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第3章 崩壊した物語は、偶発的に再生する(1)

 ゆっくりと、しかし一瞬で、イズミは意識を取り戻した。

 自分を包むかすかな重みが布団の重みであるということに気付くのに三秒。自分が目にしている天井が見覚えのある、しかし自分の部屋のモノではないことに気付くのにさらに五秒。

 そして、自分を見つめる亜麻色の瞳が二つあることに気付くのにもう二秒。

「ダー、シェンカ?」

 イズミはかすれが擦れの声で瞳の持ち主の名を呼んだ。乾燥してささくれ立った唇が立てた音の方が大きいのではないか、と思えるほどに消え入りそうな声だった。

「あぁ、私だ」

 それでもダーシェンカはその声を聞き取り、慈しむような声をイズミに返した。

 イズミはその声に安堵し、体を起こそうと試みる。だが体は思うように動いてはくれない。

 金属のきしむ音が、イズミがベッドに横たわっていることを伝えるだけだった。

 ――そういえば腹の傷が。

 イズミはベッドのきしむ音を聞きながら思い、途中で気がついた。腹部には何の痛みもない。ましてや感覚すらない。

 どうにか体の状態を確かめようと身じろぐイズミの肩を、ダーシェンカが優しく抑えた。

「麻酔が効いてるからしばらくは動けない。麻酔が抜けるまではゆっくりと眠ったほうがいい」

 ダーシェンカは首を傾げながら優しく微笑み、イズミの額を軽く撫でた。

「そ、う」

 イズミはダーシェンカの手のヒンヤリとした感覚に安堵し、ゆっくりと瞼をおろした。

 鮮明に覚醒したはずの意識が、信じられないほど呆気なく、まどろみのうちに沈んでいく。

 ものの数分でイズミは穏やかな寝息を立て始めた。

「さて、話の続きを聞かせてもらおうか」

 ダーシェンカはイズミが眠りに落ちたことを確認すると、穏やかな表情を消し去り、部屋の壁際に立っている二人に炯眼をむけた。

 そこには、不遜な表情を浮かべているクレア・ブリンズフィールドと、クレアとは対照的に憔悴しきった表情を浮かべている来栖千澄の姿があった。

 来栖との戦いで傷口が開いてしまったイズミは、駆け付けた松崎の手によって、夏休みにも使用した幸也の非合法医院に運び込まれた。

 松崎はイズミを運び込むなり迅速な処置を行い、今いる病室にイズミを移すと「正規の仕事があるから」と言って勤務する病院に戻っていった。

 現状を要約するならば、松崎の登場のおかげで全てが丸く収まったという訳だ。

 だが、とダーシェンカは思う。ダーシェンカにとって円満な問題の解決とは、敵が目の前から――できることならばこの世から――消え去ることを指す。

 だというのに目の前には敵がのうのうと存在している。しかも解せないことに、敵の一人がイズミの命を救う算段を整えたのだ。

 イズミの両親が所属するする組織の総帥と名乗った、クレア・アクロマ・ブリンズフィールド。

 クレアの言動には不可解な点が多すぎた。クレアが病室でダーシェンカに聞かせた話の大筋はこうだ。

 イズミの能力を試すために日本にやって来て、たまたま見つけた面白い境遇に置かれた来栖をけしかけてイズミを襲った。

 それだけならばまだダーシェンカとしても困惑しない。感情のやり場に困りこそすれ、状況を甘んじて受け入れるほかなかっただろう。

 イズミは――ついでに述べれば来栖も――クレアの言うところの試験に合格したのだから。

 それで一連の物騒な諸問題にカタがつくのならそれで良かった。おそらくそれはイズミが望んでやまない形だろうから。

 それでも、ダーシェンカはクレアに問わねばならないことが多く存在した。

「結局お前は私達の敵なのか? イズミの父を殺したというのは……本当、なのか?」

 ダーシェンカは、圧倒的な実力差があると理解しながらも、威圧的な声音でクレアに問うた。

 もっともクレアの目には子犬が怯えながら唸っている程度にしか映らなかったらしく、その口元は相変わらず不敵な笑みが浮かんでいた。

「私は敵でも味方でもない。その名が示すとおり、言わば審判だ。それ以上でも、それ以下でもない。基本的には、な」

「イズミの父の件は」

「幸也なら確かに殺したさ。もっとも、あの程度の殺し方で死ぬようなタマじゃないだろうがね」

 クレアは円らな瞳を残酷に細めながら、クツクツと喉を鳴らした。

 その言葉にダーシェンカは首を傾げ、隣で聞いていた来栖は肩を小さく震わせた。

 クレアの不可解な言葉にダーシェンカが質問を重ねようとすると、それを遮るようにクレアが続けた。

「ともかく、だ。十中八九幸也は“生き返って”いるから心配するな。なんならインターネットとやらで幸也について検索してみたらどうだ。高名な医師であらせられるあの輩のことだ。今現在の活躍が載ってるんじゃないか?」

「む……分かった」

 ダーシェンカはクレアの言葉にとりあえず頷いてみせたが、正直なところその意図をくみ取ることは出来なかった。

(生き返って……?)

 ダーシェンカは眉根を寄せながらクレアの言葉について黙考する。

 常識の範疇で考えれば、クレアが事実を誇張して述べているだけと捉えるのだろうが、相手は超のつく一流魔術師だ。非現実的な内容も現実にしうる存在がそう言っている以上、事実と捉えてもなんら不思議はない。

 クレアと同様に幸也もまた、超一流の魔術師なのだから。

「それで……試験が無事済んだというのなら、お前は私達の前から消えてくれるのか?」

「あら、可愛らしい後輩に向かってその言いぐさはないんじゃないですか? それに私はまだ重要なことを伝えてませんから」

 クレアはやれやれと頭をふると、呆れたような笑みをダーシェンカに向けた。そしてチラと来栖に一瞥をくれ、続けた。

「私は来栖千澄が魔術に囚われた兄を助けたいと心底願っていることを知り、如月イズミ暗殺の見返りに兄を助けるという話を持ち駆けた。だがそれはイズミを殺すことが目的ではなく、来栖の人格を試すためだ。それで人を殺してしまうようなら今後禁忌に近づきかねんからな。その点で言えば来栖はギリギリとはいえ踏みとどまったから合格だ」

「その話と私達になんの関係がある」

 滔々と語るクレアに、ダーシェンカは苛立ちを隠さずに口を挟む。

 クレアの話している内容は来栖にのみ関連する話で、イズミとダーシェンカに関係のあることとは到底思えない。そのような無駄な話をするぐらいなら、要点だけ話して一刻も早く病室から消えて欲しい、というのがダーシェンカの考えだった。

 不遜に構えているクレアは勿論のこと、所在なさげに佇んでいる来栖もダーシェンカにとっては目障りに感じられた。

 踏みとどまったとはいえ、イズミを殺そうとしたことに変わりはないのだから。

「関係ない、とは言い切れない程度に関係のある話だ。いいか? 私はこれから来栖の兄に掛けられた魔術を解く。私はもとより来栖が如月イズミを殺さなくとも封印を解いてやる心積もりだったワケだからな」

 じゃあ来栖がイズミを殺していたらどうするつもりだったのだ、とダーシェンカが心のうちで呟くと、クレアがそれを読み取ったかのように。

「もし殺してしまった場合は、来栖千澄を処分した後に封印を解いてやったさ。約束通りに、な」

 と、こともなげにクレアは断言した。口元に淡い微笑すら滲ませながら。

 ダーシェンカはその微笑に背筋を凍らせた。目の前にいる少女がうちに秘めているドス黒い、いや、善悪など無い、底を感じさせない深遠な感情が恐ろしかった。

 クレアはダーシェンカがそのような感情を抱き始めつつあるのを知ってか知らでか、口元の微笑を消さなかった。

「兎も角、だ。私は来栖の兄の封印を解いてやる」

「だからそんなこと私たちには関係な、」

「関係ないな。あぁ、まったく関係ないだろうな。たとえ来栖の兄を封印した輩がこの街にやって来てもまったく関係ないだろうな」

「それは、どういうことですか?」

 疑問を投げかけようとしたダーシェンカよりも先に来栖が口を開いた。相も変わらずビクついてはいたが、言葉の端にはちょっとした芯が見受けられた。

 来栖にとって兄の存在は、ダーシェンカにとってのイズミに近しいものがあるのだろう。

 ダーシェンカはなんとなくそのように感じ、喉元まで来ていた疑問の言葉をグッと飲み込んだ。

 来栖のことは決して許す気にはなれないが、自分が逆の立場だったらと考えると理解できない訳ではなかった。

「これは限りなく正解に近い推論だが、来栖家の異能が、どこかの異端審問機関で禁忌と捉えられたのだろう」

 クレアはおもむろにピースサインを作り、その指先で来栖の両の眼を指し示した。

 来栖はその指先を呆然と見つめながら、クレアが言葉を続けるのを待つ。とても不安そうに、今にも恐怖で押しつぶされそうな表情で。

「封印が呪詛的なモノだとすれば、封印を解けば施術者に呪詛返しが起こる。気づかないはずはない。つまり、術を解いてももう一度敵と対峙せねばなるまいな」

「……そんな。兄さんはただ、人に害為すモノを退治してただけなんですよ? それがどうして禁忌なんかに……兄さんは、悪いやつに負けたとばかり思っていたのに」

 来栖はクレアの言葉に目を見開くと、力を失ったように床にへたり込んだ。

「無論その線もゼロではない、だがな、お前の兄に掛けられた封印は極めて高度な術式だ。お前の兄が所属していた組織の規模からすればそんな強敵と対峙する訳がない。もし仮に強敵と対峙してしまったとしても、そいつはお前の兄を躊躇なく殺していただろう。封印するより殺してしまう方が圧倒的に容易いからな」

 クレアは淡々と現状について述べると、小さく呆れたような溜息を洩らした。

 クレアは少し困ったような表情を床にへたり込んでいる来栖に向ける。来栖の耳にクレアの言葉はすでに届いていなかったらしく、その視線は宙を彷徨っていた。

「つまりお前はこう言いたいわけか? 禁忌を裁く者が近くに来る以上イズミも危ない、と」

 ダーシェンカはへたり込んでいる来栖に一瞥をくれ、固い表情をクレアに向ける。

 異端審問機関は何も世界にアクロマ機関一つではない。いやむしろ、アクロマ機関という組織はどちらかと言えば無いに等しい規模の組織だろう。都市伝説のように伝えられる過去の実績がアクロマ機関の存在感を高めているに過ぎない。

 そして、その百歩譲って権威あるアクロマ機関に認められようとも、他の機関が認めるとは限らないのだ。

 魔術世界に絶対的法は存在しない。その殆どが慣習法であり、小さなコミュニティでのみ通用するものである――もっとも、ネクロマンサーというものは全世界を通じて禁忌に最も近い存在と認知されてしまっているが。

 だが、来栖の場合はイズミとは勝手が違う。アジア、あるいは日本、はたまたさらに小さいコミュニティかも知れない範囲で禁忌と認定されてしまった。

 悪行を行っていないにも関わらず禁忌に認定されたことに、ダーシェンカは若干の同情を覚えはしたものの、それはイズミとて同じこと。

 強すぎる力はどこの世界でも危険視され、可能ならば排除されるのだ。

 来栖の持つ異能も、あまりに強すぎたのだ。いや、力が過ぎたというよりも、それが一代限りの異能ではなく、脈々と受け継がれていくものということの方が禁忌と認定されるに値したのだろう。

 おそらく来栖はその異能を自ら封じていたために難を逃れることができた、というのはクレアの推論。

「端的に言っていしまえばお前の推量であっているよ、ダーシェンカ。だが私がお前たちに警告しているのはそんなことじゃない」

「じゃあなんだというのだ。敵として迫ってくる可能性がある、それだけじゃないのか?」

 眉を寄せながら言ったダーシェンカに、クレアはやれやれと呆れたように頭を振った。

「もう少し思慮深いヤツだと踏んでいたのだが、買い被りすぎだったか……まぁいい。封印という術式はいかに簡略化しようと難解だ。それが今回の件は難解も難解。さて、ここで問題だ。禁忌を排除するとき、殺すのと封印するののどちらが容易いんだったかね?」

「そんなもの殺してしまう方が容易いに決まっている。その点で言えば来栖の兄の件はおかしいとは思う」

「そこまで気付いているのに何故想像できない。封印した者に何か別の思惑があるということを」

 クレアの言葉に首を傾げたダーシェンカは思索する。

 なるほど確かに来栖の兄の件は奇妙な点が多い。禁忌を排するならば殺すより最上の手段はない。だというのに封印というまどろっこしい手段をとったのはなぜか。

 粗雑な仮説を立てるとするならば二つ。

 一つはクレアの仮定するように何か思惑があってのこと。その思惑は想像するよりほかないが、ダーシェンカの考えついた説としては、高度な封印を解く者、すなわち禁忌を犯している可能性を持つ者をおびき寄せるための餌。だがこの説には決定的な欠点がある。封印を施した者がどうあっても後手後手に回ってしまうということだ。ましてや呪詛返しというハンデを負ってまで餌を撒くとは考え難い。

 そして二つ目。来栖の兄を封印した者が来栖の兄と対峙した時、殺害を試みたものの上手くいかず、封印という面倒な手段を選ばざるを得なかったという説。ダーシェンカとしてはこちらの説の方が濃厚に思えるのだが、クレアの口振りからするにこちらの方が可能性としては薄いのだろう。

「餌……ということなのか?」

 ダーシェンカは腑に落ちないものの、その推論を口にした。

 クレアはダーシェンカの答えに深く頷くと、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。

「おおかたその予想だろうな。あのレベルの術式を解けるものは禁忌か異常さ。この私のように、な」

「じゃあお前がその敵を排除したらどうだ? というより、敵の狙いはお前のようなヤツだろ」

 ダーシェンカはクレアの威圧に負けることなく棘のある言葉を返す。

 ダーシェンカはどうにも、クレアが状況を愉しんでいるようにしか思えなかった。クレアのはっきりとした魔術を目の当たりにしたことはないが、体育倉庫での一件を考えれば相当な手練だ。それこそ、どんな状況も力技でねじ伏せられそうなまでの。

「確かに敵の狙いは私のような魔術師だろうな。もっとも私に敵うヤツなどそうそう存在しないがな」

 クレアは心底楽しそうな笑いを洩らしながら言ったかと思うと、不意に凍てつくほどの冷たい視線をダーシェンカに向けた。

「先ほど私はお前たちに合格と言ったがな、正直気に食わないんだよ」

 クレアはなんの感情も籠っていない、どこか作り物染みた声で言う。

 ダーシェンカはその言葉に、その表情に返すべき反応が見当たらなかった。

 何一つ通じない。何一つ変えられない。そんな雰囲気が、目の前にいる、自分とそう歳の変わらないように思える少女から漂っているのだ。

 先ほどまでダーシェンカが虚勢を張れたのは、クレアが遊んでいたからに過ぎない。こんな表情を見せられては、迂闊な言葉は吐けるわけもない。

 だからダーシェンカは、悲鳴にも似た、短い息を洩らすのが精一杯だった。

「イズミが通り魔に遭っただろ? アレは私の仕業だ。きちんと自己防衛できるか試すための“最低限”の試験だ。まぁ、もっとも? 通り魔の強さの程度は一流の暗殺者レベルに設定してあったがな」

 クレアの口から淡々と語られる言葉に、ダーシェンカは怒りを覚えずにはいられなかった。だがそれも、クレアの一睨みで掻き消される。

「なにか文句があるのか? それとも何か? 魔術師というものは一般規格内の暗殺者にも劣る存在だからそれでは厳しすぎると言うのではあるまいな。え? イズミ愛しいばかりに何も見えていないクソガキが」

「異論は……ない」

 ダーシェンカは拳をキツく握りしめながら、やっとそれだけの言葉を絞り出した。

 ――返す言葉もない。

 それ以外に浮かぶ言葉など無かった。自分は何も見ていなかった。イズミよりは周囲に警戒を張り巡らせていると思っていたが、その実普通の生活を満喫してしまっていた。

 慢心など全くなかった、と言えば嘘になる。

「それでいい。まぁ、ともかくだ。お前たちは結局のところ何の力も示していない。示してくれたのはその仲睦まじさぶりと、自分を殺しに来た者すら殺せない甘さだけだ。言ってしまうとだな、イズミが雪の息子でなかったらとっくに殺している」

 クレアはありありと殺気の籠った視線を、ベッドの上で穏やかな寝息を立てているイズミに向けた。

 その視線が否応なく理解させる。クレアは本気でイズミを殺していた、と。いや、本気も何も殺すのが当然と思っているような視線だった。

「だから証明して見せろ。自分達が存在するに足る、何者にも利用されない力を持っていることを。そうすれば私はお前たちを殺さずに済む」

「私達に何をしろと?」

「私が封印を解いたら、術者、あるいは他の魔術師が来栖兄妹を狙ってくるだろう。その魔術師を退けて見せろ」

「それはつまり、イズミを殺そうとした人間を守れ、ということか?」

「そうだ。だが忘れるな。来栖はイズミの命を救った者でもある。何せ私は、来栖がイズミを殺そうが、止めるつもりはなかったからな」

 クレアは心底嬉しそうに微笑んだ。

 クレアの表情は、数分前のダーシェンカなら間違いなく掴みかかっていたようなものだったが、今はそれが出来なかった。

 迂闊に攻撃染みた行動をとれば、適当な理由をつけて処分されかねない。そんな剣呑な雰囲気がクレアの周りには漂っている。

「……分かった。言う通りにしよう」

 ダーシェンカは呻くように言い、地面にへたり込んだままの来栖に目をやった。

 来栖の視線は未だに宙を彷徨っており、クレアとダーシェンカの会話など、確実に耳に入っていない様子だった。

「それで、封印はいつ解くんだ?」

「今日にでも」

 ダーシェンカの問いに、クレアはニンマリと笑いながら答えた。

 予想していた答えではあったが、ダーシェンカは思わず歯噛みする。

 今日封印が解かれるとすれば、遅くとも一週間以内には敵がこの街にやってくるだろう。禁忌を狩る者がのんびりしてくれるとは到底考えられないのだから。

 そうなると、イズミは満身創痍のまま敵と対峙しなければならない。ヴェルナールとの戦いのときもそうではあったが、今回はそれよりも酷い。

 来栖との戦いで傷口が一度開いてしまっている以上、次に開いてしまえば最悪の状況にすら陥りかねない。

 それを知っていてなお、目の前にいる悪魔は今日にでも封印を解こうというのだ。

「……分かった。好きにするがいいさ。私一人でも何とかしてみせる」

 ダーシェンカはクレアの鋭い視線を真正面から見据え、宣言した。

 ダーシェンカの言葉にクレアは満足そうに頷き、何かを言おうとした。そのとき、消え入りそうな声が病室に響いた。

「わた、しも……」

 ダーシェンカとクレアが声のした方に視線を向ける。そこには、へたり込んだまま二人を見上げている来栖の姿があった。

「私も、手伝います。ダーシェンカさんが私達を守ってくれるというのなら、私もダーシェンカさん達を守ります。力不足かも知れませんが、やらせて、下さい」

 来栖は潤んだ瞳でダーシェンカを見つめながら、深々と頭を下げた。へたり込んだ状態から頭を下げたため、図らずも土下座のような形になる。

 いや、どの道土下座するつもりだったのだろう。来栖はそれほどまでに自分の行いを悔いていた。

「それは……無理だ」

 ダーシェンカはいつまで経っても頭を上げない来栖の脇にしゃがみ、穏やかな声で言った。

 それでも来栖は一向に頭を上げようとはしない。

「ネクロマンサーは、他の魔術師との共闘が認められていない。そうだろ?」

 ダーシェンカは確認するような視線をクレアに送る。

 クレアはその視線に頷き、口を開いた。

「ネクロマンサーとの共闘は認められていない。だがそれはあくまで脆弱なネクロマンサーを助けてはいけないというだけで、ネクロマンサーが他の者を助けようとすることは禁じられていない。それがどういうことか分かるか?」

 クレアの言葉に、ダーシェンカは思わず驚きの表情を漏らした。

 クレアはこう言っているのだ。

 今回は来栖兄妹を守る戦いだから共闘しても構わない、と。

「……分かった」

 ダーシェンカは驚きに目を見開いたままそれだけを口にする。

「利口で助かる。それでは私は来栖の兄に掛けられた封印を解いてくるから、お前たちはここで待っていろ。しばらくしたら来栖の兄を連れて戻ってくる」

 クレアはそれだけ言うと、無表情のまま病室を出ていった。

「あの……どういうこと、なんですか?」

 取り残された来栖は、呆然とした表情をダーシェンカに向ける。

「協力してもいい、ということだ」

 ダーシェンカは来栖以上に呆然とした表情で、クレアが出ていったドアを見つめていた。

 ――どうにも考えが読めないヤツ。

 ダーシェンカはクレアという少女について、それ以外の表現が思いつかなかった。


 病室の扉を閉め、クレアは小さな溜息を洩らした。

 ――まったく、嫌になるな。

 クレアは扉に一瞥をくれながら胸中に呟く。注意深く見れば、クレアの表情にはどこか困ったような微笑が浮かんでいた。

 クレアはそのわずかな表情を一瞬で消し去り、歩きだした。リノリウム張りの廊下に、よどみないリズムの足音が響き渡る。

 クレアはその音に意識を傾けながら、頭の片隅では自らの行動を省みていた。

 甘すぎる、とは我ながらに思う。本来ならばイズミ達だけでなく、来栖兄弟も処分することが正解なのだろう。そうすれば間違いなく、後顧の憂いを断つことができる。

 だが、クレアにはそれが出来なかった。口では、態度では、厳しいことを示せても、心の底では甘い決断を下してしまう。

 それもこれも、イズミ達が日常に寄り添って生きているからなのだろう。イズミ達が純粋な魔術師だったならば、クレアも容赦なく処分することができた。

 いや、その考えは言い訳にするには弱すぎる。望もうが望むまいが、魔術世界に片足を突っ込んでしまっている者に情けなど無用なのだ。その程度のことでいちいち情けを掛けていては、機関の存在意義自体が揺らいでしまう。

 ――では、なぜ?

 クレアは自問する。どうして自分がイズミ達に情けを掛けてしまったのかを。

 答えは簡単には出てくれそうにない。いや、すでにどこかしらで答えが導き出されているような感覚はあった。それでもクレアはそれを思考することを拒否した。

 答えを導き出してしまえば、この先の判断、行動に支障をきたしてしまう。だから導き出すわけにはいかなかった。

「……どうでもいい」

 クレアは無表情にひとりごち、思考の渦に蓋をした。

 これ以上こんな下らない事にかかずらっていたら、ロクなことにならない。そんなことはクレアの永い人生経験上明らかだった。

 そしてこんな事に少しでもかかずらってしまったときは、必ずロクでもないことが起こる。少しでも思考してしまった以上、今回もロクなことにならないのだろう。

 クレアはそんな予感を胸に苦笑を浮かべた。

 ――そう言えば、いつかも同じようなことがあったな。

 クレアは過去の感傷を一瞬胸によぎらせながら、ビルの玄関をくぐり抜けた。自動ドア一枚を抜けただけで、クレアをあまたの音が包み込む。

 人の話す声。歩く音。車の通る音。鳥が飛びまわる音。工事現場の音。

 その全てがクレアには遠く感じられた。自分とは違う世界の出来事のように。実際、違う世界の出来事なのだろう。

 クレア・アクロマ・ブリンズフィールドという少女の存在は、すでに一般世界と隔絶してしまっている。活動出来ているという点以外では、来栖の兄と違いないと言ってしまってもいいくらいに。

 クレアはどこか冷めた瞳を眼前に向けながら歩き始めた。九月も終わりに近づこうというのに、残暑は依然厳しかった。

 もっともクレアには暑さよりも、沸き上がる思考を抑えることが苦痛だった。

 自分がイズミ達のことを愛おしく思う理由が、日常を感じさせてくれる数少ない人間だということ。それに気付かないためだけに、クレアは思考を集中させた。

 集中することがより答えを明確にしてしまうという矛盾に気づきながらも、クレアにはそれ以外に方法が思い付かなかった。

 一方で、自分にもまだ分からないことがある、そのことがどうしようもなく嬉しかった。

 自分にもまだ人間の欠片が残っていると錯覚できるから。

「私は……すべきことをすればそれでいいのだ」

 クレアはどこか寂しげな表情で呟くと、街の喧騒の中から姿を消した。一瞬で、幻のように。

 そして、そのことに気付くものは一人としていなかった。クレアという少女の存在は、その美しさをしても、陽炎よりもあやふやな存在だったから。


** *


 奇妙な沈黙が病屋を支配していた。

 クレアが病室から去り、取り残されたダーシェンカと来栖は、椅子に腰をおろしてイズミの寝顔をぼんやりと眺めていた。

 イズミは穏やかな寝息を立てていた。麻酔が効いているとは言え、割と深い傷を負ってもこの程度で済んでいるということは、華奢な見た目に反してタフらしい。

「お前の兄は、どんなヤツなんだ?」

 沈黙に耐えかねたダーシェンカは、イズミの顔を見つめたまま呟いた。

 本当は来栖の兄が所属していた組織や、来栖家の異能について質問する方が、正しいのだろう。だがダーシェンカはそうしなかった。

 精神的に混乱している今の来栖にそのようなことを尋ねるのは適切ではない、という考えも勿論あった。だがそれ以上に、異能を持ってはいても日常を生きていた来栖に、ここまでの行動を取らせた存在に興味が湧いたという方が大きかった。

 来栖にとって兄という存在は、自分にとってのイズミのようなものなのだろうか、という興味が生まれたのだ。

「わ、私の兄は……とても優しい人、です。私達兄弟は、小さい頃に両親を失ったんですが、兄は来栖家の異能を活かして生計を立て、私を育ててくれました。自分の平穏な日常を犠牲にしてまで」

 来栖は握りしめていたスカートの裾をさらにきつく握りしめながら、震える声で語った。

それが精一杯絞り出した声だったのだろう。

「……そうか。よかったな、大好きな兄が帰ってきて」

 ダーシェンカは来栖のキツク握りしめられた拳を見つめながら、そう言った。

 その言葉に来栖は肩をビクつかせると、怯えた瞳でダーシェンカを伏し目がちに見つめる。

「違う、怯えるな。別に皮肉で言ったんじゃない。私はお前のことを許す気にはなれないが、イズミならばそう言っただろうと思って言っただけだ」

 ダーシェンカは不安げな表情を浮かべる来栖に、努めて穏やかな表情で言い、嘆息を漏らした。

 どうにも調子が狂って仕方がない。ダーシェンカはそう思わずにはいられなかった。

 目の前にいる少女はもうイズミに害をなさないだろう。断定するのは危険なのだが、騙しているという可能性の方が低いということは直感的に判断出来た。

 だからこそ来栖との接し方に戸惑ってしまう。元は排すべき敵、今は協力するべき存在。そう考えて事務的な会話をいくつか交わし、来るべき事態に備える。それが一番正しい接し方なのだろう。

 だというのにダーシェンカがそう出来ずにいるのは、来栖の日常を見知っているからなのだろう。そちらが仮初の姿だったならともかく、来栖にとっては日常が本来の在るべき場所だ。そんなことは今の怯えきった来栖を見ていれば嫌でも分かってしまう。

「……ありがとうございます」

 来栖は目の端に涙を滲ませ、消え入りそうな声で呟いた。

 そんな来栖にダーシェンカは困ったような微笑を返し、眠っているイズミに視線を移す。

 イズミは相変わらず穏やかな寝息を立てていた。その安らかな表情を眺めていると、今起きている出来事が悪夢か何かではないかと、ダーシェンカには思えてしまう。

 目が覚めたら、つい先日まで続いていた日常が続いているのではないか。そんな淡い期待が生まれてしまう。

(これではまるでイズミではないか……)

 ダーシェンカは頭を振り、浮かびかけた甘い思考を掻き消した。

 イズミに影響されているということは、嫌なことではない。嫌なことではないのだが、その影響がイズミを危険に晒すとなれば話は変わってくる。

 ――やはり自分は道具として在る方が。

「……似ているんです」

「え?」

 イズミが聞いたら間違いなく怒るであろう思考をダーシェンカが描き始めた瞬間、来栖が控えめに口を開いた。

「似ているって……何が?」

 ダーシェンカは来栖の唐突な言動に首を傾げながら問うた。

「兄さんと如月くんが、似ているんです。自分のことは二の次で、人のことばっかり考えてしまうところとか」

 来栖はイズミの寝顔を見つめ、呟きはじめる。その表情には微かな怯えも浮かんでいたが、どこかしら慈しむような、そんな穏やかな雰囲気も漂っていた。

 おそらくその慈しみはイズミに向けられたものではなく、兄に向けるソレをイズミに重ねているのだろう。

 ダーシェンカはそのような推測を頭に浮かべながら、黙して来栖の言葉の先を待った。

「私が如月くんを殺そうとしたとき、如月くんは反撃しようとしなかったんです」

 来栖はそのように話を切り出し、そのとき起きたことをつぶさに語りはじめた。

 クレアから大まかな内容を聞かされていたダーシェンカではあったが、来栖の口から直接語られた内容は、それはそれで諦念を伴った驚きをダーシェンカにもたらした。

 来栖が殺気を伴った攻撃を繰り出しても、イズミはそれに応じることなく防戦に徹した。来栖を葬り去る手段があるにも関わらず、だ。

 もちろん、そんな状況が繰り広げられることは来栖の瞳が予想していたし、予想していたからこそ来栖たちはダーシェンカをその状況から遠ざけたのだ。来栖の瞳はダーシェンカの繰り出す攻撃を寸分の誤差も出さずに算出できるが、その常識を超えた攻撃に対する回避能力を持たない来栖にとって、ダーシェンカは邪魔だったのだ。

 クレアの助力によってダーシェンカという障壁を取り除いた来栖は、予定通りイズミの甘さに付けこんでイズミを殺す、ハズだった。

 だが出来なかった。イズミの信じられない甘さを目の当たりにし、日常を生きていた来栖は我に返ってしまったのだ。

「今にして思えば、如月くんの甘さに、兄を見たのかもしれません」

 来栖はそう呟いて話を締めくくり、再び俯いてしまった。

 ――なんともイズミらしいな。

 ダーシェンカは来栖の独白を聞き終え、苦笑を漏らす。

 苦笑が漏れたことはダーシェンカ自身にとっても驚きだったが、それでもそれ以外に浮かべるべき表情が思い浮かばなかった。

「まったく……しょうのないヤツだ」

 ダーシェンカは呆れたようにため息を吐いた。

 向かってくる敵は討ち滅ぼす。それ以外に常識などないと思っていた自分がイズミの甘い考えを受け入れようとしている。

 それはダーシェンカにとって信じられないことだし、信じたくないことだった。

 今回はイズミの甘さが功を奏したが、そんなことは万が一の偶然に過ぎない。その甘さはこれから先、イズミを危険にさらす可能性の方が高いのだ。

 それだというのに、イズミだけでなく自分の中にもその甘さが芽生え始めている。そのことがダーシェンカにはどうしようもなく耐えられなかった。

 イズミに害なす敵は、どんな事情があろうと容赦なく葬らなければならない。少なくとも、自分だけはそのように在らねばならない。

 ダーシェンカは苦笑を消し去り、張りつめた表情で己に誓った。自分の中に甘さが生じていることを自覚しながらも、イズミの剣としてある以外に自分の立ち位置を固定できる場所がなかったから。

 ダーシェンカは思考を強制的に切り替え、これから先のことについて思いを巡らす。

 クレアが来栖の兄に掛けられた封印を解いたら、すぐに警戒を始めた方がいい。それは考えるまでもないことだ。

 だが問題は、どのように来栖兄妹を守るか、という点だ。

 来栖の口から聞いた限り、その身に内包されている異能はかなり役に立つ。むしろ最大限に発揮できればすんなりと敵を排することができるだろう。

 そう。最大限に発揮できれば、の話だ。

「お前の能力は、どの程度役に立つんだ?」

 ダーシェンカは自分の不安が現実のものであることを確かめるために、嫌々ながらも口を開いた。

「あまり、役には立たないと思います。私の異能はせいぜい、相手の繰り出す攻撃の軌道を読み取るくらいで……読み取れたとしても、避けられるだけの能力がなければ意味がないですし」

 来栖は顔を俯けながらも、芯の通った声で語った。声の調子から察するに、だいぶ落ち着いてきたと見ていいだろう。

(……やはり、か)

 ダーシェンカは自分の予想が的中したことに眉根を寄せ、顔を俯ける。

 クレアと来栖の話を総合すると、クレアの存在なくしてはイズミへの襲撃はうまくいかなかっただろう。

 来栖は確かに卓越した能力を持ってはいるが、その能力は余りに受動的過ぎる。周りの状況を的確に掴めても、それを自分に都合のいいものに改編するためには、来栖の能力が明らかに不足しているのだ。

「となるとやはり、こちらが不利と考えるべきか……」

 ダーシェンカは顎を軽く擦り、呻くように言った。

 来栖の能力は、先制攻撃においてこそ最大限の能力を発揮する。それがダーシェンカの考えだった。

 膨大な情報を的確に捌き、捌き終わった頃には戦わずして勝利を確固たるものにしている。それが来栖の能力の最も有効な使い方。実際、イズミとの戦いではこのパターンが用いられたのだ。

 だが、今度の戦いにその戦法は取れない。何せこちらは相手の情報など何一つ持っていない。ばかりか、相手はこちらのおおよその居場所、さらには来栖家の異能についても知っているだろう。

 先制攻撃など仕掛けようもない。

 黙々と思案に耽るダーシェンカを不安げに窺っていた来栖が、控え目に口を開く。

「ダーシェンカさんの考えは確かに正しいと思います」

「っ!? お前の異能は、心も読めるのか?」

「そんな大層な能力じゃありません。ただ、表情や息使いから表層の思考を読み解いただけです。少なくとも私では、心の底までは読み解けません」

 来栖は若干の狼狽を見せたダーシェンカに静かに答え、続けた。

「ご想像の通り、私の能力は場当たり的に使うのには向きません。私程度の戦況予測など、一流の魔術師なら難なくこなせるでしょうからね。実際、如月くんにもやられましたから。だから、事前に状況を組み立てる以外にはお役に立てません。ただ……」

「ただ、なんだ?」

 言い淀む来栖に、ダーシェンカが先を促す。ダーシェンカは無表情を装ってはいたが、内心来栖の異能に驚愕していた。

 表情と息使いだけから思考を読み解くなど、人のなせる技ではない。そう思わずにはいられなかった。

 おそらくそんな思考すら、今の来栖には筒抜けなのだろうが。

「ただ……私を囮にして、相手の情報を引き出すことができれば、二段構えで敵を撃退することは可能かと」

 来栖は真正面からダーシェンカを見据え、ハッキリとした口調で言い切った。

 ダーシェンカは、そう言い切った来栖の瞳に圧倒されていた。その瞳には、つい先ほどまで怯えていたとは思えないほどの、強い意思が宿っていたから。

 強い意志だけならば、ダーシェンカもすぐに言葉を返すことが出来ただろう。だが、来栖の口から語られた言葉の重みが、ダーシェンカにそれを躊躇わせた。

「……ダーシェンカさん。あなた“も”優しいんですね。漂ってる雰囲気が如月くんとそっくりですよ?」

 言葉を返せずに呆然としているダーシェンカに、来栖は優しく微笑みかける。

 ダーシェンカはしばらく来栖を見つめたのち、ゆっくりと頭を振った。

「その選択肢は無し、だ。お前が今も異能を発動しているなら私の考えはおおよそ分かるだろ?」

「えぇ。あなた達が課された試練は私達兄妹を守りきること。それなのに私を囮にしては本末転倒だ。そう思ってるんですよね?」

「そうだ。だからお前の案は却下、」

「それぐらいしなければ、私が如月くんにしたことは償えません」

 来栖はダーシェンカの言葉を遮る。そう言った来栖の表情には、固い決意が滲んでいた。

「分かって言っているのか!? 得体の知れない魔術師相手に囮になるということはな、死にに行くようなものだ! 幸運な場合を考えても、何か大切なモノを失うぞ。それは手足かもしれないし、五感のいずれかかもしれない。もっと酷い場合だって……」

 来栖は一気にまくし立てるダーシェンカを穏やかな表情で見つめていたが、不意に小さく頷き口を開いた。

「分かっています。ですが私にはこの眼があります。普通の囮よりは早く情報を引き出せます。もし仮に私が死んだとしても、敵の情報だけは必ずあなた方に伝えます」

「だからそれが本末転倒だと言っているんだ! お前が死んだら私達もクレアに殺されるんだ! お前の案は馬鹿げている!」

「でも……私がこの案を告げたとき、あなたはすぐに否定しなかった。それはあなたもそれ以外に方法がないと思ったからではないですか?」

 来栖は射抜くような視線をダーシェンカに向けた。その瞳はすでに答えを導き出しているのだろう。それでも口に出したのは、ダーシェンカをやりこめるため。

 自身を守るために使う異能で自身を死地に追いやろうという、なんとも言えない皮肉。

 案の定、来栖の指摘にダーシェンカは言葉を詰まらせた。

 実際、ダーシェンカもそれ以外に有効な手段が思い当らなかったのだ。相手が来栖家の異能を刈り取りに来るならば、来栖を囮にして相手の情報を掴むのが最上。もっとも、警護対象を危険に晒すという意味では愚の骨頂でもある。

 だからこそ、思い浮かべてすぐに否定した。だというのに、囮、いや、この場合は捨て駒と言った方が正しいのだろう。捨て駒の方からその案を提示してきた。

 並々ならぬ決意のもとに。

 それでもダーシェンカはそれを否定しなければならない。たとえクレアがこの案を容認しようとも、この案だけは絶対に受け入れることはできない。

 なぜなら、今傍らで深い眠りに落ちている少年は、この案を良しとしないからだ。絶対に。

「分かった……そんなに囮になりたいならば好きにするがいいさ。ただし、私が第一の囮になる」

 ダーシェンカはイズミの顔をチラと見やり、言った。

 そこから先のことは口に出さない。口に出さずとも、来栖には察せているだろうから。

 案の定、来栖は呆けた表情でダーシェンカを見つめていた。来栖が読み解いたダーシェンカの思考は、ロリポップのように甘ったるく、どんな辛酸よりも苦かった。

「分かって、言ってるんですか……?」

 来栖は呆けた表情のまま、半ば独り言のように呟いた。

 ダーシェンカは来栖の言葉に、黙って頷いて見せる。異能を発動させている来栖には、言葉などほとんど不要だから。

「そんなの……ダーシェンカさんの思考じゃないですよ。不合理すぎます」

「当たり前だ。これは私の思考ではない。イズミならどうするかと、イズミの思考をトレースしたのちの思考だ」

 呆然と呟いた来栖に、ダーシェンカはさも当然のように言った。

「そんな、そんなこと如月くんが考えるはずがないでしょ! ダーシェンカさんを一番の囮にして、私にそれを観察させるなんてっ!」

「考えるさ、イズミなら。何せ私は首を落とされでもしない限り、死ぬことはほぼない。強度の上で、私はお前よりも囮向きだ」

「でも! そんな危険な役を如月くんがあなたにやらせるなどあり得ない!」

 来栖は目を見開き、ベッドの上で寝息を立てるイズミを見据えた。

 ありえない。そう、ありえないのだ。目の前で眠る少年がそんな策を立てるなどということは。

 眠っている者の思考は読み解けないから、絶対にないとは言えない。それでも、来栖が見てきた如月イズミという少年の人となりから察するに、イズミがダーシェンカを危険に晒すような策を取るなどとは、どうしても考えられなかった。

 なぜなら、イズミの思考の最上位には、常にダーシェンカがいたのだから。

 もっとも、ダーシェンカの思考の最上位もイズミであるから、ダーシェンカがトレースしたというイズミの思考もあながち外れているとは思えない。

「嘘だと思うなら、イズミが起きてからイズミに策を立てさせてみればいいさ。きっとイズミは“二番目”に私が言った策を上げるハズだ」

 思案を続ける来栖に、ダーシェンカは肩をすくめながら微笑んだ。

 まるで、出来の悪い弟子が答えに辿り着くのを辛抱強く待つ師匠のように。


** *


 クレアが気だるげに瞼を持ち上げると、そこは見覚えのある扉の前だった。

 年季の入った二階建てアパートの一室。何度か訪れたことのある、来栖千澄・久弥兄妹の住処だった。

 先ほど幸也の非合法病院の前で瞼を閉じ、開いてみればこの扉の前に立っていた。

 それはときたま都市伝説の一つとして耳にする“妖精の悪戯”の類に似ている。

 いつの間にか知らない場所にいたり、自宅に帰りついているというアレだ。

 もっとも、クレアは意図的にその現象を起こした訳だから、戸惑うはずもない。代わりにその口元には、自嘲的な笑みが浮かんでいた。

 クレアが行ったのは自身の肉体をエーテル化し、光速に限りなく近い速さで移動するというもの。空間を跳躍する訳ではないためワープの類とは異なっていたが、結果だけ見ればなんら相違ないモノだった。およそ人には、ばかりか一流の魔術師にも為せない技。

 クレアは数瞬目の前の扉を見つめ、おもむろにポケットから鍵を取り出した。

 それは来栖から一応、と預けられたこの家の鍵だった。

 クレアは鍵など無くても家の中に入ることは出来たが、なぜか扉の前で移動を止めてしまった。

 ――自分が普通じゃないことを再認識するためにこの移動法を使ったのにな。

 クレアは手の中で微かに輝く鍵を見つめながら、寂しげに微笑んだ。そんな表情のまま鍵穴に鍵を差し込み、捻る。

 ここで鍵を使ってしまうのは“普通”という概念への執着か。と小さな感傷がクレアの胸で疼いたが、一瞬で排した。

 感傷を排すと同時に、ガチャリという音とともに扉が解錠される。クレアはその音をぼんやりと聞き流しながら、扉を開けて中に入った。

 質素にまとめられた室内を通り抜け、来栖の兄・久弥の眠る和室のふすまを開いた。

 部屋はクレアが初めてここを訪れたときとなんら変わっていなかった。まるで部屋の主と同じように、時間が停止しているかのように。

 もっともそんな見方はロマンチシズム溢れた見方で、実際には来栖がそうしているに過ぎない。自分が暮らす場所よりも念入りに掃除している、ということは塵一つ落ちていない室内から容易に想像できる。

「助けに来てやった、というのは少々驕りが過ぎるかね? 若人わこうど

 クレアは眠る久弥にシニカルな笑みを向け、傍らに腰を降ろした。

 そっと、久弥の頬に手を添え、慈しむ様に撫でる。

 クレアは久弥との面識など全くなかったが、久弥という男のことが好きだった。恋心とかそのようなモノでは勿論なく、単純に好感を覚えているというだけだったが。

 自らの身を異常に染めながら、妹の日常を守る。

 久弥のそのような在り方が、クレアにはどうしようもなく愛おしかった。

「お前の妹を利用したことは素直に詫びよう。もっとも、お前が目を覚ましてからまた謝る気はサラサラないがな」

 クレアはクスリと小さく笑い、目を閉じた。

 目を閉じ、精神を集中する。久弥に掛けられた術式にのみ、意識を傾ける。

 片手間に封印を解くことも出来ないではなかった。それでもクレアは、妹の“日常”を必死に守っていたのであろう久弥に敬意を払い、全身全霊を掛けて封印を解かんとする。

 術式を解明してみればなんと言うことはない。体系化された封印魔術の一端に過ぎない術式だ。何一つ特別なモノなどない、既存の術式。

 固定化の魔術を応用した、ごくごく“難解”な封印。

 ありとあらゆる流れ――血液、はては時まで――を固定化し、延々と同じところを巡らせる。

 停滞に似て非なるもの。

 それが久弥に掛けられた封印を端的に表すものだった。

 要するに、電圧が永遠に減ることのない電気回路のようなものだ。久弥という電流は、そのカタチを崩すことなく、同じ輪の中を延々と巡り続ける。

「確かに、並の魔術師では解けるハズもない術式だな」

 クレアは目を開き、小さく笑う。

 そして、久弥に掛けられた術式に静かに介入する。

 久弥の頬にそっと触れ、そこから自らのエーテルを送り込む。本来なら、他者の肉体にエーテルを送り込むということは攻撃に当たる。イズミのソレがダーシェンカ以外には武器と化すように。

 だが、クレアのソレは違った。自身のエーテルを久弥と完全に同化させながら送り込むという、離れ業をやってのける。それは言わば、自身の臓器などを他者のそれと同一化させるようなことだ。

 だが、それでもまだ足りない。送りこんだエーテルを使って術式を破らなければいけないのだから。

 クレアは延々と巡り続ける輪を思い浮かべ、自身もその中を巡る。巡りながら、自身を囲む檻、輪をなす外郭をイメージする。

 実際の檻は内からも外からも破りがたいが、魔術は違う。大抵は内か外のどちらかが弱い。たとえば身を守る魔導障壁なら外の衝撃に強く内の衝撃に弱い。何かを捕えておく魔術ならば、内からの衝撃に強く、外からの衝撃に弱い。もっとも、後者の術式は反転させた障壁をその上に被せるから、内にも外にも強くなるのだが。

 では、久弥の場合は?

 答えは簡単。

 内からの衝撃にのみ弱い、だ。

 何せこの封印は、久弥を“守るために”施されているのだから。

 久弥に施された封印は、言ってしまえば核シェルターにも匹敵する究極の防御魔術。何せほとんどの攻撃を受け付けなくさせるのだから。

 高位の魔術師ならば、止むにやまれぬ事情において自身に、あるいは他者にこの魔術を掛けるだろう。何らかの攻撃から身を守るために。

 だがそれは、術を自身の手で内側から解くことができるという前提条件付きだ。おそらく久弥にはそんな技量はなかっただろうし、何より、この手の術式に在ってはならないプログラムが組み込まれている。

 封印の内側の者の自我を封じる、呪詛。

 自我を封じられては、いかに技量あるものでもこの封印を破れるハズがない。ましてや、もともと技量のない久弥ならなおさら。

 だからクレアは久弥の内に入り込んで完全に同化し、久弥として封印を破るのだ。囚われた久弥の自我の代わりに。

 自我を解き放つのは封印を解いてからで構わない。

 クレアは微笑を浮かべたまま、久弥の内でエーテルを高速回転させた。久弥を囲む魔術の檻をジリジリと削り、ものの数秒で封印を解いた。

 解ける技量を持つ者でも、数ヵ月は下準備をしなければいけない術式を、だ。

「我ながら本当に化け物染みているな」

 クレアはどこか寂しげに呟き、ふと、視線を部屋の中に彷徨わせた。

 なんの変哲もない、どちらかといえば古ぼけた和室。天井や壁の所々にもシミなどが目立っている。

 その一つ一つには来栖兄妹の思い出が詰まっているのだろうし、そのシミ達は来栖兄妹の“日常”を見守ってきたのだろう。

 ――私は、それを壊した。

 クレアはシミの一つをぼんやりと見つめながら、胸中に呟いた。

 後悔しているわけではない。良心の呵責に苦しんでいるわけでもない。

 ただ漠然と、自分が起こした行動の結果を呟いただけだ。

 どだい無理な話なのだ。クレアに日常の重みを理解することなど。

 クレアがこの世に存在してから“数百年”。クレアがまっとうな人間でいられた年月など、僅か十数年だ。

 そう、ちょうどイズミ達の歳と同じくらいの年月。

 イズミ達にとっては十数年とは全てだ。だが、数十年も生きれば話は変わる。老人にとって、若き日の思い出が擦り減り、小さな――それでいて大切な――ものと化してしまうように。

 それが数百年ともなればなおのこと。数十年という時間は、クレアにとってごく小さなものになってしまった。

 そして悲しいことに、膨大な年月はその大切さすらも忘れさせた。

 だから今のクレアは、日常というものを「大切なものなのだろう」程度にしか認識出来ない。

 愛おしいとは思えても、それは空想の中に向ける羨望に過ぎない。

 そのことが、クレアにはどうしようもなくやるせなかった。

「どうでもいい」

 クレアは自分自身に言い聞かせるように呟くと、小さく息を吸い、そして深く吐き出した。まるで思考した内容をすべて吐き出すかのように。

 息を吐いた後のクレアの行動にはよどみがなかった。蒲団に横たわった久弥を、その華奢な体のどこにそんな力があるのかという軽やかな動作で抱えあげ、ゆっくりと瞼を閉じる。

 イメージすべきは目的地の位置。そこに堆積する、縁ともいえる自身の記憶。その場所に繋がる路。

 クレアはそれらのイメージを一瞬のうちに点として思い浮かべ。すぐさま線に昇華する。

 イメージが確固たるものとなるのと同時に、クレアの体は、ばかりか久弥の体までエーテル体と化していた。

 それを感覚する間もなく、二人のエーテル体は古ぼけた和室から消え去った。常人には決して捉えられぬ、ほのかにエメラルドグリーンに輝くエーテルの残滓を残して。


 クレアが目を開けると、イズミの眠る病室の前だった。先ほどこの部屋を後にしてから、十分と時間が経っていない。

 そんな短時間で久弥の封印を解き、戻ってきたと知れば、部屋の中にいる二人の少女はどのような顔をするのだろうか。

 一方は無表情を取り繕い、もう一方は唖然とした表情を浮かべながらも心の底から喜ぶのだろう。

 クレアはなんの感慨も伴わない予想を立て、久弥をその腕に抱えたまま扉を開いた。

 扉が開かれると同時に、二つの視線がクレアに突き刺さる。クレアの予想がほとんど的中した形で。

「……兄さん?」

 来栖が呆然と呟き、クレアによろよろと歩み寄る。来栖はクレアの腕に抱かれた久弥の頬に、恐る恐る手を伸ばした。まるで、触れればすぐに砕けてしまう薄氷をなぞるような手つきで。

「安心しろ。封印は解けている。お前の手でも触れることが出来る。温もりを感じることもできる」

 クレアは来栖に向かって朗らかに微笑んだ。クレアが心の底からの笑みを来栖とダーシェンカに見せたのは、これが始めてだった。

 その笑みは、身を削って妹の日常を守っていた久弥への、敬意と謝罪の表れでもあった。

「あ、あぁ……うっ」

 来栖は大粒の涙と嗚咽を漏らしながら、久弥の体に抱きついた。

 確かにそこには、来栖が触れたくてたまらなかった、兄の温もりがあった。兄の息使いがあった。

 ずっとそばに居たのに、決して触れられなかったモノが、そこに、確かに存在していた。

 クレアとダーシェンカは来栖が落ち着くまで、穏やかな表情で見守っていた。

 来栖の嗚咽が小さくなり、やがて止まった。それを確認したクレアが見計らったように口を開く。

「封印は解いているが、仕上げはまだなんだ。ついてこい。隣の部屋で仕上げをする。兄妹の再会は水入らずの方がいいだろう?」

 クレアは悪戯な微笑を浮かべ、来栖を伴って隣の部屋に移る。

 退室の際に深々と頭を頭を下げた来栖に、ダーシェンカは微笑を返した。


 隣の部屋に移ったクレアは、ベッドの上に久弥の体をそっと横たえる。その様子を心配そうに見つめている来栖に向き直り、真剣な表情を向けた。

「これからお前の兄の自我を解放する。そうすればお前の兄は意識を取り戻すだろう。だが、封印魔術の影響もあるから、最初は意識を保てて一、二分だろう。そのことを知ったうえで再会してもらう。かまわないな?」

 クレアの言葉に来栖は深々と頷いた。最初に一、二分しか会えなくてもかまわない。意識が戻りさえすれば、これまで来栖の中に積もってきたモノを、ゆっくりと久弥に伝えていくことができる。長い時間をかけて。

 そのときふと、来栖は気付いた。自分が生きようとしていることを。囮となって犠牲になる覚悟をしていたというのに、その覚悟が揺らいでいる。

 それは、ダーシェンカが来栖を生かしてくれようとしたからでも勿論ある。だがそれ以上に、兄の存在が大きかった。

 兄と生きていたいがために、自分のために、その決心が容易く揺らいでしまった。

 来栖の胸の中に、激しい自己嫌悪が起こる。

 まるでそれを見透かしたかのようにクレアが言った。

「生きようと望むことは悪いことではない。本当に悪いことは、自分の死を他人の生に押し付けることだ」

 クレアはどこか遠い目で、それでいてまっすぐに来栖を見つめていた。

 クレアの発した言葉に来栖は目を見開く。その言葉はまるで、来栖とダーシェンカの会話を聞いていたかのような言葉だったから。

 もっとも、目の前にいる少女ならば、そのようなこと容易くやってのけそうだったが。

「その顔だと、今は能力を発動させていないらしいな」

 クレアは来栖の表情を見やり、皮肉るような笑みを浮かべた。

「え、えぇ。まぁ」

「賢明な判断だな。来栖家の異能は肉体への負荷が高い。常時発動していたら体がもたない」

 クレアは嘆息を吐き、ゆっくりと頭を振る。

 体がもたない。そのことは来栖も重々承知していた。

 能力を発揮したときにもたらされる情報は、周囲の状況を掴むだけでなく、己の状態を掴むことでもある。もたらされた情報をフィードバックし、己の行動を規定するのだから当然と言えば当然。

 そこから導き出される解は、来栖の異能の連続発現時間は一時間が限界。それ以上は体に過負荷がかかってしまう。

 試したことはないが、この眼が導き出したモノだから間違っているということはないだろう。

「ま、そんなことは本人が一番よく知っているか」

 クレアは退屈そうに息を吐き、口元に笑みを浮かべた。

 クレアは次の瞬間にはその笑みをサッと消し、引き締まった表情を来栖に向ける。

「では、解くぞ」

 クレアの言葉に来栖は堅い唾を呑み込み、ゆっくりと頷いた。

 クレアは来栖の返答を確認すると、ゆっくりと久弥の額に手をのせる。敬虔な洗礼者(バプテスマ)のような表情で。

 クレアはうっそりと久弥の顔を眺めた。

 妹と同じく、綺麗な顔立ちをしていた。中性的で、険のない顔つきだった。その表情と同じく、性格も穏やかなのだろう。

 そのようなことをぼんやりと考えているうちに、久弥の自我の解放は終わった。普通の――言い換えれば一流の――魔術師ならば顔中に汗を浮かべて集中する解術を、クレアは片手間に終わらせてしまった。

 もっとも、久弥の顔を眺める一方では、解術のために思考をめい一杯走らせていたが、そのようなことはクレアにとっては苦労ですらなかった。

 一般的な言い方をするならば、クレアは軍事レベルのCPUを何十個も積んだコンピューターなのだ。CPUの一個をフル稼働させたところで、クレアへの負荷は微々たるものに過ぎない。

 皮肉なことに、クレアはそんな表現など思い浮かばない、極めてアナログな人物だったのだが。

「解けたぞ」

 クレアは久弥の額から手を放すと、なんてことの無いように言い放ち、部屋を出ていった。

 あまりの速さに来栖がお礼を言う暇も見つけられなかったほどだ。

「隣の病室にいる」

 クレアは去り際にそう言い残し、部屋の扉をそっと閉じた。

 部屋に残された来栖はすぐさま兄の傍らに歩み寄り、その表情を見つめる。

 年にして五年もの間眺めつくしてきた、兄の寝顔。決して動くことのなかった人形のような寝顔。

 その寝顔に、微かな変化が生まれる。

 寝息とは違う、短い呻きが漏れ、久弥の顔がしかめられる。

「兄さんっ!」

 来栖は思わず兄の手を取って叫んだ。

 その声に、久弥がびくりと肩を震わせる。そうして、ゆっくりと、固く閉ざされていた瞼が持ちあがった。

 トロンとした瞳が、来栖を見つめる。

「千、澄……?」

「はい、私です、兄さん」

 来栖は再び大粒の涙と嗚咽を漏らしながら、声を震わせた。

「どう、したんだい……そんな顔を、して?」

 久弥は口元に優しげな微笑を称え、なだめるような声音で言った。消え入りそうな、かれがすれの声で。

「どうした、って……兄さんのせいですよ、全部」

 来栖は握りしめた久弥の手を顔に押し当てながら、くしゃくしゃになった顔で言った。

 久弥は来栖のそんな表情にふっと笑みを漏らし、

「なんだかよく分からないけど……ごめん」

 と言って再び瞼を閉じた。

 穏やかな久弥の寝息が、来栖の耳朶を静かに打つ。

 来栖はその寝息を聞きながらその場にへたり込み、ひとしきり泣いた。声を殺して、呻くように嗚咽を漏らしながら。

 求め続けていたものがその手に帰ってきた喜びを噛みしめながら、顔に満面の笑みを浮かべながら、泣き続けた。


「あっちは、終わったのか?」

 静かな動作で病室に入ってきたクレアに、ダーシェンカが遠慮がちに言葉を投げた。

 クレアはその問いに無表情のまま首肯し、病室の壁に寄り掛かった。

 どこに視線を向けるでもなく、クレアはぼんやりと虚空を見つめている。

 奇妙な沈黙が部屋に漂いはじめ、それに抵抗するような形で蝉の最期に差し掛かった切実な鳴き声が響いていた。

 蝉の鳴き声に混じってどこからか人の泣き声も聞こえてきたが、ダーシェンカは努めてそれを意識の外に置いた。

「一つ聞きたかったんだ、お前に」

 虚空を見つめていたクレアが、視線はそのままに呟く。

 唐突に投げかけられた言葉に、ダーシェンカは怪訝な表情を浮かべたが、何も言わずにクレアの顔を見つめた。

「お前は、どこに立っている」

 クレアはなおも虚空を見つめたまま呟いた。

 その言葉に、ダーシェンカの表情は怪訝さを増す。

 目の前の少女が何を言わんとしているのか理解できない。ひょっとしたら先ほどの言葉は自分へ向けられたものではなく、何か別のモノへ投げかけられたのではないかとさえ思えてくる。

 実際、クレアならそのようなことが出来てもなんら不思議ではない。神魔の類と言葉を交わしていようと、あまり驚きはしないだろう。そのような空気をクレアは纏っていた。

 だが。

「お前に聞いているのだぞ? ダーシェンカ」

 その言葉がいよいよダーシェンカを困惑させた。

 自分がどこに立っているか、などという質問にどう答えればいいというのだ。

「今、ここに立っている」

 などという答えをクレアが求めていないことは自明の理だ。だとすればなんと答えればいいのだ。この禅問答のような問いに。

「日常と非日常のどちらに立っているのか、と聞いている」

 答えあぐねているダーシェンカに、クレアが言葉を付け加えた。何故そんなことにも気付かない、と言いたげに眉間に皺を寄せながら。

 なるほど。確かに質問の意図は理解できた。それでもダーシェンカは返答に窮する。

 なんと答えるべきなのか。いや、どのような答えが自分の中にあるのかすら定かではない。

「……わか、らない」

 だからダーシェンカは、誤魔化すことも出来ずに思うがままの言葉を吐いてしまった。

 それがクレアに対して正解か不正解かなどということは考えないまま、言葉にしてしまっていた。

 どこか怯えるような表情で呟いたダーシェンカを、クレアは無表情のまま眺め、呆れたような溜息を洩らしながら口を開いた。

「誤魔化さなかったことだけは褒めてやるべきかな?」

 クレアは微苦笑を浮かべながら肩をすくめた。

 その動作にダーシェンカは心の底から安堵する。先ほどの問いに込められていた意図がなんであれ、その問いに込められていたクレアの切実さがダーシェンカには恐ろしかったのだ。

「私はお前たちを見ているとイライラする。その存在自体は凡百の魔術師以上に異質な存在だというのに、日常を謳歌している。ネクロマンサーの如月イズミ、リビングデッドのダーシェンカ・オルリック、身に余る異能を秘めた来栖千澄。どいつもこいつも日常という器に納まるにはあまりに歪だ」

 クレアは険しい表情で、滔々と語る。

 それは説教じみているというよりも、どちらかと言えば、己の中にあるわだかまりを言葉にし、再構築しようと試みているように感じられた。

 だからダーシェンカは言葉を挟まず――挟むような言葉を持ち合わせていなかったというのも勿論ある――黙してクレアの独白じみた言葉に耳を傾け続けた。

「日常に慣れ親しんでいたイズミと来栖が日常にすがるのはまだ理解できる。あいつらにとってはそこが当たり前の立ち位置なのだから。だがダーシェンカ、お前はどうだ? 明らかに“こちら側”の存在だろ」

 クレアは鋭い視線でダーシェンカを射抜いた。

 ダーシェンカはその視線に、というよりはその言葉に息を詰まらせた。自分自身で突きつけたことはあっても、他者から突き付けられることはなかった言葉に、心を揺さぶられる。

 確かに、日常などというものはダーシェンカの中にはほとんど存在しなかった。少なくともイズミと出会うまでは。

 明らかに、異常に身を置いていた年数の方が多い。年数だけならまだしも、リビングデッドという在り方自体が異常の極致といっても差支えなかった。

 ネクロマンサーなくしては、活動することすらできない、異常な存在。

「わた、しは……少なくとも日常に在りたいと望んでいる」

「なるほど。それは如月イズミが望んでいるからか?」

「それも勿論、ある。だが、誰も無暗に危険に飛びこみたくないというのは当然だろ?」

「それは嘘、だな。ダーシェンカ・オルリック」

 クレアは不意に、捉えたものを凍てつかせるような視線を向けた。

 そして続ける。

「お前は自分の家族を殺した存在、ネクロマンサーを狙う輩を無差別に殺したくてリビングデッドというカタチに納まったはずだ」

「それは……そうだな。確かに私はネクロマンサーを餌にして、そういう輩を殺してやろうと思っていた」

「思っていた、ということは、今は違う、とでも?」

「違わない。そういう輩は殺してやるという私の考えに変わりはない。だが、そのためにイズミを餌にしようとは決して思わない。私がすべきことは、イズミを狙うやつを徹底的に排除することだ」

 ダーシェンカはクレアの瞳をまっすぐに見つめ、力強い口調で言った。

「なるほど。お前はそこまで如月イズミに惚れこんでいるというわけか。だからイズミの望むとおりに日常に立とうとする訳か」

 クレアの言葉に、ダーシェンカは黙って頷いた。

 そんなダーシェンカをクレアはしばし見つめ、やがて視線をそらした。そのままあごに手をあて、何やら思考に耽り始める。

「……よくよく考えてみればお前も稀有な存在だったな。魔術の素養もないくせに異常に染まった存在なのだから。となると逆もまた可能、ということなのか?」

 しばらく黙考したのち、クレアは首を傾げながらダーシェンカを見つめた。

 そこにあったのは異端審問機関総帥としての威圧感ではなく、ただ純粋な好奇心から問うているとでも言いたげな、円らな少女の瞳だった。

「可能であると、私は信じている。そしてイズミも」

 ダーシェンカはクレアの瞳をまっすぐに見つめ、言い切った。

 その言葉に嘘はない。自分が今“日常”と“異常”のどちらに立っているかは分からなくても、どちらに立ちたいかは明白だ。

 そして、そこに立つために、異常に踏み込まなければならない状況が目の前に迫っていることも理解できている。

 だから、まずは。

「私が日常に立つためにやるべきことは、迫りくる敵を排除することだ」

 ダーシェンカは視線ににわかに殺気を込めて言った。

 それだけで、自分の覚悟をクレアに伝えたつもりだった。

 クレアはダーシェンカの言葉に満足そうに頷き、微かに微笑んだ。

「よかろう。その覚悟を証明してもらおうじゃないか。他の者達が当たり前のように謳歌している日常を必死に守る様を、私に見せてみろ」

 口元の微笑をどこか嗜虐的なものに変じさせ、クレアは言った。

 ダーシェンカは背筋にそら寒いモノが奔るのを感じながらも、クレアを見据えたまま、深く頷いた。


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