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新月の下、澪標は輝く  作者: でまちやなぎ


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第一話

「共和国総統宮殿に潜入し、アナスタシア・ヴラドレフ総統を抹消せよ」


 ミオがいつも通り暗号を解読すると、送信されたメールはスマホの画面から消え去った。普段よりも簡単な仕事だ、と彼女は思った。というのも、共和国ではヴラドレフ総統率いる独裁政権が崩壊の危機に瀕しており、親衛隊までもが裏切って革命軍に寝返っていたからだ。エージェントにしてみれば、もはや警備はないに等しかった。


 総統宮殿へと続くの煌びやかな門にはそれなりの数の衛兵がいたが、日本政府に絶対の忠誠を誓うエージェントの敵ではなかった。それよりも宮殿前で殺し合う治安部隊とデモ隊の中を通り抜ける方が厄介だった。


「そこをどけ!権力の犬め」


「戒厳令が発せられている!家に帰れ!これ以上近付いたら撃つ!」


「これ以上俺たちを傷付けるな、この野郎!ぶっ殺してやる!」


 この有様であった。


 宮殿内の地図は雇い主から既に入手している。総統執務室は三階にあった。ミオが軍刀を抜き、無駄に重厚な扉を開けた。そこには少女が孤独に重厚な椅子に座っていた。


「お前がアナスタシア・ヴラドレフだな」


 ミオは軍刀を抜くと、アナスタシアに歩み寄った。


「合ってるわよ。殺しに来たのよね。はい、どうぞ」


 そう言うとアナスタシアはおもむろに立ち上がり、黒地に金色が縁取られた軍帽を脱いでミオの目前に立った。ターゲットがそんな簡単に見つかってなるものか。


「偽物だな。総統の身代わりだろう」


「違うわよ。確かめてみる?そうね、宮殿の地下通路は一階廊下の電気スイッチを五回連続で押すと開くのよ」


 事前に雇い主から入手していた情報と全く同じだった。その情報は宮殿を知り尽くした者--総統本人か親衛隊隊長しか知らない。そして、情報提供者は親衛隊長。つまり彼女は、間違いなく総統本人だった。


「……それにしても、拳銃じゃないのね。銃の方が早く終わらせられるのに」


「総統閣下、あなたに最低限の名誉を与えるためです。そしてより多くの苦痛を与えるためです」


「さすがは日本のエージェントねえ。武士道の国ってところかしら」


 ミオは改めて、アナスタシアの風貌を脳内で記憶している写真と照合した。独裁者一族に代々伝わる白銀の髪に整った顔立ち。一般人であってもニュースでよく見る顔である。しかしそれは女優ではなく極悪非道な独裁者として、だが。


「で、まだ殺さないの?なら少しお喋りをしない?さあ、そこにお座りなさいな」


「ずいぶん呑気ですね。総統閣下、あなたはご自身の今の立場を理解されているのか」


「もちろん。ええと、私は極悪非道な独裁者で、私腹を肥やす一方で数百万の国民を飢餓貧困に追いやり、反逆者は公開処刑。要は、正真正銘のゴミクズ。これで合ってる?」


 子供が暗記してきたことを思い出すかのようにアナスタシアは一気に自分の罪状を吐き出した。


「そのとおりだ。お前に命乞いをする権利はない」


「命乞いなんて最初からする気はないわよ。あなたがいなくても、どうせ明日にはそこら辺の革命家にやられるだけなんだから」


 小さな独裁者はミオが座らずに軍刀を構え続けているのを無視し、応接用の高級ソファーに腰を下ろした。


「ねえ、お茶を汲んでくれない?私、コーヒーより紅茶が好きなの。クッキーもあったらなお良いわ」


「バカにしているのか。……お遊びはここまでだ。最後に言い残すことはあるか」


 ミオは相手にせず、軍刀を構え直してアナスタシアの首元に狙いを定め、大きく振りかぶった。あとは重力に任せて振り下ろすだけである。


「あるに決まってるじゃない。ざっと原稿用紙十枚分くらいはあるわ」


 アナスタシアはわざとらしく指折りした。時間稼ぎがしたいだけだろう。親衛隊は待てども来ないぞと言ってやろうかとミオは考えたが、それも時間の無駄だと思ってやめた。


「長い。一言にまとめろ」


「日本人はケチねえ。なら--『全員死ね!』」


「……は?」


 反応するだけ総統の思うつぼだということは頭では分かっていたのだが、思わず声を漏らしてしまう。


「どいつもこいつも自分勝手だと思わない?昨日までは『総統閣下万歳!』なんて言っていたくせに、今日になったら突然、『総統死ね!』だもの。お前らが死ねよ」


「……お前が言うとおぞましいな。この人殺しが」


「ええ、そうよ。私は人殺し。そしてあなたも人殺し」


 アナスタシアの白い指がミオを指す。不快感を覚えつつ、ミオは答える。


「一緒にするな。この世には生きてはならない人間というのが残念ながら存在する。我々はそういう連中を掃除しているだけだ」


「へえ、あなたもずいぶん傲慢ね。なら聞くけれど、あなたは部屋を掃除する時にゴミとゴミじゃないものをどうやって区別するの?」


 執務室に掲げられている時計はちょうど二十三時を回ったところだった。まだ時間に余裕があることを確認し、ミオは軍刀を下ろした。少しくらい付き合ってやろうという戯れのつもりだった。


「役に立つかどうかだ。ホコリや紙くずが役に立つことはないだろう」


「なら、老人も子供も障害者も役に立たないんだから殺しなさいよ」


「詭弁だ。人間はゴミではない」


「ああ、日本ではそういうことになってたわね。じゃあ私もゴミじゃないんでしょう?これでも人間なのよ、一応。なぜ殺すの」


 アナスタシアは背もたれに深く体を預け、視線だけをミオに向けた。命乞いなどではなく、単なる興味として尋ねているようだった。


「それはお前自身が今その理由を読み上げたはずだ。お前は圧政を敷き、国民から自由を奪ったから」


「へえ。じゃあ裁判をすればいいじゃない。自力救済を禁止するのが法律でしょう?そうだ、もう一度東京裁判でもする?私はA級戦犯?靖国に祀ってくれるかしら」


「……裁判をするまでもない。裁きを受けるとしても、それは共和国国民によって裁かれるべきだ」


「あははっ!あんなバカたちにそんな高尚な芸当ができるとでも?今も広場でバカみたいに殺し合ってる連中が?『これ以上国民を痛めつけるなあ!』なんて言っておいて。そういう性癖か何かなのかしらね」


 宮殿前広場で殺し合っていた治安部隊とデモ隊。実のところ、治安部隊はヴラドレフ総統の命令でデモ隊を鎮圧している訳ではなかった。革命後の政局を有利に進めるためにはデモ隊を押さえつけておく必要がある。つまり、自らの判断で市民に対して殺戮の限りを尽くしていたのだ。


「しかしその全ての原因はお前に行き着く。この国に独裁者がいなければあのような血みどろの争いにはなっていない」


「ふうん。じゃあ私は産まれた時点で間違いだったってわけだ。独裁者の家族に産まれた時点で親ガチャ大失敗」


 大げさに肩をすくめてみせる彼女に対し、


「それは違う。お前は父親からその地位を受け継いだ時点で独裁を放棄することができたはずだ」


 とミオは返したのだが、彼女は心底おかしそうに笑った。


「本当に何にもわかっていないわね。独裁者にとって独裁者でなくなることは死と同値なのよ。独裁者が独裁者を辞めたい時の選択肢は二つしかないわ。一つ、寿命で死ぬ。二つ、クーデターか革命で殺される」


 独裁者の身勝手な論理だと思った。けれど、実際のところそれを否定できなかった。世界あまたの国の独裁者はろくな死に方をしていないのも事実である。


「……責任逃れか」


「だから、最初から罪を逃れようなんて思ってない。私は反逆者を千人処刑しました。自分だけ良い暮らしをして国民を飢餓貧困に陥れました。経済をめちゃくちゃにしました。東京やワシントンやロンドンを狙うミサイルをたくさん作りました。核実験をしました」


「もういい」


 この狂人の話に付き合うだけ時間の無駄だ。さっさと任務を果たして日本へ帰ろう。ミオは軍刀を構え直すと、その切っ先をアナスタシアの首元に突きつけた。


「地獄で裁きを受けろ」


「ふふ……そうよ、それ!気色の悪い正義!あなたは日本政府のエージェントでしょう。たしか、組織の名前は『桜花』と言ったかしら。最悪なネーミングセンスよねえ」


「黙れ。間抜けな死に顔を見せたくないのならな」


「死んだら関係ないわよ。……日本人ってそういうのが好きよね。影でこの国を守る正義の味方ってやつ?バッカみたい」


「黙れと言っている」


「私ね、これでもよく日本のアニメを見るのよ。昔は日本に住んでいたのよ。セーラー服を着て友達と喋って……」


 アナスタシア・ヴラドレフが日本に住んでいた?そんな情報は雇い主からは聞いていない。そんなことが分かれば日本政府は即座に彼女を国外追放したはずだ。はったりに違いない、とミオは推理した。


「日本の桜は綺麗よね。鏡よ鏡、最も美しい花はなあに?と聞いたら、桜、と答えたわ」


「適当なことを言うな」


「ここは笑うところよ。あなたたちの組織も『桜花』。桜花といえば特攻機。愛する家族を守るために敵艦に体当たり攻撃なんて、お涙頂戴ものよね」


「お前のようなクズが特攻隊員を嘲笑する権利があるとでも?」


「嘲笑なんてしてないわよ。バカにしてるのはあなたたちの方じゃない。おおかた命を捧げて国を守れ、っていう意味で『桜花』なんでしょうけど、それならどうしてコソコソ活動するのよ。堂々と『私たちはこの国を守るために刺し違える覚悟で極悪人を殺します』って言えばいいじゃない」


「……っ。言えるわけないだろう」


 当たり前ながら「桜花」は非合法組織だ。十代の少女だけで構成される殺し屋組織の存在を、普通の日本人は誰も知らない。


「それでよく正義の味方ぶることができるわよね。日本のアニメでも、そういう影で暗躍するダークヒーロー的な組織がたくさんあるけれど、見る度にいつも思っていることがあるの」


 アナスタシアは曲がりなりにも独裁者。場を支配する不思議な力がある。彼女には武器もペンも必要ない。対してミオは武器を持って圧倒的優位にあるはずなのに、何もできずにいた。


「日本のルールによれば『国民主権』。なんで主権者の知らないところでそんなダークヒーローが暗躍しているのかしら。全てを白日のもとに晒すのが民主主義なんじゃないの?」


「……それは」


「必要悪だから?それこそ堂々と発表すればいいじゃない。私たちは必要悪です、皆の役に立つのでこれからもどうか活動させてください、って頭下げなよ。あなたたちが守る対象であるところの国民にね」


「それができるならとっくにやっている」


「素直じゃないわねえ。『できない』だけでしょ。なぜなら後ろめたいから。自分で自分の行動に自信を持っていないから。自分が正しいことをしていると信じられないから」


「黙れ!それ以上言ったら本当に--」


 ミオは顔を紅潮させながら軍刀を彼女の首に這わせた。あとほんの少しミオが腕に力を入れると、アナスタシアの首は飛ぶ。


「あなたに私は殺せない」


 アナスタシアは右手で刀の切っ先を力強く握りしめた。当然のごとく右手から腕にかけて鮮血が滴り落ちるが、彼女は全く気に留める様子もない。


「今まで何人殺した?そう言えばこの前、アフリカの大統領が一人死んだそうね。あれもあなた?」


「……」


「もしかして、両手で数え切れない?それか、もう覚えてない?」


「数えることに意味はない!私はただ任務を遂行しているだけなのだから」


 エージェントらしくもなく声を荒らげたミオは、軍刀を深くアナスタシアの右手に刻みつけた。けれど彼女は苦悶の顔ひとつ浮かべない。むしろ、悦に浸っているかのようだった。


「『任務』ねえ。ナチスの将校たちもホロコーストの後、同じように答えたそうよ。便利な言葉よね。上から命じられたからやりましたって、サイコーの言い訳。私もそう言えば罪を逃れられるかしら」


「いい加減にしろ……」


「日本の国会で言ってみなよ。私は正義のために人を殺しました。たくさん殺しました。私にはそれが本当に正しいことなのか分かりませんでした。でもこれは命令でした。なので従いました。私は無実です。これからも殺します。たくさん殺します。よろしくお願いします、って」


 ミオは歯を食いしばり、生まれて初めて軍刀を握る手が震えた。怒り、羞恥、苛立ち、悲しみ、あらゆる感情がミキサーの中のように混ざって思考が追いつかない。


 アナスタシアは右手をそのままミオの左頬に擦り付け、血で汚した。


「ねえ。私を殺せば楽になれるわよ。今までと同じように、死んだ人間のことは忘れてしまえばいいんだものね。アニメみたいに都合の悪いことは全部消し去ってしまえばいいのよ」


「殺す、殺してやる。お前なんかッ……!」


 アナスタシアの右手を払い除け、ミオは軍刀を大きく振りかぶった。一撃で殺せる。最初はアナスタシアに苦痛を与えながら殺してやろうと思っていたが、そんなことはもうどうでもよかった。


「さあ、いつも通りやればいい!日本国民は何も知らずに生きていけばいいんだ!この国の汚い部分なぞ知らなくていい。知る必要もないんだもんね。でもそれって--」


「独裁者そっくりよね」


 ミオの心の中で、ぷつりと音がした。今まで精神を保っていた何かが崩れた。

 私はなぜこいつを殺す?

 殺してどうなる?

 「桜花」で褒められる?

 なぜ「桜花」はこいつを殺せば嬉しいんだ?

 こいつはどうしようもないクズだから?

 自由と民主主義を共和国にもたらすため?

 でも、別にほおっておけばいいじゃないか。自由も民主主義も知ることか。共和国はクズが支配していたらいい。大体、クズの国民だからクズに支配されるんだ。自業自得なのだ。


 ミオは軍刀を落とし、呆然と立ち尽くした。今の彼女にとってアナスタシアを殺すことなんてどうでもよかった。いや、何もかもがどうでもよくなったのだ。

アナスタシアがまだ総統でいたいならそうすればいいし、死にたいなら勝手に死ねばいい。


「あら、戦意喪失、ってとこかしら。それなら今度こそお話をしましょうよ。ほら、お座りなさいな。……どうせ明日には私は殺されているのだから」


 アナスタシアはミオの手を引き、ソファーに座らせた。

この作品はフィクションです。実在の人物や団体などとは一切関係ありません(内容が内容なので、強調しておきます)。

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