国の傀儡にする。そうでしょう。またあなたという監督の役者として踊れと」
「理解が早くて助かります。独裁者の息子や娘が民主化後の大統領になることはよくある話です。閣下の場合は自分が独裁者だったわけですが、それは、少しばかり『調整』してやれば何とかなりますから」
「『調整』。物は言いようなのね。要するに、世界を騙すわけでしょう?冷酷非道な独裁者は実は哀れな被害者でした、って。民主主義が聞いて呆れる」
「理想は、理想的な手段だけでは実現できませんから。泥団子を作る時、私たちの手は泥で汚れる。ですが、完成した泥団子はとても美しいじゃないですか」
珍しくアーシャが押されていたところを見てミオは理解した。この男はアーシャとは違った意味で怪物だ。全ての行動は合理的な理由に基づいていて、それは理想の実現という一筋の線に貫かれている。合理主義と理想主義の掛け算はあまりにも眩しかった。
「なら、あなたはそれを家族に言える?私は嘘をついて何千人を殺した独裁者を守った、って」
「もちろん。理想を実現した暁には全てを明らかにできますよ。それも、胸を張って」
「……あっそ。そうも開き直られちゃうと、反論しようがないわね。完敗!私の負けっ!」
そう言うとアーシャはベッドに大の字に寝転がり、高らかに笑った。しかしすぐに背中を起こして意地悪そうに告げた。
「でも残念。私の思想は変わらない。バカどもを皆殺しにしてやる。あなたに私が扱えるかしら」
「はは。閣下の夢が実現するよりも私の理想が実現する方が早いですよ、きっと」
「ふん、言ってくれるじゃない。死ぬのはやめにする。まずはあなたを一番先に殺してやるわ、狂った理想主義者さん」
「光栄です、閣下。……鏡原くん。君にも伝えておかないといけないことがある」
官房長官は、ミオに向き直った。今度はミオの運命が決まる番だった。急に真面目な顔に戻った官房長官の姿からミオは察した。「桜花」の件だ。おそらく自分はクビになり、「処分」されるのだろう。
「『桜花』は君の名前を名簿から消した」
「でしょうね。私はもう『処分』ですよね。『処分場』はどこですか。早く連れて行ってください」
ミオはもう投げやりだった。さようなら、アーシャ。私はどこかで知らない別のエージェントに消され、誰からも忘れ去られるのだ。しかし、官房長官は目を細めた。
「『桜花』の連中を説得するのが一番大変だった」
「は……?」
「君に新しい任務だ、鏡原くん。アナスタシア・ヴラドレフを来る日まで護衛せよ」
「お断りします。私を殺してください、官房長官!もう私の人生には何の意味もない!アーシャも殺すことができず、自分自身も殺せないのに、この仕打ちですか!」
ミオは絶叫した。これは拷問だ。殺したいほど愛している相手を絶対に殺すな、すなわち、愛するなと、彼はそう命じたのだ。
「私は君たちに死んでほしくないのだよ、鏡原くん」
「知るかあっ!お前のどうでもいいエゴで私たちを邪魔するなあっ!」
ミオは肩を震わせて目の前の悪魔に叫んだ。エージェントである彼女がこんなに大声を出したのは初めてだった。
「くくく……」
だが、目の前の少女は思わず笑いがこらえきれず、お腹を抱えながら彼女は跳ねるように笑った。
「ふふふ、あはは……っ!あはははは!」
「何が可笑しいんだっ!私は、お前を……」
「ミオ、サイコーの愛情表現をありがとう。もっと好きになったわ。けれど私たちは、こいつの目の前で踊るしかないのよ」
「違う!そんなのアーシャじゃない。アーシャはそんな安っぽい女じゃない!」
「私から見れば、今のあなたの方が安っぽい女よ。地獄に落ちるのは怖い?」
怖い。恐ろしく怖い。
このまま生き続けなければならないなんて、怖い。幸せなままでアーシャと一緒に死にたかった。なのに、現世という最悪の地獄に落とされる。それならいっそ、「処分」された方がマシだった。
「……怖い」
ミオはムカつくほどに白い床に視線を落としたが、アーシャはそんな彼女の頭を撫でた。
「そう。でも、私はとても楽しみなのよ。現世という地獄でもミオと一緒にいられるんだから」
「官房長官の言いなりでも、か?」
「あいつはいつか殺す。あなたもまた、わざとそういう役を演じているのでしょう、官房長官。私たちを生かすために」
彼は答えることなくフッと笑った。その様子を見て、ミオも決意を固めることにした。まだこの映画は終わっていない。ここから第二部が始まるのだ。
「……分かった。私も覚悟を決めた。アーシャと一緒にこの男を殺す。そのまま世界を殺す。そして、最後にアーシャを殺して私も死ぬ」
ミオの目には再び光が宿った。忌まわしいほどに禍々しい光。エージェントの頃とはまた違う輝きを持った光だった。
「そう、それでいい。私たちなら地獄をも滅ぼせるのよ。バカどもはいつでも殺せる。真のラスボスは、この狂った理想主義者」
官房長官は、いかにもといったふうに頷いた。これもまた、彼の思い通りだったに違いない。
「舞台は整ったようですね。それでは、監督の方から配役を発表してもよろしいですか?」
「どうぞ」
「お二人には学園艦の学生という役を演じてもらいます。乗艦する学園艦は〈ながと〉」
学園艦。没落寸前の日本経済を救った奇跡の技術。そして世界中の国がこぞって欲しがる存在。その一番艦が〈ながと〉だった。
「あら、私の夢が叶っちゃったわね。学園艦に乗るのはあらゆる子どもたちの夢なのに、私たちが乗っちゃっていいのかしら」
「学園艦が一番安全なのですよ。世間から隔絶され、あらゆる危険を回避できる」
「ふふ。安全な場所ほどぶっ壊したくなるわ。あなたもよく知っているでしょう?」
「ご安心を、無理ですよ。何十人もの鏡原くんの同業者があなたを監視する。……しかし、アナスタシア・ヴラドレフという名前は隠しておく必要はあります」
「なるほど、新しい名前をくれるのね。どうせもう考えてるんでしょう」
官房長官とアーシャ。この二人は真逆の道を歩んでいるはずなのに、どこか相性が良い。その点もまたミオを苛立たせる点だった。
「天城朔。閣下の新しいお名前です」
「……あなた、趣味が悪いわね」
天城は未完の空母、朔は新月。どちらの単語も存在しない物だとか幻だとか、そういうもののメタファーだった。
「お褒めの言葉としてお預かりしておきますね。では、その後のことは、学園艦の担当者が来ますので彼らの指示にしたがってください」
そう言い残すと、官房長官は部屋を後にしようとした。ただ、ミオには最後に一つだけ確認しておきたいことがあった。
「官房長官。私にアーシャを殺すように命じたのは、あなたですか」
彼は振り向きざまに答えた。
「その通りだよ。『君に総統は殺せない』。そう思ったからね」
ミオは心底、ぞっとした。最初の最初から全て、この男の手のひらの上で踊らされていただけだったなんて。アーシャとの出会いも恋も全部、彼にとっては予定調和だった。
「……真のラスボスにふさわしいわね、あいつは」
本当の敵は身の丈に合わない正義を不格好に振り回しているバカどもではない。彼らの生活を、心理そのものから操っている怪物がいる。それが、この国の官房長官なのだ。
「ねえ、学園艦に乗ったら何がしたい?」
アーシャはミオの顔を覗き込んだ。
「別に何も。お前を殺すその日まで、お前を守り続けるだけだ」
ミオは官房長官の背中を見つめながら呟いた。殺すために守るなんて矛盾しているのは自覚している。だが、それが彼女が見つけた新しい生きがい。正義も組織も失った彼女の、今や唯一の心の支えだ。
「さすがはダーリン、これからもよろしくね」
そう言ったアーシャとミオが交わした四度目のキスは、ほんの一瞬だった。けれど、二人がこれから出る旅は、きっと長いに違いない。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました!
実を言うと、この作品は現在連載中の『こちらは学園艦〈ながと〉、わたしの法を探しています』のスピンオフ作品です。
彼女たちは〈ながと〉でどんな生活を送るのでしょうか?そんなことを考えながら、本編をお楽しみいただければと思います。




