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第4章 再生した物語は、メビウスの輪のように(2)

 遠く聞こえていた街の喧騒もすっかり静まり返り、廃工場を支配していたのはひたすらの静寂。そんな静寂の中に遭って、二つの足音が小気味よく木霊していた。

 あまりにも耳に心地よく、それなりの踊り手がタップでも踏んでいるのではないかと勘違いしてしまいそうになる。

 だが――。

 実際にそこで繰り広げられているのは死の舞踏。二人の踊り手のうちどちらかがリズムを取り間違えれば、死神の手が足に絡みつく。

 だというのに何故だろう。そうと知ってもなお、その踊りは美しかった。いや、だからこそ、なのだろうか。

 ともかく、呼吸も忘れさせるような芸術がそこには確かに存在していた。

「……うーん、やっぱり分らないなぁ。キミは一体何者なんだい? モンスターガール」

 頬を寄せ踊る淑女に囁くかのような口調で、踊り手の一人である男が言った。

 そんな男の言葉とは裏腹に、返されるのは殺気の籠ったナイフの一閃。無理もない。男が共に躍っているのは、見た目は淑女に相違ないが、中身は男の言葉通り、ある種モンスターなのだから。

「フゥ、連れないねぇ」

 男は淡々と無言で攻撃を繰り出す少女――ダーシェンカに眉をひそめる。

 ダーシェンカはそんなことはお構いなしに、再びナイフを振るい、間髪開けずに回し蹴りを叩き込んだ。

 それもこれも全てかわされる。だがダーシェンカは先ほどまでとは異なり、なんの不安も抱かない。

 何せ全て“予定通り”なのだから。

 ダーシェンカは頭の中に、来栖から指定された行動を絶えず思い返しながら行動していた。

 まず、実力の半分までしか発揮しないこと。それは、ダーシェンカの本質を相手に悟らせないため。そして第二に、相手を絶えず移動させ、術式を展開させない、ひいては相手の体力を奪う。

 いまダーシェンカが実行しているのはまさにこの段階。だが相手も無能ではない。当然体力に陰りが見えるよりはるかに早く手変わりしてくる。

 ダーシェンカはひたすらそのときを待っていた。感覚からすればそう遠くないとも感じている。

 案の定、ソレは訪れた。

 最小限の動きでダーシェンカの攻撃を捌いていた男が大きく跳び退り、彼我の距離を取る。その行為はあらかじめ、来栖からダーシェンカに告げられていたモノだった。

 だからダーシェンカはすぐには追わず、相手の出方を窺う。来栖が言うには、男はここから攻撃に転じるということだった。

「まったく、このままじゃ埒が明かないね。いや、このままいったらオレの負けって感じなのかな?」

 男はクツクツと笑い、人差し指を突き立てた。

 瞬間、周囲で燻っていた男のエーテルが赤みを増す。その様は火種が爆ぜる瞬間を連想させた。

(……ッ!)

 ダーシェンカは思わず息を呑む。

 男のエーテルがざわついたと思ったその刹那。周囲の状況は一変していた。そう、まさしく一変。優れた霊視を持たぬダーシェンカをしても、次元の歪みがハッキリと見て取れる。

「                 」

 男の口がもぞもぞと動き、何かを唱えていた。声は聞こえない。口の動きから察するに日本語ではないだろう。

 おそらく術式のイメージを補強するための喚起言語。

 それが囁かれている故にダーシェンカに届かないのか、それとも唇の動きだけでイメージを補強しているのか、はたまた第三のナニかかは判断がつかなかったが、ダーシェンカは特にそれを問題にしなかった。

 ――あとはあなたの判断で間違いないわ。

 脳裏に、来栖の言葉が響く。来栖は、算出された未来をダーシェンカに語り、最後にそう告げた。戦闘の展開については説明されたが、自分の行動に関しては何一つ口出しされていない。

 来栖曰く、ダーシェンカの判断に狂いは生じない、とのことだった。

(……なんとも頼りない、いや、頼られているからこそ、か)

 ダーシェンカは来栖の言葉を思い返し、口許を淡くほころばせる。

 が、すぐに表情を引き締め、男の一挙手一等足に注意を払った。

 大丈夫、次の一手は“知って”いる。

「フフフフ……」

 ダーシェンカの耳元で、男の悪趣味な笑い声が響いた。男は前方にいるというのに、だ。

 だがダーシェンカは動じない。黙して、眼前の男を見つめている。なんてことはない。これは既知の一手だったのだから。

 相手が空間を自在に操れるなら、自分の望むところから音を伝えることも容易。空間の至る所にスピーカーを作り出すようなものだ。

 どうしようもなく矮小な術だが、初手としては効果的、といったところだろうか。

「……アレ? コレ効かないの? 大抵の魔術師は眉の一つくらいは動かしてくれるんだけどね」

 男はさして衝撃を受ける様子もなく肩をすくめた。そして続ける。

「まぁ、いいや。あんな猫騙しみたいな手で潰れられたら堪らないからね」

 男はニヤリと笑う。

 男のいやらしい笑みをダーシェンカが捉えた瞬間、男はダーシェンカの視界から消えていた。

 ダーシェンカはすぐさま振り返り、自分の背後に現れた男の姿を捉える。

 男は少し驚いたような表情を浮かべながら、小型の拳銃の引き金に指を掛けていた。

 ダーシェンカはさして表情を変じさせることもなく、体をずらして弾道から身をズラす。

 サプレッサー付きでもないのに“音もなく”撃ち出された弾丸は、ダーシェンカの体を撃ち抜くことはなく、しかし廃倉庫の壁を穿った。

 次いでダーシェンカは小うるさいハエでも払うような動作で、男の拳銃を叩き落した。

 地面に転がった拳銃は、ものの見事にひしゃげている。

 それらの事象が繰り広げられたのは、ものの一秒強のこと。

 本来銃弾などというものはリビングデッドにとってさしたる脅威でもないのだが、正体を見破られることはよろしくない。だからダーシェンカは銃弾をかわした。

 あらかじめ来栖が算出していた男の攻撃パターンに合わせて。

「驚いたね、かわすのかい。今の攻撃を」

 男はもとの立ち位置に帰り、呆然とした表情を浮かべていた。

 男が驚くのもムリはない。今の攻撃は、普通ならば絶対に読むことが出来ないだろう。何せ空間置換による瞬間移動に、同じく音の響く次元をズラしての完全なサイレントキルだ。

 加えて、多くの矜持ある魔術師ならば絶対に用いない、拳銃という攻撃手段。

 これらの組み合わされた攻撃をかわせる魔術師など、まずマトモとは呼べない。ダーシェンカも弾丸では傷を負わないとはいえ、間違いなく回避出来ていなかっただろう。

 来栖の予言がなければ。

「こっちだって驚いたさ。拳銃なんて手段を用いる誇り高い魔術師がいるなんて」

 ダーシェンカは吐き捨てるように皮肉る。

 元々ダーシェンカにしても魔術に誇りを感じている存在ではない。だが、おおよそ全ての魔術師が魔術というものに捧げている信仰なら痛いほど知っている。

 彼らは文字通り、魂を切り売りして自分の存在をより高位へと押し上げようとするのだ。

それは自分にヤスリを掛け、身を削り、鋭く研ぎ澄ましていく彫像といっても過言ではないだろう。

 だから嫌う。科学というものを。文明というものを。大衆というものを。

 全体の進歩を重視するそれらの存在と、個としての進歩を重視する魔術ではそもそも、思想が反発するのだ。

 一から十の文明を拒絶する魔術師などほぼゼロに等しいだろうが、逆に受け入れてる者のほうがゼロに等しいモノだって存在する。

 それが、近代兵器。

 自分はなんの対価も払わずに、相手の命を無遠慮に奪う厚顔無恥なそれらの存在を、魔術師は嫌悪する。魔術師同士で殺しあうことが珍しくないとしても、そこには矜持が存在する。

 騎士道や武士道とも微かに通ずるかも知れない矜持。

 それは、相手の命を奪うのに、エーテルという自分の魂の一部を払うということ。それをして、死者への最低限の弔いとするのだ。

 たとえそこに弔う意志が、一欠片として存在しなかったとしても。

 それを、それさえもダーシェンカの眼前でニヘラニヘラ笑っている男は否定しているのだ。

 正真正銘の外道。魔術師の根源的欲求にのみ従う、魔物。

 そんなヤツと戦うのに、一片の情けも必要あるまい――。

 ダーシェンカがそのような考えを浮かべたそのとき、男の姿が再び視界から消えていた。

(……問題ない。男が“消え”さえすれば全て予定通り)

 ダーシェンカは冷え冷えと思考しながら振り返りざま、来栖の立っている場所に向けてアーミーナイフを投げる。

 放たれたアーミーナイフは弓矢のような風切り音を持って来栖に襲いかかる。否、来栖の眼前に現れた男目掛けて。

「……グッ」

 ナイフを肩口に喰らった男は短く呻き声を上げる。

 男は、先ほどと同じように拳銃のトリガーを引絞っていた。肩口に傷を負いながらも、淀みない動作で銃弾を放つ。銃弾の向かう先は来栖。

 それも結局無駄なこと。

 来栖は表情一つ変えずに、男が現れた瞬間には立ち位置をズラしていた。いや、それよりもわずかに早く、男が消えた瞬間には立ち位置を変えていた。

 男が放った弾丸も、ダーシェンカが放ったナイフも当たりはしない位置へ。

 予期せず弾丸をかわされ、あまつさえ傷を負った男は、それでも怯みはしなかった。手を伸ばせば届く距離に立つ来栖に、もう一度銃口を向ける。

 来栖が動かないことを確認し、男は口許を歪めながらトリガーに掛けた指に力をこめた。

相も変わらず来栖に動く気配はない。

 動いたのは、男のほうだった。

 あばら骨のひしゃげる鈍い音が男の頭を突き抜け、体は吹き飛び、廃工場の壁に叩きつけられる。衝撃で工場の壁に立てかけられていたトタン板が倒れ、けたたましい音をあげた。

 殴り飛ばされたのだ。ナイフを放った次の瞬間には男に迫っていたダーシェンカに。

 来栖の横に仁王立つダーシェンカの手にはご丁寧にも、男を殴り飛ばす瞬間に引き抜いたアーミーナイフが握られていた。

 もちろん、ナイフからは男の赤黒い血が滴っている。

「……ったく、全くなんなんだ、テメェらは」

 男は壁から重そうに体を引き剥がし、呻く。その口元には、一筋の血が伝っていた。

「奇襲はまるで効かない、ただの打撃が魔術で威力を弱めても骨を持っていく……まったく、規格外の存在だな、お前ら」

 男は手を額に押しあてながらぐぐもったった笑いをこぼす。

「あなたの攻撃が単調すぎるんです。イノシシのような向こう見ずな攻撃、勢い任せすぎて状況変化に咄嗟の反応が出来ない。もっとも、普通ならあなたの攻撃は不可避な域ですがね」

 来栖は平素の柔和な表情を消し去り、厳然とした口調で言う。このような口調で話すことが状況にふさわしいからそうしているのか、それとも怒りに震えてこのようになっているのかは、来栖本人以外には推し量ることはできなかった。

「あぁ、普通なら避けられないはずだ、オレの知る限り。たとえその瞳の未来演算を用いても、オレの迷彩の解明・転移位置の予測を弾き出すのには時間が少し足りないはずなんだよな」

 男は顎を伝う血をうるさそうに拭い、口許を挑発的に歪める。

「さすが、兄さんの能力を行使していただけあって理解がありますね。でもそんなこと考えてどうするんです? 無意味です。確かにあなたの能力には爆発力がある。でも先読みしてしまえば対処も容易い。つまり、あなたは私たちには勝てません」

「フフフフフ、確かにその通りだ。これを破られちまうとどうしようもないよな、オレは。ま、オレ“だけ”ならってハナシなんだがね」

 男の声が一段低くなり、ドスの効いたものとなる。

 同時に、にわかには信じられない現象が起こった。

 周囲の色が変わったのだ。夜が明けた、というワケではない。鉄錆色だったはずの男のエーテルが藍色となり、周囲を奇妙な灯りで照らしていく。

 エーテルの色の変容自体はそう珍しいものではない。基本的にエーテルは術者特有の色を持つが、術式特性によってはわずかに色を変えたりする。

 だが、それは精々明るくなったり暗くなったり、濃くなったり薄くなったりとその程度のモノ。

 だというのにこの男は、まったく別色のエーテルを発現させているではないか。

「なんだ、これは……」

 来栖から聞かされていない展開に、ダーシェンカは目を見開いた。

 予定では、あのあと男がもう一度空間転位術式を使った所を仕留めるはずだった。それで、全てが終わるはずだった。

 予定とは違う、普通ならば、普通ならば容易に起こり得るそのことに、ダーシェンカはいつになく動揺を覚えていた。

 なんとなく、隣に佇む来栖に目をやってしまう。

 来栖は、さして表情を変えるでもなく、険しい視線を男に向けていた。

「そういう、ことですか……!」

 何かを“視た”来栖が、絞り出すような声を出す。

「そ。そういうことさ」

 男は軽薄な笑みで来栖とダーシェンカと交互に睥睨した。

「忘れたワケじゃないだろ? オレは他人の能力を自分に取りこむことが出来る。それはつまり、来栖久弥のような人間が他にも居る、ってことさ。この意味、分るよな?」

 男は言い、諸手を広げる。それはまさに、大衆に己が力を誇示する権力者のような立居振舞。

 その動作、その言葉にダーシェンカと来栖は息を呑む。背中を、冷たい汗が伝っていく。

「いや、まだこれだけじゃ本当の意味で分ったとは言えないか……」

 男は不意にあごをさすり、ニヤリと笑う。

 次の瞬間、ダーシェンカと来栖は再び息を呑むことになる。

 エーテルの色がまた変わっている。それも何に変わったというワケではない。明滅するように、目まぐるしくその色を変えていっているのだ。

「イルミネーションみたいで綺麗だろ? 女の子はこういうの好きだよな。ま、これを能天気に綺麗と言えるほどお嬢ちゃんたちは馬鹿じゃないだろうが」

 男は小さく笑い肩をすくめる。

 エーテルの色は術者の個性。それがこれだけ目まぐるしく変化するということは、一体いかほどの魔術師を自分のために利用しているのか。いったいいかほどの能力をその身に有しているというのか。

 それを瞬時に切り替えられては来栖の処理が追いつかない。よしんば追いついたとしても、ダーシェンカに伝える余裕はまずないだろう。

 つまり、二人が男を撃破するには、個人の力のみで男に打ち勝たなければならない。そのためには来栖には攻撃力が足りない、ダーシェンカには能力に対する対応力が足りない。

 結果的に、一気に劣勢に立たされたことになる。

 それでも、二人の目から闘志が消えることはなかった。ダーシェンカは険しい面持ちでナイフを構えなおし、来栖は――

「……使える能力はおよそ三種類。他はブラフ。能力の種類は? ダメ、エーテルの色からだけじゃ割り出せない。せめて一挙動あれば……」

 男を見据えながら、ブツブツと口に出しながら男の能力について解析している。

 その様を横目に、ダーシェンカは思案する。

 もとより魔術戦など、決闘でもない限り出たとこ勝負なのだ。ならば自分の全てをぶつければいい。

 今ばかりは、自分が踏ん張らなければなるまい。

 ダーシェンカはそのように考え、口を開いた。

「さすがに全力を出すべきだよな、今は」

「……えぇ、お願い」

「了解した」

 そう呟いたダーシェンカの口は、我知らず微笑みを浮かべていた。

 余裕の笑みなどではもちろんあるまい。どちらかと言えば武者震いなどとニュアンスの似た笑み。

 強者と戦えることを喜ぶのではなく、来栖の支えとなれることにダーシェンカは笑みを漏らしたのかも知れない。これまでは、来栖の能力に頼っていた。いや、今も頼っている。

 だが、今は来栖を守る立場にある。それは、リビングデッドとしてもっとも正しい在り方。守るのがネクロマンサーではないにせよ、守るという在り方がダーシェンカには心地よかった。

(最初は攻めるほうが心地よかったハズなのにな……)

 自分の在り方を変容せしめた少年を思い、ダーシェンカは決意を新たにする。

 眼光鋭く男を見据える。容赦も、油断も必要ない。必要なのは冷徹なまでの、反射に等しい判断の連続。

 相手がどのようなカードを切ってくるのかは分らない。だが、自分はそもそもそのような輩と相対するために存在しているのではないか。

 なにも、なにも恐れることはない。

 ダーシェンカはナイフを握る手に力を込め、相手が動くのを待った。

 迂闊に飛び込むよりは、後手に回るがここは上策。そうすれば少なくとも、相手の手札が一つ暴ける。

「さて、そろそろ行こうか。この能力はエーテルを切り替えるだけでオレのエーテルを喰うからね。燃費悪いんだ、戦車並に」

 男は浮かんでいた薄ら笑いを消し去り、能面染みた表情を浮かべた。

 瞬間、周囲で明滅していたエーテルが最初の藍色のモノに切り替わる。

「説明しようがしまいがその瞳の前には関係ないんだろうが、ただ能力を暴かれるのも癪だから教えてやるよ。これは中国の山奥で狩った密僧の能力。人智を越えた力を得る術式」

 言い、周囲に散らばっていたエーテルが男の体に吸収される。

 周囲からエーテルが消え、その変化は訪れた。

 線の細い男のからだが、ミシミシと音を立て膨れ上がる。黒皮のコートが盛り上がり、月明かりが隆起した筋肉を映し出した。体の大きさ、というよりは質量が倍増したような様相だった。

 その術式は本来、男に扱えるような代物ではない。深い信仰と、血のにじむような修験を経て体得しうる、魔術というよりは一種の悟りなのだ。

 男はそれを密僧から奪った。信仰を単純な思考回路に置き換え、修験すらも単なる肉体的経験に置き換え、自分の体にトレースして。

 おそらくかつての久弥と同じように、生きも死にもしない人間が世界に点在しているのだろう。この男に能力を搾取されるためだけに。

「心配ないわ。あれはあなたから受けた傷をカバーし、またあなたの身体能力に対応するための術式」

 来栖は淡々と語る。だがその瞳はそれだけでなく、男が他人の術式をトレースした所から、なんらかの癖を見出そうとしていた。

 過去の情報と照合、予測、誤差、補正、算出、そのプロセスを幾度となく脳内で繰り返す。だが、未だにダーシェンカに伝える価値のある結果は見いだせなかった。

 分ったのは、いま目の前にいる男がダーシェンカと同等のスペックを持った肉体であるということのみ。

「そっちこそ心配するな。私も少しはお前の役に立って見せる」

 ダーシェンカは男を見据えながらいい、鼻で笑った。

 状況には合わない、さらにはダーシェンカらしからぬ、何かを得意げに自慢する少年のような笑みだった。

 いや、これも来栖が知らないダーシェンカの一側面なのだろう。

 来栖はダーシェンカの態度に淡い笑みを漏らし「なら、任せるわ」と返した。もちろん任せっきりにするつもりはサラサラない。

 ただここは、こう返すのが一番だと異能が、否、心が告げたのだ。

「フン、任せておけ」

 ダーシェンカは言い、猛然と迫って来た男の懐に飛び込んでいく。

 この上なく勇猛な様にも関わらず、来栖がそれに重ねたのは飼い主のために敵に向かっていく子犬の姿だった。それはきっと、平素ダーシェンカがイズミに向けている淡い少女の表情が見せた幻想なのだろう。

 その幻想は、肉と肉がぶつかり合う音で掻き消される。

 男の鋭い掌底を、ダーシェンカが腕をクロスさせ防いでいた。男は構わず二撃三撃と繰り出し、ダーシェンカはそれを巧みに受け流し、衝撃を殺していく。

 だが、まだ足りない。防ぐだけでは。攻めなければ。

 ダーシェンカは男の掌底を受け流した勢いを利用し、男の鳩尾に回し蹴りを叩きこむ。

 常人の肉体ならば、砕け散るほどの威力。だというのに男は苦悶の息一つ漏らさず、間髪開けずにダーシェンカの顔面に掌底を叩きこむ。

「クッ!」

 ダーシェンカの顔が僅かにのけぞったのを男が見逃すはずもなく、容赦のない回し蹴りがダーシェンカのわき腹に突き刺さる。

 弾き飛ばされたダーシェンカはたたらを踏みながらもなんとか体勢を立て直した。

「いやぁ、やっぱり恐ろしいな、モンスターガール。この術式の攻撃を受けたやつは大抵一発でお陀仏なんだけどな。ホントに何者だ? 見かけによらずあの密僧と同じで敬虔なブッディストなのかい?」

 男はくるくると肩を回しながら、ゆっくりとダーシェンカに歩を進める。

 すぐに来栖をどうこうしようとしていないのは有難かったが、これだけ派手な挙動を取っても来栖が満足な情報を拾えないというのは、やはり芳しくない。

「お前みたいに無駄口を叩くのは私の性に、合わないっ!」

 ダーシェンカは男から受けたダメージを確認し、地面を蹴った。

 男の懐に瞬時に潜り込み、先ほど圧し折ったあばらにもう一度打撃を叩きこむ。しかし、

感覚として伝わって来たのは、骨の上を覆う筋肉よりもさらに重厚なナニかだった。

(これでは満足にダメージを与えられない……!)

 ダーシェンカは小さく舌打ちし、横に飛び退る。懐に居さえすれば強力な打撃を喰らうことはないが、代わりに抱きかかえられて殺される危険性があった。

 だから基本的にはヒットアンドアウェイを繰り返す他ない。

「まったく、連れないねぇ……」

 男が軽薄な笑みを浮かべる。

 ダーシェンカが次の瞬間目にしたのは、再び周囲に展開する赤褐色のエーテルと、盛り上がった筋肉がなくなり、萎んだ――ように感じられる――男の肉体だった。

 男の防御が甘くなったこの瞬間をダーシェンカが見逃すはずもなく、勢いよく男に飛びかかる。

 が、それを制したのはやはり来栖の声だった。

「いけないっ!」

 来栖の悲痛染みた叫びにダーシェンカは若干前のめりになりながら足を止め、問うような視線を向けた。

「フフ、さすがに来栖のお御嬢さんは察しがいい」

 男はダーシェンカが飛び込んでこなかったことを気にする様子もなく、クツクツと喉を鳴らした。

「……でも、同じことだよ」

 言うと同時に、赤褐色だけだったエーテルが、その色数を増していく。二色、四色、八色、かろうじて目で追えたのはそこまでで、そこから先は玉虫色としてしか捉えられない様相をなしていた。

 さきほどまでの一色ずつ切り替えていくのはとどのつまり囮。本来は同時に能力を展開できることを隠すための。

 ではなぜ、なぜ来栖の瞳はそれを見抜けなかったのか。今の問題は男の能力のスペックよりも、むしろそちらだった。

「これがオレの全力。見る者は滅多にいない。三流は一発目のサイレントキルでアウト、二流は二発目のブッディストパワーでアウト、そして一流でもこの、数多色持つ弾奏(マルチカラーバレッド)の前ではなす術もない。いや、一流は少しくらい抗ってたかな? さて、お嬢ちゃんたちは……どうかなっ!」

 男は咆哮にも似た叫びを上げた。

 それは、来栖の瞳が問題の答えを算出したのと同時だった。

 だがそんな答えは――

 男が放った力の奔流の前では、為す術もなかった。


 * * *


 嫌な予感がする。

 イズミはケータイのディスプレイに表示されたダーシェンカの現在地を示した記号を見つめながら、足早に歩を進めていた。

 足が地面につくたびに鈍痛がイズミを苛んだが、耐えられないほどではなく、脂汗を浮かべながらひたすらに目的地を目指す。

 すっかり人も消え失せた街はどこか不気味で、それもイズミの不安を煽るには十分な情景だった。もっとも、今のイズミにそんな感慨に浸る余裕はなく、ひたすらエーテルを展開させ、周囲に気を配り続けている。

 さすがに目的地までまだ距離があるせいか、魔術的な気配は皆無だったが、代わりに非行少年を補導せんとする警察官には二度ほど出くわしそうになり、物陰に隠れてやり過ごす羽目にはなった。

(急がなきゃ……!)

 イズミの中にあるのは根拠のない不安。もとより、想定された事態からズレているわけではない。戦闘が始まれば連絡が途絶えることなどあらかじめ分っていた。

 だというのに、妙に引っかかる。久弥の態度はもとより、相手の出方も奇妙ではないか。魔術師ならばそれなりの探査魔術を使用してくるはずなのに、初手が行儀よく玄関からお宅訪問。そのあとダーシェンカ達は難なくファミレスに隠れ潜み、次の一手を案じていた。

ここまでがイズミの知る範囲。

 そこからが問題だ。ケータイに示されたダーシェンカの移動経路及び移動時間からして、ファミレスもしくはその近辺で異常事態が発生している。でなければファミレスから現在地への移動時間の異常な短さが説明できない。

 もっとも、そのウラならば先ほど件のファミレスを訪れた際にとっている。

 店員曰く、店の外で外国人のやけに綺麗な女の子が、同じく外国人の男を殴り飛ばすいざこざがあり、その場から女の子二人が走り去った、とのことだ。

 十中八九その女の子二人はダーシェンカと来栖とみて間違いないだろう。時間帯的にも符合している。ならばその次は?

 おそらく魔術師と出くわした二人はそこから逃げたのだろう。いや、逃げたというのは正しくないかもしれない。迎え撃つために現在地へ誘い込んだ、というのが正しいのだろう。何せ今ダーシェンか達が居るであろう場所は人気のない廃工場なのだから。

 ならば今、そこで戦いが繰り広げられているはず。終わっていれば連絡が入っているはずで、最悪の形で終結していれば――

 いや、それはいま考慮に入れる必要はない。

 考えるべきは、今なおそこで戦闘が続けられている可能性と“なぜそこで”続いているのかということ。

 元々の作戦ならば、逃げながら情報を拾い、迎え撃つ準備が確実に整ったら腰を据える予定だったハズだ。それが、一カ所で長期戦が繰り広げられているとするならば、考えられることは大別して二つ。

 長期戦でしか勝ちえないか、逃走できない状況で、やむなく長期戦に持ち込んでいるか。無論、最悪の三通り目は考えない。少なくとも今は考慮に入れる価値すらない。否、これからも考慮に入れる価値はない。

 イズミに出来ることはただ、二人の無事を祈り、一刻も早く二人のもとへとたどり着くことだった。距離はもうそう遠くない。

 そんなことを考えてるうちに、廃工場の陰鬱なシルエットがイズミの瞳に映り込んできた。

 廃工場に近づくにつれ徐々に範囲を狭めていたエーテルの索敵範囲をさらに狭め、相手に気付かれぬように廃工場に足を踏み入れる。

 エーテルによる索敵に頼れない今、イズミは耳と目を凝らす。周囲の些細な変化すら逃すまいと感覚を研ぎ澄ます。時折、腹部の鈍痛がノイズのように感覚を乱しはしたが、慣れてしまえばそんなノイズなど気にならなくなった。

 それにしても、おかしい。

 イズミはゆっくりと歩を進めながら思う。ケータイが示す現在地は間違いなくここ。だというのに、周囲からは物音一つ聞こえてこない。

(ケータイをここに落した……?)

 イズミは考えられる選択肢のうち最も可能性の高いものを思い浮かべる。

 しかし所詮はケータイにおまけ程度についたGPS機能。大まかな現在地は表示できても、細かな位置は表示できない。もう少し高性能だったならば、拡大されたより正確な位置を示し、イズミの杞憂を迅速に払拭してくれるのだろうが……。

 いや、その必要はもはやなかった。廃工場の角から潜むように覗きこんだそこには、イズミのよく知る少女達の姿があったのだから。

 黒いコートに身を包んだ男が、ダーシェンカと来栖と相対している。イズミの見間違いでなければ、ダーシェンカ達が居る空間が奇妙に歪み、また男の周辺には複数色のエーテルがかなりの高濃度で展開されている。

 客観的に状況を断じるなら、明らかにダーシェンカ達の不利だった。男の得体の知れない攻撃を、ダーシェンカがなんとか防いでいる、というような状態。肉と肉がぶつかり合う打撃戦だというのに、やはり物音一つイズミの耳には届いてこない。

 やはり得体が知れない。奇妙というほかに言葉が浮かばない。あのダーシェンカをして男の攻撃一辺倒の打撃戦が繰り広げられ、かつ頼りの来栖は苦痛に顔を歪めながらも必死に情報を拾おうとしている様子だった。

 明らかに、加勢したほうがいい気色。

 だがイズミはすんでの所で踏みとどまる。

 まだだ、まだ尚早。いや、あるいは手遅れなのかもしれない。それでもまだはやる足を進めるわけにはいかなかった。状況を満足に把握せずに飛び込むなど愚の骨頂。下手を打てば加勢しないより酷くなる可能性だってある。

 視ろ。まずは目の前の状況をじっくりと。残酷なまでに。

 イズミはエーテルの可視領域を限界まで引き上げ、目を凝らす。瞬間、頭に電流が奔ったような衝撃がイズミを襲った。あまりの衝撃にイズミはのけぞり、エーテルを視るどころか視界が数瞬ブラックアウトする。

(な、んだ、これ……)

 イズミはかろうじて意識を繋ぎ止め、こめかみに手を押しあてた。先ほどの衝撃が嘘のように、今はなんの痛みもなかった。イズミは気を取り直し、もう一度可視領域を引き上げる。今度は一気に限界までではなく、徐々に、ラジオのチャンネルをチューニングするような慎重さで。

 それでもすぐに異変に気づくことになる。可視領域を少し上げただけだというのに、頭にジジッ、ジジッ、と電撃殺虫器に虫が飛び込んだときのようなノイズが頭に響き渡る。

 それでもあと少し、と可視領域を引き上げてみれば、今度は砂嵐の中に飛び込んだかのようなノイズが頭の中に響き渡った。とてもじゃないが、正気を保てるレベルではない。

 イズミは堪らず可視領域を引き下げる。が、収穫はあった。男の発動している術式の尻尾は掴んだ。

 やることは頭の中で決まった。むしろ、それは自分にしか出来ないこと。出来る出来ない以前に、自分以外はまずやる者が居ないだろう。

 ネクロマンサーである、自分以外には。

 イズミは小さく息を吐き、体に力を込めた。腹がジュクと痛んだが、関係ない。今はそんなことよりも、気にしなければならないことがある。

 イズミは額に浮かび出した汗を拭い、男の攻撃を防いでいるダーシェンカを暫時見つめた。

 ――ダーシェンカ。

 愛おしげに、大切そうに、イズミは少女の名を呟いた。

 大丈夫。彼女なら信じられる。自分がやることに、瞬時に反応してくれる。

 だから……!

 イズミは身の回りに燻らせていたエーテルを一気に拡散させた。否、エーテルの密度を増し“拡大”させたのだ。

 当然その状況変化に男が反応しない訳もなく、男はイズミの気配を狂犬染みた感覚で嗅ぎつけ、思考するよりも早くイズミに飛びかかってくる。

 エーテルの可視領域を下げたイズミにとっては、目視することすら敵わぬ速度。

 だが、いや、やはり、男の拳がイズミに届くその寸前に、イズミと男の間にダーシェンカが割って入っていた。

「イズミ……!」

 ダーシェンカは男の拳を両腕で受けきり、若干の驚きを含んだ視線をイズミに向けた。

「や、やぁ」

 イズミは場違いにも気弱な笑みを浮かべ、片手を上げる。同時に、周囲に拡大させたエーテルを引っ込める。なりを潜めていたときよりもさらにエーテルを弱々しい有様に切り替える。

 いまは、いまはまだこれだけでいい。予感が確信に変わったときに行動を起こせば、それでいい。

「ん? なんだ、お前」

 ダーシェンカに攻撃を防がれた男は飛び退り、怪訝極まりない表情をイズミに向ける。

「とんでもないエーテル量からしてオレの封印術式を解いたヤツかと思ったが……違うな、雰囲気がヤワすぎる」

 男はイズミを舐めまわすように見つめ、顎をさする。

「あぁ、やっぱりあなたが久弥さんを封じた人だったんですね」

 イズミは呑気な口調で言い、ダーシェンカ同様驚いた表情を浮かべている来栖のもとに歩み寄る。

 男はそれを妨げるでもなく、興が冷めたような視線をイズミに向けるだけだった。

「先輩、助けに来ました。もう安心です。でも、あと少しだけ頑張ってください」

 イズミは苦しそうに喘ぐ来栖に微笑を向ける。

 おそらく来栖はずっと立ち続けていたのだろう。あの気が狂いかねない砂嵐の中に。無数に飛び交うエーテルの、思考の渦の中に。

 なまじ目が――脳が――いいばかりに人が拾えない情報すら脳内に細々と取りこんでしまう。処理しようと試みてしまう。人が面としてしか捉えられないソレを、点で捉えてしまう。

 だから思考がオーバーロードを起こす。いや、あの情報量から察するにメルトダウンすら起こしかねなかっただろう。つまり、いつ廃人になってもおかしくない状態。

 それでも来栖は情報を処理し続けた。いつでもシャットダウンできるというのに、愚直に処理し続けた。

 それもすべて自分の望む未来のため、犯してしまった罪のために。

 イズミは来栖にされたことなど、もはや気にしてはいなかったが、本来罪とは周囲が与えるものではなく、自分から生み出されるものなのだろう。罰とは異なり。

 イズミは来栖のそんな清廉さを思いながら言葉を紡ぐ。

「少し異能を閉じてください。僕が状況をゼロに戻しますから」

 そっと、来栖の両肩に手を添えた。

「で、でも……」

「大丈夫、僕を、いいえ、ダーシェンカを信じてください」

 不安げな視線を寄せる来栖に、イズミは優しく告げる。

 正気を保つことすらやっとの砂嵐の中でさえ、来栖はダーシェンカをサポートしていたのだろう。

 先ほどイズミがエーテルを拡大したとき、微かに聞こえたのだ。来栖が絞り出すように「四時、十六歩、防御」と言っていたのが。そのときはなんのことか分らなかったが、あれはおそらくダーシェンカにイズミを守るように告げた指示。ほかにも、必要があればダーシェンカに指示を出していたのだろう。

 男が撒き散らしている情報量の衝撃を知っているだけに、イズミは来栖に脱帽せざるを得ない。

 だからこそ、もう一度強く言った。

「大丈夫です」

 イズミの言葉に来栖はおずおずと頷き、ゆっくりと目を閉じる。

 しばしののち、来栖はもう一度目を開ける。今度こそ異能を解いたようだった。来栖の表情に浮かんでいた険がいくらか和らいでいる。

 イズミは少しではあるが安堵し、小さく息を吐く。

 どうせすぐに能力を発動させてもらう羽目になるのだろうが、少なくとも今は休んでもらおう。自分がこれからすることが来栖の異能にどう映るのかは分らないが、疲弊した来栖にはいささか辛い景色になるかも知れないのだから。

 イズミは、こちらの様子を邪魔するでもなく傍観している男に炯眼を向けた。

 おそらく、男の中ではもう勝ちは揺らいでいないのだろう。どんな者が出てこようが勝ちうる布陣を敷いた。だからイズミというイレギュラーが出てきても、特に何かを仕掛けようとはしないのだ。

 それだけの、圧倒的技量。力に裏打ちされた比類なき自信。

 そして自信から生じる――傲慢。

 そこを、突く。

「もう気付いているでしょうけど、あの男の展開させている術式はジャミング。多数のエーテルを混在させてまともに情報を拾わせてくれない。そして、その隠れ蓑を利用した複数種術式の超高速展開。私でもまともに攻撃予測できなかったわ。攻撃を受けるのがダーシェンカでなかったらとっくに死んでいる」

 来栖は目頭を揉みながら、イズミに現状を伝えた。来栖はそのほかにもこれまでの展開をかいつまんで的確に説明する。

 なるほど、おおよその状況は分った。思ったよりも状況は悪くない。何せ相手はダーシェンカにまともにダメージを与えられていないらしい。

 たしかにそれは来栖の援護に寄るところも大きいのだろうが、リビングデッドの並はずれた防御力が功を奏しているのがより大きいだろう。

 ならば、勝機は十二分にある。あると信じなければ先には進めない。

「分りました。僕もやれるだけやってみます。ここからは少し僕“達”の戦いを見ていてください」

 イズミは言い、視線を男からダーシェンカに移す。

「ダーシェンカ、行こう。僕たちの戦い方で」

 イズミは言い、深く息を吐きだす。

 ダーシェンカは黙って頷き、イズミの前に控えた。

 命を掛けた戦いは初めてではない。だが、たった一度しか経験していないのもまた事実。魔術師の戦いにルールはない。制限時間もない。反則行為も基本的には事後審判。

 だからこそ、持つべきは生への欲求。自分の判断に対する客観的自信。共に戦う者への信頼。

 そして何より、迷わぬこと。

 イズミがヴェルナールとの戦いで学んだことは、そこに集約されていた。迷うのは戦う前と後だけでいい。少なくとも戦いの最中に迷うなど、もっとも犯してはならぬ愚。

 だからイズミは男と戦うその前に、迷わぬ覚悟を、決めた。

「……いくよ」

 イズミは静かに告げる。何をする、などということを告げる必要はない。いや、告げてはいる。僕たちの戦い方、という言葉で。

 もとよりイズミとダーシェンカには、いざというときには言葉など必要なかった。

 想像するは道。道というには余りに細く、か弱いエーテルの道。しかしそれは確かにある。

 イズミとダーシェンカの間に、繋がりとして、絆として。

 イズミとダーシェンカは瞬時にそれを知覚し、互いをより強く結ぶ。五感、さらには思考さえも共有する。

 次の瞬間、二人の前に拓けた世界は先ほどよりもさらに広かった。それはそうだろう。一人ではなく、二人で見る世界なのだから。

 最初に動いたのはダーシェンカだった。地面を蹴り、男に飛びかかる。同時にイズミとダーシェンカの視界は主観と客観を得る。

 もとより来栖のような能力者を味方に戦える機会のほうが希有なのだ。ならばいないならいないで、そこは視界の広さで補うしかない。

「おや、相談事は終わったのかい?」

 男はダーシェンカの繰り出した拳を軽いバックステップでかわしながら笑う。

 そんな戯言にダーシェンカが付き合うはずもなく、さしたる反応も示さず、無機質に攻撃を繰り出し続けた。

 ダーシェンカと男の攻防を眺めながら、イズミは次の一手を思案する。男の形成しているジャミングはさしたる問題ではない。解決のメドは立っている。

 問題はいつその解決策を打ち出すか、だ。ジャミングを解かないことには来栖の異能が満足に機能しないとなれば、最適なタイミングはイズミが割り出すほかない。ほかないのだが、いかんせん情報が足りない。

 これまでの流れや、相手が繰り出した攻撃、現状を見る限り、男は状況を読む能力においてはそれほど秀でていないようだ。

 来栖の異能についてはともかく、イズミやダーシェンカが何者か掴めていない時点でそれは明らか。いや、掴もうとすらしていないと見るのが正しいのかもしれない。

 何者であろうが、負ける気がないという男の傲慢。事実それは正しいのだろう。並の魔術師なら太刀打ち出来ぬ技量を男は有している。

 だが結局は規格内。力任せに押し切れば、イズミならば容易に勝ち切れる相手。何せ馬力の規格どころか、次元が違う。

 有限と無限、その差は圧倒的。

 だが同時に、その圧倒的な差は技量という場では裏返る。魔術師としての技量は、相手のほうが格段に上。いま一番の問題はそこだった。

 永久機関の解放というジョーカーに、男がなすすべなく敗れてくれるならそれでいい。だが、もしそのときに封殺の手を講じられてしまったら?

 いま大事なのは勝ち急ぐことよりも、男の引き出しを開けきることだった。

 乱暴に、強奪者のような容赦のない手段で。

 そっと、イズミはジーンズのポケットに手を伸ばす。指先に、人肌で微かに暖められた硬いモノが触れる。

(……モノは試し、か)

 イズミはポケットの中から三つのビーダマ大の球体を取りだした。月明かりを映して冷やりと光るソレは、その道のプロによって磨きあげられ、鍛えあげられた水晶玉だった。

 それは、イズミが扱える数少ない魔術らしい魔術の媒体。

 夏の騒動ののちに“本当の”誕生日プレゼントとして両親から渡されたその水晶玉は、一般人が見ればそこらのガラス玉と見分けがつかないが、見る者が見ればすぐにかなりの逸品と気付く代物だった。

 事実、エーテルの伝導率はヴェルナールが使っていた水晶の五倍近いし、強度においても魔術による強化で、本来水晶としてはあり得ないダイヤモンドレベルと来ている。もっともその類まれな強度を説明するために幸也が使ったのは「ゾウが踏んでも壊れない」というありきたりな文句だったが。

 さらに付け加えるなら、この水晶玉は三つでウン百万という、一介の高校生には何ともお手軽親切な値段設定だった。

 ともかく、イズミはその水晶にエーテルを込める。この術式――術式というにはやや脆弱なのだが――でもっとも警戒すべきは敵によるエーテルの上書きなのだが、ことこの水晶に関してはその心配はない。

 何せ、膨大なエーテルを込めなければ力のベクトルを与えることすら困難な特別製、まさに永久機関を持つネクロマンサー専用の魔術媒体なのだから。

 イズミは水晶に描くべき軌道をプログラミングする。描くべき軌道は、ただの円。ひたすらに男とダーシェンカの周りをグルグルと周回する。惑星のように。

 もとよりイズミは男に攻撃を仕掛けるつもりなど、毛ほどもなかった。仕掛けようにも霊視を駆使できない今のイズミには男の動きなどまるで捉えられない。ダーシェンカと男の戦いなど、ボクシングの乱打戦を倍速にして見せられているようなもの。

 そんな状況で攻撃を仕掛ければ、良くて男に当たり、悪ければダーシェンカに当たるだろう。一番高い可能性はどちらにも当たらない、なのだろうが。

 だからイズミはさして気負うことなく水晶玉を放り投げる。宙に舞い上がった水晶玉はすぐさまプログラム通りに、ダーシェンカと男の周りで回転し始める。

「んあ? なんだ、コレ」

 男は自分の周りに現れた物体に、怪訝な視線を向ける。実際男にとっては小うるさいハエが飛び回っているのと同じような感覚なのだろう。

 案の定、さしたる警戒心も見せることはない。高慢に限りなく等しい余裕、その根幹をなすものこそがイズミのもっとも欲しい情報だった。

「さぁ、なんでしょう……?」

 イズミは軽く肩をすくめ笑う。

 魔術とは、エーテル・媒体・術者のイメージによって成り立っている。とくに最後のイメージは重要で、高度な術式を扱おうとすればするほどイメージの精度は高いものが要求される。だからその簡略化のために魔術師は思考の外でイメージ補強を行う。呪文と解される言語や、魔法陣と解される図を用いて。

 イズミが仕掛けたのはまさにソレ。一見無意味に回る水晶玉も、イメージの補強のために行われているとすれば? 円という魔法陣・回転数・三という水晶玉の個数、その全てに意味があるとすれば? 無論、そんな魔術はイズミに扱えるわけもなく、全てブラフなのだが。

 男はそこにどう出てくるのか。それが何よりも重要だった。

 答えは単純な、至極単純な行動だった。

「ッ! うるせぇな!」

 男は舌打ちをしながら次元置換を発動し、無動作で拳銃を手に握る。握ると同時に高速回転する水晶玉にものの見事に着弾させた。ほぼ一挙動で。男の射撃の腕前が人間離れしている証明であった。

 無論それで砕けるヤワな水晶であるはずがなく、水晶は男を嘲笑うかのように回転を続けた。

 男は再び舌打ちをし、飛び退って輪の中から抜け出んと試みる。が、結局はイズミがベクトルを巧妙に上書きし、水晶は男にまとわり続けた。

 ダーシェンカは男を追わない。距離をとり、あたかも今から何かが発動するとでも思わせるように、イズミの横に舞い戻る。

 余裕に満ちていた男の表情が徐々に怒りと焦りを帯びたものになり、それは咆哮として発散された。

 獣のような男の咆哮が、辺りに響き渡る。いや、廃工場の外には響いてはいないだろう。男は周囲に音が漏れないように次元をズラしているのだから。

(情報は……拾えるだけ、拾った)

 イズミは男の咆哮に怯むことなく、淡々と思考を積み上げ、その思考はやがて頂上に達した。

 次元をズラしたり、人を封じたりするという繊細な術式が、男のイメージを覆い隠していた。

 あたかも巧妙にいくつもの罠を重ね、こちらを絡め捕るような性格、いや、戦術だと考えていた。だが蓋を開けてみればどうだ。

 入りは繊細だが、中身はパワープレイと呼ぶことすら憚られるラフプレイの連続。普通の魔術師なら対応できない術式を防がれてしまえば何もない。せいぜい虎の子のジャミングがある程度。

 薄い。なんと薄いことか。粗野で傲慢。それがこの男の全て。

 それが本当に男の全てならば、という前置きはつくものの、イズミには男がこれから取るであろう行動が見えていた。異能などなくとも。そしてそれが引鉄。状況はゼロに戻り、戦いはおそらく最終局面を迎える。

 男はまだ何か隠しているかもしれないし、もう何もないかもしれない。どちらにせよ、その何かを探す手段は今のイズミ達にはなかった。次に進む、それ以外に選択肢はない。

「死ねよっ! クソガキ!」

 案の定、男はイズミが思い描いた通りの行動を取って来た。

 媒体が潰せないなら術者を。至極単純な動機をもとに一直線にイズミのもとへ向かってくる。拳銃を乱射しながら。

 同時にイズミは永久機関を完全に解放する。


 想像するは巨大な門。イズミはその門の前に立つ。煉獄を思わせる神々しくも禍々しい彫刻の施されたその門に、そっと触れる。

 門はその巨大さを感じさせないほど静かに、迅速に開かれる。

 門戸から現れるのは無数の亡者、ではなく純粋なチカラ。およそ人間には扱うことのできない、巨大な奔流。

 イズミはそれを制することもなく、無遠慮にぶつけた。ぶつけるべき存在に、そうすべくして。


 イズミが数瞬イメージに気を取られていたのちに、状況のほとんどは終了していた。

 放たれた弾丸をダーシェンカがその身で防ぎ、男の突進も難なく食い止める。そして、場を覆っていたエーテルのジャミングも、すっかり消え失せていた。おまけに、次元の歪みすらも。

 全て、イズミの放ったエーテルが洗い流していた。

 華奢なイズミの体に似合わぬ豪快な手段、イズミの最大最強の武器、エーテルの上書き。

「んだよ、コレ……」

 ダーシェンカの掌に収められていた男の拳が力を失う。拳だけではない。その表情も、だらしなく弛緩していた。

「おまえ、まさか……」

 男の視線がダーシェンカ越しにイズミに向けられる。サングラス越しでは分らなかったが、声音から察するに今にも泣き出しそうな瞳なのだろう。

「ご想像の通り、僕はネクロマンサーです」

 イズミは浮かべていた水晶玉を掌に戻しながら告げた。

「じゃ、じゃあこのモンスターガールはリビングデッドだってのか!? なんで、なんでだよ! どうして覚醒済みのネクロマンサーがリビングデッドなんかと一緒に居るんだよ! どうしてこんなところに!」

 男は後退りながら喚く。

 イズミはなおも容赦しなかった。

「ダーシェンカ、僕の後方」

 たったそれだけを不意に呟く。

 瞬間、廃倉庫にこれまでは響かなかった銃声が響き渡る。

 だが――。

「んで、なんでだよ、どうして今のが読めるんだよ! 来栖の異能は封じてたじゃねぇか! 実はここまで読んでたってのか!? これさえも!」

 銃声ののちに響いたのは、イズミの後方に瞬間移動していた男の情けない叫び。

 視線の先には男が放った弾丸を握りしめたダーシェンカと、ゆっくりと振り向くイズミ。

「聞いてなかったんですか? 指示を出したのは僕、ですよ」

 迷わぬこと。イズミは自分に言い聞かせながら冷静に男を追い詰めていく。油断は許されない。完全に、反撃の芽を摘むまで。

 たとえそれが、男の命を奪うということと同義であろうと。

「来栖先輩、一応異能でサポートお願いします」

「え、あ、はい」

 状況の掴みきれない来栖がおずおずと頷き、異能を展開させる。

 来栖の表情が、呆然としたものに切り替わる。それはそうだろう。あれほど騒がしかった男のエーテルが消え去り、代わりに周囲には高濃度な淡い青色のエーテルが展開されていたのだから。

 だが不思議と、邪魔ではなかった。むしろ通常以上に情報を細かく伝えてきてくれていた。少し遅れて――異能を展開させているというのに――ソレが眼の前の少年のエーテルであるということに気付く。

「……綺麗」

 我知らず、来栖の口からはそんな言葉が漏れ響いていた。

 イズミはその言葉に照れ臭そうに笑い、男に視線を向ける。

「あなたの思考は単純です。何かあれば不意打ち。来栖先輩でなくても読めますよ、エーテルの可視領域がそれなりに高ければ。あなたは後退りながらも次元置換の術式を起動させていた。となれば考えられるのは僕か来栖先輩への強襲。まぁ、空間の歪んだ先が僕の背後でしたから絞り込むのは容易でした。ダミーを用意していれば分らなかったかもしれませんがね」

 イズミはそこでいったん言葉を区切る。

「でもまぁ、もう無駄なこと。来栖先輩が異能を発動しましたし、何より、本当なら僕がエーテルを上書きするだけでも事足りますから」

 イズミは残酷に言い切った。

 同時に言外に告げている。次元置換を駆使して逃げようとしても無駄だ、と。

「……クッ! ならとっとと殺せよ!」

 男は忌々しげに歯噛みし、皮肉るように両手を上げた。

「……殺しません」

 イズミは能面のような表情で告げる。

 その言葉にダーシェンカは弾かれたようにイズミを見つめ、異能でイズミの真意を見抜いた来栖は黙してイズミを見つめていた。

 男もその言葉には耳を疑ったようだった。ポカンと口を開け、イズミを見つめている。

「あなたのあのジャミング、ザッと百人分くらいのエーテルでしたよね? それを周囲に同時展開していた。つまりそれぐらいあなたの魔術の犠牲者はいるんですよね? 久弥さんのような」

「あ? あぁ……でもそんなんオレを殺せば解放、」

「あなたが自分でその人たちを解放してください。そうすれば僕はあなたを見逃します。もちろん二度と満足な魔術が扱えないほどにエーテルを削らせてもらいますが」

 イズミは少しだけ言葉を詰まらせながら言った。

 分っている。自分の考えが間違っていることを。こんな男を見逃してはいけないと。そして何より――それは自身への免罪符に過ぎないと。

「ハッ! 笑っちまうな! そんな条件オレが呑むとでも思ったのか? オレはただ生きていたいんじゃない! 魔術師として高みに登りたいんだ! どんな手を使ってでもな! 最初に感じたヤワな雰囲気は間違ってなかったわけだ! あんだけ化け物染みた力見せつけといて」

 男はイズミの襟首を掴みあげた。

 ダーシェンカが止めに入ろうとしたが、イズミが手で制す。

「侮辱するのも大概にしろよ、クソガキ」

 男は限界までイズミに顔を近づけ、告げる。濃い色のサングラスから微かに、怒りと悲哀の籠った男の瞳が覗いていた。

「きっとそう言うと、思っていました」

 イズミは男の腕を引き剥がし、襟元を正す。

「それでも……残念です」

 イズミは無表情に告げる。

 その言葉は命を奪われる男に向けたものなのか、それとも命を奪う自分に向けたものなのか。イズミ本人にも分かりはしなかった。

 意識を集中し、男のエーテルを掻き消そうと力を傾ける。

「まぁ、待て」

 その声は不意に、身近で上がった。

 男のものでなく、来栖やダーシェンカ、ましてやイズミのものでは当然ない、凛とした少女の声。

 いつの間にか場の中央、というよりは中心に、喪服を思わせるような黒いシックなワンピースに身を包んだ、クレア・アクロマ・ブリンズフィールドが立っていた。

 イズミや来栖をしても、クレアがいつ現れたのかは判別がつかなかった。本当にいつの間にかそこに居た。今にしても耳と目というモノを使わなければ、その存在が捉えられない――むしろそれこそが、人として正常なものの捉え方ではあるが。

 驚く周囲をよそに、おもしろい玩具を見つめるような視線で、クレアは周囲の人間を順々に眺めていく。

「まぁ、合格だ。イズミ、ダーシェンカ」

 クレアは嗜虐的な笑みでイズミとダーシェンカをじっくりと眺めたのちに告げる。

 イズミとダーシェンカは突然の言葉に戸惑いながらも、やや間をおいて意味を理解し、胸をなでおろした。とうに合格の判を貰っていた来栖も、クレアの言葉に同じような態度を見せている。

 そして、本当の問題は。

「さて、お前についてだが――」

 クレアは一切感情の籠らない瞳と表情を男に向ける。

 それを受ける男は、ハナからクレアという存在には敵わないと悟ったのか、呆然とした表情を浮かべているだけだった。

「お迎えが来てるぞ? リィガ・ハインリヒ」

「は?」

「お前の所属する機関がお前の身柄を拘束したいそうだぞ? よかったな、魔術師のまま永らえられて」

 クレアはニンマリと笑いながら、リィガ・ハインリヒという名であるらしい男に顔を近づける。

 リィガが助かるという内容とは裏腹に、クレアのその笑顔はイズミ達が見てきた中で、一番恐ろしい笑顔だった。

 リィガの場合はその言葉が恐ろしかったようで、顔から色という色が消え失せていた。顔面蒼白とはまさにこのことを言うのだろうという、そんな有様。

「おいイズミ、エーテルの散布を解け。あちらさんはそれのせいでここに来れないんだ。もしもの場合を警戒してな」

「え? あ、は、はい」

 イズミは言われるがままにエーテルの散布を解く。

 と同時に、目の前に修道服に身を包んだ三人の女性が現れる。リィガの空間置換の術式を知っているからか、イズミ達はもはや驚きはしなかった。

 現れた女性たちの服装から判断するにシスター、なのだろうが、その表情には慈愛やそれに類するものは見受けられなかった。あるのはコキュートスのように寒々しい蒼眼と、騎士のように凛とした顔立ちだった。

 イズミの気のせいでなければ、全員同じ顔のように見受けられた。

「クレア様、並びに如月イズミ様。このたびはまことにご迷惑をおかけしました。この非礼はどうあっても償わせていただく所存です」

 女性の一人がいい、三人同時に深々と頭を下げる。

「あー、いいよ、そういうの。こっちも仕事でやっただけだし、そっちも人間だ。ミスくらいあるさ」

 呆然とするイズミをよそに、クレアはうるさそうにシッシと手を払う。

「そう言っていただけると助かります。それではこの男はこちらで責任をもって“処分”させていただきます」

 女性達は軽く一礼すると、リィガに向き直る。

「あ、あの! 処分って……?」

「お言葉ですが如月様。世の中には知らないほうがいいことも多く存在します。あなたはお優しい方とお見受けするので、なおのこと」

 女性の一人が振り返り、無表情に言う。

 今度こそイズミは言葉を失った。

 女性たちはそんなイズミに構うことなく、血の気と生気を失い呆然としているリィガに対して、三人同時に何かを唱える。

 綺麗な、とても綺麗な、どこか牧歌的な響きをもった言葉だった。

 そんなのどかな響きとは裏腹に、リィガの体は唐突にビクリと痙攣し、それきり動かなくなる。

 死んだ、のだろうか……。

 イズミはそんなことを考えながらことの成行きを眺めていた。もとよりこういう世界なのだ、魔術の世界とは。人の生き死にがこちらの価値観とはまるで違う。自分だって先ほどまではリィガの命を奪おうとしていた。リィガの死を嘆く資格など、ない。

 それでも、どこか釈然としないものが胸の内にはあった。

 そんなイズミの思いを読み取ったのであろうか。

 女性の一人が言う。

「ご安心を。死んではおりません、気を失っているだけです」

「あ、なんだ、そうなんですか」

 胸をなでおろしかけたイズミに、女性は続けた。

「ただ覚えておいてください。世の中には死よりも辛いことがあまたあるということを。いいえ、死はどちらかといえば安らかなものであるということを。あなたはそれについて、もう少し考える必要があると思います。恐れながら忠告させていただきますと」

 女性は言い切るとイズミなど最初からいなかったかのような表情でクレアに向き直る。

「それでは私たちはこれで失礼させていただきます。この非礼はいずれ必ず償いますので」

 慇懃に告げる女性に、クレアは先ほどと同じように苦笑いながら手を払った。

 そんなクレアの態度に表情を変えることもなく女性は深々と一礼し、消えた。

 リィガともども、始めからそこに存在しなかったかのように。

 呆然とするイズミとダーシェンカ。異能で何かを読み取ってしまったのだろう、苦々しげな表情を浮かべている来栖。

 クレアはそんな面々を見渡しながら告げる。

「さぁ、これで本当に終わりだ。よかったな、お前達」

 終わり。その言葉の意味を理解するのに、イズミとダーシェンカは若干の時間を要した。

異能を展開していた来栖でさえも、それを心に沁み渡らせるのには、時間が必要だった。

 そして、誰がというワケでもなく三人の口から洩れたのは、歓喜の喜びでも、徒労の溜息でもなく。

『終わった……?』

 という上ずった安堵の言葉だった。


 * * *


「終わった、みたいですね」

 非合法ホスピタルの屋上から廃工場を眺めていた久弥は、馬鹿みたいに巨大なエーテルの光が消えたことを確認し呟いた。

 久弥の隣に佇んでいた雪も小さく息を漏らし、肩をなでおろす。

「えぇ、そうみたい。どうやら今回は無事に乗り越えられたらしいわね、あの子たち」

「まぁ、来栖家の能力とネクロマンサーの能力さえあれば並大抵の輩は敵じゃないんでしょうがね」

 久弥は肩をすくめながら自嘲的な笑みを浮かべる。

「まぁ、そうね。でも今回はダーシェンカちゃんがいなきゃ勝てなかったでしょうね……イズミも千澄ちゃんも人並の身体能力だし、最初のサイレントキルで死んでいたでしょう」

 雪はまるでその現場を見ていたかのように語り、眉をひそめる。

 魔の道の先を行く雪としては今回の戦い方は及第点とは言えなかったらしい。もっとも、魔術師とは異なったネクロマンサーという存在であるイズミに、スマートな戦い方を求めるのは酷なことだ。その点に関して言えば、来栖のほうが能力の特性からしても遥かにスマートに戦いうるだろう。

 だが、まぁ。

「今回は大目に見てあげたらいいじゃないですか。クレアさんがせっかく合格にしてくれるっていうんですから」

「それは、そうなんだけど……」

 久弥が人のいい笑みを浮かべるも、雪の顔はやはり優れなかった。

「まぁ、確かに今回の出来じゃあ一介の魔術師には勝てても“自分”には勝てないでしょうね……千澄も、そしてイズミくんも」

 人のいい久弥の笑みが、弱々しい笑みに変わる。

 そう、そうなのだ。類まれな異能を持つイズミと千澄の本来の敵は、他者ではなく己。第一に己の能力に溺れぬ精神、これに関しては二人ともなんの問題もないだろう。問題は第二の異能に押し潰されない、ということ。

 強大な力は、容易く術者を押し潰す。永久機関然り、未来視然り、未来予測ですらそうだ。

 イズミと千澄はそれを完璧に己のモノにしているとは、まだ到底言えない。イズミの能力は力任せに過ぎるし、千澄の未来視にいたってはその能力が自分の意志とは別に発動してしまうときている。

 今回は運よく発動せずに済んだようだが、次は分らない。

「私たちがあの子たちにしてあげられることなんて、もうほとんどないのよね……本当に自分で何とかするしかない、そういう問題」

 雪は愛息がいるであろう方向に視線をやりながら、もどかしそうに屋上の金網に指をからませた。

「でも、ない訳じゃありません。僕は一応千澄に能力の扱い方について指導するつもりです。前に所属していたトコに協力してもらって」

「あら、過保護な教育方針はやめるの?」

 雪は不意に悪戯な視線を向ける。

 久弥はその視線に少しだけどぎまぎしながら頭を掻いた。

「いや、まぁ、もう過保護にはしていられないですし……一度やり方を思い出させてしまった以上ある程度は、ですね」

「その教育にイズミも混ぜてもらえたらいいのに」

 雪は溜息を洩らしながら肩をすくめる。

「それは……無理でしょうね。うちの組織は弱小ですから滅多にイズミくんが出張るような仕事はありませんよ。そんなことしたらもう、原子力で湯呑み一杯のお湯を沸かすようなもんです」

 久弥は申し訳なさそうに口を歪める。

「フフ、分ってるわよ。あの子にふさわしい場はそうそうないわ。もうきっと、リィガでは足りない。いいえ、ダーシェンカちゃんがいなければリィガ“程度”でまだ丁度いいのかもしれない。けどダーシェンカちゃん込みで考えるなら、もっと強い相手が必要」

 雪は表情を険しくしながら呟き、そして続ける。



 ――今のままじゃ確実に、イズミは壊れる。



 雪のその言葉に久弥が目を見開いたのもつかの間。雪の表情はあっという間に元の柔和なモノに戻っていた。

「さ、それじゃあ私たちもイズミ達を迎えに行きましょうか。総帥たちだけで歩いていたら補導されちゃうわ。さすがに私も警察に息子を迎えに行きたくはないもの」

 雪はくすぐったそうにほほ笑む。先ほどまで息子の生き死にについて語っていたとは到底思えないほど、柔らかな笑み。

 久弥がなんと返そうか迷っているうちに、雪は踵を返していた。

 結局久弥は掛ける言葉を見つけられず、複雑な表情のまま雪に続いた。

 そして本当に、波乱の夜が、終わった。


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