第2章 物語(ニチジョウ)の崩壊は、意外な所から(1)
結果から言ってしまえば、イズミが思っていた以上にダーシェンカの日常への順応はスムーズだった。
クラスメイトとの交流も柔らかな物腰でこなし、学業においても、どちらかと言えば優良な成績を修めているイズミを軽々と凌駕していった。
イズミにとっては喜ばしいことこの上ないことではあったのだが、ものの数日でここまで顕著に学業で差を付けられるというのも複雑と言えば複雑ではあった。
それでも。
「……本当に、良かった」
イズミは微笑を浮かべながらダーシェンカの姿を見つめていた。
イズミの視線の先には、ポニーテールに結いあげた髪を振り乱しながらコートの上を駆けるダーシェンカの姿があった。
今現在、イズミのクラスは体育の授業中で、体育館の二面あるコートを男女で半面ずつ利用し、バスケットボールに興じていた。
先ほどまでコートの上で駆けずり回っていたイズミは、自分の出番を終えると、自分のチームのことなどそっちのけで、ダーシェンカのプレイを見守っていた。
はたから見れば恥ずかしい、あるいはバカっぽい光景ではあるのだが、イズミからして見れば気が気でない心持でダーシェンカを見つめていたのだ。
下手を打てば病院送りになるものが出かねないのだから。
「なぁに愛しき人に見惚れてるんだよ、イズミ」
そんなイズミの気も知らずに、やはり一人の少年がいやらしい笑みを浮かべながらイズミの横に立った。
「あぁ、そうだよ。愛しい人を見ることに何か問題でも? 佐倉」
イズミはめんどくさそうに佐倉に一瞥をくれ、似合わないセリフを平然と口にした。
これも日に日に募るクラスメイト達のからかいをあしらうために、イズミが身につけたスキルの一つだった。
もっとも、愛しい人、というのは心の底からの気持ちではあったのだが、そこは逆にクラスメイト達には冗談と受け取られているらしい。
「いや、何も問題はないと思うが……ガン見はさすがにどうかと思うぞ?」
「ガン見、って……僕そんなに食い入るように見つめてた?」
少しだけ驚いたように目を見開くイズミに、佐倉はコクリと首を縦に振った。
「そっか。まぁ、もう心配はなさそうだから大丈夫か」
イズミは佐倉の心配するような態度をさして気に留める様子もなく答える。
ダーシェンカが見事なワンハンドスリーポイントシュートを決めるところを見たイズミは満足げに頷き、コートの中でへばっているクラスメイトに交代を申し出て、コートに戻っていく。
そんなイズミを見やり、佐倉は首を微かに傾げた。
「アイツって、あんなに体力底なしだったっけか?」
体育の授業が終わると同時に、ダーシェンカがイズミのもとへと駆けよってきた。
イズミの周りには他の男子もいたのだが、ダーシェンカはそんなこと気にも留めなかった。また他の男子もダーシェンカの態度には慣れたもので、またかとばかりの微苦笑をイズミに向けていた。その微苦笑の成分には微量の殺意が込められているのだが、イズミはあえて気にしなかった。
「イズミ! ちゃんと出来たぞ! シュートも決めたし、ドリブルもキチンと出来た! それに何より、怪我人を出さなかった!」
ダーシェンカはイズミに駆け寄りながら満面の笑みを浮かべる。
その口調は本当に嬉しそうで、イズミに抱きつかんばかりの勢いが込められていた。
「あぁ、ちゃんと見てたよ。やっぱりダーシェンカは凄いじゃないか」
「そんなことはない! すべてはイズミの特訓のおかげだ」
ダーシェンカはより一層輝かしい笑顔をイズミに向ける。
イズミはその笑顔に心の底から神への賛辞を述べたくなったのだが、すぐに思い直す。
(しま、った……)
イズミはダーシェンカに向けた柔らかな笑みはそのままに、周囲の男子の様子を横目に伺った。
そこには案の定。
「イズミの……特訓?」
「どうせ、二人きり、だよな……?」
「万死に値する」
「いやまて、イズミという名の女の子との特訓で、クサレ如月とは無関係という線も」
「いや、ないから。ショックのあまり妄想に走るのはやめような」
「つまり我々のとる行動は一つ。心の中でイズミに向かって怨嗟の言葉を幾千万言つぶやくことだ」
ダーシェンカには聞き取れないように巧妙に声量を抑えつつ、惜しみない笑顔と殺意をイズミに向けているクラスメイツたちの姿があった。
その中には佐倉の姿も含まれている。
イズミは連中が、ダーシェンカの「怪我人を出さなかった」という不可解な発言を気に留めていないことにひとまず胸を撫で下ろす。
「まぁ、こなせて何よりだよ。それで、ちゃんと楽しめた?」
「あぁ、勿論だ。私はこういう遊びをしたことがないから新鮮でな。それにスポーツとは意外に頭を使うのだな。高い空間把握能力が必要となるとみたな、うん」
ダーシェンカは何やらプレイ中のことを思い返しているのか、しきりに頷きながら思案に耽りだした。
空間把握能力という物騒な単語が若干気にかかったものの、ダーシェンカがスポーツをおおむね楽しんでいてくれることを確認したイズミは、微笑を浮かべた。
周囲から突き刺さる殺気立った視線は極力意識しないように心掛けながら。
「でも本当にすごかったよ、ダーシェンカちゃん。本当にバスケしたことないの?」
イズミにひとしきり敵意を向け満足したのか、クラスメイトの一人がダーシェンカに声を掛ける。
「あぁ。スポーツらしいスポーツは何一つしたことがない……強いて言えばフェンシングもどきならばやったことはある」
ダーシェンカの何気ない一言に周囲はよく分からないざわつきを見せた。
おそらくはフェンシングなどという馴染みのないスポーツをこなしたことがあるダーシェンカに驚きを見せたのだろうが。
(そういえば良家の令嬢っていうのが“設定”だったっけ)
イズミはダーシェンカに次々と質問を浴びせるクラスメイト達に、我知らず苦笑を向けた。
事実ダーシェンカは良家の令嬢ではあるのだが、それとは別に幸也が用意した今現在のダーシェンカ・オルリックという少女に対する設定も存在していた。
普通に生活を送る上ではそんな設定を活用する必要もないのだが、クラスメイト達の頭の中ではおそらく、良家の令嬢とフェンシングが綺麗に結び付いたのだろう。
(まぁ……フェンシング“もどき”ってのもきっと、スポーツのフェンシングより危なかった、って意味でもどきなんだろうけど)
ダーシェンカの凄まじいナイフ捌きを思い出したイズミは苦笑をより深める。
そんな会話を交わしながら、イズミ達は自分たちの教室に戻った。
体育の後に必ずといっていいほど襲ってくる睡魔に打ち勝ったイズミは、残りの授業を黙々と優等生の模範的な態度で消化した。ダーシェンカについては言わずもがな、だ。
そして放課後。
イズミとダーシェンカは委員会の仕事に勤しんでいた。
とは言うものの、実際に委員会の仕事となる試合の組み合わせなどはとうに決定されており、今のイズミ達の仕事は放課後に残って体育祭の競技の練習をしているクラスの見回りという、あってもなくても同じような仕事だった。
そういう理由もあり、イズミはさしたる注意を払うこともなく校内をブラついていた。
ダーシェンカと見まわる予定だったのだが、ダーシェンカが他の女子から誘いを受けているのを見かけたイズミは、ダーシェンカを彼女たちに預けてみることにした。
(さすがに、ずっと一緒にいるのは不自然だからね)
離れる間際に若干渋るような視線を向けたダーシェンカを思い出し、イズミは苦笑う。あのときのダーシェンカはまるで、親離れできていない女の子だった。
「あら如月先輩。今日はお一人なんですか?」
背後から上がった上品な声に、イズミはゆっくりと振り返った。
そこには、学園きっての美しき少女二人が肩を並べて佇んでいた。
来栖とクレアのツーショットという、普通の男子なら手をすり合わせて拝みかねないような、ありがたいものだった。
もっとも、イズミがそのようなものに関心があるはずもなく。
「こんにちは。会長にクレアさん」
イズミはさして声音を変えることもなく挨拶を述べる。
「こんにちは、如月君。マジメなのね、他の男子は皆帰るかクラスの練習に参加してるわよ?」
何やら分厚い書類を抱えた来栖が、優しげな笑みをイズミに向ける。
「いえ、どうせ今日はクラスの練習ないんで。それに、帰ろうにもダーシェンカがまだ帰ってきてないんで」
「フフ、本当に仲がよろしいんですね、先輩達。中等部でも話題になってるんですよ?」
「話題って……まぁ、ダーシェンカは目を引くだろうからね」
「いえ、如月先輩も有名ですよ? 私の友人が言うには『可愛らしい先輩』として人気らしいですよ」
クレアは口元に手をあてながらクスクスといたずらに笑う。
「可愛らしいって……言われたことないけどなぁ。そういえば、お二人も見まわりですか?」
「いや、私たちは先ほどまで事務方の作業をこなしていたのよ。まぁ、そっちも今日一日で片がついたから、実行委員としての仕事はキミ達には特に残っていないかな。当日までは」
来栖は手にしていた分厚い書類を叩きながら肩をすくめた。
「そうなんですか。お疲れ様です」
「なに、これが生徒会の仕事だからね。今回はクレアが手伝ってくれてだいぶ楽だったし」
「何をおっしゃるんですか。八割方は先輩が片付けられてたじゃないですか」
来栖の言葉にクレアはからかうような笑みを浮かべて応じた。
(そういえば、クレアさんも転校したてなのに、だいぶ馴染んでるんだな)
イズミは二人のやり取りを見ながら、なんとなく胸中に呟いた。
ダーシェンカもクレアに負けず劣らず学園生活に馴染んではいるが、どことなく受け身な接し方だった。
今はまだそれで十分なのかもしれないが、このままでいけばイズミとしか接点がなくなるのではないかとさえ思えるほどとなると、気がかりではある。
だからこそ、今日のようにイズミと離れて行動するのも重要なことだった。
(出来れば……ちゃんと友達を作って欲しいんだけどなぁ)
イズミは来栖と楽しげに会話を交わすクレアを見やりながら、心の中でひとりごちた。
「それじゃあ如月くん、私たちはこの辺で失礼するわね。気をつけて帰るのよ」
「そうですよ、可愛らしいお二人は狙われてしまいますからね」
クレアはクスクスとほほ笑む。
「可愛らしい、って……まぁ、お二人も気をつけて下さいね。僕らより先輩達の方が心配ですよ」
イズミは冗談でも何でもなく述べた。
なんと言ってもダーシェンカは、一般規格内のモノに対してならまったく心配する必要がないのだから。
「フフ、ご忠告痛み入ります。それではまた明日」
クレアは軽く頭を下げると、そのまま来栖とともに廊下を進んでいった。
イズミはそんな二人を見送り、あてのない校内散策を再開することにする。
校内を適当に散策していると、同じようにやることもなく適当に歩いていたらしいダーシェンカ達とはち合わせた。
イズミの心配とは裏腹に、ダーシェンカは楽しそうに女子たちと会話をかわしていた。
「ねぇ、如月君。このあとダーシェンカさん借りていいかな? ちょっと街をぶらつくだけだから」
ダーシェンカと会話していた女子の一人が、ダーシェンカの腕を掴みながらイズミを見上げた。
「別に構わないよ? というか、一言くれれば僕の許可は必要ないと思うんだけど」
「だよね!? ほらダーシェンカちゃん、旦那さまの許可も出たことだし軽く遊んで行こう!
」
「イ、イズミがいいというなら私は構わないのだが……」
ダーシェンカはブンブンと振り回される自分の腕に微苦笑を浮かべる。
「あぁ、楽しんできなよ。僕なら“大丈夫”だからさ」
イズミは暗に魔術師の襲撃などは心配しなくていいことを伝え、軽く手を振ってその場から離れた。
その足で教室に向かい、自分の荷物を持って学校を後にする。
まだ日は長いとはいえ、周囲は夕日に照らされて真っ赤に染まっていた。
どことなく郷愁漂う景色の中を、イズミはさしたる感慨もなく歩いていく。もっとも、郷里を離れていないものに懐かしむものなど無いのだから、当然と言えば当然であった。
(そう言えば……一人で帰るのは、というより一人で行動するのは久しぶりだなぁ)
イズミは空を飛ぶカラスに視線を向けながら、思う。
夏休みから向こう、一人で行動していた記憶はほとんどない。よくよく考えてみれば、ダーシェンカがイズミに依存していたというだけでなく、イズミもダーシェンカに依存した生活を送っているのかもしれない。
証拠に、隣にダーシェンカがいない今のイズミはどことなく物足りなさと、不安を感じていた。
ネクロマンサーとして覚醒した以上、狙われることはまずないというのが幸也やダーシェンカの意見ではあるのだが、同時に二人は「だからと言って油断していいわけでも、これまでと同じ生活が送れるとも思ってはいけない」と釘を刺してきた。
事実、イズミの祖父は覚醒してからも命を狙われていたらしいのだから、イズミもまったくもって油断は出来ない。
では幸也はどうなのかと言えば、幸也の持つ力を目の当たりにしたイズミは「父さんを狙うやつがいたら天才か狂人だ」と納得しているから特に疑問はない。
はっきりと言われた訳ではないが、父には力があり、祖父にはなかったのだろうとイズミは結論付けている。
祖父と自分のどちらの力が上なのかと比べる術がない以上、イズミが安心していい理由はどこにもない。
けれども、父や祖父とイズミの間には、大きな違いがある。
イズミはリビングデッドという“力”を覚醒後も保持している。普通ならば覚醒と同時に切り捨てられるものであるというのに。
これは保険の一つとしても捉えられるのだが、イズミにそんな気は毛頭なかった。
ただ純粋にダーシェンカとともに在りたいから一緒にいるに過ぎない。
だから。
(襲われたとしても、自分だけで対処しなきゃ……父さんたちと同じように)
イズミは自分の中に確かにある不安に向かい、静かに宣言する。
襲われなければいいな、という弱気な願望も密かに抱きつつ。
宣言するだけでなく、イズミは久しぶりに自分の中にある力を紐解いてみることにした。
使わずにいて、いざというときに発動できないのでは冗談にもならない。
イズミは歩きながら目を閉じ、巨大な門をイメージする。禍々しい彫刻の施された、ロダンの地獄の門に近しい姿をした門。
その扉を開き、膨大な量のエーテルをひねり出す。
同時に、目を開く。訓練前のイズミならば真っ暗闇の中、良くても靄の掛った視界の中に居たのだろうが、今は違った。ハッキリと周囲の景色が見えている。
靄がかかることもなく、ありのままの“視覚”が捉える光景が広がっている。
イズミはそのことを確認し、状況を第二段階へ移行する。
エーテルの可視領域を上げ、自分が周りに振りまいたエーテルを確認する。
確認し、力の在り方を変質させる。周囲に振りまいたエーテルを一点に収束させ球体状にまとめあげていく。その球体は捉え難い流れを形作り、蠢き続け、最終的には野球ボール大に収束していく。
「シッ!」
イズミは短く息を吐き、その球体を破裂させた。
淡く輝く青色の光が夕焼けの中に飛び散る。とは言っても、エーテルを見ることのできない人間にはいかようにも映らない。いつもと変わらぬ景色が広がっているだけだ。
例えその破裂の中心にいたとしても、何の影響もない。
イズミがしたのはあくまでエーテルの形を変質させるだけのもので、媒体がなければなんの効果も発揮されない。
ヴェルナールを葬ったときは、ヴェルナールの肉体を媒体にいまの流れを行ったのだ。
(とりあえず、腕は鈍ってないみたいだな)
イズミは一連の動作を滞りなく行えたことに胸を撫で下ろした。
だがイズミは気付いていなかった。自分自身の注意力が鈍りきっていたことに。
すれ違った通行人と、イズミの体がぶつかった。
衝撃はないに等しく、イズミは「すみません」と軽く頭を下げてそのまま歩み去ろうとした。
「……え?」
それでもイズミの足は動かなかった。
腹部に異常な熱を感じたのだ。そう遠くない日、夏休みに受けたものにとてもよく似た熱。普通に生きていく上では決して体験することのない、限りなく痛みに近い、熱。
イズミは恐る恐る、熱の走る腹部に視線を向けた。
予想通り、熱を伴った赤い液体がドクドクととめどなく溢れ出ていた。
「どう、して……?」
イズミは視界が白けていくのを感じながら、呆然と呟き、地面に突っ伏した。
アスファルトの熱を感じながら、イズミの意識は視界と同様に白い靄の中に溶けていった。
地面に倒れ意識を失ったイズミの傍らに、一人の少女が歩み寄った。
周囲には少女の他に人影はなく、不気味なほどの静けさだった。辺りから人の気配や車の走る音は聞こえてくるというのに、イズミと少女の周りにだけ騒音がないように感じられた。
「あらあら、ちゃんと警告はしましたのに……狙われるって」
少女――クレア・ブリンズフィールドは、俯せに倒れているイズミに柔らかな微笑を向けた。
その表情だけ見れば、茶会の誘いを受ける淑女のようにも見受けられる。
もっとも、その表情が血を流しながら倒れている少年に向けられているというのでは、不気味という言葉以外に浮かぶものがない。
「エーテルを飛散させられたときは少し焦ったが……偶然に過ぎなかったということか」
クレアは微笑を消し去り、路傍の石に向けるモノの方がまだ暖かいのではないかとさえ思える視線をイズミに向けた。
数瞬だけ視線を向けると、クレアは退屈そうに鼻を鳴らしてポケットから携帯を取り出した。
「フン、一番“簡単な”段階は失格か。まぁいい。その方がこのあとは盛り上がるだろう」
クレアはさしたる表情を浮かべることもなく呟き、119のダイヤルを押した。
ニコール目で電話がオペレーターらしき女性と繋がる。
クレアはそのことに「本当に世の中便利になったものだ」と場違いな感慨を抱きかけたのだが、すぐに頭を切り替えた。
「あ、あの! ひ、人が血を流して倒れてるんです! え? あ、はい。呼吸とかはしっかりしてるんですけど、呼んでも返事がなくて……えぇ、はい。神代学園の近くの、えぇ、はい、ちょうどその辺りです。あ、はい。分かりました」
クレアは表情を一切変えることなく、声音だけを変えて状況を説明した。
クレアは一通りの会話をし終えると、携帯を再びポケットに戻した。
なにやら応急処置の説明などもされた気がするのだが、そんなことはクレアにとってはどうでもいいことだった。
(これで死ぬならそこまでの男、ってことだ)
クレアはイズミに一瞥をくれると愉しそうに唇の端を歪めながら踵を返した。
「ま、死ぬなよ。もし死なれたら私が雪に殺されてしまうからな」
クレアは片手をヒラヒラと振りながら、聞こえているはずのないイズミに言葉を投げた。
そしてその小さな影は、一度も振り返ることなく、夕暮れの街並みに消えていった。
** *
はじめに感じたのは、体中から噴き出している冷たい汗とへばりつく服の感覚だった。
イズミはそのうっとおしさに顔を歪め、体をよじる。同時に腹部に衝撃が走り、イズミはより一層顔を歪めた。
イズミはその衝撃に瞼を薄く開き、ソレが衝撃ではなく痛みだということに気付いた。
「……ここは、どこ?」
イズミは顔を動かし、辺りをうかがった。
白を基調とした天井や壁、置かれている棚などは上品な木製で統一されている。
一見すれば、上等な寝室ともとれたが、イズミはその考えをすぐに否定した。
自分の腕に、見慣れたくなくとも見慣れてしまったチューブが繋がれていたから。
「病院だ」
部屋の中から聞きなれた声が上がる。
イズミはその方向に視線を向けようとするのだが、体が思うように動かず声の主を捉えられない。
そんなイズミを察してか、声の主がズイとイズミの顔を覗き込んだ。
「ダー、シェンカ」
イズミは声の主――ダーシェンカの表情に言葉を詰まらせた。
先ほどの一言にはなんの感情も宿っていなかったが、いまイズミに向けられている表情は、切実なものだった。
口はきつく結ばれ、瞳には涙が浮かんでいた。
「ご、ごめん」
その表情に気圧されたイズミは、訳も分からず謝罪の言葉を述べる。
何を謝っているのかなどということはイズミ自身もよく分からなかったのだが、それ以外に言葉が浮かばなかった。
「……謝るのは私の方だ。私がイズミのそばを離れてなければこんなことにはならなかった」
ダーシェンカは悔しそうに口を歪ませ、絞り出すように言葉を発した。
イズミはダーシェンカが何を言っているのか分からなかった。が、すぐに自分の身に起きたことを思い出した。
(刺された、のか)
イズミは痛みのはしる腹部に一瞥をくれる。
すぐに、ダーシェンカに掛けるべき言葉を発した。
「……謝るなら、僕のそばにいなかったことよりも、この状況を自分のせいにしようとしていることを謝ってほしいな」
イズミは微笑をダーシェンカに向ける。痛みのせいでどこかぎこちないカタチになってしまったが、それが今のイズミにとって精一杯だった。
「う……言われるとは思っていたのだが、でもやっぱり」
「でも、じゃない。悪いのはダーシェンカじゃなくて刺したヤツだろ? ……というかコレはあれか、通り魔ってやつなのかな」
イズミは今更ながらに我が身を襲った不幸をかんがみ、眉根を寄せた。
魔術師に狙われることを想定しながらも、一般の危機を想定しない自分の皮肉さが、こんな状況においても、イズミにとってはおかしなことだった。
夏休みには魔術師に襲われ、夏休み明けには通り魔に刺される。
(あ、“魔”繋がりか)
などという下らない言葉がイズミの脳裏に浮かんだ。
「警察の方ではそういう方向で調査を進めると言っていた。事情を聞きたいそうのだが……呼んでも大丈夫か? 病室の外で待ってるんだ」
平時と変わらぬイズミに、ダーシェンカは呆れたように溜息を吐きだした。
「あ、うん。大丈夫、だけど」
「なら呼んでくる。それからイズミは三日ほど入院らしいから、私はイズミの着替えを取ってくるな」
ダーシェンカは病室に来てから初めて微笑み、病室から出ていった。
ダーシェンカと入れ違いに、三人の人間が入って来た。
一人は白衣に身を包んだ女性の医者で、残りの二人はスーツに身を包んだ男女だった。考えるまでもなく、警察の人間なのだろう。
「具合はどう? 怪我について詳しいことはあとで説明するけど、とりあえず命に別状はないから安心して」
医者はイズミの顔を覗き込みながら朗らかに笑った。
年齢は二十代後半から三十代前半といったところで、肩にかかる艶やかな黒髪と、円らな瞳が印象的だった。
「あ、はい、大丈夫です」
つぶらな瞳をまともに見てしまったイズミはぎこちない返事をする。
そんなイズミの様子に医者は微笑むと「私は少し席をはずしますね」と言って病室から出ていった。
立ち替わりに、スーツを纏った男女がイズミのベッドの傍らに立つ。
男の方は優しげな童顔で、女の方は対照的に切れ長の目をしていてとても綺麗なのだが、
どことなく冷やかな印象を持つ顔立ちだった。
女性の方が手短に自分達が警察のものであることを証明し、質問を口にした。
「如月イズミくん、さっそくで申し訳ないんだけど事件当時の状況を聞かせてもらえるかしら。犯人の特徴とか」
「特徴……ですか? よくは覚えてないんですが、背は高かったと思います。僕の頭がちょうど肩のあたりだったので」
イズミはあの時の状況を“必死”に思い出し、口にした。
不自然なまでに、あのときの状況について覚えていなかったのだ。ぶつかった相手の顔はおろか、性別さえ定かではない。
身長から考えれば男なのだろうが、長身の女性がいない訳ではない。むしろ、ぶつかった衝撃自体は女性とぶつかったような感覚に近かった。
「顔とかは、覚えてるかな? あとは性別とか」
男性刑事がいたわるような声で問う。
「……実は、あんまり覚えてないんですよね。ぶつかったと思ったら刺されてて、そのあとすぐに気を失っちゃったんで。お役に立てず申し訳ありません」
イズミが首を微かに曲げて謝ると、男性刑事は大げさに手を振った。
「そ、そんな! 気にしなくていいんだよ! あんなことがあったんだ。しょうがないよ」
「まぁ、そうね。あなたが謝ることじゃないわ。悪いのは刺したゲス野郎なんだから」
女性刑事は口元を微かに緩ませる。これがこの人なりの笑顔なのだろう。
言葉はともかく顔の印象よりは優しい人なのかもしれない。
簡単な質問を二三聞いたあと、刑事さん達はメモ帳に連絡先を書き記し「また詳しいことを聞きに来るけど、何か思い出したことがあったら連絡ちょうだいね」と言って足早に病室を出ていった。
イズミはその後ろ姿を見送りながら、こういう事件って続く可能性があるから大変なんだろうな、などという自分の状況と切り離した考えを浮かべていた。
刑事さん達の姿が見えなくなると、先ほどの女医さんが入れ違いに病室に入ってくる。事情聴取の間は病室の外に待機していたのだろう。
「さて、怪我についての詳しいコトを説明しようと思うんだけど……体の方は平気? 休みたいなら説明は明日にまわしてもいいんだけど」
女医さんはベッド脇の椅子に大儀そうに腰掛け、口を開いた。
イズミは首を縦に振り、話の先を促す。
女医さんはイズミの反応を見ると、簡単に今現在のイズミの状況を説明した。
怪我の細かい説明をされてもいまいちよく分からなかったのだが、要約してしまえば命に別状はないということだった。
刺された深さも大したものではなく、内臓にも一切傷がついていなかったというのが大きな理由らしいのだが、体を刺されたらどこかしら内臓は傷つくのではないかという考えのイズミにはイマイチ要領を得ない話だった。
だからイズミはボンヤリと女医さんの話を聞いていたのだが、すぐに気を引き締めなければならない質問が浴びせられた。
「それから、肩とお腹に比較的新しい銃創みたいなのが見られたんだけど……あれは、何?
とりあえず警察には黙っておいたんだけど、場合によっては、ね」
女医さんの円らな瞳が険しくなり、イズミを射抜いた。
なんと答えればいいのかすぐには思いつかなかった。銃弾ではなく水晶玉に撃ち抜かれたなどとは無論言えるはずもなく、かといって適当な誤魔化しの言葉も思い浮かばなかった。
安全神話が崩壊しつつあるとはいえ、その他の国家と比べたらまだまだ安全な日本だ。善良な一般市民が銃弾を二発も叩き込まれたとあっては大変なニュースになる。
だから女医さんは疑っているのだろう。イズミが見た目とは裏腹に善良な市民などではなく、危ない橋を渡っている類の人間なのではないか、と。
「えっとですね……この傷は別に後ろめたいモノではなくてですね、その、なんというか、
深い事情がありまして」
黙るのはよくないと判断したイズミは、喋りはじめてはみるものの、喋れば喋るほど泥沼に沈んでいくのが自分でも痛いほどよく分かった。
「フフフ、分かってるわよ。キミの身元は確かだし、さっきご両親に銃創について連絡したら心配ないって言われたしね。少しからかっただけよ」
険しかった顔を急にほころばせ、女医さんは優しく微笑んだ。
そのさまに一瞬イズミは言葉を失った。
一体どこの世界に不可解な銃創について追及しないまっとうな医者がいるのかと、そして何より、両親と知り合いということが衝撃だった。
確かに幸也は医者の世界では有名人なのだろうが、女医さんの口ぶりからするにもっと親しい印象を受ける。
「あの……父さんたちと知り合い、なんですか?」
「えぇ、私が研修医だった頃にお世話になって、その頃からお付き合いさせてもらってるわ。本当なら医者としてその銃創について深く追求するべきなんでしょうけど、幸也さんと雪さんが問題ないと仰るなら問題ないわ」
「問題ない、って……」
「フフ、これでも私はあなたのご両親が何者かを知ってるのよ? 昔ちょっとあってね。だからその怪我の理由も薄ボンヤリとは分かるのよ。だから詳しくは聞かないわ」
楽しげに話す女医さんに、イズミは生返事を返すのが精いっぱいだった。
「まぁ、そんな訳だから細かいことは心配しなくて大丈夫よ。あと、これからイズミくんがご両親不在の折りに“不可解な”怪我をした場合は、私が専属になると思うからよろしくね。私の名前は松崎あかねです。ま、気軽に松さんとでも呼んでくださいな」
「は、はぁ……よろしくお願いします。松、さん」
松崎はイズミの返事に満足げな笑みで頷き、ゆっくりと立ち上がった。
「それからね、あの女の子、ダーシェンカちゃん、だっけか? ちゃんと見ててあげるのよ? なんか思いつめた表情で病室を出ていったから」
松崎はどこか遠いところを見るような目つきで言うと、病室から出ていく。
「思いつめてた、か……」
松崎の気配が消えたことを感じたイズミは、ポツリと呟いた。
今回の件が一般の事件であれ魔術関連のものであれ、ダーシェンカが責任を感じる必要は全くないのだ。
イズミは何も手段の一つとしてダーシェンカを手元に置いている訳ではない。ばかりか、
手元に置いているという感覚すらないのだから。
イズミはただ、ダーシェンカに日常を楽しんでもらいたいだけなのだ。リビングデッドとしてなどではなく、普通の少女として。
けれども、ダーシェンカにはイズミを守れるだけの力がある。魔術的にはイズミの方が優れてるとはいえ、実戦ではダーシェンカが勝っているのは厳然たる事実。
だからイズミが傷ついたことに負い目を感じてしまうのだろう。
自分がいたらこんなことには、と。
ましてや今回は偶然にも、ダーシェンカが遊んでいるすきにこのような事態になったのだ。実直なダーシェンカが責任を感じずにいられるハズがない。
(なんでよりにもよってこんなときに……)
イズミは痛む傷口を見やりながら嘆息を吐いた。
自分が刺されたことよりも、ダーシェンカのことが気がかりでならなかった。せっかく普通の生活に馴染み始めていたというのに、これではもとのカタチに戻ってしまう。
「ともかく、犯人が捕まればダーシェンカも楽になるのかな……」
イズミは窓の向こうに視線を向けた。
どうやらこの病室は高い所に位置しているらしく、街を見下ろすことができた。
イズミは人家の明りからまばらに輝く星明かりに視線を移した。
感じる必要のない責任を感じているであろう、愛しい少女のことを思いやりながら。
** *
ダーシェンカは日の落ち切った薄暗い住宅街を、ボンヤリとした足取りで歩いていた。
イズミの着替えが詰まったボストンバックを片手にぶら下げ、病院を目指す。
急いで届けようと思えばものの数分で届けられるのだが、そうする気にはなれなかった。
どんな顔でイズミと接すればいいのか分からなくなってしまったのだ。
イズミは気にするな、と言った。ダーシェンカも出来ることならイズミの言うとおり、気にしたくはなかった。気にすればするほどイズミに心配をかけるのは分かりきっていることなのだから。
(かと言って、割り切れるものではないよな……)
ダーシェンカはぶら下げたボストンバックを見やりながら嘆息を吐いた。
自分がイズミの傍を偶然離れたときに起きた不幸な事故。少なくともイズミはそう考えているだろう。
イズミの魂を狙っての犯行なら、イズミはとうにこの世に存在していないはずだ。だが幸いにも、イズミは生きている。
そのことから考えれば、本当に稀な“一般規格内の”不幸が偶然イズミに降りかかったと片付けられる。
無論、そうやって片付けてしまえるほどダーシェンカの頭は平和ボケしていなかったが。
魔術師の襲撃、という線を消し去る気は毛頭ない。ばかりか、警察では調べ得ないその方面を自身で調査しようとすら考えていた。
だがそこには大きな問題が存在する。
学生生活を送りながらする調査など、たかが知れているのだ。仮に手がかりを掴めたとしても、ダーシェンカが学校に行っている間にその手がかりは役に立たなくなってしまう。
それは魔術的な痕跡を辿る、ということの繊細さの証明だった。
ダーシェンカとしては、学生生活など投げうって調査に取り掛かりたかったのだが、それをイズミが望んでいないとなると、どうしようもなかった。
犯人を“一般規格内の”モノと仮定して調査するという考えも浮かぶには浮かんだのだが、そんなことをしても警察の組織力と比べたらなんの役にも立たないだろうということで却下した。
「今の私に、何ができるというのだ……」
ダーシェンカは前方の丘の上にそびえる大きな建物に視線を移しながら呟いた。
その建物の中には、ダーシェンカにとって最も大切な人がいる。
どうしようもなく弱気なくせに、ここぞというときは為すべきことをきちんと為す頼りがいのある少年。そして何よりも、少しおかしな表現かもしれないが、強靭な優しさを持っている。
そんな少年――如月イズミに、ダーシェンカ・オルリックがしてあげられることは何なのか。
考えてはみるものの、答えは浮かんでこなかった。
ダーシェンカとしては四六時中イズミのそばにいて、その警護に努めたいのだが、普通の少女としての生活を与えられた今はそれが出来るワケもなく、ましてやイズミがダーシェンカに普通の生活を送って欲しいと願っている以上、それを無下に扱えるはずもなかった。
だが、それでも。ダーシェンカはすでに普通の少女という在り方は出来ないのだ。そのように在ろうとすることは出来ても、そうなることは出来ない。
人として死に、リビングデッドとして蘇った以上、普通のカタチに納まるにはダーシェンカという少女のカタチはあまりに歪だった。
「私に、出来ること……」
ダーシェンカはもう一度自問する。
相変わらず答えは浮かんで来てくれない。短絡的な答えならば幾通りか浮かんで来る。
犯人を捕える、イズミのそばに常に控える。また、その答えから枝葉のように派生する答えも浮かびはする。
だがそのどれもが正解とは考え難かった。正解、などというものはどこにも存在してはくれないのだろうが。
結局ダーシェンカに出来ることは、自問を続けながら病院への道を進むことだけだった。
** *
翌朝、ダーシェンカは物足りない気持ちとともに目覚めた。
いつもいるはずの人がそこにいない。少し離れているだけだというのに、こうも寂しく感じられるのは、想い人が病院という物理的な距離とは別の隔たりを持った場所にいるからなのだろう。
ダーシェンカはそのような物思いに耽り、イズミのベッドを見やりながら深いため息を吐いた。
病院で寝泊り出来ないものかと尋ねてはみたが、担当医に「そこまで重症じゃないから大丈夫よ」と朗らかな笑みで断られてしまった。
それでも病院の外に張り込んでいようとダーシェンカは考えたのだが、今度はイズミに「そんなことはしないでよ?」と先手を打たれてしまい、渋々家に戻ってきたのだ。
以前のイズミ相手ならば、気付かれずに張り込むことも出来たかもしれないが、今のイズミ相手となると厳しいものがあった。イズミにはエーテルを利用した精密なレーダーがあるのだから。
ダーシェンカは、張り込んでいることをイズミに気付かれてしまうことが怖かった。それはなんとなく、イズミを傷つけることと同義な気がしたのだ。
「……はぁ」
ダーシェンカは再び深いため息を吐き出し、ようやくイズミのベッドから視線を引きはがす。
そのままボンヤリとした表情で、リビングへと足を進めた。
なんとなく静寂に耐えられず、テレビをつけてみるものの、流れてきたニュースはとある街で男子高校生が通り魔に刺されるという事件について。
ダーシェンカは顔をしかめてテレビの電源を消した。
いつもならイズミの用意してくれる白飯を三杯はたいらげるダーシェンカなのだが、どうにも食欲が湧かず、のっそりとした動作で制服に着替え、佐倉が迎えに来るのを待った。
(イズミは佐倉に自分が刺されたことを伝えたらしいが……他の人達は知っているのだろうか)
なんとなく時計を眺めながら、ダーシェンカは呟く。
テレビから流れているニュースは、被害者の情報についてはいろいろと伏せられているが、現地で情報統制などをすることは不可能だろう。
昨日までは当然のように在った日常が、今日は失われているということも、十分考えられた。
それは勿論、ダーシェンカにとっての日常、ではなく、イズミにとっての日常。
ダーシェンカにとっては日常などいかほどの価値もなかった。ダーシェンカにとって大切なのは、イズミが望む、イズミが居る日常なのだから。
そんな物思いに耽っているうちに、インターホンが鳴り響く。
ダーシェンカはその音に物思いを断ち切り、極力昨日までと変わらない表情、足取りで、玄関の扉を開いた。
「よう、ダーシェンカちゃん。今回はイズミのヤローが散々な目に遭っちまったな」
扉の外には、昨日までと変わらぬ佇まいの佐倉がいた。
言葉の中身こそイズミのことを気遣うものではあるものの、その顔には快活な笑みが浮かんでいた。
ダーシェンカはその笑顔に一瞬言葉を失った。
この人は何を笑っていられるのか、と。
そんなダーシェンカの気色を感じ取ったのか、佐倉は両手をブンブン振りながら後ずさった。
「ち、違うぞ、ダーシェンカちゃん! これは別にイズミに対して『ざまぁみろ』とか思ってるとか、そういうんじゃなくて、イズミに頼まれたんだよ!」
「たの、まれた?」
ダーシェンカは目を見開き、首を傾げる。
「あぁ、そうだよ。『できるだけダーシェンカに心配をかけないような態度でいてくれ』ってよ。こっちは本気で心配したのにそんなこと言われたんだぜ? まぁ、いきなり惚気られたって意味では、確かにイズミに対して『ざまぁみろ』って気持ちがあるかもな」
佐倉は肩をすくめ、苦笑を浮かべた。
「そう、だったのか」
ダーシェンカは佐倉の言葉に、顔を俯けた。
結局自分は、イズミに心配をかけてしまっている。こんな状況なら、自分がイズミの助けとならなければならないのに。
リビングデッドとしてイズミの助けになれないだけでなく、普通の少女としてもイズミに迷惑をかけてしまっている。
そのことがどうしようもなく、ダーシェンカにとっては歯がゆかった。
「どうしたんだ? ダーシェンカちゃんが気にすることじゃないだろ? イズミはとりあえず無事だったんだから。まずはそのことを喜ばなきゃな」
佐倉はダーシェンカの肩を軽く叩き、踵を返して歩き始めた。
ダーシェンカも家の鍵を慌てながら閉め、佐倉のあとに続いた。
家から学校までの道すがら、佐倉から他愛もない話を振られ、ダーシェンカもそれに応じていたのだが、学校に辿り着いた頃には、何を話していたのかも覚えていなかった。
神代学園の目と鼻の先で事件があったということもあり、学園の門には警察官や学園の教師などが並び立っていた。その誰もが真剣な表情を浮かべているのだが、肝心の生徒たちはその見慣れない光景に少しはしゃいでいるようだった。
怯える過ぎるよりはマシなのかもしれないが、それでも、自分は襲われることはないだろうと考えているような生徒達の表情が、ダーシェンカを憤らせた。
残念なことに、イズミもどちらかと言えばそちら側の人間なのだが。いや、少し違う。自分よりも周りの人間を心配してしまう、より重症な部類の人間だ。
「まぁ……慣れてないことにはハシャいじまうよな」
ダーシェンカの隣を歩いていた佐倉が、どこか感慨深げに呟いた。
その言葉に、ダーシェンカは少なからず驚きを覚えた。おおかた佐倉も、周囲の生徒と同じように浮足立っていると想像、というより半ば確信していたから。
「まぁ、俺も前に“少し”あってね。周りのヤツが浮足立ってるの見ると、複雑なんだ」
ダーシェンカの視線に気づいた佐倉は、照れくさそうに頬を掻く。
「そう、なのか……」
ダーシェンカはなんとなく深く触れない方がいいと思い、それだけ言うとあとは黙って教室へと向かった。
教室も、昨日起こった通り魔事件のことで持ちきりだったのだが、被害者が同じクラスのイズミということも関係しているのか、その表情は他の生徒たちよりも不安そうだった。
案の定、教室にダーシェンカと佐倉が入ると、矢継ぎ早に質問が浴びせられた。
そのほとんどがイズミの安否やダーシェンカのことを気にするもので、ダーシェンカはなんと答えるべきか戸惑っていたのだが、それらの質問を佐倉が上手く捌いてくれた。
佐倉が質問に答えると、教室中に安堵の溜息が広がる。
みんなどこからかイズミのことを知り、心配してくれていたのだろう。イズミだけでなく、ダーシェンカのことまで。
そのことがダーシェンカにとってはどうしようもなく嬉しく、また不思議な感覚だった。
イズミ以外の人間に気遣われるなどという想像は、ダーシェンカの中にはなかったのだから。
(これが、“日常”を生きるということなのだろうか……)
ダーシェンカはそんな感慨を抱きながら、クラスメイト達に「大丈夫だから」ということを伝えた。
ダーシェンカが言葉を選びながら現状を説明し終えると、チャイムとともに三十代半ばの温和そうな顔をした担任が教室に入ってきた。
それを合図に、ダーシェンカの周りに集まっていた生徒たちは各々の席に戻っていく。
「はい、急いで席に着いて。今日はいろいろと話さなきゃならないことがあるから」
担任は教卓を生徒の名簿でパンパンと叩きながら声を張り上げる。
いつもならのろくさと移動する生徒達も、今日ばかりは迅速に動いていた。
皆予想がついているのだろう。担任の教師の口から告げられることが。
「えぇ……皆さんテレビや新聞などで観たかもしれませんが、うちの学校の近くで通り魔事件が起こりました。そして、皆さんと同じクラスの如月イズミくんがその被害者です」
担任はそのように話を切り出し、先ほどダーシェンカがクラスメイト達に語った内容と同じものをそのあとに続けた。
ダーシェンカから聞いていただけあって、微かなざわめきが起こることもなかった。
「あと、しばらくは放課後の校内での活動は禁止。言うまでもないと思うが、寄り道も禁止だ。それから、体育祭も無期限延期が決定した」
担任はさしたる感情を込めることもなく語る。
語られる内容は半ば予想していたものではあったのだが、体育祭の無期限延期は微かなざわめきを起こした。
「本校の生徒が被害を受けたのに、祭りと名のつくものを行う訳にはいかないだろ? なに、犯人が捕まればすぐに行えるさ。如月が参加できるかは厳しいが、如月自身は体育祭が早急に開催されるのを望んでいたよ。まったく、あれほど肝の据わったヤツだとは思わなんだ」
担任は苦笑を浮かべながら肩をすくめた。
それから通常通りのホームルームを行い、担任は教室から去っていった。
ダーシェンカは担任の背中を何とはなしに見送り、眼前の席を見やった。
普段ならばイズミが座っている席。
そこにイズミがいない、ただそれだけのことがダーシェンカを不安にさせた。風邪などで休んだだけならば話は違ったのだろうが、通り魔に刺されてという異常な理由での欠席。
加えて魔術師の襲撃などという可能性を考慮しだすと、ダーシェンカは気が気でなかった。
** *
ほとんどの生徒達が朝のホームルームを行っている最中、二人のイレギュラーが神代学園高等部の生徒会室にいた。
一人は、この部屋の主たる来栖千澄。もう一人は、本来この場にいる筈がない中等部の生徒、クレア・ブリンズフィールドだった。
来栖は焦燥しきった顔でパイプ椅子に腰掛け、両腕を長机についている。
対照的にクレアは、涼しげな表情で壁に寄り掛かっていた。口元には、どこか淫靡さを感じさせる微笑みが浮かんでいる。
両者の間には、険悪な空気と静寂が漂っていた。
「これはどういうことだ!」
来栖は静寂を振り払うように、思い切りテーブルを叩きつけた。
それでもクレアは眉一つ動かさず、涼しい顔で壁に寄り掛かり続ける。
来栖はそんなクレアを思い切り睨めつけ、言葉を続けた。
立場も能力も、クレアの方が圧倒的に優れているのだが、この場――学校という、日常の範疇でならば、来栖もありったけの怒りをクレアにぶちまけることが出来た。
だから、相手への恐怖などということは頭の片隅に追いやり、思うがままに感情を吐き出す。
「なぜ如月くんに手を出した! 私が信用ならなかったのか? それとも気まぐれにか!? どちらにせよ、日常に影響が出てしまった……!」
来栖は叫び、頭をクシャクシャと掻いた。
この不可解な言動が人に聞かれる心配が来栖の中にないわけではなかったが、目の前にいる天使のような悪魔が手を打っていないハズがないと考え、声量は抑えなかった。
「質問に答えるなら、ですね。あなたを信用していない訳ではなく、ただ単に暇つぶしと実務を兼ねて如月先輩を刺しただけです」
クレアは壁に預けていた体をヒョイと起こし、愉しそうに微笑んだ。実力差から考えれば、格下と呼ぶのすら憚られる来栖の言動に気分を害した様子もなく。
それは、クレアの美点と悪癖を兼ねた振る舞いだった。
「暇つぶし、というのは来栖先輩が如月先輩の隙を突いてサクッと殺してしまうよりは、警戒を煽って多少の戦闘を起こす方が面白いという意味で、実務とは審判者として試す必要があったということですよ。建前上、ね」
クレアは“日常”の皮を被りながら、淡々と“異常”を語る。
「そうだろうとは、思っていた……」
クレアの言葉に、来栖は顔を深くうつむけた。
「そんなに悲観することもないでしょうに。如月先輩の試験の結果は散々。要は如月イズミは隙だらけということが判明したんです。来栖先輩ならサクッとやれるでしょう? 卓越した“霊視”を持つあなたなら」
「この一件で如月くんは多少なりとも警戒を強めているはずだ……仕事がやりにくくなったことに違いはない。もとより分が悪いのだ……覚醒したネクロマンサーに“普通の”人間が挑むなど」
来栖は苦々しげに顔を歪め、歯噛みした。
「でも、他に道はないでしょう? 大切な家族を助ける道は」
クレアは顔を歪める来栖を愉しげに眺め、高慢な口調で言い放つ。
その言葉に、来栖は顔をキッとあげてクレアをねめつけるが、返す言葉など浮かんできてくれはしなかった。
「分かって、いる」
意とは反して、来栖は服従の言葉を吐き出す。
「それなら結構です。では、私はそろそろ中等部に戻りますね? 失礼します、来栖先輩」
クレアはワザとらしくスカートの裾を持ち上げて一礼し、部屋から出ていった。
クレアの背中を見送った来栖は、色がなくなるほどに拳をキツく握りしめる。
覚悟は決まっていたハズだった。一番大切なものと、そうでないモノを天秤に掛けるというごく単純な判断。単純なだけに、揺らがない。
そう思っていたのに、いや、思いこもうとしていたのに、その判断は揺らぎ始めていた。
(私が如月くんを殺せば、兄さんは助かる。だけど……そんな私を兄さんはどう思うだろうか)
来栖は自身に問うてみるも、その答えは考えるまでもなかった。
答えが明確だからこそ、来栖は苦しんでいるのだから。
それでも。
「兄さんがいないと、私は……」
来栖はこぼれ落ちそうになる涙を堪えながら、震える声で呟いた。