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視える後輩看護師の話①

 田中桃太は、ごく普通の看護師である。

 看護師としての経験年数は十一年目、三十二歳。所謂中堅どころだ。そんな桃太は今年度、新人看護師を指導するプリセプターの役割を任された。プリセプターというのは簡単に言うと、まだ右も左も分からないプリセプティ(新人看護師)を指導、教育し、業務または精神面でもフォローを行なう人材育成の要である。このプリセプターの如何に寄って、新人看護師の離職率に大きな影響を与えると言っても過言ではない。桃太がプリセプターをするのは今回が初めてではなかった。多くの病院では、看護師三年目の時期に一度その任を担うこととなる。桃太は前職、二次救急病院の外科病棟に勤めていたが、桃太の初プリセプティは本当に真っ新なヒヨコだった。その頃は桃太も若く、まだ意欲に溢れていた。桃太なりに熱心に指導し導こうと努力していたつもりだったが、看護学校を卒業したての、やっと子どもから大人になろうとしている若者に対して『教育・指導』さらに『精神的フォロー』をすることが如何に大変かを身に沁みて痛感する出来事となった。自分自身もかつては同じようにヒヨコだった訳だが、そんな生まれたてのヒヨコが何とか歩いて、自力で餌を獲ることが出来るまで導いてくれた先輩方の偉大さを改めて知ったのだ。桃太の奮闘虚しく、その当時のプリセプティは夏を待たずに退職した……。この経験は、桃太に苦い思いを残すこととなる。

 しかし、有難いことに今回のプリセプティは看護師経験者だ。桃太より五歳年下の二十七歳だが、どうやら三次救急のERで働いていたバリキャリらしい。       

 桃太は心の中で安堵していた。桃太の今の職場は全くの新人看護師だけでなく、看護師経験がある新入職者にも必ず教育係を付ける制度を採用している。経験者ならば、基本的な看護技術はあらかた出来るはずだ。しかもERで救急看護を行っていたのなら尚更『出来る』だろう。後はこの病院独自のやり方や、病棟の環境に慣れていけば良い。

 桃太はラッキーだとさえ思っていた。プリセプティである後輩看護師の本性とその『特殊性』に気づくまでは。




「桃太さん、お疲れ様です」

 夜勤で出勤するなり、にこやかに挨拶をして来たのは、件のプリセプティである結城李仁だ。明らかに好青年然とした、朗らかな笑顔である。今時珍しい程の漆黒の髪は滑らかに目縁に掛かっており、その肌の白さを際立たせた。気を抜くと仏頂面の三白眼なのに、笑うととことん人好きのする笑顔になるのは何故だろうか。桃太は苦々しい思いで、そのプリセプティの顔を見つめた。

「桃太さん。俺の顔が好きなのは分かるんですが、そんなに見つめられると流石に照れます」

「………」

 面の皮が厚過ぎてもはや何も言えない。

 桃太はこの好青年の本性を既に知っている。だからこそ、この外面の良さを思わず叩きたくなってしまう。そして何より顔が良いのが気に食わない。

 桃太は出勤早々、鬱々とした気持ちでノートパソコンを開くと今日のワークシートをプリントアウトした。

「結城、今日お前の部屋にSPACE(連続膵液細胞診)の患者さんがいるだろ?手技は大丈夫なのか?時間配分に気をつけろよ」

「分かってますよ、大丈夫です」

 SPACEとは、膵臓がんの早期発見と診断のために用いられる検査だ。経鼻的に細いチューブを膵管に留置し、膵液を採取して検査をする。三時間ごとに膵管チューブの横から注射器で膵液を採取するのだが、何分細い管なのでなかなか引き難い。しかし強く引いて圧を掛け過ぎると、合併症を引き起こす危険性がある。この検査は、桃太達が所属する消化器外科•内科病棟のトップ5に入るくらい神経を使う検査なのだ。

 そんな精神力を消耗する検査を前にしているにも拘らず、自信満々に答える結城は本当に頼もしく見える。実際入職してから半年が経過したが、もう既に病棟のエースと呼べる存在になっていた。看護大卒で、頭も良く、仕事の手際も良い。本来ならばもうプリセプターなど必要ないだろう。しかし一年間は指導計画の実施と評価をしなければならないので、形ばかりプリセプターを続けているのが実情である。加えて、結城が病棟師長に直談判をしたという噂も耳にした。「僕にはまだまだ田中さんの力が必要なんです」と。どの面を下げてそのような殊勝なことを言ったのか。桃太には想像すらつかない。

「今日は桃太さんと夜勤なので楽しみです」

「……」

 桃太には『ニヤァ』と意地悪く微笑むように見えたこの表情は、どうやら周囲にいる同僚達には花が綻んだような笑顔に見えたらしい。そこかしこから「結城君の笑顔、めっちゃ可愛くない?」「マジ眼福」と言う囁き合う声が聞こえて来た。本当にげんなりする。

 いや、俺はお前との夜勤は全く楽しみじゃないんだけど。寧ろ恐怖でしかないんだけど!!

 桃太は心の中で呪詛を吐きながら、仕方なく電子カルテで今日の担当患者の情報収集を始める。もう一人の夜勤メンバーが、穏やかな神志那主任で良かった……。神志那主任なら、桃太のこの殺伐とした気持ちも癒してくれる。

 桃太は、隣の席で意気揚々と電子カルテを操作する結城の腕に目を遣った。結城の右前腕の内側は、大きく斜めに伸びた瘢痕がある。夏だと言うのにスクラブの下に黒いアンダーシャツを着ているのは、その傷を隠すためではないだろうか。直接その傷の由来を訊いたこともないし、興味もないのだが。

 桃太は目線を再びパソコン画面に移すと、余計な考えを振り払うように眉間を指で揉んだ。

 どうか今夜は何も起きませんように……。

 今夜の桃太の願いはただただそれだけだ。




「休憩に入る順番、どうする?」

 本日の夜勤は、大きなイベントもなく消灯時間を迎えた。普段なら消灯時間を過ぎても術後患者の対応でバタバタと慌ただしいのだが、今日は怖いほど落ち着いている。一通り記録を入力し終えた神志那主任は、のんびりとした口調で桃太と結城に問いかけた。

「あ、俺先に入ります。0時にSPACEがあるので」

「そっか。じゃ、結城君が一番ね。田中君、私二番目でも良い?休憩出てから、委員会の仕事をやっておきたくて」

「良いですよ。俺最後に入ります」

 二交代夜勤の場合、多くの病院で看護師の休憩時間は二時間である。急変や緊急入院がある時はきっちり休めないこともあるが、今日のように穏やかな夜勤では業務スケジュール通り休憩を取ることが出来そうだ。夜勤メンバーは順番に休憩に入るのだが、一番手は22時くらいからになる。当然眠れない。従って、こういう場合は若手が気を利かせて自ら先に入ることを提案したりする。稀に早い時間に休憩に入りたい年長者もいるので、臨機応変ではあるのだが。それを抜きにしても、今回結城はSPACEの膵液採取が三時間毎にあるので、最初に入るのは妥当だった。

「じゃ、先に入ります。何かあったら起こしてください」

「おう」

 結城はそう言い残し、病棟の休憩室へと入って行った。ナースステーションに残った桃太と神志那主任は、ナースコール対応をしながら夜勤業務を熟していく。

「ねえ、田中君さ」

 神志那主任がパソコンのキーボードを打つ手を止め、桃太に話し掛けて来た。桃太は結城から提出された振り返りシートを纏めながら、返事と共に神志那主任の方を見る。神志那主任は、我が病棟の良心だ。年齢は40代後半のはずだが、神仙染みた不思議な雰囲気を身に纏い、年齢を超越した存在のように思える。神志那主任の前では大量の仕事もいつの間にか片付き、気付かぬうちに他スタッフの仕事もその手によって終わっている……。仕事が出来るのは勿論だが、優しく穏やかな彼女は、スタッフからも患者からも絶大な信頼を得ていた。

「結城君、最近どうかな?調子良さそう?」

「めちゃくちゃ調子良いみたいですよ」

 神志那主任の問いに、桃太はさもありなんと言う風に答える。結城李仁は、絶好調まっしぐらだ。入職して半年とは思えない程、看護師のみならず、医師ウケも患者ウケも良く、外注のメンテナンススタッフからもよく話しかけられている姿を目にする。顔が良くて背も高くて愛想も良い。その上仕事も出来る。不調な訳が無い。しかし、桃太からの返事に神志那主任はどこか思案するような表情をした。

「どうかしましたか?」

「うん、あのね」

 神志那主任は頬に手を当て、小首を傾げる。

「結城君、田中君にかなり懐いてるでしょ」

 ……懐いている?『あれ』を懐いていると言えるのだろうか?

 桃太は神志那主任の言葉に曖昧に頷いた。

「私には、結城君は時々とても不安定に見えるんだよね。言葉にするのは難しいんだけど……纏っている空気?みたいなものが一瞬だけ薄ら冷たくなるような」

「オーラみたいな?」

「うーん、私はそう言うのは見えないんだけど。空気感とか雰囲気とかそんな感じに近いかな」

 神志那主任ほどの人格者ならばオーラくらい見えても不思議ではないが、空気感が分かるというのには納得が出来た。

「あいつがですか?いつもニヤニヤしてますけど」

「田中君の前だけだよ。結城君があんなにニコニコしてるの」

「……そうですか?」

「田中君には特別。それに、結城君は田中君をとっても頼りにしてると思う」

「……」

 人間観察が長けている神志那主任の言葉だとしても、桃太はそれには同意しかねた。結城の桃太に対する態度は、尊敬している人間に対する態度ではないのだ。桃太は、この後の結城と二人だけで過ごす時間を考えると頭痛がしてくる。

「私も気を付けて見てみるけど、田中君も結城君が思い詰めたりしていないか、それとなく注意してあげて」

「……はい」

 結城が思い詰める、そんな場面は全く想像が出来ない。まだ出会って間も無いとは言え、ミスした後でさえもそつなく自分自身でフォローする結城が……。

 もはやお飾りのようになっているプリセプターの桃太であるが、今現在も一応指導役ではある。桃太は尊敬する神志那主任の言葉なので、頭の片隅に少しだけ留めておこうと思った。

「休憩ありがとうございました」

 そうこうしている内に、結城が休憩から出て来た。ソファで寝入っていたのか、珍しく髪の毛に寝癖が付いている。

「じゃ、後はお願いね」

 結城と交代で神志那主任が休憩へ入り、ナースステーションは桃太と結城の二人だけになった。桃太は結城から話し掛けられまいと、電子カルテで受け持ち患者の看護計画評価を始める。結城はそんな桃太の背中に向かって、「桃太さん、俺SPACEに行って来ますね」と声を掛けた。

「ああ……。0時の巡視はさっき主任と回ったから」

「ありがとうございます」

 桃太の習性上、話し掛けられて目線を合わせないのはどうにも気持ち悪いので、結局振り返ってしまった。目が合うと、結城はまだ眠そうな目をしている。

「おい、しっかり目を覚ませ。寝ぼけたままだとミスをするぞ」

「失礼な……気を抜くとこうなっちゃうんです。ちゃんと起きてますよ」

 結城はそう言うや否やパッと表情を整える。急に現れた満開のイケメン顔に、桃太は思わず吹き出した。整った顔の人間がこういう事を奇を衒わずにやってのけると、かなり珍妙だ。深夜なのでひとしきり声を殺して笑った後、結城を追い払うかのように手を振った。

「はぁ、馬鹿やってないでさっさと行けよ」

「……桃太さんが眠そうって言うからやったのに」

 結城はそう言いながら、不満たらたらな様子でナースステーションを後にした。何だかんだ言っても桃太は結城のプリセプターであるため、先ほどの神志那主任の言葉が少し引っかかっていたのだが……。いつもの結城の様子に少し安心する。まあ、後でそれとなく様子を伺ってみるか、と思い直し、桃太は欠伸をしながら再び文章を打ち込み始めた。

「戻りました」

 程なくして結城が病室から戻り、冷蔵庫を開け採取した膵液のスピッツに特殊な保存液を垂らしている。

「お疲れ。患者さん痛みとか大丈夫だったか?」

「はい。ぐっすり寝ていました」

 SPACEの合併症でリスクが高いのは膵炎だ。膵炎の症状は、心窩部痛、腹痛、背部痛と、その痛みの程度はかなり強い。桃太は以前この合併症に遭遇したことがある。その場合は、膵管に留置したチューブを抜かなくてはならない。

「良かった。このまま朝まで何事もなく終わればいいな」

 結城は検体を冷蔵庫に保管すると、手を洗って桃太の隣に座った。

「そうですね、何事もなければ良いですよね」

「……」

 ナースステーションには桃田と結城の二人しかいない。電子カルテ搭載のパソコンは腐るほど余っているのに、なぜ桃太の隣に座るのか。せめて、先ほど神志那主任が座っていた程良い距離感が保てるパソコンの前に座っても良いではないか。そして何より、なぜ結城はいつも言葉に意味深長な雰囲気を持たせるのだ。気味が悪過ぎる。

 桃太は隣に座った結城を無視して、電子カルテをただぼんやりと操作する。看護記録も看護計画の評価も終わっているのだが、手持ち無沙汰にしていると結城に絡まれそうなのだ。しかし桃太の作戦が功を奏したのか、しばらくの間結城も静かにパソコンに向かっていた。真夜中のナースステーションに、ただ二人がキーボードを打つ音だけが響く。 

 そして深夜1時を過ぎた頃、唐突に桃太が口を開いた。

「……結城、最近何かあった?」

 その言葉に結城が手を止める。ほんの一瞬だけ、いつもの澄ました表情が困惑に変わった。桃太はのんびりした性格ではあるが、そういう小さな変化は見逃さない性分だ。結城の僅かな表情の変化に、神志那主任の言葉が重なる。

「何かって、どうかしました?」

 サッといつもの表情に戻ると、結城はやや長めの前髪を掻き上げながら、桃太の顔を覗き込む。

「俺、ヘマやらかしましたか?」

 ヘマなんてやらかした覚えなどないと確信しているだろうに。自信に満ちた整った顔に見つめられ、桃太は思わず視線を逸らした。

「神志那主任が、お前の様子が変だって気にしていてさ。心配していた」

「……神志那主任がですか?なんだ。桃太さんが心配してくれていた訳じゃないのか」

 結城はあからさまにがっかりした様子で、腕を組み椅子の背もたれに体を預ける。桃太は呆れたように溜め息を吐いた。

「お前、神志那主任は本気で心配しているんだぞ」

「それは俺だって分かってますよ。神志那主任がいつも気に掛けてくださるのは、本当に有難いと思っています。桃太さんも神志那主任を見習って、少しは俺のこと気にしてくれても良いじゃないですか……」

 若干拗ねたようなその口調に、桃太は再び眉間を揉んだ。どうして結城という後輩は、いつもこんなに偉そうなのだろう。仮にも桃太は指導者で、結城は指導を受ける立場である。しかも桃太の方が年上だ。必要以上に遜れとは言わないが、もっと謙虚になっても良いのではないだろうか。桃太は完全に馬鹿にされている、と心の中で拳を握りしめた。神志那主任の『結城君は田中君をとっても頼りにしてると思う』と言う言葉は頭上へと霧散した。

「お前のことはいつも気に掛けているだろう。ちゃんと振り返りシートも読んでいるし」

「それは業務としてでしょう?俺はもっと個人的に、桃太さんに気に掛けてもらいたいんです」

 ああ言えばこう言う……。五歳しか離れていないのに、桃太には結城が同じ年代に生まれた人間とは思えなかった。桃太は体ごと結城に向き直り、頭を掻きながらその顔を見上げる。

「個人的にって、お前本当に何か悩みでもあるのか?」

 今桃太と結城はお互い向き合って座っている。桃太はちょうど廊下を挟んで病室を背にするような体勢になっていた。結城は何気なく桃太の背後に目を遣りながら、その言葉に答える。

「俺だって悩みくらいありますよ」

 その時の結城の表情が先ほど垣間見えた微かな動揺に似ていて、やはり何か思い悩んでいたのかと、桃太は軽く居住まいを正す。しかし桃太が一度瞬きをする間に、結城は陰鬱な雰囲気を残像かと見紛うくらい微笑んだ。名残のように少しだけ目元が歪んでいる。

「どうやったら、桃太さんがもっと俺と仲良くなってくれるのかなぁって。毎日毎日、思い詰めるほど悩んでるんです」

「……」

「俺、桃太さんのこと好きですから」

「……」

 桃太は恐らく人生最長の長い溜め息を吐いた。それはもう、自身でもエクトプラズムを吐き出したのではないかと錯覚するほどに。

「結城、お前……」

 桃太は脱力して頭を抱えた。本気で結城のプリセプターを今すぐにでも辞めたい。小さな表情の変化なんて、結城にとって大きな問題ではないのだ。ただの気まぐれだ。桃太は結城のことを少しでも心配した自分に呆れた。何度この手を喰らったことか。結城は俯いた桃太の頭を撫でた。

「嬉しくて感動しましたか?」

「そんな訳あるか。お前が俺を馬鹿にしてることぐらい分かってるんだよ。頭を撫でるな」

「心外だな。ちゃんと尊敬してますよ」

 桃太は結城の手を払い退け、頭を抱えたまま心の中では安堵していた。例え結城に馬鹿にされたのだとしても、それはこの夜勤ではほんの些細なことだ。今日はいつもの『アレ』は起こらない。現に今、ナースステーションは和やかな雰囲気だ。だから大丈夫……。桃太がそう自分に言い聞かせながら顔を上げた時だ。結城はいつもの三白眼で桃太を見ていた。その神妙な顔に嫌な予感が走る。

「……あの、桃太さん。確認なんですけど、512の1番ベッドの患者さんって、自分で歩くことが出来ましたっけ?」

「……いや、ADL(日常生活動作)は全介助だ」

 512号室はナースステーションの目の前にある四人部屋で、転倒リスクが高い患者や看護ケアを多く要する患者が入院している。各ベッドのカーテンは閉じられてはいるが、何か変わったことがあればすぐに駆けつけることが出来るように、病室のスライドドアは大きく開けられていた。

 桃太はゾワゾワと急に背中が寒くなるような気がした。ちょうど桃太の背後に512号室がある……。結城は口元に手を当て「そうですよね」と呟いた。桃太は今すぐ結城の口を塞いで、この後続けられる言葉を遮りたくて仕方ない。

「いや、さっき桃太さんと話していた時、カーテンの下から裸足の脚が見えたんですよ。暗い中でも、脚だけ妙にはっきりと。ゆらゆら行ったり来たりしていたので、最初は『あ、まずい。転けるかも』と思ったんですが、あの患者さん確か自分で動くことが出来なかったなぁって。そうこうしているうちに消えましたけど」

「……」

「俺、桃太さんが怖がると思って、視えている間は言わなかったんですよね」

 結城は『俺、えらいでしょ?』と言わんばかりに得意気な顔をしている。相対して桃太は半分涙目だ。

「……」

 結城よ。俺が怖がると思っていたのに、なぜ今言うんだ……。一生お前の胸の内にしまっておいてくれよ!

 桃太は心の中でそう叫んだ。なぜならば、今は真夜中で叫びたくても叫ぶことが出来ないからである。

「え、桃太さん。もしかして泣いてます?」

「……結城」

 桃太は恐怖のあまり背後を振り返ることが出来ず、自分の体を両腕で抱え込み結城を睨み上げた。睨まれた結城は不思議そうな表情でそんな桃太を見ている。

「お前……、俺が人よりちょっと怖がりなのを知っているだろう?」

「ええ、桃太さんが人よりかなり怖がりなのは知っていますよ。だから今言ってるんじゃないですか」

 結城はきつく組まれた桃太の両腕に触れた。その冷たい指先に、爆上がりしていた桃太の動悸がほんの少しだけ落ち着く。どうして結城の手はこんなに冷たいのだろう。いくらエアコンが効いているのだとしても、血が通っていないような冷たさだ。

「そんなに怖がらなくても大丈夫ですよ。アイツら、桃太さんには何もしてきませんから」

 結城は宥めるようにそう言って、スクラブから伸びた桃太の腕を撫でる。

 いつもこうだ。結城はいつも散々桃太を怖がらせては、最後にこの言葉で締める。桃太が結城との夜勤を嫌厭しているのは、結城が夜勤中に桃太に怖い話、もしくは怖い思いをさせるからだ。今日に至っては、ただの怖い話ではなく、リアルタイムな恐怖体験である。

「……お前さ、いつも思うけど、一体何の根拠があってそんなことが断言出来るんだよ」

 桃太が恨めしく言葉を吐き出すと、結城は少し困ったような顔をした。髪の色と同じくらい深く暗い瞳が桃太を見据えている。

「それは……桃太さんだからですよ」

「根拠になってねぇだろ。看護学生からやり直せ。客観的統計に基づいた理論的なエビデンスを提示しろ」

 結城は「根拠地獄だ」と眉尻を下げて笑った。結城でもこんな顔をして笑うことがあるのか、と結城李仁の新たな一面の発見に桃太は少し意外に思う。

「まぁ……一番の根拠は、桃太さんに霊感が全くないことでしょうか。桃太さん、そう言うの見たことないでしょう?」

「ないけど」

「霊感ゼロの人に、アイツらも何かしようとは思いませんよ。仮に何か悪さをしても、気づかないじゃないですか」

「……そう言うものなのか?」

「そう言うものです」

 どうも結城から上手く丸め込まれたような気がしてならないが、桃太は取り敢えずきつく組んだ腕を解いた。結城が言うように、自慢ではないが桃太は霊感や第六感などと言う超自然的な能力は全くない。心霊現象が数多起こり得る職場環境にも拘らず、現在に至るまでそう言った類の現象に遭遇したことがないのだ。専ら同僚から『夜中の病院で体験した怖い話』について耳にする程度で、桃太もそれほど怖がったりはしなかった。強いて言えば、その日帰宅後のシャワー中に絶えず背後を振り返ったり、寝る時に電気を消すことが出来ないくらいだったのだ。しかし、この結城李仁という後輩のせいで桃太の平穏な日々は壊された。結城は、事あるごとに桃太に恐怖を植え付けてくる。結城自身が経験した不思議な出来事や、その日に目撃した心霊現象を逐一桃太に報告するのだ。決まって二人だけの時間に。他の同僚がいる場ではこんな話はしない。狙ってやっている。もうこれは完全にハラスメントではないだろうか。心霊ハラスメント。心ハラだ。

 結城は冷たいままの手のひらを、脱力した桃太の腕から離した。桃太は結城の言葉に懐疑的な表情を崩さない。離した指を強く握り、結城は何か言おうと口を開いた。

「桃太さん、俺……」

「おはよ〜」

 体を寄せるように向かい合っていた二人は、気が抜ける様な穏やかな声で瞬時にお互い遠退く。休憩室から出て来た神志那主任は、意図せず持ち前の癒しオーラでその殺伐とした空間を崩し消し去った。結城は何となく気まずそうに桃太を一瞥したが、桃太にとって神志那主任の登場は、渡りに船、地獄に仏である。

「あれ?何かここ寒くない?エアコン効きすぎてるのかな」

 そんな二人を他所に、神志那主任は欠伸を噛み殺しながら壁の空調を見に行った。「わ、22度って……寒いはずだよ。おかしいなぁ、私が休憩に入る前は26度に設定していたんだけど」と言いながら、エアコンの温度を調節する。エアコンの設定温度を下げた覚えはないが、言われてみれば確かに寒い。人一倍寒さに弱い神志那主任は凍えるように寒いだろう。桃太は『超自然的にエアコンの温度が下げられていた件』については一旦置いておこうと決めた。視界の端で、結城が首を傾げていることも見なかったことにする。

「あ、俺も休憩入って来ます」

 桃太はそう言うと、そそくさと休憩室へと飛び込んだ。休憩室の電気は煌々と灯したままソファに寝転ぶと、バッグから掴み取ったブランケットを頭から被る。もちろんブランケットなのでサイズ的に頭隠して尻隠さず状態ではあるのだが、取り敢えず何も視界に入れたくなかった。

「桃太さん」

「!?」

 一人の空間でホッと一息ついた時だった。無遠慮に休憩室のドアが開けられ、ズカズカと誰かが入ってくる。いや、『誰か』ではない。確実に結城李仁だ。桃太は一瞬ビクリと驚いてしまったが、寝たふりを決め込むことにした。

「……桃太さん、尻が隠れてませんけど」

「……」

「これ、使って。ちゃんと尻も隠してください。風邪を引きますよ」

 結城はそう言うと、ふわりと桃太の体に何かを掛けた。寝たふり続行中の桃太には何を掛けられたかは分からないが、それはブランケットより少しだけ重い。結城は無反応の桃太に向かって「じゃ、おやすみなさい」と言い残すと、休憩室を出て行った。

「……」

結城が部屋から出た後、桃太はブランケットから顔を出し、自分の下半身に掛けられた物をこっそりと確認する。

 ……ジャケットか。よくも先輩に自分の着ているものを……。

 桃太はそれがいつも結城が着ているライディングジャケットだった事が分かり、もう一度ブランケットを頭から被った。結城は通勤にバイクを使っている。夏なので最近は比較的薄手の黒いジャケットを着ているが、黒いジャケットに黒いパンツ、黒いバイク……と、黒尽くめの結城がバイクから降りてヘルメットを外した瞬間は、さながら地上に舞い降りた死神のようだ。漆黒の髪に血の気のない肌。何度見ても心臓に悪い。

 わざわざこれを俺に掛けるために来たのか?

 粗雑に育てられていない桃太は、これを結城の厚意と受け取りとりあえずそのまま眠る事にした。目を閉じると、先程の冷たい気配が、また背中から這い上がってくるような感覚がする。しかし腹から下は何故だか温かく、桃太は結城のライディングジャケットを掴んだままいつの間にか眠りに落ちた。



「……終わった……」

「お疲れ様でした」

 夜勤明け。すっかり高く昇った太陽の日差しが眩しい、と言うより目に痛い。桃太は、病院の職員通用口から出てすぐに噴き出た汗を拭った。神志那主任は学生指導の話し合いがあると言うので、今この場には桃太と結城しかいない。結城は相変わらず長袖のTシャツを着ているが、汗ひとつかかず桃太の隣に立っている。

「桃太さん、俺の服を返してもらってもいいですか?」

「あ」

 そう言えば、結城のライディングジャケットは桃太が持ったままだった。今日は怖い思いをしたにも拘らず、不思議といつもよりぐっすりと眠ることが出来たのだ。桃太は自分のバックパックからライディングジャケットを掴むと、それを結城の腕に押し付けた。

「ありがとな。お陰で寒くなかったわ」

「それは良かったです」

 結城は桃太から受け取ったジャケットを羽織ると、通用口横の駐輪場に停めたバイクへと向かった。取り出した真っ黒なヘルメットを被り、桃太の方に向き直る。

「桃太さん、乗って行きますか?もう一つメットとジャケットありますけど」

「いや、スーパー寄って帰るし。大丈夫」

 結城のバイクはタンデム(二人乗り)走行が出来るようになっている。桃太はバイクに詳しくないのだが、ホンダのゴールドウィングというバイクらしく、身長が175センチある元ハンドボール部の桃太でさえも、倒れたら起こすことが出来るか自信がないくらい大きい。身長こそ桃太より高いが、パッと見は桃太よりも筋肉量が少なそうな結城が、このバイクを乗りこなしていることが不思議でならない。

「そうですか。じゃ、暑いので気をつけて帰ってくださいね」

「ああ、結城もな。お疲れ」

 結城が常にもう一セット分ヘルメットを載せていることを何となく妬みつつ、桃太は結城と別れ、真夏の太陽が降り注ぐ中帰路に着いた。

 神志那主任の言葉が再び蘇る。結城が不安定に見える瞬間がある、と。桃太にはやはりよく分からない。あの一瞬見せた困惑の表情が、神志那主任が言うところの『不安定さ』なのだろうか。桃太は結城との夜勤を嫌ってはいるが、結城自身のことは決して嫌いではない。桃太を怖がらせて楽しんで、馬鹿にしている節はあるが、それ以外は基本的に善良だと言える。

 歩道からふと車道へ目を遣ると、黒尽くめでバイクに跨る結城が見えた。真夏だと言うのに、自ら太陽光を吸収するなど愚行にも程がある。曲がりなりにも看護師であるにも拘らず、自ら熱中症のリスクを上げてどうするのだ。桃太は一応結城の指導者なので、次回会った時に一言苦言を呈しておこうと思った。





挿絵(By みてみん)

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