第4章 再生した物語は、メビウスの輪のように(1)
どこかで聞いたことのある、しかし名前までは分らないクラシックが流れるファミレス内には、若者の集団がいくつかと、コーヒーを啜りながらテーブルに広げたファイルと睨めっこをしている中年女性がいた。
その中に、ダーシェンカと来栖も紛れていた。特に目立ちもしない、ありとあらゆる席の死角となっている席に。
「おい、大丈夫か?」
ダーシェンカはテーブルに突っ伏したまま動かない来栖に声を掛けた。
この店に入ってからかれこれ三十分、来栖はこの状態だった。瞬発的にとはいえ、限界を超えた能力の使用は来栖に多大な負担を与えていた。一晩眠ればどうにかなるのだが、この状況下ではそんなこと望むべくもない。
「えぇ、頭痛は引いたわ。でも能力は使えてあと五分から十分ね。そのあとはおそらく、また気絶してしまうでしょうね」
来栖は顔をあげながらも、目にタオルを押しあてていた。
「……そうか。敵がここを探り当てられないなら休むこともできるんだが、確証はないのだろ?」
「えぇ。相手がどんな能力を持っているかは未知数。索敵能力に秀でているかどうかは、これからの流れで決まるわ。とりあえず今は見張っていて。さっき私が言った特徴の男を」
来栖はそう言うと、再びテーブルに突っ伏した。
「分かった。白人で長身の男だな」
ダーシェンカは来栖に向かって、というよりは自分に確認するように言い、辺りに気を配った。
幸いこの席は周りからは死角だが、周囲を見渡す分には都合がいい。それに来栖が告げた敵の特徴も、他の国ならなんの助けにもならないが、ことこの国では役に立つ。
アジア系以外が目立つというのは、ダーシェンカはその身をもって経験済みだ。もっとも、相手がその容姿を偽装できるというなら話は変わってくるが、来栖の見立てではそれはないということだった。
敵がここに乗り込んでくる可能性は極めて低い、と思いたいのだがその確証はダーシェンカにはなかった。
確かに人気の多い場所で騒ぎを起こす、ばかりか魔術を使うようなことは本来あり得ない。だがもし、もし敵がヴェルナールのように街の人間すべてを操作しうる能力を有していたら。ダーシェンカたちに休息の場所はない。休む唯一の方法は、逃げ続けることに他ならない。
「……大丈夫よ」
テーブルに置かれたコップを我知らず握りしめたダーシェンカに、来栖が囁いた。
「何が、大丈夫なんだ?」
おしぼりで目を押さえたままの来栖に、ダーシェンカは首を傾げた。
「私たちがいますべきことは、情報の収集。敵の姿・能力を見極め、しかるのちに逃げればいいのよ。そんなに深く考え込まなくても大丈夫」
来栖はおしぼりを取り、ダーシェンカに笑みを向けた。疲労で白んだ顔に浮かぶ笑みは弱々しく、儚げだった。
その笑みにダーシェンカは息を呑み、同時に恥じた。実戦経験ならダーシェンカのほうが明らかに上だというのに、来栖のほうが落ち着きはらっている。本来ならば自分が気を使わなければならないというのに、逆に使われてしまった。
それは、来栖が有する異能の特質故でもあるのだろう。だがそれ以上に、ダーシェンカにとっても、今置かれている状況が想定していなかったものである、ということが大きかった。
本来ならばネクロマンサーをのみ守ればいい存在のリビングデッドが、このような複雑な状況下にある。イズミのことだけを考えていればよかったハズが、ほかのことも考えなければならないのだ。
それはダーシェンカにとって、本当に想定しなかった事態だ。
それでも。
「……すまない。そうだな、落ち着こう」
ダーシェンカは来栖に精一杯の笑みを返した。
自分はお世辞にも基礎能力の高いリビングデッドではない。それでも、出来ることはある。それをすればいい。イズミと同じように、出来ることを精一杯。
そう考えると、肩が急に軽くなった。
ダーシェンカは強張っていた表情をいくらか和らげ、再び周囲に警戒を向けた。
そんなダーシェンカに来栖は微笑を向け、再びおしぼりを目に当てて机に突っ伏した。
警戒を続けること二時間。その間にイズミ達に連絡すること二回。それでも、敵らしき人物がイズミやダーシェンカ達の前に現れることはなかった。
ただただ、平坦な時間が流れていく。周りにいた客層も入れ替わり始め、しだいにまばらになっていった。
店内にはダーシェンカと来栖、それからパソコンとにらみ合っているサラリーマンとは思えない、くたびれた格好をした中年男性だけだった。
「だいぶ、楽になったわ」
テーブルの上で仮眠を取り続けていた来栖が顔をあげた。
確かにその言葉通り、血色もだいぶ良くなっていた。そのことにダーシェンカはいくらか気を楽にする。
「それは良かった。で、これからどうする? 敵が襲ってこないようならこのまま休んでいてもいいんじゃないか?」
「そうしたいところではあるけど、そうもいかないわ。敵が現れた以上、悠長なことはしていられない」
来栖は小さく笑いながら肩をすくめ、続けた。
「次は人気のない所に移動しましょう。人目に付く場所だから攻撃してこないのか、単に見失っているだけなのか分らないから。でもそうね、出来るだけ大通りに近い場所のほうがいいかしら。もしものときにすぐ逃げられるし」
来栖はあごに手を当てながら言うと、伝票を取って立ち上がった。
「分かった。それじゃあ行こうか」
ダーシェンカも来栖に習い立ち上がる。
レジで会計を済ませ、外に歩み出ると、ひんやりとした夜の空気が二人を包みこんだ。普段ならば秋の到来を感じさせるそんな空気も、今の二人にとってはこれから来る“異常”を思わせる冷たさに違いなかった。
「そうだ、イズミに連絡を、っ!」
辺りを見渡し、ダーシェンカがおもむろにケータイを取りだそうとした瞬間。
視界に不可解なモノが映り込んだ。いくら冷やかな空気が流れ始めたとはいえ、それはせいぜい涼しいという程度のもの。だというのに、ダーシェンカの視界に入りこんだ男の姿はあまりに不可解だった。
闇夜に紛れるような黒い細身のロングコート。そして、蛍光灯の光を受けて輝く赤みがかった黒の頭髪。極めつけに、夜にそれでは何も見えないのではないかというほどに色の濃いサングラス。
そんな姿で、その男は街頭に立っていた。立っていた、というよりは置かれていたと表現したほうがしっくりくるような、そんな佇まいで。
その男の存在全てが、周囲の景色から浮いていた。道行く人々も時折チラと怪訝な視線を向けては、その男の前を通り過ぎていた。
「千澄……白人で、長身の男だ」
ダーシェンカはその男に視線を奪われたまま、呆然と呟いた。
明らかに怪しい男。それなのに何故だろう。目を逸らした瞬間にその存在を忘れてしまいそうな、そんな稀薄な雰囲気も男には漂っていたのだ。
だから目を逸らせない。その場から動けない。
そんなダーシェンカをよそに来栖は異能を発動させた。瞬間、来栖の表情が凍りつく。その表情が眼に映った結果を示しているのだが、ダーシェンカは男から目を逸らせないがゆえにそれに気付けない。
「あの……男、よ」
来栖もダーシェンカと同じ状態に陥ったのか、男を呆然と見つめたまま呟いた。
そんな二人に、男がゆっくりと歩み寄ってくる。コートのポケットに手を突っこんだまま、超然とした足取りで。
すぐに身構えなければいけない。あるいは逃げなければいけない。だというのに、二人の足はいっこうに動こうとはしなかった。
「その表情を見る限り、君たちじゃないみたいだね」
男は二人に歩み寄ると、親しげに流暢な日本語で言った。
「なんの、ことですか?」
「いやね、オレはね、探しているわけよ」
男は首をかしげながら、言う。
そんな男にダーシェンカと来栖は怪訝な表情を浮かべる。心の中では『逃げろ!』と警戒心が叫んでいるのに、体は怪訝な表情を浮かべるのが精一杯なのだ。
「探してるんだ。オレが仕掛けた術式を解いた魔術師を、さ」
怪訝な表情を浮かべ続ける二人に、男は言い放った。さわやかな微笑すら浮かべて。
もとが整った顔をしている男だ。その笑みも非常に魅力的なものである。だというのに、ダーシェンカと来栖の背筋には悪寒が走っていた。それは、蛇にまとわりつかれるような、ヌルリとした感覚。
その感覚が二人の呼吸を浅くする。次第に、息苦しさが募ってくる。このままでは窒息する、そう思いかけた矢先。
ダーシェンカが動いた。
常人には捉えられない速度で拳を突き出し、男を“殴り”つける。男は文字通り吹き飛び、路上に設置されたごみ箱に叩きつけられた。男とともに倒れたごみ箱から空き缶が散らばり、どこか滑稽なけたたましい音を上げていた。
「行くぞ!」
周囲の通行人が何事かと怪訝な視線を向ける中、ダーシェンカは来栖の手を取って走りだした。
どこに、などという考えはなかった。ただ、ここにいてはいけないという考えだけが脳内を駆け巡り、ダーシェンカを動かしていた。
来栖もダーシェンカに腕を引かれるまま前のめりになりながら走りだす。
だがその視線は未だに男に注がれていた。いや、違う。男の周りに一瞬だけ現れた“変化”を注視していた。
来栖は呆然とした表情のままボソリと呟いた。
「……次元が“ズレ”た?」
その言葉にダーシェンカが眉をひそめたのもつかの間。
二人は注がれる好奇の視線も気にせずに走り続け、人混みを抜けた。
** *
「……あの、大丈夫ですか?」
少女に殴り飛ばされ、ゴミにまみれたオレに、通行人の一人が声を掛ける。
見上げてみれば、くたびれたスーツに身を包んだ中年のサラリーマンだ。
自分でいうのもなんだが、こんな状況で、こんな格好のオレに声を掛けてくるなんて相当なモノ好きもいたもんだ。
あぁ。そう言えばこの国は国自体が馬鹿がつくほどのお人よしだったな。
「えぇ、大丈夫です。少し道を尋ねただけだったんですが、こんな格好なのであらぬ誤解を受けてしまったようで」
オレは仕事用の笑顔を顔に張り付け、差し出された中年男の腕を取って立ち上がった。
それから中年男に知る必要もない道を尋ねて丁寧に礼を言い、再び歩き始めた。初めは周りの者たちも怪訝な視線を向けていたが、それも徐々に薄れていく。
まったく、この国は本当に不思議だ。義理と人情と無関心がこうも一緒くたに存在する国は本当に面白い。
いや、それ以上に面白いのは――。
「あの女、何者だ?」
オレはまだジンジン疼く鼻を触りながら呟いた。
本来ならダメージを喰らうはずはなかった。並大抵の打撃ならエネルギーをすべて“散らす”ことができたはずだ。だというのに痛みさえも与えられてしまった。
もし術式を起動させていなかったら間違いなく頭と胴体がサヨナラしていただろう。
俺はその様を思い浮かべ、武者震いにも似た震えをもよおす。
ほんの暇つぶしにと訪れたこの場所だが、予想以上に面白いものが待っていたようだ。
まったく。この前この街を訪れた時も思わぬ収穫を得たが、今回もわりかし楽しめそうだ。
俺は気付かないうちに口許をニヤつかせていた。
気付いてもそれを消そうとは思えなかった。いや、消せそうになかった。
気味の悪い面もそのままに、俺は可愛らしく逃げ出した二匹の野兎を追い始めた。
ゆっくりと、いたぶるような速度で。
** *
怪しい男のもとから走り去り、ダーシェンカと来栖は町はずれの廃工場に逃げ込んでいた。いや、逃げ込んだという表現は適切ではないかもしれない。何せ二人は相手が攻撃を仕掛けやすい場所にわざわざ足を進めたのだから。
夏の湿気を帯びた風が、うっすらと汗の滲んだ二人の肌を撫でた。その風に乗って、廃工場独特の錆びた鉄の匂いも二人の鼻をついた。
鉄錆の匂いに顔をしかめるでもなく、ダーシェンカは切迫した表情で口を開いた。
「千澄、あの男に関して何か分ったか?」
言葉を投げかけられた来栖は、肩を荒く揺らしながらもなんとか呼吸を整え、額に浮かんだ汗をぬぐった。
「あの男、というかあの男の使った能力なら少しだけ“視”えたわ」
「確か次元がズレたとか言っていたが……それと関係あるのか?」
ダーシェンカは眉根を寄せて訊ねた。
その問いに来栖は黙って頷くものの、言葉を紡ぎだすことはなかった。それはおそらく、来栖の中でも答えがハッキリとは出ていないということなのだろう。
ダーシェンカはそう考え、自分でもあのときの状況を振り返ってみることにした。確かに奇妙な感覚はあった。生身の人間がリビングデッドの攻撃で無事という結果以上に気味の悪い違和感。
それはおそらく、ダーシェンカの拳があの男に触れた瞬間に生じていた。
リビングデッドには痛覚を含めて感覚がない。だから触れた感覚がおかしいというのは少し違う。しかし、視覚・聴覚によってあの一撃を判断する限り、奇妙というほかない。
振り切ったはずの拳から得た感覚は、ほんの数センチの間合いで突き出したのと同程度のものだったのだから。
あのときは無我夢中だったため、それが自分の動揺によるものだと判断した。だがだからこそ奇妙なのだ。無我夢中だからこそ、手加減のない一撃を繰り出していたはずなのだから。
「光の屈折による錯覚、とは違うだろうな……」
ダーシェンカは男を殴りつけた拳を握ったり開いたりしながら呟く。
「それは違うわね。もしそうならそもそも攻撃が当たっていないはずだもの」
「まぁ……そうだな。すまない、忘れてくれ」
「でも、感覚としては近いのかもしれない。物体そのものがズレるんじゃなくて、そこまでの過程がズレるとしたら……うん、それなら説明がつくかもしれない」
「どういう、ことだ?」
「つまり、あいつの能力は対象に届くまでの空間を歪めるのよ。光の屈折は物体の位置を誤認させるけど、ヤツの能力は対象そのものに対する距離感はそのままに、そこに届くまでの過程を歪めるの。たとえば一センチの距離を十センチにしたり、その逆をしたり」
「ということは……相手の攻撃をいなしたり、自分の攻撃を素早く且つ威力を落とすことなく繰り出すこともできるというわけか」
ダーシェンカはあごに手を当てながら呟いた。
「おそらくは。でもあのときはダーシェンカの外見に惑わされて伸ばす空間の距離を見誤ったんでしょうね。ギリギリのところで受けとめようとしたことを考えれば、エーテルの消費量も少なくはない術式でしょうね」
来栖は言い、錆ついたコンテナにそっと背を預けた。
口には出していないが、来栖の佇まいには疲労がありありと見て取れた。
ダーシェンカはそのことに気付きながらも労うような言葉はかけない。そんな言葉を掛ける余裕は今の自分にはないし、何より来栖がその言葉を望んでいないのも知っているから。
なによりも今すべきことは目前に差し迫った脅威の排除だ。
ダーシェンカは自分にそう言い聞かせ、静かに息を吐いた。
「アレだけから判断するなら、ダーシェンカと相性の悪くない相手だわ。何せこちらが手数を出すだけで相手は勝手にエーテルを消費してくれるんだから」
「それは確かにそうだが……」
「当然それだけじゃないでしょうね。兄さんに封印を施したことから考えても相手の手札はまだあると見るのが定石」
来栖は口許を歪めながら吐き捨てるように呟いた。その言葉の端には異能を使ってもなお掴めない相手の全貌に募る焦りと苛立ちが見て取れた。
確かに来栖の能力からすれば現状は本当に芳しくないのだろう。だがダーシェンカにとっては、いや、他の魔術師にしてみても同じ。一目見ただけで相手の能力を限りなく断定に近い形で判断できるのはかなりのアドバンテージだ。
あとは出たとこ勝負でも構わない。
不思議と、ダーシェンカの中にはそのような心構えが出来始めていた。
だからこそ動じなかった。
「……あぁ、やっぱり俺の判断は正しかったようだね」
頭上から唐突に響いた声にも委縮することなく、身を固くした来栖を抱えて瞬時に飛び退ることができた。
「な、な、なんで……」
ダーシェンカの腕の中で来栖が言葉にならない言葉を繰り出そうと口をパクつかせる。
なるほど。確かにこうも気配なく現れられては背筋がそら寒くなる。
だが。ダーシェンカはこの男の能力の片鱗を掴みかけていた。異能などなくとも、いや、異能がないからこそヤツの尻尾を捉える事が出来たのかもしれない。
ダーシェンカは抱きかかえていた来栖をそっと背に回し、いつの間にやらコンテナの上にたたずんでいた男を睨みつけた。
黒のロングコートに赤黒い髪、色の濃いサングラス、相も変わらず一度見たら忘れられない格好をしているというのに、やはり存在感が希薄だ。
「なるほど……次元がズレる、目を逸らしたら記憶から消えてしまいそうな影の薄さ。なんとなくカラクリが分った」
ダーシェンカはニヤリと笑い、太ももに括りつけてあったアーミーナイフを抜きとった。
ダーシェンカの一撃と比べたら玩具のようなそれも、ダーシェンカが何者であるか分らない者にはいい目くらましになる。
それこそ、ダーシェンカの攻撃を素手で防ぎかねないほどに。
「ふぅむ……キミが何者かも興味あるんだけど、今はそれよりも後ろの女の子のほうが興味あるかなぁ。ね、キミ、見えるんでしょ? 演算された未来がさ」
男はさわやかな口調で言った。だというのにその表情はこの上ないほど歪で、泣いているのか笑っているのか判断に困るような様相をなしていた。
たぶん、笑っているのだろう。
ダーシェンカは自分の背で委縮する来栖を知覚しながら、眼前の男に細心の注意を払った。この男は気を抜けばいともたやすく見失ってしまう。それこそ、始めからそこに存在しない幻のように。
「キミはあれでしょ、来栖久弥の妹なんでしょ?」
男は泣き笑いのような表情を崩すことなく言う。
男の口から漏れた言葉は、さして驚愕に値することではない。来栖の家にやってきていた時点で、来栖家の家族構成など割れていて当然だ。
来栖が委縮したのはそこではない。男が口にした“演算された未来”という言葉に反応したのだ。
来栖が久弥と同じ能力を持っていることに、男は気付いている。だからこそ、男は今もある術式を展開している。
ダーシェンカのなかで不確かだった予感が、確信に変わった瞬間だった。
「千澄、無理しない範囲で能力を使ってくれ。私が攻撃を仕掛けたら、何か新しい情報が掴めるかもしれない」
ダーシェンカは男を見据えたまま呟く。自分の中にある確信めいたものを来栖に伝えるようなことはしなかった。それはひょっとしたら来栖を誘導してしまうかもしれないから。だからダーシェンカは何も言わずに、来栖自身が導き出す答えが最良と信じて沈黙を通した。
その言葉に来栖は、短くどこか詰まったような声で「分かった」とだけ返した。
ダーシェンカはその返事を聞くなり、目をスッと細め、地面を軽く蹴った。
重力を無視しているかのごとく、軽々と、優雅に、ダーシェンカの体が宙を舞う。舞う、とはいってもそんな生易しい速度ではない。
一直線に男の眼前まで迫り、アーミーナイフを男の喉元めがけて横薙ぎに払う。男はさして慌てる様子もなく軽くスウェーして刃をかわす。
案の定、魔術だけでなく体術にも秀でているらしい。もっともそれほど驚くようなことでもない。魔術という武器に頼っているだけの魔術師など、結局は二流なのだから。もっとも、その魔術のスペックが桁外れに高いというなら体術など必要ないが。
いや、いま重要なのはそこではない。真に重要なのは。
攻撃を避けたということ。
ダーシェンカは頭のうちにいくつかの仮説を組み立てながら、間髪開けずに攻撃を仕掛けていく。
三メートル四方ほどのコンテナの上で、二つの影が躍る。影が動くたびに軽やかな金属音が廃工場に響き渡る。
「うん、確かにすごい破壊力だね。並の魔術師なら初撃でお陀仏だよ」
男は口許に薄ら笑いを浮かべながらヒョイと飛び下がり、ダーシェンカと距離をとった。
ダーシェンカもあえて追うようなことはせず、広がった間合いはそのままにナイフを構えなおす。
「で、オレの情報は収集できたのかな? 来栖妹さん」
男はダーシェンカから目を離すことなく声を張り上げた。
その問いに、答えが返ってくるはずもなく、代わりに電車が線路を踏みしめる音が遠く響いた。
「あーあ、ダンマリ決め込むってワケね? まぁ、いいや。ダンマリ決め込まれようがオレのやることは変わらない訳だし」
男は大袈裟な身振りで肩をすくめ、深々と溜息を吐いた。
そんな男を眺めながら、どうしたものかとダーシェンカは思案する。このまま攻勢に出続けてもいい。今は五割程度しか出していない力を一気に全力にすれば、一撃で相手を葬れるかもしれない。
もっとも、失敗したときはこちらの手の内のほとんどを晒すという結果が待っているのだが。
ならば、とダーシェンカはナイフを握る手に力を込め、目を凝らした。
元来、霊視に関する視力はゼロに近いダーシェンカだが、目を――というよりは脳の回路を――凝らせばある程度までなら魔術無効化の術式を発動させなくとも見ることが出来た。イズミや来栖のソレと比べたらあってないような脆弱な霊視ではあったが。
(とりあえずは自分の出来ることを……)
ダーシェンカは来栖に頼りすぎないように、と自戒の念も込めながら胸中に呟く。
同時に、暗闇に淡い光が映り始めた。映っているのは赤褐色の、火の粉のような、あるいは鉄錆のような色のエーテルだった。
魔術を発動させていないダーシェンカのものではなく、ましてや魔術の使えない来栖のものでもない。
紛れもなく、眼前の男が放出している魔術の光だった。
ダーシェンカの瞳に映ったのはそれだけではなかった。男が身につけている鎧の輪郭が、薄ボンヤリと見える。
おそらくは来栖も既にその形を捉えているであろうソレは、ダーシェンカの予想そのままの形だった。
男の周囲だけが、奇妙に歪んでいる。陽炎のようなものが、男を包みこんでいる。だというのに不思議と、男の姿だけははっきりと見えるのだ。
ひょっとしたらいま見ている男は蜃気楼か何かなのではないかとさえ思えてくる、奇妙な光景だった。
だが、それで幾通りかあった仮説は一つに絞り込まれた。この男が纏っているのは来栖の能力を阻害するための迷彩であり、同時にダーシェンカの攻撃を防ぐ鎧でもある。
ただおそらく、男の術式が後者として発動すると、それはエーテルを消費してしまうといった所だろう。
だから男はダーシェンカの攻撃を避けた。
となればダーシェンカが取るべき行動は攻撃を当て、相手のエーテルを消費させることなのだが……まだ情報が足りない。
男の攻撃手段は何一つ解析できていないのだ。ばかりか男はこちらに手を出す素振りすら見せはしない。それがダーシェンカにとって、この上なく警戒心を駆り立てた。
それでもダーシェンカは地面を蹴っていた。攻めないことには相手の情報は引き出せない。来栖の、いや、イズミの役には立てない。
ダーシェンカはただそれだけの思いで地面を蹴り、再び男に刃を向けた。先ほどよりもいくらか速度と威力を増して。
それでも男は薄ら笑いを消すことなくダーシェンカの攻撃を捌き続ける。詰めようにも男が巧妙に立ち位置をズラしていくので思うように攻めきれない。
いつしか、男がこの状況を楽しんでいるのではないかという考えさえ浮かび始めていた。体力勝負で行けば、リビングデッドである自分が負けるはずはないというのに、それでも仄暗い予感が、ダーシェンカの背中にまとわりつき始めた。
そんなとき。
「ダーシェンカっ!」
コンテナの下で一進一退の攻防を眺めていた来栖が声をあげた。
ダーシェンカはその声に反応し、すぐさま飛び退って男と距離を取る。
「落ち着いて。大丈夫、自分を見失わないで」
来栖は脂汗の浮かんだ顔に弱々しい微笑みを浮かべながら告げた。
その表情から見てとれるのは、限界すれすれの能力の発動。そして、体力の限界を今にも迎えようとしていること。
それでもなお、強靭な意志で意識を繋ぎ止め、立ち、懸命に自分のするべきことを淡々と行っている。
ダーシェンカは来栖の背後に漂う覚悟を感じ取り、深く頷いた。
再び男に飛びかかる。攻めきれなかろうが焦ることはない。ただ淡々と、自分のすべきことをすればいい。
ダーシェンカは頭の中が空っぽになっていくのを自覚しながら、徐々に攻撃のギアを上げていった。
自分の中に芽生えた仄暗い不安が、あの夏とは違う“生きたい”という意志から生まれているということには気付くはずもなく。
* * *
呼吸が荒くなるのを感じながらも、来栖は懸命に目を凝らしていた。運動した訳でもないのにこうも息が上がるのは兄が封印されたあの日以来かもしれない。
正確には、あのときは息が上がったのではない。呼吸が止まったのだ。喉に異物が詰まったかのようになり、あっという間にブラックアウト。
意識を取り戻してみれば、病院のベッドで横になっていた。記憶に残っているのは病院独特の消毒薬のにおいと、来栖が意識を取り戻したことに安堵の涙を浮かべた兄の仲間の顔だった。
あのときの、そう、あのときの息苦しさに比べたらどうということはない。この程度の呼吸困難など、どうとでも乗り越えて見せる。
兄を、大切な兄を取り戻すそのためならば。
来栖は我知らず胸元を抑えながら呟き、状況を見据える。
来栖が声を掛けてから、ダーシェンカの動きには淀みがなくなった。迷いや不安も消えている。まるで機械のように冷え冷えとした攻撃を次々と男に放っている。
対する男も流石に只者ではない。巧妙に立ち位置をズラしながらダーシェンカの攻めをいなし、なおかつコンテナというエリアから抜け出そうともしない。
その意図が読めなかった。
来栖の眼には全てが映っている。男が身にまとう迷彩も、ダーシェンカが攻める攻撃の行く末も、男がかわすコースも。
そして、どうすればダーシェンカの攻撃が男の命を刈り取ることが出来るのかさえも。
男が身にまとう術式も、来栖はものの数十秒で解析し終えた。空間を歪め、来栖の能力を阻害するその魔術も、来栖が歪んだ空間を独自に補正してしまえば何の意味もなしえなかった。
つまるところ、男に残された未来は“死”のみのはずなのだ。
だというのに、来栖はそこまでの道筋をダーシェンカに告げることが出来ない。そもそも目の前の男の本当に厄介なところは、感情が読めないことなのだ。
来栖の瞳は感情すらも映す。希望や不安、興奮や落胆、そのような不確かなものさえも映し、情報が多ければ言語化だって可能だ。
先ほどまでのダーシェンカの気持ちを言語化するならば「こいつは何かを隠しているかも知れない。自分はどう攻めても勝てないのでは?」といったところだ。
だからそれを打ち消すために来栖は最良の一言と表情を向けた。
結果ダーシェンカは落ち着きを取り戻し、感情の揺らぎが“小さく”なった。そう小さくなっただけで消えたわけではないのだ。
だが、男にはそれがまるでない。感情などはなから持ち合わせていないかのように淡々と行動する。
あらかじめ組まれたプログラムのようにダーシェンカの攻撃をかわしていく。そこには何の恐怖も、ましてや思考もない。
見て取れるのはまるで反射のみで動いているかのような全身の筋肉の動きのみ。
だからこそ不気味なのだ。それこそ来栖だってダーシェンカが考えたことと同じ結果にたどり着きかけている。それでもこの異能を使い、男の命を絶つためのプロセスを懸命に編み出しているのだ。
視認して足りない部分は自分で補い、誤差が出ればまたそれを修正し、ダーシェンカが男からかすめ取るように暴く男の僅かな情報を積み上げながら。
望む未来のためにひたすら演算、誤差、修正、演算、誤差、修正、演算、誤差、修正と繰り返していく。
いちいち言語化などしない。ただひたすら望む未来を脊髄反射のように紡いでいく。
だが未来が高く積み上がれば積み上がるほど、来栖の呼吸は荒くなっていく。瞳も、徐々に光を失っていく。
それでもなお、脳の回転は上がっていく。
脳の回転が限界に達しようとしたそのとき、来栖は遠くにまるで光がはじけるような、甲高い音を幻“視”した。
真っ白な闇が自分を包み込む。そこは一切の影のない、光のみで構成された世界のようだった。
そんな世界に来栖は一人佇んでいる。
総ての事象が、手に取るように理解できる。物事の本質が思考するより速く自分の内側に雪崩れ込んでくる。思考する必要などない。なぜなら答えは始めからソコに用意されているのだから。
幾万通りも。
来栖がするべきことはそこから自分が望む終局を選びとる、ただそれだけだ。なんてことはない。自分が今まで必死に編み出そうとしていた結果はこんなにも容易に掴みとることが出来たのではないか。
今まで自分は何を必死に探していたのだろう。
来栖はどこか自嘲的な笑みを浮かべながら、自分が望む終局に手を伸ばした。
光の世界の中でより鮮烈な光を放つ、その未来に。
* * *
イズミはいっこうに鳴る気配のない携帯電話を握りしめながら、自分が取るべき行動を思索していた。
定時の連絡がないということは、何らかの状況変化があったということに他ならない。最悪の状況を想定するならば、二人が既に敗北しているということもあり得る。
だが、とイズミは携帯をより一層強く握りしめる。
今はまだ最悪を想定するときではない。想定すべきは二人が交戦状態にあるということだ。最悪の状況を想定するのは敵が眼の前に現れてからでも遅くはない。
なにせその状況を想定したところで出来ることなど何一つないのだから。
いま、自分にできること。
ただそれだけを思索する。腹の傷は痛みこそあるものの、動けないほどではない。エーテルの散布に関してもなんの不調もない。もっとも、敵に勘付かれることを想定してごく至近にしか散布していなかったが。
動ける。
イズミは判断し、ベッドから降りる。ハンガーにかけてあったシャツを羽織り、パジャマ替わりのハーフパンツからジーンズに履き替える。
「行くのかい?」
イズミが病室から抜け出ようとした矢先に扉が開き、久弥が姿を現した。こちらもいつ間にやらスウェット姿からイズミと同じような姿に切り替わっている。
「はい。僕にも出来ることがあると思うので。それに、相手が異端審問機関ならネクロマンサーという餌に少しは食いつくでしょうし」
イズミは微苦笑し、久弥の脇を通り抜ける。
「僕に頼らないのかい? サポートするって言ったじゃないか」
「頼りたいのはヤマヤマなんですが、いいですよ。これは僕の問題ですし、何より、久弥さんが本当に来栖先輩を助けたいなら自ずから協力してくれるハズですしね」
イズミは足を止めて、柔らかな表情を久弥に向けた。
その表情に久弥はポカンと口を開けたのち、クスクスと笑った。
「……やっぱり、久弥さんは何かを“隠して”いるんですね」
得体の知れない笑いを漏らした久弥に驚くでもなく、イズミは困ったような笑みを浮かべた。
「あ、いや、すまない。まぁ、その通りだよ。その秘密が君たちに、いや、僕たちに不利なモノではないことを僕は祈っているよ」
「その言葉の意味は計りかねますが……僕もそう祈っています」
イズミは怪訝な表情を浮かべたのちに苦笑し「じゃ、いってきます」といって再び歩き始めた。
「あ、千澄たちの居場所だけでも視ようか?」
久弥はどことなく後ろ暗い表情を浮かべ、イズミの背に言葉を掛けた。
だが返ってきたのは「大丈夫ですよ。今のケータイにはGPS機能がついてるんですから」という、どこかからかうようなイズミの声音だった。
そんな言葉を最後に視界から消えたイズミを見送り、久弥は困ったように頭を掻いた。
「たった五年寝てただけで世界ってこうも変わるんですね」
久弥はまんざら独り言でもないように暗闇に呟いた。
「変わるさ。五年だろうが一日だろうが」
そんな言葉とともに暗闇からヌッと姿を現したのは黒のシックなワンピースに身を包んだクレアだった。
「あなたが言うとまた重みが違いますよね」
久弥は暗闇から現れた美しき乙女に苦笑を向ける。
そんな久弥にクレアもどこか嗜虐的な微笑を返す。
「だろ? 何せ私はGPSとやらが何かもよく分らんのだからな。国内総生産のことか?」
「……それはGDPですよ、総帥」
再び暗闇から別の声が上がり、今度は雪が姿を現した。
そのことにも久弥は驚くような素振りを全く見せない。
「こちらは……声を聞くのは初めてですね。イズミくんのお母さん、でいいんですよね?」
久弥は首をかしげながら雪を見つめた。
「えぇ、そうよ。まったく、あなた達の瞳には世界がどう映っているのか気になってしょうがないわね」
「あんまり変わりませんよ? ただ見てる分には」
「そうなの? まぁ、いいわ。それにしてもイズミはよくあなたの協力を断れたわね。我が息子ながら信じられない勘の良さだわ」
雪は嘆息を一つ吐き、イズミが消えていった先に視線を向ける。
「それはまぁ、確かに。でもずっと僕を疑ってる気配はありましたからね。土壇場で断られたことには驚きましたが、断られたこと自体に関しては特になんとも」
久弥はやれやれと肩をすくめ、続ける。
「でも凄いことですよ? 来栖家の便利な能力を前に自分の思考を失わないのは」
「まぁでもそれはお前たちが本当のことを伝えてくれるなら、という大前提あってのハナシだからな。イズミはお前を信用ならんと判断しただけだろ」
クレアがクツクツと喉を鳴らしながら久弥を見据える。
久弥はその視線に困ったような表情を浮かべ、頬を掻いた。
「まぁ、確かに妹の危機に平然と隠れ潜むことを選択するような人間は信用ならないですよね、イズミくんみたいな人間からしたら」
「まぁ……あの子ならダーシェンカの危機には瀕死だろうがなんだろうが助けに行きそうだものね、冗談抜きで」
雪はまんざらでもない表情で言い、続けた。
「でも、仕方ないのでしょ? おそらく久弥くんもこちら側の人間。より魔術の深淵を覗き、千澄ちゃんを見守る立場。だから今回は手を出せない。いいえ、出さないほうがいいと判断したのでしょ?」
雪が言い終えると同時に、雪とクレアの視線が久弥に注がれる。
久弥はその視線に逡巡し、やがて口を開いた。
「そうですね。来栖家の異能には、いいえ、千澄の異能には大きな秘密がありますから」
そう言った久弥の顔には、その言葉の内容とは裏腹に、どこか寂しげな微笑が浮かんでいた。
* * *
軽い眩暈とともに、来栖は前のめりに倒れかけた。その刹那に微かに意識を繋ぎ止め、なんとか体を支える。
(意識が、飛んでいた……?)
だいぶ長い間気を失っていたような感覚があるが、目の前の状況から察するに意識が飛んでいたのは一秒に満たないわずかな間らしい。だというのに何故だろう。本当に長い間、別のナニかを見ていた気がする。
いや、おかしいのはそれだけではない。あれだけ限界を感じていた体が、嘘のように軽い。軽いだけではない。頭の中も恐ろしくクリアになっている。
先ほどまでは答えを導くために数式を書きなぐっていたのに、いまはまるで――
答えが眼の前にぽつねんと記されているような……。
そこまで思い至り、来栖ははじかれたようにコンテナの上で激しい攻防を繰り広げるダーシェンカと男に視線を向ける。
分かる。そこに現れている事象の全てが手に取るように理解できる。ダーシェンカがどのように攻めんとし、男がどのようにそれを捌こうとしているのかが。
思考する必要などない。答えは始めからそこに記されているのだから。
天才はA点からC点までたどり着くのに、凡人が通過しなければいけないB点を飛ばすことが出来るという例えがあるが、来栖はまさにその状態にあった。
否。AからZにすらたどり着きかねない状態だった。
ただ一つ違うのは、用意された答えが一つではないということ。
来栖のサジ加減一つで、未来という答えは容易に変容しえた。
「ダーシェンカっ! 理詰めはいらない。力任せな一撃を! テレフォンパンチでも構わない」
来栖は叫びながら、自分の口から出た耳慣れない言葉に少しだけ驚く。
テレフォンパンチ、たしかボクシング用語で馬鹿みたいに大振りで相手にかわされやすいパンチのことだ。
それだけなら、どこかで聞きかじったのが咄嗟に出てきたのだろうと納得できた。
だというのに、来栖の口はまだ止まらない。頭との接続回路が焼き切れた口が、一方的にまくし立て始めたかのような感覚。自分に馴染みのない言葉がうちから湧きあがってくる。
「その男が展開してるのはごく僅かな空間歪曲魔術。それも男が纏っているんじゃない、そのコンテナの上に展開されているわ。男の周りだけ歪んで見えるのはむしろダミーよ。だからまずはコンテナから払い落して」
来栖は静かに、それでいてよく通る声で言った。
ダーシェンカが僅かな驚きの表情ののちに大振りな蹴りを放つ。男はさして慌てるでもなく、むしろ感嘆の口笛など鳴らしながら、タンッと軽快な足取りで蹴りをかわしコンテナから飛び降りた。
それに合わせてダーシェンカもコンテナの上から飛び降り、来栖を庇う位置取りに着地する。その動作に淀みはまったくない。
「いやぁ、あれを見破れるってことはやっぱり来栖久弥の妹だよね? まぁ、並大抵じゃない魔術師、って線もなくはないけどキミの佇まいはそういう雰囲気じゃないし」
男はニヤついた笑みを浮かべながら語る。
今まで男が持っていた存在感の希薄さはすっかり消え失せていた。今はありありと、男の粘ついた、空気感とでもいうようなものが見て取れた。
あの存在感の希薄さは、男の迷彩魔術の副産物のようなものだったのだろう。
「だったら……なんだというのですか?」
来栖は答えの分かりきった問いをぶつける。
相手の答えはおそらくこうだ。
『キミのその異能を貰いに来たよ』
来栖が思考するのと同時に男はまったく同じ内容を口にした。
ダーシェンカはいくらか驚いた表情を浮かべていたが、来栖からしたらなんということはない言葉だった。
記憶の中にある兄に掛けられた封印術式ならば、とうに解析が済んでいる。いや、とうにというのはおかしいかもしれない。ついさっき、あの眩暈から立ち直った瞬間にはいつの間にか解析が済んでいた、というのがより正しい表現か。
あの術式は封印に見えてその実、男お得意の次元歪曲魔術の一種、次元置換だったのだ。
自分に都合良く次元を置き換え、相手の能力を自分のモノとすることすら可能とする魔術。
もっとも来栖が試算した過程によれば、それをなしえるのは魔術というよりは異能に近かった。限りなく。
つまりそれが、この男の能力の根源。
「なるほど。兄さんがダメなら私というわけですか? 確かにその判断は正しいのでしょうね。兄さんより私のほうが攻略も数段容易でしょうし」
来栖は言葉と視線に少なくない憎しみを込め、呻くように呟く。
今目の前にいる男が全ての元凶。自分から兄を奪い、ささやかな平穏を踏みにじった忌むべき相手。
ならばその思いの丈を全てぶつけさせてもらう。この能力を使って。
「あなたの能力は文句なしに高い。でも私にはこのチカラがあります」
「それからそこのモンスターガールというファクターも大きいね」
男はダーシェンカを指差し、相も変わらずニヘラニヘラした笑みを浮かべている。それでいて身の回りに何の魔術も施していないのだから実力の底が計り知れない。
底は見えない。それでもある程度の値は算出できる。ならばあとはそれを確実なものとすればいい。
「一つだけ……聞きたいことがあります」
来栖は自分のうちから湧きだす憎しみを押さえながら、極めて冷淡な声で言った。
その言葉に男は首を微かに傾げる。
「兄さんを封じたのは……この異能が禁忌だったからですか?」
来栖は拳を白くなるほど握りしめながら問うた。
それは、本来ならイの一番に確認しなければならないことだった。だが、出来なかった。きっと心のどこかにこの異能は禁忌であるという負い目があったのかもしれない。禁忌に指定されるということは、その存在のほぼ全てを否定されるということだ。
それはどのようなことなのか、来栖には想像できなかった。イズミの例を聞く限り、生易しいものではないと思うし、そんな境遇で生きていくことの心境も計りようがなかった。
来栖の異能では視ることのできない、心の奥底。
それでも、もし禁忌と指定されていたとしても、負けてやるつもりはなかった。
ただ、ただ男の口から聞いておきたかった。五年前のことの真相を。
「いいや、違うよ? だってあのときは久弥はオレの協力者だったもの。他の禁忌を刈り取るための」
「なっ……!」
来栖はあっけらかんと紡がれたその言葉に目を見開く。
が、男はそんなこと意に介すようもなく。
「オレは自分の能力として役に立つモノを手に入れるために異端審問機関なんて七面倒な組織に入ってるんだけど、禁忌って案外代償デカイから手頃なのがなかなかなくて。でもまぁたまに? 手頃なモノが転がってたりしてさ。そのうちの一つがキミのお兄さんだった、ってワケ」
「そんな、そんなことのために兄さんを封印したんですか? そんな、自分本位な理由で。誰にも迷惑を掛けてない兄さんを……!」
「まぁ、そういうことになるかなぁ。けどさ、魔術師にとっては自分の能力の研鑽が全てだから、十分まっとうな理由よ? ま、オレみたいな手法は禁忌の領域だけどね」
言い、男はケラケラと笑う。
ダーシェンカが呟いた「下衆め」という言葉が闇夜に吸い込まれていった。
対照的に来栖は言葉を、表情を失っていた。
日常を生きてきた来栖には、男の言葉はあまりにも理解しがたかった。いや、受容しがたかった。
異能のおかげで男の言っている内容は理解できるし、禁忌に手を染める魔術師の思考回路も、また魔術師というものがいかにより高位の存在に近づくことを大切にしているのか、ということも理解できた。
それでも来栖の心がその理解を拒絶する。決して、決して理解してはいけないことなのだと警鐘を響かせる。
「わた、しは……」
来栖の口はそのように動いていたが、声にはなっていなかった。唇だけが、何かを伝えようとむなしく動く。
が、次の瞬間にはその唇は真一文字に結ばれていた。目にも、凛とした光が戻っていた。
それは、何かを決意した者の瞳に他ならなかった。
憎しみに似て非なる感情。そのような何かが来栖の瞳には宿っていた。
「いける? ダーシェンカ」
「無論だ」
視線鋭く問われたダーシェンカは、不敵な笑みを返す。
その笑みに来栖は似た笑みを返し、再び男に視線を向けた。
「私はあなたを、絶対に許さない……!」
来栖は呟き、次いでダーシェンカに囁くように指示を出した。
臨機応変に、などという生易しいものではない。A(始まり)からZ(終局)までを記した、男にとっては悪夢のようなシナリオを。
来栖の指示を受けたダーシェンカはすぐさま地面を蹴り、男との距離を詰める。見かけは先ほどまでのものと変わりのない攻撃。事実何一つ変わっていないのだ。
変わったことと言えば、その狙いが男を傷つけるためのものではなく、男を移動させるものになったということぐらいだ。
鋭く、素早い攻撃を続けながら、ダーシェンカは男の立ち位置を巧妙にずらしていく。先ほどまで男がコンテナの上から降りようとしなかったのは、降りる必要がなかったのではなく、あの中にこそいなければならなかったからだ。
今もコンテナの上にはその術式が残されており、イザというときはそこを隠れ蓑にされてしまう。
空間を歪める男の術式は、空間を歪めて情報の把握を阻害するだけではなく、その気になれば距離の操作もできるようになってしまう。短距離のみなら、瞬間移動のようなものすら可能としてしまう。ダーシェンカを手玉に取ることも容易だっただろう。
男がそれをしなかったのは単なる好奇心のため。
ダーシェンカがどのような存在なのか。来栖がどの程度のチカラを保有しているのか。
ただそれを知るためだけに自分の勝利を先送りした。
ならば今すべきことは立ち位置を固定させず、術式を展開させないことだ。もちろん、その先のシナリオもダーシェンカには伝えてある。
――後悔させてやる。
来栖は眼前で繰り広げられるダーシェンカと男の攻防を眺めながら胸中に呟く。憎しみとは少し違う、むしろより冷え冷えとした、まるで義務をこなすかのような淡々とした心持ちで。
* * *
冷房が程良く効いた非合法ホスピタルにあつらえられた応接間。来客用に作られただけあって豪奢に仕立てられたソファに腰かけ、久弥は雪とクレアと向かい合って座っていた。
両者の間に置かれたガラス天板のテーブルには、湯気の立ち上るコーヒーカップが置かれている。
久弥は雪とクレアに千澄の能力についておおまかに語り、湯気の立ち上るコーヒーを口に含んだ。貧乏舌の久弥にはよく分らないが、それなりの品を感じさせる味だった。
こういう品定めも異能を使えば一発なのに、などと久弥は場違いなことを頭に思い浮かべる。
「未来視……? それは本当なの?」
雪は怪訝な表情を浮かべて久弥が先ほど告げた言葉を反復した。
未来視、来栖一族の異能はそのような印象を与えるが、厳密には違う。様々なファクターを積み上げ、未来を予測するのだ。そんなことは誰にでも出来る。精度の差はあれど、だが。
たとえば、テストの点数などを事前に予測する場合、必要なファクターは勉強時間の長さや密度、出題者の癖、その他諸々だ。普通の人でも、これらのファクターを含めてそれなりの精度をもった予測を立てることが出来るだろう。その程度の事柄なら。
来栖家の異能も結局はその延長線上だ。拾えるファクターの数の桁が違うだけで。
――だが、来栖千澄の能力はそれだけではなかった。
「えぇ、本当です」
久弥は雪の驚きを察しながら、カップを静かに置いた。
「私でさえにわかには信じがたいな……」
そう呟くクレアの表情は平素とまるで差がなかったが、声音から察するに、本当に驚いているようであった。
そんな二人を眺め、久弥は息を一つ吐く。
そう。魔術の奥の奥に達しているこの二人でさえ、信じられないのも無理はない。
未来視。その本来の意味するところは――。
「千澄は、変ええぬ未来を見ることが出来るんですよ」
久弥は先ほども二人に告げた言葉を繰り返し、さびしげに微笑んだ。
変ええぬ未来、それがどれほど悲しい意味合いを含んでいるか、久弥は知っていたから。
「変ええぬ未来、そんなモノが本当に存在するんですか?」
「知らんよ。私が知る変ええぬ未来はせいぜい、極めて変え“がたい”未来だ」
雪に問われたクレアは、苦笑いながらソファの背もたれに体をうずめる。高級故の弾力を持ったソファに、華奢なクレアの体は半分ほど沈んだ。
変ええぬ未来と極めて変えがたい未来の差。それはいかほどのものなのか。
極めて変えがたい未来が確率で計れるモノとするならば、変ええぬ未来はそんな脆弱な物差しでは測ることが出来ないモノだろう。
運命だとか、宿命だとか、そういった類の言葉で表現されるものがまさにソレ。
朝元気に家を出ていった者が、外で通り魔に殺される。
それは大抵、その場所に行きさえしなければ助かったのだということが考えられる。だがもし、どうあっても死ぬ“運命”だとしたら? 外に出ようが、家にいようが死ぬのだとしたら?
千澄の視る未来とは、そう言った“結果”だった。積み重ねられた過程など関係なしに訪れる、理不尽極まりない未来をすら視ることが出来るのだ。
「……千澄は小さい頃によく奇妙なことを言ったんですよ。街で見かけた人にいきなり、あなた今日死んじゃうよ、だとか、幼稚園の同級生にあなたとあなたは結婚するわね、とか」
久弥はどこか遠い目をして言った。
前者なら、久弥にも予測できるかも知れない。だが後者は、おそらく不可能だろう。生まれたての赤子が将来何になるか予測するのと同じくらい、不確定な要素が多すぎる。
久弥が予測できるのはほんの少し先の未来までだ。
「それは、また……」
久弥の言葉を聞いた雪が表情を暗くする。
子供を持つ者として想像したのだろう。そういう子供がどのような扱いを受けてしまうか、ということを。
「まぁ、多少は気味悪がられましたけど、子供の戯言だと思われてましたよ、大抵は」
久弥は苦笑し、続ける。
「でもうちの両親はそう思わなかった。今はまだ偶発的にしか未来を視なくとも、いずれはより多くの視たくもない未来を視てしまうのではないか、と考えたんです」
「それで千澄の能力を封じたのか?」
「いえ、そんなたいしたことはしてませんよ。ただ霊視をするな、と言ってきかせただけですから」
クレアの言葉に久弥は小さく頭を振って答えた。
「来栖家の異能は共感覚を利用したものですからね」
久弥はそのように切り出し、己が身の異能について語り始める。
本来なら誰に語ることもない話。語る必要もない話。それでも久弥が口を開いたのは、妹がこれから歩む可能性のある未来を思ってのこと。
自分が下手を打ったせいで、妹が再び魔術に触れることになってしまった。せっかく、幼い頃の忌まわしい記憶を忘れているというのに。もしかしたらそれすらも、遠くない未来に掘り起こされてしまうのかもしれない。
ならばせめて、せめて僅かながらでもその歩む道が平坦なものとなるように、愚兄としては尽力せねばなるまい。
そんな思いが、久弥の中にはあった。
久弥はそんな思いを胸に語る。
共感覚。それは、赤い色を見て暖かいと思ったり、風鈴の音を聞いて涼を感じる、といった類のもの。
しかしごく稀に、より優れた共感覚を保有した者が存在する。音に色を感じたり、表情に色を感じたり。物がすべて数字に見えるというものも似た部類かもしれない。
来栖家の異能は、その全てをエーテルで捉える共感覚。視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触角、聴覚、それら五感の全てと霊視という第六感を共有することで、極めて精度の高い未来予測を可能としているのだ。
「そんな、五感全てと霊視をリンクさせているなんて……信じられないわ」
久弥の説明を聞いた雪が眼を見開いて呟いた。冷静な雪にしては、わりかし珍しい反応といえよう。
そんな雪に久弥は肩をすくめながら苦笑する。
「まぁ、我ながらそう思います。でも来栖家の人間は呼吸するようにそれができるんですよ。それに、僕からしたらネクロマンサーのほうがよっぽど信じがたいですよ」
「それを言われると……それもそうね」
雪は苦笑し、すっかりぬるくなってしまったコーヒーを口に含んだ。
「まぁありがたいことに千澄は、それらの記憶をきれいさっぱり忘れているんですがね……」
「それは、どういう?」
「千澄が最後に視た変ええぬ未来はですね……両親の死なんですよ」
久弥は言いながら、どこか疲れを感じさせる笑みを浮かべた。どうしようもない事柄にぶち当たったときに多くの人間が漏らす、諦観を含んだ笑みだった。
久弥の口から語られた言葉に、雪は息を呑み、おもむろにコーヒーを飲もうとしたクレアもその手を止める。
「それを視た瞬間に千澄は軽いショック症状を起こしましてね、気を失ってしまったんです。そして目覚めたときには両親はこの世の人ではなくなっていた」
「そんな……」
雪は口許に手をあて、言葉を詰まらせる。
幼い子供が、自分の愛する両親の死を視てしまう。それはどれほど心に傷を与えるだろうか。おそらく当時の千澄は、本能的にその視た出来事がどうしようもない未来だと察してしまったのだろう。
どのような出来事で死んでしまう未来を視たのかは想像するほかないが、たとえその未来を防いでも、他の未来で両親は死んでしまう。
そんな残酷な結果に、幼い千澄が取った気絶という行為は、最大最善の防衛行動だったのだろう。
「でもまぁ、そのおかげか、それ以来千澄は霊視を一切しなくなりましたし、変ええぬ未来を視ていたという記憶も失くしていました。脳の防衛機能が生きていく上で都合の悪いことを封じてくれたんでしょう。僕はそれが両親から千澄への最後のプレゼントだと考えているんですがね……」
そう言うと久弥は寂しげな微笑を浮かべ、首を小さく傾けた。
「……ふむ。まぁ、おおよその事情は分った。それで? お前は現状をどのように考え、またどうしたいのだ?」
クレアは同情の言葉も素振りも見せず、淡々と問う。クレアは痛いほど知っているのだ。過去に対する憐憫などはなんの益にもなりはしないと。それは所詮、自分を守るための行動に過ぎないのだと。
「そうですね……おそらく千澄は今回の戦いで多くのモノを視ると思います。それはつまり、未来視とは別に、この異能自体も大きく成長してしまうでしょう」
「異能が成長する?」
「えぇ。来栖家の異能は視た情報を脳で処理することで未来を予測します。しかしそれには様々な知識が必要になる。普通の知識と違い、僕たちは状況を視るだけで様々な知識を得られるんです。つまり、視れば視るほど知識は貯蓄され――」
「予測能力も高くなっていく、というワケか」
久弥の言葉をクレアが引き継いだ。
クレアの言葉に久弥は頷き、続ける。
「おそらく千澄の能力は今回の出来事でハネ上がります。何せ相手は超一流の魔術師ですからね。それがまた異能とは別に、未来視の力にどのような影響を及ぼすのか……それも不安なんです」
久弥は言い、顔を俯けた。
分っている。今はまだ、本当なら千澄を守ってやることが出来る。千澄の代わりに矢面に立ち、戦ってやりさえすればいいのだ。
だが、久弥はあえてそれをしなかった。
今回のことは千澄にも責任があるし、千澄はそれを果たそうと頑張っている。それを兄が横からしゃしゃり出るのは過保護というものだし、何より、これからも千澄を自分が守ってやれる保証はどこにもない。
普通に生きてきたとはいえ、千澄も結局は来栖家の、いやそれ以上の異能を抱えた存在なのだ。遅かれ早かれその歪みはどこかで生じてしまっただろう。それが今出てしまった、それだけの話。
いやむしろ、最良の形で生じたとも言えるかもしれない。何しろ千澄は一人ではないのだ。イズミやダーシェンカという在り方の似た存在がそばにおり、なおかつ斜に構えてはいるが基本的には心優しいクレアという存在もいる――もっとも、クレアには優しさと同じだけの厳しさも同居しているが。
ともかく、今をおいて他にはないとしか思えないのだ。千澄が異能と向き合い、これからをどう生きていくのか判断するチャンスは。
本当の意味でそれを決められる年齢に、千澄は達しているのだから。
「でも、総帥が千澄ちゃんの能力にリミッターを掛けたって……言ってませんでしたか?」
久弥の不安を察してか、雪はクレアの顔を覗きこみ問うた。
その視線にクレアはムズ痒そうに顔を歪め、若干唇を尖らせる。
「それは、まぁ、確かに掛けたが……」
「掛けたが?」
「それほど強力なモノではない。能力に過負荷が掛れば簡単に外れる代物だ」
「なっ! それじゃあリミッターの意味ないじゃないですかっ」
「いや、だってな、あまり強力すぎると来栖の能力が役に立たないし、私は能力を阻害することよりもむしろ、どの程度苦痛に耐える根性があるかを試そうと……」
「要するに、面白半分に掛けたリミッターだったってことですね?」
雪の顔が、恐ろしいほどの笑みに変わる。
「あ、いや、だって、未来視とかそんなもの知らなかったし。それにほら! リミッターが強力すぎると勝率が、」
「ご自分の悪癖の言い訳はいいですっ!」
「クスっ」
雪の叫び声と、久弥の笑いが漏れるのは同時だった。
その笑い声に、雪はポカンと口を開けて久弥を見つめる。
「あ、失礼しました。あまりにもおかしいものだからつい」
久弥は口許を押さえながら軽く頭を下げる。
「おかしいって……どこが?」
「いや、だって一流も一流の魔術師同士がじゃれあうように争っているんですから、おかしくてつい……」
「おかしいって、自分の妹のことなよ?」
雪は少しだけ語気を強める。
それでも久弥の態度は変わらない。いやむしろ、より笑いを堪えるような表情になっている。
「いや、分ってはいるんですがね。それでも、千澄はなんて恵まれてると思わずにはいられないんですよ。そうですよね、クレアさん?」
久弥は微笑みながら唐突にクレアに話を振る。
クレアは千澄を利用したように見えてその実、その身が内包した歪みを的確に見抜き、最善の――と言えるかは若干怪しいが――方法でそれを正そうとしていたのだ。
話を振られたクレアは気まずそうに頬を掻き、口許を歪に歪める。
「お前、素知らぬ顔して色々と情報を拾っていたな? その目で」
「はて、なんのことでしょうか?」
睨みつけるクレアに久弥は平然とうそぶく。クレアがどのような存在であるかその目を通して理解しているというのに、イズミをからかうのと同じような態度で。
クレアはそんな久弥の態度に深々と溜息を洩らし、ソファに体を埋める。
「お前が視たことをみなまで言うなよ? 言ったらその時点で、私の全権限を用いてその異能を禁忌に指定してやる」
クレアはそっぽを向きながら唇を尖らせる。その首筋は、見る者が見れば微かに分かる程度に朱を帯びていた。
「はい、仰せのままに」
久弥は微苦笑し恭しく頭を下げる。
「まったく……この手の能力者はキライだ」
クレアは吐き捨てるように呟く。
「フフフ、総帥が手玉に取られるのを見るのは何年ぶりですかね?」
「たぶん百年ぶりぐらいじゃないのか? 私を手玉にとったのなんて雪くら、」
「ん? 何か言いましたか? 総帥」
雪はクレアの言葉を遮り、微笑む。
「……なんでもない」
クレアはおのずと降伏するように両手をあげていた。
雪は「ならいいんです」と微笑み、視線を久弥に移す。
「それで……久弥くんは知っているのでしょ? 千澄ちゃん達を狙う魔術師を」
雪は少しだけ身を乗り出し、久弥と向かい合った。
久弥は雪の言葉に深々と頷く。
「その魔術師が僕を封じた者だというなら、当然知っていますよ」
久弥は一息置いた。封印されたときを思い出しているのか、苦々しげな表情を浮かべている。
「……彼は、彼は唯一、僕の瞳を欺いた男ですからね」
久弥は苦悶の表情で呟き、その苦悶をかき消すように冷めきったコーヒーを一気に口に流し込んだ。