第四話
アーシャとミオが総統宮殿から駆け落ちして数日。すぐに追っ手が来るだろうと警戒していたミオだったが、世界はもうヴラドレフ総統に対する関心を失っていた。
「バカどもは次のターゲットを定めたのね、正義を振りかざせる相手を」
隠れ家として選んだ空き家のテレビを点けると、どこの国でも苛立った市民たちがヒステリックに叫んでいた。
移民を追い出せ。障害者は足かせだ。異教徒を優遇するな。女は黙ってろ。
「先進国が聞いて呆れるわね。ガソリンが買えない、治安が悪い、スーパーに食べ物が売ってない?それくらいで猿みたいにキレてるわけ?」
アーシャはベッドに寝転がり、スナック菓子を食べながら言う。
「当たり前が当たり前じゃなくなったからキレてるんだろう。日本でも、電車が数分遅れただけでキレ散らかす人間が山ほどいる」
「ふん。共和国鉄道公社は一時間遅れが当たり前よ。高血圧で早死にするんじゃない?」
「クズほど長生きするんだよ」
「なら私も長生きできるわね」
更に数日後。アーシャとミオは息を潜めながら街角を眺めていた。市民は数少ない食料を求めて殺し合っていた。体格差であろう、真っ先に殺された老婆の背負っていたリュックを巡って若者二人が取っ組み合いを始めていた。
「老婆から奪うなんて、まるでラショウモンね」
「アーシャって、もしかして本当に日本に住んでいたのか?」
「だから言ってるじゃない。私は中学まで日本にいたのよ。教科書でアクタガワの作品をたくさん見たわ」
取っ組み合いはジムで鍛えたと思わしき筋肉質の男が勝利し、リュックを掴んで持って行った。
「人間もきちんと動物なのねえ。弱肉強食の原理がまかり通るのを見たわ」
動物園でサル山を見るかのように人間観察を愉しむアーシャの横顔をミオはじっと眺めた。理性は相変わらず、そいつから離れろと叫んでいたが、本能が彼女に吸い寄せられるのだ。毒を持った花ほど美しく、魅惑的なのである。
そして更に数日後。もう街には誰もいなかった。
「ラジオもテレビもインターネットも繋がらないわねえ。盲点だったわ、これじゃあ人類全員が死んだかどうか確認できないじゃない」
「電気、ガスもダメだ。発電機もないし、温かい飯は食えそうにないな」
「はあ。アメリカの経済制裁さえなければ発電機くらい輸入できたはずなのに」
クローゼットで見つけた、身の丈に合わないほど大きな白いシャツを着てアーシャはソファーに身を投げた。
「……もう街には誰もいないな」
「そうね。もうこの街は私たちだけのものよ」
ラジオのアンテナをあちこちに向けながら返答するアーシャは、おもちゃで遊ぶ子どものようでかわいらしい。そう感じてしまう自分はもう手遅れなのだろう、とも思う。
ラジオがどこからか微弱な電波を受信したようだ。ミオもアーシャも、一言一句聞き逃すまいと耳をそばだてた。
「臨時ニュースをお伝えします。イスラエルがテヘランに核攻撃を実行した模様。イラン政府要人の消息は不明--」
「第三次世界大戦か」
ミオにはもう、その程度の感想しかなかった。予想されていた展開だ。本当に人類は滅ぶのだろう。無敵の人、テロリスト、SNSに踊らされる市民、それに突き動かされる政治家……。誰もが自分勝手な正義を振りかざした結果がこれだった。
一度核兵器が使われれば必ず連鎖する。放射能は世界中に拡散するのだろう。そして人類は苦しみの中で死んでいく。アーシャの想像した通りだった。
「花火が、上がったわね」
「世界一汚い花火だ」
「私は今、とても幸せよ。人類が絶滅するその第一歩をミオと見られて」
「……はあ。だがもう、絶滅するかどうか確認する術はなさそうだぞ」
あらゆるインフラが止まってしまっているこの共和国では、共和国内の人間が全員死んだかくらいは極論歩き回れば確認できるだろうが、さすがに海を渡った先の新大陸までは確認できない。
「困ったわねえ。賭けの勝敗がつけられないじゃない」
「人類が絶滅すればアーシャの勝ち。絶滅しなければ私の勝ち。勝った方が負けた方を殺す、ってやつか。……お前の勝ちだろう」
ここから核戦争を回避する術ももうないだろう。イランに向けてアメリカもそのうち核兵器を使用する。NATOがイランに介入する。ロシアがこれに反発する。大西洋を超えて核兵器の撃ち合いが始まるだろう。
「あら、いいの?日本人は潔いわね。なら--」
アーシャは立ち上がり、ミオと向き合った。
「私があなたを殺してあげないとね。だから、殺し方を教えてよ。愛しの暗殺者さん」
彼女の目は吸い込まれるように綺麗だ。悪魔的でありながら無邪気……。ミオは、アーシャに唇を合わせた。
「……断る」
何分続いたかも分からないキスのあと、ミオは隠れ家に来てから肌身離さず持っていた軍刀を抜いた。
「え?」
「お前は私が殺す。そこを動くな」
「へえ。ミオは賭けの約束を守らないタイプなのね。非難はしないわよ。私はあなたで、あなたは私だから」
「……痛みなく終わらせてやる。じっとしていろ」
ミオがアーシャを殺そうとするのはこれで三回目だった。一度目は任務として、失敗。二度目はミオ自身の選択で、失敗。三度目はミオ自身の選択で、殺す。
「分かったわ。ねえミオ、最後に、当ててあげようか。あなたが私を殺す理由」
「私が約束を守らない裏切り者だからだろう?」
「ふふ、違うわ。あなたが私を殺す本当の理由、それはね」
アーシャは今までで一番意地悪そうに笑った。
「あなたは私のことを愛している。だから、私が死ぬのを見届けたいんでしょう?なんなら、自分が殺してやりたいんでしょう?最愛の人を永遠にするために」
違う。絶対に違う。お前はいずれにせよ殺される運命にあるのだ。それを執行する役割がたまたま私に巡ってきただけなのだ。ミオは自分にそう言い聞かせながら反論する。
「違うな。お前は私に裏切られて死ぬのがお似合いなんだ。それくらいの罰を与えられるのは当然だろう?」
「私はミオに裏切られたなんて思ってないわよ。あなたのことが狂おしいほど好き」
アーシャはミオに言われた通り直立不動で動かなかったが、その人差し指だけをミオの顔に向けた。
「お前……」
「私にはあなたの全てが分かるわ。あなたの今の気持ちは怒り、羞恥、諦め、渇望、そして私へのどうしようもなく重い愛。愛は人類が手にした最も邪悪な感情よ。……あなたの今の顔、とってもかわいい」
ミオの顔は歪み、視界が涙でぼやけた。仲間が死のうが拷問を受けようが決して泣くことが許されないのが「桜花」のエージェントなのに、涙が床に落ちた。彼女の理性を保ってきていた糸もついに切れ、底に落ちてしまった。
「……アーシャ、死ねっ、死ねっ、死ねっ!」
「そう、そうよ!それでいいの。あなたの狂った愛は私だけが受け止められる。ミオの恋人は最初から最後まで私だけ」
ミオは軍刀を膝でへし折った。アーシャに対する愛憎相半ばした感情に折り合いなどつけられるはずがなかった。死んで欲しいし、死んで欲しくない。殺したいし、殺したくない。こんなぐちゃぐちゃのままで軍刀を扱えることは不可能だった。
「はあ……はあ……私はまた、お前を殺せない」
「あら、この前言わなかった?『あなたに私は殺せない』って。……ミオ、提案よ。この賭けは引き分け。二人で一緒に全部を終わらせない?あのビルから飛び降りるの」
* * *
ミオとアーシャは無言でビルの階段を一段一段、上っていた。ビルの外ではあちらこちらで煙が立ちのぼり、共和国の内戦を告げていた。
不思議なことに一段一段、コンクリートで出来た無機質な階段を上るたびにミオの高揚感は高まった。彼女の心の中にある全ての感情が、ビルの屋上から飛び降りることで一つになるような、そんな気がしていた。
「……これが最後の曲がり角だ。早く上れ」
「ぜえ……ぜえ……おえっ。何段あるのよ、この階段。もっと低いビルにするんだったわ」
アーシャは時々階段に座り、休憩を取りながらも何とか階段を上りきった。
「ふふ、ここから見る景色は綺麗でしょう」
目を輝かせながらアーシャはそう言ったが、二人の目の前には鈍色のコンクリート造りの建物がちらほらと並んでいるだけである。そして街角にはもう、誰もいない。どれだけ目を凝らしても人影ひとつ見つからなかった。
「……月も綺麗だ」
「ええ、とても綺麗ね。……このビルは私が造らせたのよ」
「その割には中身が空っぽだったが。ハリボテ建築か?」
「元からハリボテにするつもりだったわ。建設した理由はね、お金を無駄遣いできるからなのよ」
「……?」
「お金があったらバカどもが欲するでしょう?だから、共和国の財政は常に赤字にしないといけないの。いちばん手っ取り早いのはミサイルを作ることだけれど、ロシアのハゲがなかなか部品をくれなくなったのよ」
「それで無意味な建設を繰り返したってわけか。金をドブに捨てるために」
「そうよ。お金がなければ食糧が買えない。食糧が買えないと力が出ない。腹が減っては戦ができぬ、って言うでしょ?力が出ないと反抗する気も失せるわ。でも、そううまくは行かなかったわね」
アーシャはそう言って舌を出した。
「お前はやっぱり、正真正銘のクズだ」
「それは『愛してる』ってことでいいのよね」
風にたなびく彼女の銀髪にミオは目を惹かれた。「桜花」にいた頃はターゲットのことをこんなにまじまじと見つめることはなかった。幸せだ、とミオは思った。このまま幸せを固定したいと思った。世界はもう固定されている。あとは、二人をこの場所で永遠に固定するだけだった。
「人類史が映画になるとしたら、私たちは何役なんだろうな」
「バカが監督になるなら悪役でしょうけれど、私が監督なら女神役よ」
「アーシャは神を信じるんだな」
「まさか。神がこの世にいたら千年くらい前にもう人類は滅ぼされてるわよ。神はこの世界にはいない。だから私が女神になって、世界を救済するの」
月明かりに照らされたコンクリート片を退かしながらアーシャは誇らしげに語った。
「……まさに死の女神だな。暗殺者として、お前に出会えたことは光栄だった」
「お堅いわね。緊張しているの?……なら、解してあげる」
アーシャとミオは三度目のキスを交わした。今までで一番深いキス。ミオはそのキスの名前を知らなかったが、恋人以上の関係でなければしないキスであることは知っている。
「……さあ、ここから飛び降りたら映画の幕は降りるわ。高さは問題ないかしら」
「これくらい高ければ問題ない。即死のはずだ」
ミオは軽く地面を覗き込んだ。ざっと五十メートルはあり、脳天を地面が直撃すれば痛みを伴うことなく死に至るとエージェントらしく判断した。
「そう、ありがとう。……こうすれば、最後の最後の瞬間まであなたの顔を見ていられるわ」
二人は互いに向き合い、アーシャはミオの両手に自らの両手の指を絡ませた。しかしミオの両手は汗ばんでいて、それに気付いたアーシャはくすりと笑う。ミオもつられて笑った。
二人の運命は、もう離れられない。
「遺言なんて要らないわよね。もう誰もいないんだもの」
「ああ。行こう」
「ええ。人類のみなさーん!今までお疲れ様でしたーっ!」
二人は月の光が輝く中、天空に身を投げた。彼女たちに涙はない。ただただ、笑っていた。ブランコで遊ぶ友達同士のように、宙を舞った。
次回、最終回です。最後までお付き合いいただければ嬉しく思います。




