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第2章 物語(ニチジョウ)の崩壊は、意外な所から(2)

 イズミのいない一日は、ダーシェンカが予想していたより、スムーズに過ぎていった。

 時折感じる物足りなさや不安などはどうしようもなかったが、困るような出来事は一つも起こらなかった。

 いつの間にか、ダーシェンカもそれだけ“日常”に馴染めていたということの証明だった。

 それもこれも、イズミが適度な距離感を保ちながらダーシェンカと学園生活を送ってくれていたからなのだろう。

 そんなことを思いやりながら、ダーシェンカは鞄に荷物を詰め込み、家に帰る準備をしていた。正確にはイズミの病院へ寄る準備、なのだが。

「ダーシェンカさん、今日は一人で帰るの? だったら私たちと一緒に帰らない?」

 黙々と荷物を詰めていたダーシェンカに、一人のクラスメイトが声を掛けた。

 ダーシェンカは荷物を詰める手を止め、声の主に視線を向けた。

 そこには、今日一日何かとダーシェンカのことを気にかけてくれた女子が三人立っていた。

「誘いはありがたいんだが、イズミの病院に寄らなきゃいけないんだ。方向が同じなら途中までなら大丈夫だけど」

「あぁ、確かイズミくんが入院してるのって丘の上にある病院だよね? あそこは私たちと反対方向だから……」

「そうか。でも誘ってくれてありがとう。イズミが退院したらそのときは一緒に帰ってくれ」

 申し訳なさそうに言いよどむクラスメイト達に、ダーシェンカは微笑んだ。

「分かった、それじゃあまた明日。ダーシェンカさんも気を付けてね? 通り魔が潜んでるかもしれないんだから」

「あ、いや、私ならだいじょ……そうだな。気をつけるよ」

 ダーシェンカは言いかけたことを途中でとめ、苦笑を浮かべる。

 よもや自分が人外の者だから大丈夫などとは言えるはずもない。

(人外、などと言ったらイズミにまた怒られそうだな……)

 ふとそんな考えがダーシェンカの脳裏をよぎり、苦笑が自嘲を帯びたものに変わる。

 そんなダーシェンカに首を傾げながらも、クラスメイト達は別れを告げて去っていった。

「さて、と。私も行くとするか」

 ダーシェンカはイズミに渡す予定のプリント類を詰め込んだことを確認し、教室をあとにした。

 いつもなら校庭などから部活を行っている生徒達の声が響いてくるのだが、今日はそれがなかった。放課後の活動が禁止されているから当然と言えば当然なのだが、どうにも違和感を持ってしまう。

 人気のないグランドの脇を通り抜け、ダーシェンカは黙々と歩く。

 周囲からは事件に怯えた様子もない生徒達の楽しげな掛け合いが聞こえてくるのだが、耳には入っても、頭には入ってこなかった。

 頭にあるのはやはり、イズミと通り魔のことばかり。

 このまま通り魔事件が続けば、それはやはり一般規格の犯罪者という可能性が濃くなる。

反対にこれでパタリと事件が止まってしまえば、魔術師の仕業という線も出てくる。

 とは言え、どちらに転んだとしても通り魔が“日常”と“異常”のどちらに位置する存在だと断定出来るワケではない。

 つまりは、座して待っていても解決の糸口など見えてこないのだ。

(やはりこちらから動くべきなのか……?)

 ダーシェンカはあごに手を当てて深く考え込む。

 歩きながら悩むその様は周囲の視線を集めていたのだが、そのことにダーシェンカが気付くはずもなく、そのまま足を進めた。

 そしてその、少し不機嫌にも見えるような表情のまま、ダーシェンカはイズミの病室に辿りついた。

 イズミの病室は、事件の被害者という特別な事情も相まって、一介の高校生には多少不釣り合いな個人部屋だった。

 病院に運ばれたときはベッドの空きの都合からこの部屋になっていたのだが、結局この部屋に落ち着いたのだ。

 そんな部屋で、イズミは呑気にテレビを眺めていた。

 先ほどまでは定期的にエーテルを張り巡らせていたのだが、そんなことはダーシェンカに対しておくびにも出さなかった。

 しかし、眉根を寄せながら部屋に入ってきたダーシェンカに、イズミはポカンと口を開けた。

 ダーシェンカの表情はまるで、難解な殺人事件に立ち向かう偏屈な老警部に近しいものすら、イズミに感じさせた。

「学校で……何かあったの?」

 そんな表情に、イズミは呆然と呟く。

「え? あ、いや何もなかったぞ。いつも通りだった」

 ダーシェンカはイズミの病室に辿り着いたことすら気付いていなかった様子で、少しだけ肩をビクつかせた。

 イズミはそんなダーシェンカの姿に首を傾げる。

「すごく、悩んでるみたいだったけど?」

「いや、悩んでいたわけではない。少し考え事を……」

「おおかた、事件の犯人をどうこうしようって考えてたんでしょ?」

 口ごもるダーシェンカに、イズミは肩をすくめて苦笑した。

「いや、そんなことは、決して……」

「いいよ、隠さなくて。ダーシェンカにそういうことを考えるな、っていうのは無理な話だとは思ってたから。だけどさ」

「だけど?」

「だけど……無理はしないで。相手が魔術師だっていうのなら、僕がまた襲われる可能性が高いだろ? それをダーシェンカ一人で解決しようなんてことは考えないで欲しいんだ。それはあくまで僕の問題なんだし」

「だが……イズミの問題は私の問題でもある」

「まぁ、そうだよね。エーテルを共有してるんだし……だからさ、この問題に取り組むなら二人で取り組もう。あくまで魔術関係なら、って話だけど」

 イズミは照れ臭そうに頬を掻きながら呟いた。

 イズミはイズミなりに考えていたのだ。自分がどのように行動すればダーシェンカの負担を軽くできるのか。

 一日中ベッドの上で考え抜いて出てきた答えが、たったいまダーシェンカに告げたもの。

 魔術という“異常”を遠ざけるのではなく、しっかりと受け止め、二人の問題として捉えるという方法。

 ダーシェンカに普通に生きて欲しいという願いはあるものの、こういう状況でも普通を求めるのは逆に酷というもの。

 ダーシェンカというカタチが、普通の少女と呼ぶにはあまりに歪なように、イズミというカタチも、普通と呼ぶにはあまりに歪なのだから。

 だから、そのカタチに適した在り方をしようとイズミは決めたのだ。

「というわけで、僕が退院するまではおとなしくしててね」

 イズミの言葉にどこか呆けた表情を浮かべたダーシェンカに、念を押すようにイズミは微笑んだ。

「わ、分かった」

 ダーシェンカは少しだけ言いよどみながらも、しっかりと頷く。

 その頬は、ほんのりと赤く染まっているようだった。

 二人が何か言葉を交わすでもなく見つめ合ってると、病室のドアが不意にノックされた。

 イズミが「ハイ」と声を上げると、ドアがゆっくりと開かれた。

「あーー、ごめんね。二人きりのところにお邪魔しちゃって」

 わずかに開かれた扉の隙間から松崎が申し訳なさそうに顔を覗かせる。

「邪魔も何もないですよ、松さん」

 イズミはわずかな隙間から滑り込むように病室へと入ってきた松崎に苦笑を向ける。

 苦笑を向けられた松崎は「ならいいんだけどね」と肩をすくめながらベッドの傍らに立った。

「それで、怪我は特に異常ない?」

 松崎は表情を引き締め、イズミに問う。

 午前中も同じことを聞かれたイズミは、そのときと同じように「特に問題ない」と答えた。

 イズミの返答に松崎は満足そうに頷いたのだが、その表情はどこか優れなかった。

 それを感じ取ったダーシェンカが、松崎に問う。ダーシェンカも昨日のうちに松崎が両親の関係者だということを知り、松崎に対して一定の信頼を置いていた。

「何か、あるんですか?」

「何か、って訳じゃないんだけど……」

 ダーシェンカの問いに松崎は言いよどむ。

 話すわけにはいかないというよりも、どこから話したものかと思案するような様子だった。

 少し思案したのち、松崎が口を開く。

「イズミくんの怪我のことなんだけど……どうにも奇妙でね」

 奇妙という言葉に、イズミとダーシェンカが同時に首を傾げる。

「怪我自体は軽いものだし、順調に回復してるんだけど……だからこそ引っかかるのよね。まるで早く回復するように細心の注意を払いながら刺したみたいだし、何よりイズミくんが気を失った、ってトコが引っかかるのよ」

 松崎はあごに手をあて、眉根を寄せながら呟いた。

 医者としての推察というよりも、何か他の立ち位置から物事を見ているような物言いだった。どこかしら“異常”を臭わせるような、そんな物言い。

「僕が気を失ったことの、どこがおかしいんですか?」

「うーーん。イズミくんの出血は、気を失うほどの量じゃなかったのよね……血を見たショックで気を失うにしても、イズミくんはそういうのに耐性が付いてるみたいだから、奇妙でしょ? 一応何かしらの薬品が使われている可能性も調べてみたんだけど……そっちも完全にシロ」

 松崎は完全にお手上げだとばかりに肩をすくめる。

「つまりは……ただの通り魔じゃない、と?」

 ダーシェンカは表情を引き締め、鋭い視線を松崎に向けた。

 松崎はその視線にたじろぐこともなく「おそらく」と応じる。

「まぁ、私はソッチ方面は明るくないから、一般的に見て奇妙ってだけの話よ? ひょっとしたらイズミくんが血を見て気を失っただけ、って可能性もあるんだから」

 松崎は真剣な表情を崩して、からかうような笑みをイズミに向ける。

「それも……大いにありうる気がします」

 イズミは言いながら、苦笑う他なかった。

「まぁ、判断はあなた達に任せるわ。あ、それからイズミくんは明日にも退院できるわよ。検査は全部済んでるから今日退院でもいいんだけど……どうする?」

「きょう退院できるなら退院しますよ。ダーシェンカを一人にしとくのは不安ですから」

 松崎の心配するような視線をよそに、イズミはなんてことないように即答した。

 その言葉に、松崎もダーシェンカも呆然とする。

 夏の出来事を詳しく知らない松崎は、イズミの見かけとは駆け離れた精神力に。ダーシェンカは『心配』という単語に意識を持ってかれていた。

 そんな二人をよそに、イズミはベッドを降りて身支度を整え始める。身支度とは言っても、少ない荷物を鞄に入れるだけの作業なのだが。

「あの、退院の手続きとかって……」

 身支度を整えたイズミは、呆然としている松崎に問うた。

「あ、あぁ! 手続きね! それなら私がやっとくから大丈夫よ。身支度が済んだんなら家に帰って大丈夫。怪我のことで、気をつけることは午前中に話した通りだから忘れないでね?」

 松崎は意識をどこかに飛ばしていたのか、肩をビクつかせてイズミの質問に応じた。

 イズミはそんな松崎に怪訝な視線を向けたものの、それ以上とくに何かを聞けるような感じでもなかったのでダーシェンカに視線を移す。

「あ、荷物なら私が持つぞ?」

 イズミの視線に気付いたダーシェンカは、イズミが持っているカバンに手を伸ばした。

「これくらいなら大丈夫だよ、ダーシェンカ」

 イズミは手でダーシェンカを制し、微笑む。

 ダーシェンカは少しだけ心配そうな視線を見せたものの、イズミが無理をしているわけではないと悟ったのか、おとなしく引き下がった。

「あの、もう僕らは帰っても大丈夫なんでしょうか?」

「ん? あぁ、もう帰っていいわよ。なんかあったらすぐに電話しなさいね。私はイズミくんの保護者みたいなものでもあるんだから」

 準備を整え終えたイズミに、松崎は優しく言った。

「はい。それじゃあ失礼します」

 イズミは傷が痛まない程度に頭を下げると、ダーシェンカとともに病室を出ていった。

 松崎は笑顔で手を振りながら二人を見送る。

「……フゥ。とりあえず指示通りにしましたよ、雪さん」

 松崎は閉じられた扉を見やり、溜息を吐きだしながらひとりごちた。

 松崎は、何が起きているかなど詳しくは知らなかったし、知ろうとも思わなかった。

 勤務先の近所で通り魔事件が起こり、その被害者が搬送され、自分がその治療をする。あとは適当にその処置後の経過を看ていけば、通常通りの業務が終了、したハズだった。

 だが、一本の電話がそれを変えた。

 昔お世話になった人からの電話。被害者が恩人の息子ということにも驚かされたが、それ以上に、その人物の言葉が松崎を困惑させた。

『うちの息子が何か事件に巻き込まれるかもしれないから、そのときは手回しをよろしく』

 事件が起きてから入った連絡ではあったが、その口ぶりは事件を予見したものだった。

 松崎が雪に、イズミが既に事件に巻き込まれていることを告げると『じゃあさりげなく魔術絡みだと匂わせて』という言葉が返ってきたのだから、いよいよもって松崎は困惑した。

 伝えたいのなら自分でハッキリと伝えればいいじゃないですか、と言ってみたものの、告げられる状況じゃないと言われてしまっては仕方なかった。

 とはいえ、昔その“魔術絡み”でお世話になった恩人の頼みを断れるはずもなく、松崎は雪の指示通りに動いた。

 その指示がどのような意味を為すのかなど、日常を生きる松崎には推測することも出来なかったが、雪の指示に過ちがあるとは到底思えなかったので、迷うこともなかった。

 だが、願わくば。

「すべてが丸く収まりますように……」

 松崎は、初々しいようで所帯じみている若い二人の姿を思い浮かべながら、ひっそりと呟くのだった。


** *


「……ただいま」

 来栖は靴を脱ぎながら、帰ってくるはずもない挨拶を発した。

 そこは年季の入った二階建てアパートの一室で、来栖が生まれてからずっと暮らしている家だった。

 玄関にはたった今来栖が脱いだローファーと、男物のスニーカーが一足ずつ並んでいる。

 来栖はスニーカーに切なげな一瞥をくれ、リビングに向かった。

 決して広いとは言えないリビングの片隅には、小さな仏壇が備えられていた。

 来栖は仏壇の前に腰掛け、仏壇に供えられた写真を見つめる。

 そこには、今は亡き来栖の両親、来栖と兄の四人が写っていた。

 来栖が幼稚園に入ってすぐに撮った写真で、父と母の間に学ランを着た当時中学生の兄がおり、その肩に来栖が乗っかっていた。

 来栖がまだ何も知らず、幸せだった頃の写真。

 来栖はしばらくの間無言でその写真を見つめ、立ちあがった。

 立ち上がり、寝室として使っている和室のふすまをゆっくりと開く。

 そこには、来栖のもっとも愛する人――兄、来栖久弥が眠っていた。いや、正確には眠ってなどいない。死んでいるのだ。

 少なくとも常識の範疇では。

 呼吸もしていないし、心臓の鼓動も停まっているのだから。それも、五年もの間。

 それでも久弥の肉体が腐ることはない。ましてや、髪の毛や爪が伸びることすらない。

 緩くウェーブのかかった、日本人にしては色素の薄い髪は艶をおびていたし、病的なまでに美しい白い肌も、どんな人間と比べても遜色がなかった。

 久弥の時間は五年前から止まったままなのだ。

 異形の者を討伐する退魔師として名を馳せていた久弥が、任務に失敗した、五年前のあの日から。

「……ただいま」

 来栖は久弥が眠る蒲団の傍らに座り、囁くように言った。

 久弥が反応を示すことはない。それでも来栖は語り続ける。

「兄さん、私はやります。私は、兄さんに嫌われることよりも、兄さんを失うことの方が怖いんです。だから如月くんを……殺します。それしか兄さんを助ける方法はないから」

「分かっています。兄さんがそんなことを絶対に許さないってことなど。でも、私はやっぱりダメなんです。兄さんがいないと、生きている気がしない」

 来栖は呟き、久弥の頬に手を伸ばす。

 あと少しで頬に手が触れるというとき、何かの障壁が来栖の手を阻んだ。

 あと少し、ほんの少しの所で来栖の手は久弥の頬に届かない。

 その障壁は、明確な拒絶を示すわけでもなく、ただ静かに存在を主張する。

 討伐に失敗した日に兄をここまで運んでくれた仲間の話によると、久弥のいる空間と来栖達のいる空間では、次元がズレているということだった。

 魔術にそれほど明るくない来栖にはきちんと理解できなかったが、その障壁が久弥を封じているような形を成してらしい。

 こんなにも近くにいるのに、触れることすら叶わない。

 五年間。来栖がそのことをもどかしいと思わない日は、一日たりともなかった。

 久弥が死んでいたなら、来栖も迷うことなく後を追っていただろう。目覚めるかどうか分からない昏睡の中に久弥がいたなら、いつまでも目覚めるのを待っただろう。

 だが、実情はどれも当てはまらなかった。

 生きているのか、死んでいるのかも分からない。術式を解除しようにも、誰一人として解除できるものはいなかった。

 そこに現れたのが誘惑する者、メフィストフェレス――クレア・ブリンズフィールドだった。

 ある日突然来栖のアパートに尋ねてきたクレアは、前置きもなしに「キミのお兄さんを救ってあげよう」と告げた。

 来栖は、自分よりも明らかに年下に見える少女の高慢な口調に戸惑ったものの、その言葉に潜む威厳を本能で感じ取った。

 だから来栖は黙って頷き、クレアを久弥の眠る部屋へと通した。

 久弥を目にしたクレアは、与えられた玩具を楽しそうに眺める子供のような表情を浮かべた。

「……ほぅ。極東の島国にもこんな洒落た芸当をする者がいたのか」

 クレアは声を弾ませながら呟くと、久弥の頬に手を伸ばす。

 そしてあろうことか、来栖がどんなに触れたくても触れられなかった久弥の頬に触れたのだ。

 その光景に、来栖は言葉を失う他なかった。

「これで信じてもらえるかな? 私がキミの兄を救える者だと」

 言葉を失っている来栖に、クレアは優しく微笑んだ。救い主のように辛辣に、悪魔のように優しく。

 来栖がそれに抗えるはずがなかった。来栖は、全ての神経を首を縦に振ることに使うだけで精一杯だったのだから。

 たとえこのときの来栖が、クレアのもたらす悪魔の取引を予見できたとしても、断ることなど敵わなかっただろう。

 あとの話は簡単だった。

 イズミの暗殺という条件を提示され、それが成功した暁に久弥に掛けられた魔術を解くという取引。

 久弥が退魔師として名を馳せていたとはいえ、来栖は魔術の世界にそれほど明るくなかった。それでも、覚醒したネクロマンサーが、凡百の魔術師とは一線を画した存在であることは理解していた。

 覚醒したてのネクロマンサー相手とはいえ、そんな存在の暗殺など、一介の魔術師ならまず引き受けない。ましてや、“普通の”少女である来栖ならなおさらだ。

 だが来栖はクレアの取引を迷うことなく受けた。

 人一人どころか、異形の者すら殺したことのない普通の少女が、だ。

 それでも、来栖に勝機がない訳ではなかった。

 普通の少女として生きてきた来栖の中には、一つの大きな“異常”が内包されていたのだ。

 如月家にネクロマンサーの素質が代々受け継がれてきたように、来栖家にも受け継がれてきた“異常”があった。

 それは、優れた魔術師と比較してなお超絶と断言できる、卓越した霊視能力。

 魔術師にとっての視力とはすなわち、どれほど密度の薄いエーテルまでを可視できるかということである。限りなくゼロに近い濃度のエーテルまでも可視できればそれは、一流の眼という証となる。

 だが、来栖家の者の瞳は次元が違った。来栖家の者が持つ瞳は、エーテルの濃度でなく、エーテルの流れを読み取ることができたのだ。

 無論、一流の魔術師ならエーテル濃度の分布から流れを読み取ることができる。だがそれはあくまで事後的なもの。エーテルの行く先――未来を視ることなど叶わない。

 だが来栖家の者にはそれが出来た。エーテルがこの先、どのように流れ、どのように収束するのか理解できた。

 一流の魔術師が一通りの足跡から物事を予想するのだとすれば、来栖家の人間は一歩目の足跡でその後の出来事を予想するのだ。

 一流の魔術師の眼の延長線上にあるが為に、固有名称がつくことはなかったが、魔眼と言って遜色ない代物が、来栖の瞳だった。

「私は、やるよ……」

 来栖は呟き、普段は抑えているエーテルの可視領域を最大限まで引き上げた。

 瞬間、来栖の世界に眩い光が放たれる。それは、普通の人間は決して目にすることが出来ない、魔性の光。

 来栖はその光を眺め、自分の能力が健在であることを確かめた。

 なんの訓練も積んでいない来栖でもエーテルの流れが、手に取るように分かる。

 部屋を漂うエーテルは穏やかで、なんの変化も訪れないということを告げていた。

 その流れに大きな変化があるとすれば、魔術師同士の争いが起こるとき。

 来栖は久弥の顔を見つめながら、エーテルの急流を直視する覚悟を固めていった。


** *


 イズミは、猛烈にお腹が痛かった。

 傷口が開いた、とかそういうモノではなく、内臓の類が精神的に痛くなる、そういうモノ。

 イズミが立っているキッチンには、焦げ臭い煙が充満していた。

「も、もういいよ。ダーシェンカ。あ、あとは僕がやるから……」

 イズミは額に脂汗を浮かべ、ぎこちない笑みをダーシェンカに向ける。

 イズミの視線の先には、黒と白のチェックのエプロンを身につけたダーシェンカが立っていた。

 ダーシェンカの手には長皿が握られており、その上には魚“だった”モノが物悲しそうに存在を主張していた。それはもはや魚というより、火にくべればよく燃えそうな物質と化していたのだが。

「す、すまない……」

 ダーシェンカは申し訳なさそうに顔を俯け、魚だったモノに視線を落とす。

 イズミはそんなダーシェンカに、愛おしげな苦笑を向けた。

 時間は三十分ほどさかのぼる。

 病院から帰ったイズミは、夕食の準備に取り掛かろうとした。怪我をしているとはいえ、

二か所に銃創を負ったまま戦った経験を持つイズミにとって、料理程度はなんの苦でもなかった。

 しかし、ダーシェンカはそれを良しとしなかった。

 怪我人に料理させて自分がそれを食べるだけというのは耐えられない、とダーシェンカは思ったのだ。

 思った結果、ダーシェンカは。

「私が料理する」

 と、言った。確かに言った。少なくともイズミの耳にはそう響いた。

 イズミはダーシェンカと出会ってこのかた、ダーシェンカが料理する所など見たことがなかった。それに、過去の状況をかんがみる限り、料理の経験があるとも思えなかった。

 ダーシェンカはイズミから受けた“知識”の中に料理のスキルも含まれているから問題ないと主張した。

 が、知識だけで出来るほど料理というのは甘くない。レシピがあれば誰でもその料理を作れるというものでないのと同様に。

 イズミとしては、ダーシェンカが料理に挑戦するというのは悪くないことではあったのだが、間の悪いことに、冷蔵庫の中には焼き魚を作る材料しか入っていなかった。それも切り身ではなく、そのままの姿のサンマが二匹。

 調理実習のほとんどが簡単な卵料理から始まるのを考えれば、決して初心者向けの料理とは言えない。

 それでも、脇で見ながら指導すれば形にはなるだろうと考え、イズミはゴーサインを出した。

 そして、現在に至る。

 順調に調理されていたかに思われたサンマは、最後の最後で消し炭となり、ダーシェンカは意気消沈となり、イズミは額に脂汗を浮かべていた。

 失敗の原因は、少し目を離している間に、という単純なもの。

「まぁ、僕も目を離したのが悪いんだし、ダーシェンカのせいじゃないよ」

 イズミは微笑み、ダーシェンカの手から長皿を受け取る。

 心の中で謝罪の言葉を精一杯述べながら、魚だったモノをゴミ箱に投下する。あそこまで炭化してしまえば、悪臭を発する心配はないだろう。少なくとも次のゴミの日までは。

「あ、いや、その……もうちょっとこんがり焼いた方がおいしいかな、と火を強めてしまったんだ」

 ダーシェンカはチラチラと申し訳なさそうに見ながら呟く。

(なるほど……どうりであり得ないはずのこんな事態になるはずだ)

 イズミは苦笑いながら胸中に呟いた。

 イズミが目を離したのはものの五分程度。その間にこうなるにはそれなりのナニかが必要だとは思っていたがやはり、と言ったところか。

 如月家の魚焼きグリルは雪が様々な魚を調理するせいか、マックスの火力が異常に高い特別製なのだ。

「まぁ、失敗しちゃったものは仕方ないよ。次は頑張ろう」

 イズミは長皿を流しに入れ、改めて夕食の準備に取り掛かった。

 とはいっても、お湯を沸かして容器に注ぐだけという――それこそ初心者に優しい――ごく簡易な作業なのだが。


** *


 日もすっかり暮れきった宵闇の街を、クレアは目的もなくぶらついていた。

 まだ暑さ残る九月といえど、半ばを過ぎてしまえば夜はだいぶ涼しくなっていた。

 クレアとすれ違う人々も、額に汗を滲ませることもなく涼しげな表情で歩いている。

(まったく……人間というのは恐ろしいな)

 クレアは道に立ち並ぶ雑居ビルを眺めながら、ふとそんなことを思いやった。

 クレアがまっとうな人間として生きていた頃は、ビルなどというものは存在しなかった。

高いものと言えば、敵の侵入を見張るための塔ぐらいしかなかったような気がする。

 それを思えば、ここ“数百年”の人間の進歩というのは恐ろしいものがある。

 それこそ、魔術という異常すらも軽く凌ぎかねないほどに。

(文明が道を造ったのか、道が文明を創ったのか……などはどうでもいい問答か)

 クレアは自分の感傷を一笑に付し、歩調を速めた。

 なんとなく散歩に出てはみたものの、人混みの中はやはり落ち着かなかった。

 個々の会話が混じり合って出来る喧騒が、クレアにとってどうしようもなく耳障りだった。

 久方振りの喧騒というのも勿論あるのだろう。だがそれだけでなく、周りにいる“人類”

が、すでに自分の知る“人類”でないことがクレアにとって何よりも辛かった。

 人類は様々な道具を生み出し、在り方すらも変わってしまった。

 誰でも遠く離れた人間とも会話ができるようになり、見知らぬ人間とも架空の空間を通して意思の疎通が出来るようになった。

 それは人々の繋がりをより強固なものとし、同時に繋がりから疎外された“周辺”を生み出した。

 周辺の者とは、新しい手段で意志の疎通をすることが出来ない者。だが、その者達はそのことを苦とは思わないだろう。これまでしてきたことを、死ぬまでのほんの短い間だけ続ければいいだけなのだから。変わる必要などないのだ。

 だがクレアは、そのことがどうしようもなく哀しかった。 

 疎外される者に、自分を見出してしまうから。止めどなく流れ続ける“日常”に、為す術もなく置いていかれる自分。

 異常の最奥に身を置く者が何を世迷い言を、と魔術師は嗤うだろう。

 だがクレアは、異常の中にありながらどうしようもなく日常を愛しているのだ。決して触れることが出来なくとも。

 そう、ちょうどどこかの兄妹のように。

 異常を極めたが故に日常とは決して相容れることが出来ない。今のように、ほんのひと時なら、日常を過ごしていると錯覚することができる。だが、長くは無理だ。自分の“異常”を突き付けられずにはいられない。

 そんな自分の境遇を自嘲的に思いやり、クレアは立ち止まる。

 道行く人たちは少しだけ視線をクレアに向け、足を止めることもなく進んでいく。

 クレアはおもむろに夜空を見上げた。

 夏の、それも街中の夜空に、星は少ない。

「お前だけは、変わってくれるなよ」

 クレアは切なそうに目を細め、優しく呟いた。

 お前という言葉が夜空を指すのか、他の何かを指すのかは、クレアにしか分からない。

 クレアは視線を元に戻し、宵闇の街を再び歩き出す。

 その背中だけは、日常を生きる少女のものだった。


** *


 退院してから初めての登校の道すがら、イズミは自分に視線がチラチラと向けられているのを感じていた。

 家を出てからすぐはそんな視線を感じることもなかったのだが、高校の近くになってくると状況が変わった。人の口に戸は立てられぬというが、まさかここまで露骨に情報が漏れているとは考えていなかった。

 学校の敷地内に入った今は、さきほどよりもさらに集まる視線が増えている。皆者珍しいのだろう、ちょっとした非日常を体験させられた者が。

 もっとも、ダーシェンカがチラチラ見られることでその手の視線への耐性を付けていたイズミにとってはこの程度の視線など、どうということもなかったのだが。

 それはイズミの隣を歩くダーシェンカと佐倉も同様らしく。

「しっかしよう、イズミもあっという間に有名人だな。ダーシェンカちゃん越えも夢じゃない、ってか?」

 イズミの隣を歩いていた佐倉が、イズミの顔を覗き込みながら馬鹿にしたような笑みを浮かべた。

「あー、そうだな。理由が理由なので嬉しくもなんともないがな」

「そう言うなよ。かの偉人も言っただろ? 愛の反対は無関心である、と」

「何が言いたいんだよ?」

 イズミはマザー・テレサの言葉を引用した佐倉に、この上ない軽蔑の視線を向ける。

 佐倉はそんなことを意に介する様子もなく飄々と微笑み、続けた。

「気味悪がられるよりはマシ、ってことだよ。な、ダーシェンカちゃん?」

「ん? あぁ、そうだな。だが、下賤な興味は心地よくない」

 不意に振られた話題に、ダーシェンカはどこか心ここにあらずと言った様子で答えた。

 イズミはそんなダーシェンカを見やり苦笑する。

 おそらく警戒しているのだろう、敵の襲撃を。イズミも警戒していない訳ではなかったが、さすがにエーテルは飛散させていなかった。それは、エーテルの飛散が著しく集中力を消費するというのもあったが、なにより敵が人混みの中で襲ってくるタイプとは思えなかったからだ。

 最初の襲撃は、人気の全くない場所で行われた。だからと言って二度目も同じとは限らないのだが、それでもイズミはなんとなく今は大丈夫だという確信があった。

(まぁ、そんなことダーシェンカに言ったら怒られそうだけど……)

 イズミは自分に説教するダーシェンカの姿をありありと思い浮かべながら、苦笑を深めた。

「まぁ、僕は気にならないから大丈夫だよ。だからダーシェンカもそんなにしかめっ面しないでさ」

 イズミは苦笑のまま言い、歩調を速めた。

 イズミはダーシェンカへの手前、気にならないとは言ったものの、出来ることならば見知らぬ人たちの視線からはおいとましたかった。

「なっ、私はしかめっ面など!」

「いや、かなり険しい表情だったね。昨日の朝俺に向けた殺気立った表情に次いで」

 歩調を速めたイズミに、ダーシェンカと佐倉が続く。

 佐倉の言葉が気になったイズミではあるが、深く突っ込む必要もないと思い、新たに始まった二人の言いあいに耳を傾けながら教室を目指した。


 人の視線を避けたくて目指した教室ではあったが、たどり着いてみればそこはそこでイズミにとって非常に大変な場だった。大変というだけで、先ほどよりは数倍居心地のいい空間ではあったのだが。

「もう学校来てダイジョブなの!?」

「本当に天罰が下りやがったな!」

「いやぁ、ホントーに死ななくてよかったわ。イズミにやる香典はないもの」

「コレに懲りたらもう二度と悪さするんじゃないぞ、分かったな?」

 等々。遠慮もへったくれも無いような言葉が次々と、教室に入るなりイズミに浴びせられた。

 イズミはその一つ一つに応じながら、自分の席に着く。

 たった一日入院するだけでこうも心配してもらえるのも不思議な感覚だった。いや、この場合は事件の被害者として心配されている、と表した方が適切だろうが。

 こんな状況でさえも、襲われるのが当然とばかりに言われた夏休みと比べれば、だいぶ幸せな状況だった。

 イズミはそんなことを考えながら、自分の後ろの席に座っているダーシェンカに視線を向けた。

 ダーシェンカは相変わらずどこか浮かない顔をしている。

「そんなに警戒しなくて大丈夫だよ。ヴェルナールの時とは違って、周りの人もみんないつも通りじゃないか」

 イズミはダーシェンカが周囲を警戒し続けているということを察し、囁くように言った。

「いや、だが……」

「大丈夫、さっきエーテル飛ばしたときに異常はなかったから。ダーシェンカはもっと楽にしてくれていいよ?」

 イズミは肩をすくめながら苦笑した。

 それでもダーシェンカはどこか落ち着かない様子で周囲の状況を窺い続けている。

 イズミの能力をしてもなおダーシェンカが安心できないのにはそれなりの理由があった。

 ナイフを使った襲撃から考えれば、敵が魔術を使ってこない可能性だって大いにありえるのだ。そうなると、イズミの能力はあまり役に立たない。何と言ってもイズミの能力は異常を探知することにのみ特化しているのだから。

 近くに凶器を忍ばせた人間がいようと、探知することはかなわない。

 だからこそダーシェンカは、警戒を解けずにいるのだ。

 もちろん、アレが本当にただの通り魔ならば今のダーシェンカの行為は徒労と消えるのだが、ダーシェンカがそんなことで気を緩められるはずもなかった。

 イズミはそのことに思い至り、微苦笑する。

「無理は、しないでね?」

「保証はできないな」

 念を押すように言ったイズミに、ダーシェンカはいたずらな微笑を返した。

 イズミはその余裕を含んだ笑みに安堵し、前に向き直る。向き直ったイズミは鞄から教科書類を引っ張り出しながら、念のためにもう一度エーテルを飛散させて周囲の状況を確認した。

(うん、大丈夫。今のところ異状なしだ)

 イズミは小さく頷き、担任が教室に入ってくるのを待った。


** *


 騒がしい教室の片隅で、来栖は人知れず歯噛みしていた。

 いつもならクラスメイトと談笑を交わしているはずのこの時間も、今の来栖にとっては苦痛でしかなかった。

 極力平生を装ってはいるが、気を抜けば膝が震えだしてしまいそうだった。

(警戒、している)

 来栖は周囲のエーテルの流れを読み取り、眉根を寄せた。

 来栖の瞳には全てが映し出されていた。教室中の人間の思考、行動、雰囲気、感情、その他諸々の情報がエーテルというカタチをとって視覚化されている。

 だがそんなものは来栖にとってどうでもいい情報だった。それらを極力意識から排し、空気中を漂うエーテル情報にのみ目を凝らす。

 そこには確かに、魔術の痕跡が漂っていた。

 なかなかに高度な探査魔術の痕跡。如月イズミは一流とまではいかなくとも、中の上程度の能力は兼ね備えているように感ぜられた。

 それでも、来栖の心に畏れは生まれなかった。

 今のところ不安要素は何もない。あるとすれば、来栖自身が人を殺すことができるか否かという点のみだった。

 如月イズミを殺す状況の作成についても抜かりない。とはいっても、その準備をしているのはクレアだったから、来栖はクレアが何をしようとしているのかは詳しく知らない。

 知らずとも、理解はしていた。エーテルの流れを読み取る限り、問題がないということだけは確実なのだから。

(あとは私が……)

 来栖は眠ったままの兄の顔を思い浮かべながら、我知らず拳を白くなるまで握りしめた。

 殺せると、昨日から何度も自分に言い聞かせてきた。

 いかに相手が化け物じみた存在であろうと、自分にはこの眼がある。万に一つも間違いはないのだ。何も畏れることはない。

 ハズ、なのに。

(どうして体が震えそうなんだ……!)

 来栖はうつむき、唇を噛みしめた。

 分かっている。怖いんだ。自分が負けることではなく、人を殺すことが。法的に罪に問われる問われないの問題など、瑣末なこと。

 真に問題なのは、自分の心が罪の意識に押しつぶされないかどうかだ。

 来栖は元来、生き物を殺すには適さぬ存在だった。虫一匹にすら慈悲をかけてしまうような、そんな人間。

 だから、日常を生きてきた。魔なるモノを狩るのを生業とする一族に生まれながら、その甘さによって“異常”から遠ざけられた。その眼に大きな“異常”を内包しながらも。

 だというのに来栖は、自ら異常に立ち帰らんとしている。

 危機を退ける為などという大義もなく、ただ自分の願いのために善良な少年を殺そうとしている。

 たとえネクロマンサーという存在が悪だとしても、如月イズミという少年の在り方は善だった。疑いようもなく。

(だとしたら……私は悪か)

 来栖は分かり切っていたことを自嘲気味に呟いた。

 それでも焦燥に似た気持は止まない。

 だがなにより来栖を苦しめたのは、これだけ大きな焦燥が自分の中にあるというのに、如月イズミの死という結果が全く揺らいでいないということ。

 来栖は、自分の中にある偽善を突き付けられた気がした。

(結局私は……殺せてしまうのか)

 絶望の中で来栖は、どこか壊れたような笑みを浮かべる。

 来栖はふと、視界の端に周囲のモノとは全く異なったエーテルを感じた。来栖の眼をしても僅かにしか捉えられないような微弱なエーテル。否、巧妙に周囲のエーテルと同調している恐ろしい技巧。

 来栖は気配の漂う、教室の扉に視線を向ける。

 そこには、朗らかな笑みを浮かべたクレア・ブリンズフィールドが立っていた。


** *


 イズミは閉じそうになる瞼を根性で支えながら、六時限目の授業を受けていた。

 昼食後に服用した鎮痛剤の副作用のせいでもあるのだろうが、それ以上に抑揚なく続く老教師の日本史の授業はこの上無い睡眠導入剤だった。

 それでもイズミはなんとか意識を保ち続ける。普段ならばとうに心地よい眠りに堕ちているにも関わらず、だ。

 ダーシェンカが警戒を怠っていないというのに、イズミがのうのうと眠れるはずがなかった。

 だからイズミはシャーペンを手に刺しながらでも、意識を保ち続けた。もちろん定期的にエーテルを振りまくことも忘れない。もっとも、エーテルを振りまく疲労で眠くなっているというのもあったのだが。

 イズミがあまりの眠さに頬を思い切りつねろうとした瞬間、授業終了を告げるチャイムが鳴った。

「じゃあ今日はここまでです。それではみなさん、さようなら」

 老教師はチャイムと同時に教科書類をたたみ、教室から出ていった。

 イズミはなんとか最難関の時間を乗り切った事に安堵し、溜息を洩らす。

 何気なく周りを見渡してみれば、クラスの三分の一が撃沈していた。げに恐ろしきかな、老教師の睡眠導入剤。

「大丈夫か?」

 周囲の光景に苦笑いを浮かべていたイズミに、後ろの席からダーシェンカが声を掛けた。

 振り向いて見てみれば予想通り、ダーシェンカは平時と変わらない毅然とした表情を浮かべている。ダーシェンカの前では極上の睡眠導入剤も形無しらしい。

「うん、大丈夫だよ。敵の気配もなし」

「いや、それも勿論あるが、そういうことじゃなくて……て」

「て?」

 イズミが首を傾げると、ダーシェンカがゆっくりと何かを指さした。

 その先には、イズミの手。

 シャーペンで刺しすぎで、黒鉛、内出血、出血の入り混じったグロテスクなカンバスと化していた。

「……大丈夫じゃ、ないかも」

 イズミはその惨状から目をそむけ、苦笑う。

 半ば眠っていたせいで力の加減が上手く出来ていなかったらしい。見た目ほど痛みがないのがせめてもの救いだった。

 そんなイズミにダーシェンカは呆れたように溜息を吐きだし、肩をすくめる。

「とりあえず水道で洗ってこい」

「……そうします」

 イズミはダーシェンカの言葉に頷き、廊下にある水道に向かった。

 イズミが水道で手にこびりついた黒鉛を落としていると、誰かがイズミの肩を叩いた。

 首だけでイズミが振り返ると、微笑を称えたクレアが立っていた。

「ど、どうしたの? クレアさん」

 イズミは蛇口を閉め、ハンカチで手を拭いながらクレアに向き直る。

 高等部の校舎に中等部の生徒がいるだけでも目立つというのに、それがとびきりの美少女とあっては人目を引かないはずがなかった。

 多くの生徒達が教室の中、廊下の片隅からチラチラとクレアに視線を向けている。

「いえ、来栖会長から言伝を預かっておりまして」

 クレアは周囲の視線に委縮する様子も見せず、花のように微笑む。並の男ならこの笑顔だけで虜にしてしまうといっても過言ではないとさえ思える、そんな微笑。

 イズミはクレアの言葉に首を傾げる。来栖からイズミへの言伝と言えば体育祭絡みなのだろうが、開催が危ぶまれている以上何か仕事があるとは思えなかった。

「とにかく、ホームルームが終わったら生徒会室に来て下さい」

「う、うん。分かった」

 イズミは若干戸惑いながらもクレアの言葉に頷く。

 クレアは「では、伝えましたから」と微笑み、踵を返した。

 注目を一身に浴びているというのに、相も変わらず堂々とした足取りで歩いていくクレアの背中を、イズミは呆然と見送る。

 クレアの姿が見えなくなったあと、自分に注目が集まっていることに気付いたイズミは、逃げるように教室に戻った。

 それから帰りのホームルームを終え、イズミはクレアの言葉通りに生徒会室へと向かった。もちろん、ダーシェンカも一緒にだ。

 生徒会室前に辿り着き、扉を軽くノックすると、クレアの「お入り下さい」という言葉が返ってきた。

「失礼します」

 イズミは言いながら、生徒会室の扉を開ける。

 西日差し込む生徒会室の中には、来栖とクレアの二人だけだった。二人は長机に向い、書類や何やらの整理をしている。

「あぁ、如月くん。ごめんね、いろいろ大変なのに呼び立てちゃって」

 来栖は書類から顔を上げ、イズミに微笑を向ける。

 イズミにとっての生徒会のイメージは、教師から与えられた仕事を流れ作業のようにこなしていくというものだったのだが、来栖の手元にある書類を見る限りそういうわけでもないらしい。

 心なしか、来栖の顔に疲労が浮かんでいるようにも感じられた。

「いえ、幸い傷も大したことありませんでしたから」

 イズミは来栖の苦労を思いやりながら微笑む。

「そうなの? いやでも、ごめんなさい。本当なら他の人に仕事を回すべきだったんだけど……一年の取りまとめが如月くんだったから」

「あの……僕は何をすればいいんでしょうか?」

 申し訳なさそうに目を伏せる来栖に、イズミは遠慮勝ちに問う。

 来栖がイズミの問いに答えようとしたときだった。

 クレアがすくと立ち上がり、書類を机でトントンとまとめながら言った。

「来栖先輩、書類の整理終わったので体育倉庫の片付けに行ってきます」

「え? あぁ、そうだったわね。でも一人で大丈夫なの? 結構重い物もあるわよ?」

「大丈夫です。私こう見えて力ありますから」

 心配げに言う来栖に、クレアは二の腕を叩きながら言った。

 力があると言う割にその腕は、ひどく華奢に見えた。

「あの……僕が手伝いましょうか?」

 クレアの二の腕の頼りなさに、思わずイズミは手を挙げていた。

 傷が痛まない訳ではなかったが、鎮痛剤も効いているから少しぐらいの重みなら問題ないと判断した。

「そんな、悪いですよ。傷が開いたら大変ですから。大丈夫ですよ、一人で。あ、でも綱引きの綱って意外と重いんですよね……もしよかったら手伝ってくれませんか? ダーシェンカ先輩。すぐに片付きますんで」

 クレアはあごに人さし指をあてながら考え込む仕草をすると、イズミの横で黙り込んでいたダーシェンカに視線を向けた。

「私か? 私は……」

「手伝ってあげてよ、ダーシェンカ。すぐに片付くっていうんだから」

 言いよどむダーシェンカに、イズミは肩をすくめる。

「大丈夫、か?」

 ダーシェンカは言外に『今異常はないのか?』という意味を込めてイズミを見つめた。

 イズミは念のためにエーテルを飛散させ、周囲の状況を窺う。窺ってはみたものの、周囲に魔術師の気配は皆無だった。

「大丈夫だよ。僕はここで会長の要件を聞いてるから、クレアさんの手伝いしてきて」

 イズミは力強く頷き、ダーシェンカの肩を叩いた。

「なら……行ってくる」

「ありがとうございます!」

 どこか渋る様子を見せたダーシェンカに怖気づく様子も見せず、クレアは満面の笑みを浮かべながらダーシェンカに歩み寄った。

「では、いきましょうか」

「あ、あぁ……」

 クレアは笑顔のままダーシェンカの腕を取り、戸惑うダーシェンカをよそに、半ば引きずるようにして生徒会室から出ていった。

 その様はどこか、やんちゃな妹と面倒見のいい姉といったような感じで、微笑ましかった。

「あの……それで僕に用事って言うのは?」

 イズミは二人の後ろ姿から視線を引きはがし、来栖に視線を戻す。

「あぁ、それは……」

 来栖はクレアがまとめていった書類に目を通しながら、表情を険しくした。


** *


 ダーシェンカはクレアに腕を掴まれたまま校内を歩いていた。いや、引っ張り回されていると言った方が正しいのかもしれないが。

 時折すれ違う生徒や教職員からは怪訝な視線や好奇の視線が向けられたが、みんながみんなそんな目を向けるものだから、いつの間にやらダーシェンカは気にしなくなっていた。

「お、おい……クレア、と言ったか? いったいいつまで私を連れ回すつもりなんだ?」

 ダーシェンカは呆れたように吐息を漏らし、ダーシェンカの腕を離すことなく歩き続けるクレアに言葉を投げた。

 不意にクレアの足が止まり、ダーシェンカは危うくクレアにぶつかりそうになる。

「っ! どうしたんだ? 急に立ち止まったりして」

 ダーシェンカは顔をしかめ、クレアを見つめた。

 クレアの手がダーシェンカからゆっくりと離され、クレアがダーシェンカに向き直る。

 その表情にはどこか、思いつめたモノが感じられた。

「どう、した?」

 ダーシェンカはクレアの表情に首を傾げ、声のトーンを優しいものに変えて尋ねた。

「その、非常に言いづらいんですが……」

「ん? なんだ?」

「高校の体育倉庫ってどこにあるんでしたっけ?」

 クレアは申し訳なさそうに手を組み合わせ、ダーシェンカを上目がちに見上げた。

 ダーシェンカは盛大な溜息を吐きだし、肩をすくめた。

 文句の一つでも言ってやろうかと思ったのだが、確かに中等部の生徒で、なおかつ転校したてのクレアが倉庫の場所を知らないのは無理からぬ話だった。

「高校の体育館の脇にあるプレハブがそうだ」

 ダーシェンカは上目がちに見つめ続けるクレアに困ったような笑みを返し、体育倉庫に向かって歩きだした。

 神代学園に体育館は二つあり、一つは高等部用で、もう一つは大学と中等部の共用のものだった。

 そのいずれも、校舎から離れたとこに設置されており、靴を履き替えなければ行くことが出来ない。

 本来ならばいったんクレアとダーシェンカは靴を履きかえるために別れるべきなのだが、

それでは手間がかかるということで、クレアにはイズミの靴を貸りてもらうことにした。

「あの……一つ伺ってもよろしいでしょうか?」

「ん、何だ?」

 体育倉庫へ向かう道の途中、クレアが口を開いた。

 下校途中の生徒達の視線が集中しているというのに、それを気にしている素振りは全くなかった。もっともそれは、クレアの隣を行くダーシェンカも同じなのだが。

「ダーシェンカ先輩は、如月先輩と付き合ってるんですか?」

 クレアは小動物のように円らな瞳をダーシェンカに向け、さらりと言葉を紡いだ。

 その言葉にダーシェンカの足が止まる。何か言葉を返そうとしているのか、口がパクパクと動いていた。

「先輩? 顔が赤いですよ?」

「なっ、あっ、いや、これは……その、なんというか」

「フフ、いつも如月先輩にベッタリの割には初々しい反応なんですね」

 上気した頬をペタペタと触るダーシェンカに、クレアはクスクスとからかうような笑みを向けた。

「ま、これ以上無粋なことは聞きませんよ」

 クレアはニヤリと笑うと再び体育倉庫に向かい歩き出す。

 ダーシェンカはそのあとを、どこか落ち着かない様子で追った。

 ダーシェンカには分からなかったのだ。クレアの問いになんと答えればいいのか。

 自分がイズミのことを好いているということは、考えるまでもなく明白なことだ。

 そしてイズミもまた――。

 ダーシェンカは浮かびかけた思考をかき消した。それは驕りでも何でもなく、確かな事実。それでもどうしてか思考するのははばかられた。

 イズミとダーシェンカの関係に対して“付き合う”という言語化が適切なモノとは思えなかったが、少なくとも日常の範疇ではそれがもっとも近いものなのだろう。

 だが。

(私とイズミの、関係……)

 ダーシェンカはどうにも形容しがたいそのカタチを模索しながら、クレアのあとを歩き続けた。

 数十メートルほど歩き、二人は体育倉庫の前に辿り着く。

 倉庫は教室二個分ほどの大きさのある、プレハブ作りだった。

 クレアが来栖から預かっていたらしい鍵を取り出し、倉庫の扉に掛けられた南京錠を取り外す。扉を開くと、生暖かい空気と、カビのツンと鼻に来る匂いがダーシェンカとクレアを襲った。

「まったく、こんな仕事本当は男子がやればいいんですよ」

 クレアは体育倉庫から漂う臭気に顔をしかめながら、土足のまま中に入っていく。

 ダーシェンカもクレアに続いて、埃舞う倉庫に足を踏み入れた。

 体育倉庫の中には様々な球技のボールや、ハードル、綱引きの綱、得点板などが乱雑に置かれており、本当に今も使用されているのかと疑いたくなるような様相をなしていた。

「それで、何をすればいいんだ?」

 ダーシェンカは散らかった倉庫の中を見回しながら口を開く。

 クレアは聞こえていないのかダーシェンカの問いかけに答えず、黙々とハードルの整理などを始めていた。

 ダーシェンカは溜息を吐き、クレアの隣に立ってハードルの整理を手伝うことにする。クレアが綺麗に並べたところに、ダーシェンカもハードルを重ねていく。

 ものの数分でハードルは片付き、あとは散らばったボール類を籠やケースにしまうなどで作業は終了した。

「これで終わりか?」

 ダーシェンカは手に着いた埃を払い落し、物品の位置を指さしながら確認しているクレアの背中に問いかける。

「えぇ……終わりましたよ、きっと」

 クレアは振り返り、ゾッとするほど冷たい笑みをダーシェンカに向けた。

「っ!?」

 ダーシェンカは本能的にクレアから飛び退り、身構えた。

「そんなに警戒しないで下さい。何もしませんよ、少なくともあなたには、ね」

 クレアは朗らかに微笑み、首をかしげた。その所作はまるで小動物のそれなのに、どこか猛禽類を感じさせる威圧があった。

「私には……? まさか!?」

 ダーシェンカの脳裏にすぐさまイズミの姿が思い浮かぶ。思い浮かんだ瞬間、ダーシェンカは地面を思い切り蹴っていた。

 だが。

「おっと、行ってはいけませんよ?」

 クレアがダーシェンカの行く手を阻み、諸手を広げる。

 ダーシェンカはそれでも速度を緩めず、足首をひねってクレアの脇を通り抜ける。

「行ってはいけないと言ったのが聞こえなかったのか? 小娘」

「っ!」

 ゾッとするほど冷たい声がダーシェンカに突き刺さったのも束の間。ダーシェンカの体は、倉庫の床に叩きつけられていた。何に触れられたワケでも、ましてや何かにつまづいたワケでもなく、だ。

 ダーシェンカは必死に体を起こそうとするのだが、体が上手く動かなかった。力が入らないというよりも、力の掛り方がおかしくなっているような感覚。

 すぐさまそれが魔術によるものだと判断したダーシェンカは、エーテルを体内に走らせて解除を試みるが、不可能だった。

 そもそも、エーテルを操ることが出来なくなっている。

「まったく……恥ずかしくて見てられんな、オルリック家の娘」

 クレアは地面ではいずり回るようになっているダーシェンカに歩み寄り、一切の感情もこもらない視線を向けた。

「お前は、何者だ……!」

「何者? ふむ。今は神代学園中等部三年のクレア・ブリンズフィールドだが……」

 クレアは一息置くと口元に微笑を浮かべ、続ける。

「一方で、アクロマ機関総帥、クレア・アクロマ・ブリンズフィールドでもある」

 クレアは口元の笑みを深くしながら、言った。

 その言葉に、ダーシェンカは目を丸め、呆然とクレアを見つめた。

「何を呆けている。アクロマ機関がいるのは不思議ではあるまい? アクロマ機関は掟に背きし者を裁く機関なのだから」

「なっ!? 私たちは、」

「ヴェルナールを退けた、か? 確かに退けたな。手痛い敗北ののちに、だがな」

 クレアは口元の笑みを消し、射殺さんばかりの視線をダーシェンカに向ける。

「そこに何の問題があるというのだ! イズミの父は、」

「死んだよ、如月幸也は。私がこの手で葬った。造反者は処分するのが掟だ」

「な……そんな馬鹿なっ」

「あれほどの技量の者が負ける訳ないと? ではいったい今現在お前の体の自由を奪っているものは誰なんだろうな。仮にも名匠キリコの作であるお前の自由を奪っている偉大な魔術師は」

 クレアは口許を歪める。

 その言葉にダーシェンカは歯噛みし、無言のままクレアを睨みつけた。

 実際、為す術が全くなかった。体は動くには動くが、地面から離れることはかなわないし、自分のエーテルの流れすら感じることが出来なかった。

 それでも、諦めるわけにはいかなかった。体中に、ありったけの力を込めて立ち上がろうと試みる。しかし、体を数センチ持ち上げるのが精一杯だった。

「おとなしく諦めろ、小娘。それとも如月のせがれに対する信頼はその程度なのか? 『私が守ってあげなきゃ彼は!』か?」

 クレアは体をくねらせながら芝居がかった口調で言う。その顔には、人を小馬鹿にした軽笑が浮かんでいた。

 ダーシェンカはその言葉に何も返すことはせず、無言のままクレアを睨みつけた。

 クレアはそんなダーシェンカから興味を失ったようにふいと顔を背け、踵を返す。そのまま、近くにあった跳び箱の上に腰をおろした。

「まったく……嫌になるほどそっくりだな」

 跳び箱の上で足をばたつかせながらクレアは、顔をしかめながら視線で一人ごちる。不思議とその表情は、何かを懐かしんでいるようだった。


** *


 西日によって真っ赤に染まった生徒会室。

 イズミは額に汗を滲ませていた。

 ダーシェンカがクレアに引っ張られながら消えていったあと、イズミに待っていた仕事は膨大な資料の整理だった。

 本来ならば、体育祭関係の書類にいくつかの事項を軽く記載するだけで済むはずの仕事だったのだが、それを済ませて手持無沙汰になったのが運の尽きだった。

 イズミは耐えられなかったのだ。何もせずに椅子に座っている自分の脇で、来栖が黙々と書類整理をしていることに。だから声をかけてしまった。

 手伝いましょうか、と。

 無論はじめは来栖も断った。怪我人にこれ以上手数をかけるわけにはいかない、と。だがそこで引き下がれるイズミでもなく、食い下がってしまった結果。

「じゃあ、お願いするわ」

 という言葉と、少し困ったような来栖の笑顔とともに、ごく“少量”の資料がイズミの手に渡された。

 ごく少量というのは客観的な、というよりは相対的に見て少量と言うだけで、紙束の厚さは二センチほどあった。

 もっとも、来栖のそれは二掛ける三という恐ろしい厚さと化していたが。

「あの……生徒会っていつもこんなに仕事あるんですか?」

 イズミは手元の資料を数種類に分類する作業に励みながら口を開いた。

「うーん、いつもはもっと簡単な仕事よ。今日のはちょっと特別ね……ほら、通り魔事件で先生方がいろいろ大変だから、その仕事が回ってきてるのよ。生徒で処理できる程度の仕事は、ね」

 来栖は肩をすくめながら微笑む。その笑みにはどこか皮肉が込められているようだった。

 イズミはその意図を汲み取り、来栖に苦笑を返す。

 イズミの手元にある資料を見る限り、生徒で処理出来る程度の仕事というような代物では全くないのだ。どう考えても、一介の高校生に捌けるものではない。

 それでも来栖は捌いている。時には資料に書き込みなどを加えながら、要領よく。

 イズミの仕事は来栖が捌いたものを指示通りに分類するだけ。だけ、とは言っても、イズミはいまいち資料の種類の区別が付かず、いっぱいいっぱいになりかけているのだが。

 そのように難しい作業だから他の生徒会役員は参加せず、来栖一人で作業していたのだろう。いや、ひょっとしたらクレアも作業していたのかもしれない。

 そう考えるとイズミは、クレアの優秀さにそら寒いものを感じた。

「あの……会長はクレアさんと仲いいんですか? よく一緒にいるみたいですが」

「え? あぁ、仲がいいかは分からないけど、クレアに仕事を手伝ってもらうと速いから手伝ってもらうの。今日も本当は放課後の活動禁止だから普通の生徒は残っちゃいけないんだけど、無理を言って残ってもらったの。それを言うなら如月くんもだけどね」

 来栖は資料整理の手を休め、申し訳なさそうにイズミを見つめた。

「いえ、気にしないでください。どうせ僕はダーシェンカが帰ってくるまでの手伝いなんですから」

「いやいや本当にありがとう、如月くん。でも今日はここら辺で切り上げましょう。残りは明日の朝に片付けることにするから。途中でクレアとダーシェンカさんと合流して帰りましょうか」

 来栖は立ち上がり、机の上に並んでいた資料をまとめ始める。イズミが分類していたものもその上に重ね、部屋の隅に置かれた木製の棚にしまった。

「さ、行きましょう」

 来栖は微笑み、床に置かれていたクレアとダーシェンカのカバンを拾いあげる。

「あ、ダーシェンカの荷物は僕が持ちますよ」

「いいわよ、これくらい。手伝ってもらったお礼だと思って」

 歩み寄るイズミを、来栖は両手の鞄を持ち上げて制した。

「そうですか? いやでもやっぱり悪いですよ……」

「気にしなくていいわよ、大した荷物じゃないし。それに如月くん、怪我してるでしょ?」

 来栖は苦笑い、肩をすくめた。

 それでも申し訳なさそうな表情を浮かべるイズミの脇を、来栖はスルリと通り抜ける。

「さ、早く出て。鍵閉めちゃうから」

 来栖は渋るイズミを急きたてるように、からかうような笑みを浮かべて部屋の外から手招いた。

「あっ、すみませんっ」

 イズミは慌てて床に置いていた鞄を拾い上げ、急きたてられるままに部屋を出た。

 あまりに慌てたせいで、腹の傷がズキリと痛んだが、すんでのところで表情には出さなかった。

 来栖は、イズミのどこか滑稽にも思える動きに、口元を押さえながらクスクスと笑みを洩らしていた。

「わ、笑わないで下さいよ、会長」

「フフ、ごめんなさい。如月くんがあまりにも素直なものだから。つい、ね」

 来栖は口元に微笑を残したまま、制服のポケットから鍵を取り出した。

 両手に鞄を携えたまま、来栖は器用に生徒会室の扉に施錠する。


「……なさい」


 何かが、イズミの耳に響いた。

 それは今にも消え入りそうで、どこか物悲しさを秘めていた。声とも音ともつかないような、その程度のもの。

 それでもソレに込められていたものの重さは、計り知れないように感じられた。

「会、長?」

 イズミはソレを発したであろう人物に声を掛ける。

 表情は窺い知れない。来栖は扉の鍵に手を掛けたまま、イズミに背を向けていたから。

「え? 何か言った?」

 数瞬遅れて振り返った来栖の表情は、先ほどまでとなんら変わらないもの。

 イズミは先ほどの声が空耳の類だったのかと考え、眉根を寄せた。

「行きましょう、如月くん」

 そんなイズミをよそに、来栖は軽い足取りで歩きだす。

 イズミは首をにわかに傾げたものの、来栖の後に続こうと足を踏み出した。

 瞬間、イズミの視界が反転した。さきほどまで当たり前のように見えていた景色が揺らぎ、ありえないはずの視界ビジョンが映った。視界どころか、ツンと鼻を刺すカビの臭いすら嗅いだ気がした。

(埃っぽい、床……?)

 イズミは体のバランスを崩して地面に片膝を突くも、一瞬だけよぎった景色を明確に捉えていた。

 それは奇しくも――あるいは当然ながら――ダーシェンカがクレア・アクロマ・ブリンズフィールドの前に屈服したときと同刻だった。

「だ、だいじょうぶ?」

 なかなか立ち上がらないイズミに、来栖がゆっくりと歩み寄る。

 その声に、イズミは反応しなかった。いや、出来なかったのだ。不可解な幻覚から、意識を逸らすことが出来なかった。

(……考えろ)

 イズミは自分に強く言い聞かせた。

 あの景色が、ただの幻とは到底思えなかったのだ。幻にしては質感が生々しかったし、何より身に覚えのある感覚だった。

「っ!」

 その感覚がなんであるか思い至ったイズミは、立ち上がり、地面を蹴っていた。

 なぜすぐに思い至らなかったのか。その感覚は紛れもなく、遠くない夏の日に味わったものではないか。

 感覚共有。

(ダーシェンカが危ない……!)

 イズミは明確な理論立てをすることもなく、そう結論付けて走りだしていた。

 腹に響く鈍痛など、気にも留めなかった。ましてや、背後で来栖が呟いた言葉など、耳に届くはずもなかった。

 来栖は能面のような表情で、こう呟いていた。

「……ごめんなさい」

 と。


 イズミは下駄箱に辿り着き、小さく舌打ちをした。自分の靴がなくなっていたのだ。

 それが盗難であるか、はたまた別の理由であるのかなどということを考えるまでもなく、イズミは上履きのまま外へ駆け出た。

 目指す場所は決まっている。体育倉庫だ。

 先ほどイズミの脳裏に映った景色はおそらく、体育倉庫。だとすれば、それがダーシェンカの視覚と捉えてもなんら不思議はないだろう。

 無我夢中に動いていたイズミの足が、不意に止まった。

 あと数十メートルで体育倉庫に辿り着く、そんな所に一つの影が現れたのだ。

 完全下校時刻からだいぶ経った今、学園の敷地内にいるものは限られている。証拠に、今までイズミは誰に会うこともなかったのだから。

 もっとも、誰かを見かけようとその足が止まることはなかっただろう。

 それでも、目の前に現れた人物はイズミの足をとめた。その人物がイズミをとめた、というよりも、その人物が手に持っていたモノがイズミの足をとめたと言った方が正しかろう。

 イズミの目に映るのは、抜き身の、青白い輝きを放つ日本刀。

「……来栖、会長?」

 イズミは、目の前の人物の名を半ば放心気味に呟いた。

 自分が置いてきた来栖が目の前にいるのは、なんら不思議なことではない。職員玄関や、

窓などから出れば、いくらでも先回りの方法はある。

 だが、その手にしっかりと握られた日本刀は。

 その顔に浮かぶ、悲しみとも怒りともとれるような、複雑な感情は。

「……ごめんなさい」

 来栖はそれだけ呟くと、凄まじい勢いで地面を蹴り、一瞬でイズミとの間合いを詰めた。

「っ!」

 だが日本刀を手にした人間を相手に、呆然と突っ立ているほどイズミも愚かではなく、腹に走る激痛に顔を歪ませながらも、後ろに跳躍する。

 つい先ほどまでイズミが立っていた空間を、来栖の日本刀が切り裂いた。素人目に見ても、鋭いと分かる容赦のない一振り。

 その一振りに背筋を凍らせながら、困惑の表情を浮かべる。

 先ほどのビジョンを目にした瞬間から周囲にエーテルを振りまいているのに、なんら変わった事を捉えられていないのだ。

 エーテルが伝えてくれる情報はただ一つ。

 異状なし、だ。

 目の前に日本刀を構えた少女が立っていても、その情報に変化はない。少なくとも、魔術的な意味においては、なんら異状がないのだ。

 だとすれば、目の前の光景は、日常の範疇に位置する異常ということになる。

 少女が日本刀を構え、少年を襲うという、極めて希有な、それでも日常に起こりうる出来事。

「どうしたんですか!?」

 半ば無駄だとは理解しつつも、イズミは問わずにはいられなかった。

 先ほどまで柔らかな表情を浮かべてイズミと接していた来栖が、何故襲いかかってきているのか、と。

 魔術が関連していないとなればこそ。

「あなたを殺せば、私の大切な人が、帰ってくるの……」

 来栖は振りかぶった日本刀を下段に構え直しながら、呟くように言った。それはどこか呆けた口調で、それでいて強い意思が籠っていた。

「帰って、くる……?」

 イズミは来栖の言葉を反芻しながら、怪訝な表情を浮かべた。

 自分を殺せば、来栖の大切な人が帰ってくる。そのような理屈が成り立つとは、到底思えなかった。

 成り立つとしたら、それではまるで。

「あなたを殺せば、兄さんの封印を解いてくれるって……」

 来栖の呟いた言葉がイズミに確信を持たせた。

 この状況は間違いなく、魔術絡みであると。

 イズミは覚悟を決め、エーテルの可視領域を限界まで引き上げる。

 イズミの物理的視界は一瞬にしてゼロになり、代わりに心眼ともとれるような、本質的視界が拓ける。

「何をしても無駄なのよ、如月くん」

 来栖の言葉は、イズミに絶望を突き付ける内容であるというのに、言い知れぬ悲哀が漂っていた。

(何を、しても……?)

 イズミは来栖の言葉に、自分の耳を疑った。

 イズミが行ったことは可視領域の調節のみ。ともすれば、余人がそれを察知できるはずもない。

 だというのに、来栖の口調はイズミがしたことを的確に捉えているようだった。

 偶然の産物、とイズミが片付けようとしたとき。

「あなたは私との戦闘を避け、ダーシェンカさんと合流しようとしている。なるほど。確かに私はダーシェンカさん相手には歯が立たないわ。あなたの予想の上位に位置するものの通り、私に魔術は使えないもの」

 来栖は無表情のままイズミを観察し、淡々と述べる。

 その言葉に、イズミは思わず息を呑んだ。

 来栖が述べたことは、聞くだけ聞けば、単なる、少しだけ精密な予想ともとれた。

 だが、イズミの眼は捉えていた。その言葉の一つ一つが、僅かな当て推量もない、まったくの確信であるということを。

「なるほど……あなたの眼も私のものに限りなく近いのね。もっともあなたのそれは、ほんの少し先の未来しか視えてないみたいだけれど」

 来栖はイズミの驚いた表情を見やり、雄弁に語り出す。

 先ほどまでの呟くような口調から一変し、聞く者を真綿で締め上げるような、一種の強迫観念を秘めた、そんな性質を滲ませ始めている。

「でも一ついい事を教えてあげる。あなたの私に対する勝率は、百パーセントよ。あなたが永久機関のエーテルを解放して私に流入させれば、私に勝ち目はないわ。その代り、私は死ぬけどね」

 来栖はなんてことのないように言い切り、肩をすくめた。

 来栖の言葉は何一つイズミに圧迫を与えるものではないというのに、イズミの頬を冷たい汗が伝っていた。

 来栖の行動の一つ一つが、イズミの思考――視覚情報――を乱す。

 目に映るその全てが不可解だった。

 来栖は魔術を使っていないし、魔術を使えないとさえ断言している。だというのに、来栖はイズミが行った魔術的動作を捉えているし、あまつさえイズミの戦術まで予期している。

 魔術を使えないという言葉が嘘偽りならば、どれだけこの状況に救いがあったか。来栖には勝ち目が無いという言葉が虚言であったならば、どれだけ簡潔だったか。

 だというのに、イズミの眼はその全てが真実であると伝えている。

 来栖は真に魔術を使えないし、イズミは優に来栖を殺せる。

 だというのに、イズミの足はじりじりと後ろに下がり、来栖はゆっくりと前進していた。

「私は……キミの善意に付けこみ、キミを殺すわ」

 来栖は刀の切っ先をイズミに突きつけ、宣言する。その表情に感情はなく、声もまた然りだった。

 言い切ると同時に来栖は地面を蹴り、凄まじい勢いでイズミに迫る。

 イズミはその速度に息を呑みながらも、飛び退ってなんとか刀の間合いから抜けた。だが、そこで攻撃の手を緩めてくれるほど来栖も甘くはなく、返す刀がイズミを襲った。

「くっ」

 イズミは腹の鈍痛に顔をしかめながらも転がって何とか攻撃をかわし、再び来栖に視線を向ける。

 イズミの瞳は、来栖が次に取る動作を明確に捕らえている。そこから計算すれば、おのずとイズミが取るべき回避行動も明確に打ち出される。

 事実、イズミは安全な回避行動を打ち出せていた。

 だというのに、背筋を走る悪寒が止まらない。

 攻撃を回避し続ければ、この状況は終わるはずなのだ。なんと言ってもこの状況は“日常”なのだから。

 人の意識操作が行われているわけではない。ただ単に、たまたま偶然この時間、この場所に、人がいないだけなのだ。

 イズミの瞳が魔術的痕跡を辿れない理由はそのせいだった。

 この空間は、魔術によって人が寄せ付けられないのではなく、ただ単に完全下校時刻が早まったせいで人がいないだけ。学校に残っているはずの教師も、臨時の職員会議でこんなところに来るはずがない。

 少し考えればわかるはずだった。学校敷地内の情報を網羅できる来栖ならば、魔術が使えなくともこの状況を作り出せることを。

 叫んで人を呼ぶ。

 真っ先にその選択肢がイズミの頭をよぎった。叫び声の一つでもあげれば、この状況はすぐにでも終わりを告げるだろう。

 人が来て、来栖は逃亡せざるをえない。

 だがイズミにはそれが出来なかった。ダーシェンカの安否が確認できない以上、うかつな行動は取れないのだから。

 だからイズミは、迫り来る凶刃をかわし続けること以外に出来ることがなかった。

「キミが私を殺さないというなら、キミが死ぬだけよ。もっとも、今私の瞳に映っているいる結果は、キミの死だけど」

 来栖は刀を振り下ろし、無表情のまま言い放つ。

 その一太刀一太刀に迷いはなく、明確な殺意が込められている。だが不思議なのは、その一太刀一太刀に『仕留める』という気負いは篭っておらず、機械的に刀が振るわれていることだった。

 そして何より、斬撃の一振り一振りに身を裂かんばかりの悲しみが詰まっているのが、イズミには不思議でならなかった。

(そうか……!)

 イズミは来栖の悲哀をその眼に捉え、一つの結論を導き出す。

 ようは同じなのだ、来栖とイズミは。

 ありとあらゆる抽象的なモノを、その眼に映すことが出来る。

 きっと来栖にもみえているに違いない。イズミと同じモノが。いや、来栖の言動から察するに、それ以上のモノが。

 それならばイズミが来栖に魔術的なものを感じ取ることが出来ないのも説明がつく。

 だがそんなことがわかった所で、なんの解決策が浮かぶワケもなく。

 イズミに出来ることは、来栖の放つ攻撃を避け続けることだけだった。

 反撃、という言葉は不思議と浮かばなかった。

 イズミの攻撃の手段が、相手のエーテルを上書きして死に至らしめるという、覚悟を強いるものしかないというのも理由の一つではあったのだが、それ以上に。

 来栖の一撃一撃に篭る悲しみがイズミの思考を乱した。

 刀が生み出す風がイズミの体を撫でる度に殺意とともに伝わってくる『殺したくない』という矛盾した来栖の叫び。それは一方で大切な人を『取り戻したい』という切実な叫びでもあったのだが、それが表裏一体である以上、その感情にどう接すればいいのか、イズミには判断がつかなかった。

「っ!」

 イズミは来栖の刃を紙一重のところでかわし、口元を歪めた。

 来栖を殺せるはずもなく、ましてやのうのうと殺されてやる気もない。ともすればやはり、イズミにとれる行動は現状維持しかない。

 だがそれも、限界が来ようとしていた。

 腹の傷が開き始めている。ワイシャツにうっすらと紅いモノが滲み始めていた。

 痛みに耐えることは出来ても、血を失いすぎては動くことが出来ない。事実、イズミの足は徐々に力を失いつつあった。それでも何とか、ふらつく反動すらも利用しながら来栖の攻撃を捌き続ける。

「そろそろ限界みたいね、如月くん」

 来栖は感情を表に出すこともなく呟き、イズミを睥睨する。

 感情を表に出さなくとも、それを視認できるイズミの前では無駄なことだった。

 来栖の、イズミに対する痛々しい殺意が伝わってくる。

 来栖は分かっているのだ。イズミを殺す、その行為が自分にいかに重い十字架を背負わせるのかということを。

 それを承知の上でイズミに刃を向け、今まさにイズミの生命いのちを断ち切ろうとしている。

 大切な者のために。

「限界って言うのは、動けなくなってから、ですよ?」

 イズミは顔いっぱいに脂汗を浮かべながら、来栖に苦笑を向けた。

 来栖が大切な者のためにイズミの生命を奪おうというのなら、イズミも大切な者のために生きなければならない。

 イズミは霞み始めた視界をなんとか気合で繋ぎ留め、来栖の動きに集中する。

 来栖の動きは相変わらず容赦なく、イズミの体を切り裂こうと迫りくる。

 イズミはその全てを紙一重でかわしていく。最小限の動きをもって紙一重なのではなく、最大限の動きをもって紙一重というあたりが、イズミの状態を物語っていた。

「先輩のお兄さんはどんな、人、なん、ですか?」

 イズミは来栖の繰り出す刃をかわしながら、虚ろな視線で呟いた。

 時間稼ぎとか、そういった考えを浮かべるほどの余裕はすでにイズミにはなく、ただ本心から問わずには居られなかった。

 来栖にここまでの悲痛な覚悟を背負わせる、その人物について。

 朦朧とした意識の中そのようなことを尋ねるイズミに、来栖は一瞬目を丸めたがすぐに元の無表情に、いや、幾許かの優しさを称えた表情に戻った。

 そして攻撃の手を止めることもなく、口を開いた。

「優しい、とても優しい人だった。両親を亡くしてからは、兄さんが私の全てだった。なのにある日突然っ」

 来栖はそこで言葉に詰まり、嗚咽のようなものを漏らした。

 同時に、嵐のように繰り出されていた攻撃が、止んだ。

 来栖は構えていた日本刀をダラリと下げると、俯き、ジッと地面を見つめ始めた。

「なのに突然っ、動かなくなった。死んだでもなく、植物状態でもなく……兄さんは人以外の何かのような存在になってしまった。どこか遠い、遠いところへ行ってしまった!」

 来栖の瞳からはボロボロ涙が零れていた。

 ポツポツと、地面に小さなシミが作られていく。

 その様をイズミはただ眺めていた。隙をついて逃げるでもなく、反撃の手を出そうとするでもなく、ただ呆然と、来栖を眺めていた。

「でもっ! 君を殺せば、兄さんを、兄さんに掛けられた封印を解いてくれるって!」

 来栖はキッと顔を上げ、イズミを見据えた。その瞳からはまだとどまることなく涙が溢れ出続けている。

 イズミはなおも呆然と立ち尽くした。腹からドクドクと脈打ちながら流れ出る血もそのままに、どこか悲しげな瞳で来栖を見つめる。

 イズミの眼は捉えていた。来栖の中に迷いが生まれ始めていることを。同時に、深い絶望が生まれ始めていることを。

 その絶望がなんであるかは窺い知れなかったが、その感情は、イズミの心をあまりにも深く抉った。

「キミはもうすぐ死ぬ。私が手を下さなくても、その開いた傷口によって。私の眼には、あなたの死という結果みらいがハッキリと映っている」

 来栖は、その悲願が今まさに叶おうとしているのに、この上なく哀しげな表情で吐き捨てた。

 その言葉に嘘はないのだろう、イズミはボンヤリとそう思う。

 視界はより酷く霞み始め、エーテルが指し示す情報を全く処理できない。来栖の感情のうねりを感じ取ることは出来ても、それがなんなのか理解できなくなっていく。

 呼吸は荒くなり、体を垂直に保つことすら出来なくなり、頼りなくフラフラと揺れ始める。

 ――もう、ダメ、だ。

 イズミの唇がそのように動き、イズミの体は糸の切れた操り人形のように、地面に倒れ込んだ。

 イズミの記憶は、そこで途切れた。


 力を失ったイズミの体が、地面に叩きつけられることはなかった。

 固い地面の代わりにイズミの体を迎えたのは、柔らかい、人の温もりだった。

 イズミが倒れかかったその刹那。来栖が手にしていた日本刀を捨て、イズミに駆け寄ったのだ。

 男にしては華奢なイズミの体を、来栖は軽く支えあげる。

 半ば夢中でイズミを支えた来栖は、自分のとった行動に驚きを覚えた。自分自身に突き離されたといっても過言ではないほどに。

 来栖は自分の腕の中で、弱く短い呼吸を繰り返すイズミを見やった。

 死ぬ。このままなら間違いなく如月イズミという存在は、この世から消え去る。

 事実、来栖の瞳はイズミの命が長くないことを伝えていた。あと一時間ほどでイズミは死に至る。普通に考えれば、一時間という時間は命を救うには十分すぎる時間だ。

 だが、イズミは死ぬ。

 来栖が止めを刺そうが刺すまいが、適切な治療を受けさせなければそれで終わりだ。

 ――これで、兄さんは帰ってくる。

 そのために来栖は忌み嫌っていた能力を解放したのだ。たいして関わりのない少年の命と、愛しい者の命を秤にかけ、選択した。

 たった、たったそれだけのことだ。

 ――だけど。

 本当にこれでいいのだろうか。

 来栖が見てきた如月イズミという少年は、善良な存在だった。

 それは、来栖が武器を向けたあとも変わることはなく、彼は一貫して優しい存在だった。身を守る手段があるにも関わらず、それを行使しなかった。

 馬鹿げた行為、と片付けてしまえばそれで終わる。実際、馬鹿げた行為以外の何物でもないのだろう。

 だがその行為は、来栖の中にひどく重く残留していた。

「わた、しは……」

 気づけば、来栖の瞳からは涙が溢れ出ていた。

 先ほどの兄を想う涙とはまた別の種類の、悔恨し、許しを乞う、そんな涙。

 来栖は再びイズミを見やる。

 今度はその表情を窺うためでなく、そこから派生する幾多もの結果みらいを導き出すために。

 来栖の能力の本質は視覚そのものでなく、その先にある演算能力にある。

 来栖はイズミの出血量や脈拍などをエーテルによって視認し、それを元に脳が様々な過程と結果を紡いでいく。

 先ほどまでは、どうやって死に至らしめるかが最重要の過程と結果だった。

 来栖はそれを、どうすれば助けられるかに切り替える。

 結果が出るのに、一秒も掛らなかった。だがその結果は同時に、来栖の破滅を意味していた。

 それでも来栖は迷うことなくその手段を実行に移す。

 携帯で救急車を呼ぶという、余りに凡百な対処。だがそれ以外に方法はなかった。

 無論、来栖は自分の日常を守り、なおかつイズミを救う道も模索してみた。だがそんな都合のいいものはどこにもなかった。

 少なくとも、来栖の“視認”できる世界には。

「案ずるな」

 携帯を取り出し、ダイヤルを押そうとした来栖の背後から、声が上がった。

 その声に来栖は肩をビクリと震わせる。この場を誰かに見られた、ということよりも先に、その気配を察せなかったことに恐怖を覚えた。眼の能力を解放している限り、人の接近に気付かない筈がないのだ。

 だというのに、声の主は来栖の真後ろに悠然と佇んでいた。その姿は、罪人を裁く王を思わせるほどに大きく見えた。

 実際には年端のいかぬ少女の姿をしているというのに。

「クレア、さま」

 来栖は声の主を見、呆然と呟いた。

 イズミを殺せと命じた者に、その命を救おうとしている場面を見られることはかんばしくないことだ。だがそれ以上に来栖を呆然とさせたのは。

 眼がクレアの姿を捉えていないことだった。

 クレアの姿は確かに“肉眼”では視えている。だが“霊視”の観点からいえば、来栖の眼はクレアのエーテルを捉えていない。そこには何も存在しないことになっている。

 そんな来栖の驚愕をよそに、クレアは口元をにわかに緩ませながら肩をすくめた。

「学校では“さま”はやめて下さいと言いませんでしたか? 先輩」

 クレアは平時の口調と変わることなく、軽く来栖に語りかける。

 来栖はその言葉になんと返せばいいのか分からなかった。さらに言うと、思考が停止してしまっていた。

 より良い結果を生み出すために機能する来栖の瞳も、存在を捉えられないクレアの前では普通の眼と変わらなかった。

「そんな呆然としないで下さいよ、先輩。助けたいんでしょ? 如月先輩を」

 いっこうに言葉を発しない来栖にクレアはやれやれと頭を振り苦笑する。

 来栖はその言葉にさらに困惑する。クレアにどう対処すればいいのか分からない。

 クレアはイズミを殺しに来たのか。あるいはイズミを殺し損ねた自分を殺しに来たのか。はたまたそのどちらでもないのか。

 全く分からない。もっとも、そのどれであるか解明できたとしても、来栖の力ではクレアに抗いようがない。力の差は戦車と竹やり、いや、空母と縫い針と言っても足りないほどの力の差があるのだから。

 それでも来栖は、無意識のうちにイズミを背に庇っていた。

 頭の中は真っ白で何も考えられないし、体もクレアを前に情けなく震え始めている。だというのに来栖はその場から逃げようとは考えもしなかった。

 クレアはそんな来栖を見やり、小さく息を吐いた。

「……安心していいですよ。私は先輩方を殺しません。残念ながら“及第点”ですから」

 クレアは困ったような苦笑を浮かべながら、そう言った。


** *


「……今度こそ本当に終わった、か」

 埃をかぶった跳び箱の上で足をプラプラと遊ばせていたクレアがポツリと呟く。その表情には微かな安堵と緊張が滲んでいるようだった。

 涼しげに佇むクレアとは対照的に、その足元ではダーシェンカが体の自由を取り戻そうと、のたうつように床を這いずり回っていた。

「っ! 何が終わったというのだ!?」

 ダーシェンカは顔を上げ、クレアを思い切り睨みつける。ここ数分のやり取りで、クレアが自分の敵う相手ではないことは否応なく理解させられたが、それでも恭順するかどうかというのは全く別問題だった。

 こと相手がイズミに害をなそうとしている以上、ダーシェンカが取るべき態度は一つだ。

「終わったと言えば一つしかないだろ。お前の愛しい人の命」

 クレアはダーシェンカを見下ろしながら、口元に酷薄な笑みを浮かべる。

「なっ、貴様っ!」

 ダーシェンカは表情をより険しくし、体を動かそうと試みる。

 が、ダーシェンカの強い意志とは裏腹に、体の自由は一向に戻らない。何か強い負荷を感じているワケでも、苦痛を感じているワケでもないというのに、体は思うように動かない。

 クレアはそんなダーシェンカに嗜虐的な一瞥をくれ、にっこりとほほ笑んだ。それまでの言動を感じさせないほど、それはそれは温かな笑み。

 もっともクレアの言動を見てきたダーシェンカにとってはいやらしい笑み以外の何物でもなかった。

「あぁ、言葉をつけ忘れました。正確には『お前の愛しい人の命“の危機が終わった”』でした」

 クレアは跳び箱からヒョイと飛び降りると、鋭い視線を意に介することもなく、ダーシェンカの顔を覗き込む。

「な……それは、どういう」

「どうもこうも言葉通り如月先輩の命の危機が去ったということですよ。ダーシェンカ先輩」

 クレアは口調をいつも通りのものに変じさせると、その白く細い手をダーシェンカの頭にそっと乗せた。

 同時に、ダーシェンカは体の自由を取り戻した。取り戻したらすぐに駆けだす心づもりだったダーシェンカではあるが、その意志とは裏腹に足は体育倉庫に踏みとどまっていた。

 目の前の少女に聞かなければならないことがある。

 その一点がダーシェンカの足を抑えつけていた。

「ほぅ……すぐに駆けだすと踏んでいたが、少しはまともな思考を取り戻したらしいな」

 クレアはダーシェンカの仏頂面を愉しそうに眺めながら顎を軽くさする。

「お前の目的は、なんだ?」

 ダーシェンカは問うべき言葉を模索し、口を開いた。他にも聞きたいことはあったのだが、まずは目の前の異質な存在の立ち位置について知っておきたかった。

 敵なのか、味方なのか、そのどちらでもないのか、それだけでも。

「私の目的は如月イズミの実力を試す、それだけのハズだった」

「ハズ、だった?」

「本来なら適当に如月イズミに攻撃を仕掛けて、それに対する対処を見て処遇を決める予定だった。だが、偶然面白いものを見つけてな、趣向を変えたのさ」

 クレアの言葉にダーシェンカは小さく首を傾げる。

 察するに、クレアの目的はイズミの命を奪うことではなく、イズミに自己防衛能力があるか否かを試すことだったのだろう。それについては理解できた。

 だが、そのあとの言葉の意味は分からない。推察しようにも情報が少なすぎる。

「まぁ、それは如月イズミも交えて話すことにするとしよう。場合によっては、大変なモノが出てくるかもしれないしな」

 クレアは心底愉しそうに微笑み、ゆっくりと踵を返した。

「な、ちょっと待て」

「ついてこい。愛しい人の元へ案内してやる」

 慌てて横に並んだダーシェンカに、クレアは悪戯な微笑を向けた。

「あ、それから。何があってもおとなしくしてたほうがいいぞ? でないと後悔することになるから、きっと」

 クレアはクツクツと喉を鳴らしながら笑った。

 ダーシェンカはクレアの言葉の意図をやはり理解出来ず、怪訝な表情をより深くした。


 校舎へ引き返す道を数十メートルいった場所、いつもならば学園の生徒が登下校に使う、たったそれだけのために存在する道。その道の真中に、イズミの姿はあった。

 ダーシェンカはその光景に一瞬言葉を失い、次にクレアの発した言葉を思い出した。思い出したというだけでその真意を理解できたわけではないのだが。

 ダーシェンカの視線の先には、腹から血を流して地面に横たわっているイズミの姿と、その脇にへたり込むように座り込んでいる来栖の姿があった。来栖の白いブラウスは、イズミの血によってだろう、赤く染まっていた。

 しかし何よりも不可解だったことは、地面に血一つ付いていない抜き身の日本刀が横たわっていることだった。

「どういう、ことだ……?」

 眼前の光景に、ダーシェンカは呆然と呟いた。呟きながら、地面に横たわるイズミにゆっくりと歩み寄る。

 腹が小さく上下している様子から、死んではいないようだ。だが安心できる状態、という訳ではないことも見てとれる。

「ダーシェンカ、さん……」

 呆然とした表情を浮かべていた来栖が、そのままの表情でダーシェンカを見上げた。

 来栖の口が何かを呟こうとしたとき。

「待たせたわね!」

 けたたましい四輪駆動車ののエンジン音ととともに、白衣をまとった女性が現れた。

 ダーシェンカの記憶が正しければ、イズミの担当医。

 松崎あかね、その人だった。


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