第1章 物語の始まりは、転校生とともに
夏休み明け。登校初日。二学期の開始を告げるホームルーム。
これだけのキーワードが並べば、いやがおうにも学生の心は沈むはずだ。マリアナ海溝並に。
だというのに、夏休み明け、登校初日、二学期の開始を告げるホームルームの時間。
私立神代学園高等学校、一年六組の教室は俄かに活気づいていた。
それもこれも。
「はじめましての人も、夏期講習のときに知り合いになった人も、これからよろしくお願いします」
黒板の前でぺこりと頭を下げた亜麻色の髪の少女――ダーシェンカ・オルリックが巻き起こした現象だった。
ダーシェンカは夏休みとは異なり、きちんと神代学園の制服に身を包んでいる。
教室の一席からその美しい少女の姿を眺めていた少年――如月イズミは複雑な面持ちだった。
頭をあげてこちらを見たダーシェンカと視線を絡ませたイズミは、咄嗟にぎこちない笑みを浮かべる。
「それじゃあダーシェンカさんは一番後ろ、如月くんの後ろの席に座って下さい」
担任の教師が、ダーシェンカに空いている一席を指し示す。
その指示に従い、クラス中から向けられる視線を気に留める様子もなく、ダーシェンカは自分の席に腰をおろした。
「あの人だろ? お前らが言ってた美少女って」
「チクショー、こんなことなら俺も夏期講習に出てれば良かった!」
「如月君と一緒に暮らしてるんでしょ? すごいよね、それって」
「なんつーか、如月を、殺したい。ものっそい殺したい」
教室中から漏れ聞こえるクラスメイト達の言葉に、イズミは溜息とともに肩を落とす。
もっとも、そのほとんどのセリフは夏期講習に参加していなかった生徒たちから漏らされているもので、参加していた生徒たちは落ち着いていた。
付け加えるならば、口々に吐かれたイズミへの物騒な発言や羨むような発言も夏期講習組から数えれば二度目なので、精神的ショックは幾分かマシだった。
それでもイズミの心労は絶えない。
約一名を除いたクラスメイト達は知らないのだ。
イズミとダーシェンカが両親のいない家で二人きりで暮らしている、ということは。
そんなことを知られた日には、騒ぎは今の比ではないだろう。
それを知っている約一名には、きっちりと釘を刺しておいたから大丈夫だろう、たぶん。
そんなことを考えながら、イズミは約一名に視線を向けた。
視線を向けるとその約一名と視線がぶつかった。絡み合う視線の先にはイズミの、腐れ縁とも言い換えられる親友――佐倉朋和の姿があった。佐倉は日に焼けた顔に含みのある笑みを浮かべ、それをイズミに向けている。
(絶対に、ロクでもないことを考えてる……)
佐倉の表情を見たイズミは、げんなりと肩を落とした。
「どうしたんだ? 浮かない顔して」
「あ、いや、大丈夫だよ。ちょっと考え事してただけだから」
背後から掛けられたダーシェンカの声に振り返り、イズミは苦笑する。
ダーシェンカは首を傾げながらも「なら、いいのだが」と引き下がった。
そうこうしているうちにホームルームは終わり、ダーシェンカの周りにはあっという間に女子の人だかりが出来ていた。
夏期講習中にダーシェンカと面識をもったクラスメイトを介することで、より一層近づきやすくなっているのだろう。イズミの気のせいでなければ他のクラスの人も混じっていた。
本当ならすぐさまこの居心地の悪い場を離れたいイズミではあったが、ダーシェンカのことがなんとなく心配で、席に着いたままボンヤリとしていた。自分が後ろで繰り広げられる会話に巻き込まれないことを祈りつつ。
「よう、イズミ。さすがだな、ダーシェンカちゃんは」
ダーシェンカの周りにできた人だかりに苦笑を浮かべながら、佐倉がイズミに歩み寄る。
「まぁ、夏期講習というワンクッションを経てもコレと考えると……恐ろしいね」
「だよな。そんなことより、だ」
佐倉はニヤリと笑い、イズミの首にがっしりと腕を回す。
「今朝学校に来る途中にはきちんと聞けなかったがよ……どうなんだよ? お前とダーシェンカちゃんの関係は」
佐倉から浴びせられた、半ば以上予想していた質問に、イズミは深い溜息を吐きだした。
「どうもこうもないよ。というか何を言おうが信じる気、無いんだろ?」
呆れたような視線を向けるイズミに気分を害した様子もなく、佐倉は力強く「うむ」と頷いていた。
「ダーシェンカちゃんのお前に対する態度はどこかしら別格だからな。特別な関係じゃない、そう考える方がおかしい」
佐倉はイズミに回していた腕を解き、組み直すとしきりに頷いた。
そんな佐倉にイズミは乾いた笑いを返すことしか出来なかった。
イズミとダーシェンカが特別な関係、というのはあながちどころか、全く嘘ではないのだから。
比喩でも何でもなく、本当に、魂で結ばれた関係。
もっとも、それが世間一般でいう恋人関係とイコールでないというのもまた事実なのだが。
イズミとダーシェンカの日常は、プロポーズ以上の約束を交わした夏祭りの以後も、それ以前とまったく代わり映えしなかった。
「ま、心配はいらんだろうが、一応気をつけろよ? ダーシェンカちゃんに悪い虫が付かないように、さ」
佐倉はイズミの耳元でいやらしい笑みを浮かべながら囁き、自分の席に戻っていった。
佐倉が席に着くと同時に始業を告げるチャイムが鳴り響く。
「……相変わらず妙なとこだけ律儀なヤツ」
イズミはチャイム着席を守る佐倉に視線をやりながら、一限目で使う数学の教科書を机から引っ張り出した。
ダーシェンカの正式な生徒としての登校初日は何事もなく終了した。ダーシェンカを一目見ようとクラスに押し寄せていた者達も昼休み前にはほとんどいなくなり、午後は落ち着いて生活できた。
そして放課後。イズミ達は何故か神代学園の中等部にやってきていた。
神代学園は一つの敷地に中学・高校・大学の校舎が併設されており、そのどれかに属していれば校舎間の行き来は比較的自由だった。
もっとも、行き来するような人間は教師以外には滅多にいないのだが。
それでもイズミは佐倉に連れられ、中等部の中庭にやってきていた。気のせいでなければ、イズミ達の他にも高等部の連中がいる。
ここで何かイベントでもあるのだろうか。
そんな考えがイズミの頭をよぎった。
「……なぁ、佐倉。なんで中等部に来てるんだ? 僕ら」
イズミは横に並ぶ佐倉に怪訝な視線を浴びせる。
ダーシェンカも、イズミの隣から不思議そうな視線を佐倉に向けていた。
そんな視線を軽いため息で受け流した佐倉は、肩をすくめる。
「いやね、どうやら中等部にも美少女転校生がいるらしくて、その見物に、な」
「……馬鹿じゃないの? そういうことなら僕たちは帰る」
イズミは佐倉にありったけのジト目をぶつけ、踵を返そうとした。
そのイズミの腕を、佐倉ががっしりと掴む。
「なんだよ? 見物ならひとりで、」
「そんな恥ずかしいマネできるか!」
「恥ずかしいという自覚があるなら今すぐその行為を辞めるべきだと進言させてもらうよ、
友として」
すがりつく佐倉に、イズミは摂氏零度の視線を容赦なく浴びせる。
「いや、その、なんか並はずれて美人らしいので、一度はそのご尊顔を御拝見したいと思いまして、その、つまりなんだ」
佐倉が何か言いかけたそのとき、中庭がザワついた。
叫び声などがあがることこそないが、中庭に集っていた者達の視線が一か所に集中しているのがハッキリと見てとれる。
あまたの視線が集まるその場所に、思わず視線を向けてしまったイズミは、息を呑んだ。
視線の終着点には、数人の女生徒がいた。ちょうど校舎から出てきたところらしく、周囲から向けられる視線に戸惑いながらも、楽しそうに談笑している。
その中に、間違いなくあれが件の美少女だ、という女生徒がいた。
イズミはその女生徒に視線を向けたまま言葉を失った。
見惚れる、というのとは少し違う。どちらかと言えば面喰らったのだ。
美少女とは言っても、所詮は中学生。せいぜいどこぞのタレントに似ているとかの類だとタカを括っていた。
だが実物はまるで違う。余りに異質だった。何かの模造品の美しさなどではなく、その少女にしかないと思わせるような美しさがあった。
肩のあたりで切りそろえられた、緩くウェーブの掛った金色の髪。未踏の雪原のように白く透き通るような肌。そして、希代の人形師が作ったのではないかとさえ感じさせるほどに整った顔立ち。
何より印象深かったのは、深淵すらも感じさせるような、エメラルドグリーンの瞳だった。
「……大丈夫、か?」
呆然としているイズミに、ダーシェンカが遠慮がちに声をかける。
「え? あ、うん。ちょっとびっくりしてただけだから」
「そうか。もう目的は達したのだから、帰らないか? 私はお腹が減った」
「うん、そうだね。とっとと帰ろう……って? 佐倉?」
イズミは自分の脇で自分以上に呆けている友の名を呼んだ。
それでもしばらく、佐倉が白昼夢から目醒めることはなかった。
そうこうしているうちに女生徒の一団はイズミ達の前を通り過ぎていく。
美少女にさして残心のなかったイズミは気付かなかったが、その美少女は確かにイズミに視線を向けていた。
** *
神代学園を抜けてすぐの街路には、学園の生徒達が行きかっていた。その中に、先ほどの女生徒の一団も見受けられた。
中庭のときと変わらず、楽しげに談笑している。
「先ほど中庭で見かけた高校生、綺麗な顔をしていましたね」
人形のように整った顔を僅かに綻ばせながら、件の美少女は呟いた。
「あぁ、高等部の。確かにあの人話題になってたわよね、夏休み中」
周りにいた女生徒の一人が、思い出すような素振りを見せながら答える。
「ダーシェンカ、って名前らしいよ? 夏休み中にクラスの男子が騒いでたから、馬鹿みたいに」
「あぁ、そういえば。まぁ、男子なんてみんなそんなもんなんじゃないの? さっきだってクレアさんを見に高校生が集まってたじゃない。まったく、高校生にもなってみっともない」
自分の周りで始まった他愛のない世間話をクレアと呼ばれた少女は、はにかむような微笑を浮かべながら聞いていた。
「あの……私が綺麗な顔といったのはダーシェンカさんの横にいた男の先輩のことなんです」
クレアは頬を赤らめ、申し訳なさそうに肩を縮こまらせた。
「え? あぁ、確かに綺麗な顔した先輩がいたかも。私はダーシェンカ先輩のことしか見てなかったからはっきり覚えてないけど」
「たぶん、その人は如月先輩だね。何気に有名人なのよ。二つの理由で」
何やら情報通らしい女生徒が、得意げに語り出す。
その語られた内容を、クレアは相変わらず微笑を浮かべながら聞いていた。
「……すみません。私、こちらなので」
クレアは別れ道で立ち止まり、左の道を指さす。
「あぁ、そうなんだ。じゃあクレアさん。また明日、学校でね」
女生徒たちは笑顔でクレアに手を振ると、もう一方の道へ進んでいった。
その様子を見届けたクレアは微笑をサッと消し、再び歩き始める。
そして周囲の者には聞こえないような声量で呟いた。
「……ま、私からしたら人間の大半が子供なんだがね。さて、雪の息子にどうやってちょっかいを仕掛けるか。ま、外見は雪似だったから合格として、はてさて中身はどうなのやら……」
クレアの顔には、その可愛らしさからは想像もつかないような冷笑が浮かんでいた。
** *
放心状態から抜けきらない佐倉と別れたイズミ達は、夕食の準備のために家からほど近いスーパーを訪れていた。
イズミがかごを片手に歩き、ダーシェンカがその横に並ぶ。それはイズミ達の何気ない習慣と化していた。
二人が並び歩く光景はスーパーの常連や店員には『可愛いらしい若夫婦』として通っていたのだが、イズミ達はそれを知らない。
「なぁ、イズミ。もうちょっと肉買わないか?」
「もうちょっとって、五百グラムの牛肉片手に言うセリフじゃないと思うよ? ゼッタイ」
切なげな視線を向けるダーシェンカに、イズミはため息交じりに苦笑する。
ダーシェンカはイズミの返答に口を尖らせながらも渋々と牛肉を棚に戻した。
「……まぁ、今日はダーシェンカの登校祝いってことで、特別だよ?」
イズミは苦笑しながらもダーシェンカが戻した牛肉をかごに入れてやる。
「おぉ! ありがとう、イズミ」
ダーシェンカは沈んでいた顔を輝かせ、イズミを見た。
そんなダーシェンカを「ハイハイ」と適当に受け流し、イズミは散策を再開する。
だがその実、ダーシェンカの笑顔にどうしようもなく安堵していた。
神社での一件のあと、二人の関係はどこかぎこちなかった。いままで通りに生活しながらも、こうして軽口をたたき合うようなこともなかった。
それでもなんとか感覚を掴み、このような雰囲気を取り戻した。
軽口を叩き合うだけの、なんてことない、それでもイズミとダーシェンカにとってはとても大切な、そんな雰囲気を。
「当面の食料は確保したから、帰ろうか。ダーシェンカ、くれぐれも食べ過ぎるなよ?」
イズミは野菜やら肉やら飲料やらで重くなったかごを見やり、言う。
「わ、分かってるさ。でも……」
「でももへったくれも、」
「イズミが作る料理はおいしいのだから仕方ない」
ダーシェンカのその一言にイズミは口に出そうとした言葉を飲み込んだ。
そのまま無言でレジに向かう。胸中で「卑怯だ」と呟きながら。
「うん。やはりイズミの作る料理はおいしいな」
ダーシェンカは頬を綻ばせながらイズミに茶碗を突き出す。
夕食、四度目のおかわり。
イズミは呆れたように頭を振りながらも、その茶碗にごはんを大盛りによそってやる。
「まぁ、作る側としては嬉しいことこの上ないんだけど……たまに、そんだけ食って大丈夫なのかと思うよ。ほんとにさ」
イズミはダーシェンカに茶碗を渡しながら苦笑う。
そんなイズミの前にはすでに食器はなく、湯気の立ち上る湯呑茶碗だけが置かれていた。
「私のことなら心配無用だぞ? ……それより、イズミこそ大丈夫なのか? 体の方は」
ダーシェンカは茶碗を置き、イズミを心配そうに見つめた。
「それだって心配いらないさ。体の痣は消えてないけど、押したってもう痛くないし。それに眼の方も可視領域を抑えてるから負担もないよ」
「なら……いいのだが」
「そう、いいんだよ。さ、分かったら早く食べて。食器片付けちゃいたいから」
イズミは微笑みながら言うと、湯呑をぐっと飲み干し、台所に向かった。
イズミは水を張ったタライに浸されたフライパンやら食器やらを見下ろし、腕をまくって洗い物を開始する。
まくられた腕にはいくつかの痣が残っていたが、ダーシェンカに告げた通り痛みはもう引いているので問題なかった。
それでも、その痣を見るたびにイズミは不安に駆られる。
もう一度襲われるんじゃないか、と。襲われることは恐ろしいのには恐ろしいのだが、心構えはある程度出来ている。
イズミの不安はむしろ、そのときにダーシェンカに負担を掛けずに済むだろうか、ということだった。
ダーシェンカが無茶をしてエーテルをすり減らそうが、何度だって蘇生させる覚悟がイズミにはある。
だがそれではダーシェンカの心に負担がかかる。
(やっぱり、もっと強くならなきゃな……ダーシェンカを守ってあげられるくらい)
イズミは何食わぬ顔で食器を洗いながら静かに、しかし力強く自分の中に誓いを立てた。
「イズミ、ごちそうさまでした」
「あぁ、お粗末様でした」
いつの間にか背後にいたダーシェンカから食器を受け取り、イズミは受け取ったものをタライに入れて洗い始める。
ダーシェンカはそれを確認すると、リビングに向かって踵を返した。
「なぁ、イズミ?」
数歩進んだ所でダーシェンカが不意に立ち止まる。
「ん、なに?」
「……いや、やっぱりなんでもない」
ダーシェンカはヒラヒラと手を振り、リビングに消えていった。
「……どうしたんだ? いったい」
そんなダーシェンカの後ろ姿を見ながら、イズミは小さく首を傾げた。
翌朝、イズミが目を覚ましてまず思ったことは「これは夢なのだろうか」ということだった。
夢の中でこれは夢だと気付いていることを明晰夢というらしいが、きっとコレもそうなのだろう。そう思い、イズミは自分の頬を思い切りつねってみた。
「痛いっ!」
イズミの頬に激痛が走る。自分でつねっておいてなんだが、もっと優しくつねるべきだったと、イズミは激しく後悔した。
同時に思い知る。
この夢のような状況が夢ではない、と。
「んぅ? どうしたというのだ?」
眠っていたダーシェンカがイズミの声に目をしばたかせながら身じろぐ。
ダーシェンカの顔は、イズミの真正面に位置していた。距離にして十数センチ程度しか離れていない。
「ぬぁ!?」
イズミはダーシェンカと目が合った瞬間に素っ頓狂な叫びをあげて跳ね起きた。
そしてすぐさま状況を確認する。
(そう、何事においても大切なのは状況把握だ。夏休み中に思い知ったじゃないか)
イズミは顔を赤らめながらも、周囲をゆっくりと見渡した。
なんてことはない。見慣れた自分の部屋だ。
自分の体はベッドの上にあり、ベッドのすぐ脇にはダーシェンカの蒲団が敷かれている。
男女が同じ部屋で寝るということは異常ではあったが、夏休みからの習慣だからそこに問題はない。
問題があるとすれば。
「なんでダーシェンカが僕のベッドで寝てるのさ!?」
ベッド脇の蒲団で寝ているハズの、純白のネグリジェを纏った可愛らしい少女が、イズミのすぐ脇で寝ていたということだった。
「ん? あぁ……すまない。寝惚けていたらしい」
ダーシェンカは気だるげに体を起こし、イズミに向き直る。
その顔がまたイズミの真正面に迫り、イズミは一層顔を赤らめた。
寝起きのダーシェンカはまどろみから覚めきっていないらしく、そのとろんとした瞳はどことなく扇情的で、純朴な青少年には致死量の毒だった。
「と、とにかく仕度しようか。準備遅れると佐倉がうるさいし」
イズミはダーシェンカから目を逸らし、逃げるようにベッドを降りる。
「じゃあ僕は朝ごはんの準備するから、ダーシェンカは先に顔とか洗っちゃいなよ」
「……私が寝惚けるワケないだろ、馬鹿」
口早に言い切るなり部屋を出ていったイズミに唇を尖らせながら呟き、ダーシェンカは深いため息を一つ吐いて立ち上がる。
「私は……どうしたらいいんだろうな」
ダーシェンカは切なげに呟き、顔をピシャリと叩いた。
「とにかく、いつも通り振る舞えばいいんだ」
ダーシェンカはしきりに頷きながら自分に言い聞かせ、イズミの指示通りに洗面所に向かうことにした。
「はぁ……まだドキドキしてるよ。ダーシェンカが寝惚けるなんて、今までなかったのになぁ。こういうことがあるならやっぱり部屋を別々に……いや、でもやっぱり防御の観点から言ったら」
イズミはどこか上の空な様子でブツブツと呟きながら、朝食の準備に取り掛かっていた。
上の空のままでもいつも通りに目玉焼きを半熟で仕上げ、キュウリやトマトを無意識のままトッピングしていく。
その様は、習慣の恐ろしさと素晴らしさを同時に物語っていた。
それをテーブルに並び終えたとき、ダーシェンカがリビングに入ってきた。
すっかり身支度を整えたらしいダーシェンカは、すでに制服に身を包んでいる。
「イズミ、私は待っているからお前も支度を済ませてしまえ」
ダーシェンカは言いながら席に着いた。
イズミは「そうさせてもらう」と頷き、支度に取り掛かる。
冷たい水で顔を洗い、気持を切り換えようと試みる。
しかし、頭の中から今朝のダーシェンカのとろんとした扇情的な瞳が消え去ることはなかった。
ボンヤリした思考のままイズミは支度を済ませ、朝食の席に着く。
「いただきます」
イズミが席に着くと同時に、ダーシェンカが待っていましたたとばかりに声を上げる。
イズミもそれに習い、朝食を口に運び続けた。
ダーシェンカが二杯完食する間にイズミはなんとか一杯を食い終わり、三杯目に進もうとするダーシェンカを押しとどめ、朝食を強制終了する。
朝食終了からしばらくしてやってきた佐倉とともに、イズミ達は学校に向かった。
通学路には神代学園の生徒や近隣の中学生などが行き来しており、賑やかだった。
「しっかしよう、恐ろしかったなぁ、昨日の中学生の美しさときたら」
佐倉は昨日の光景を思い出しているのか、その視線は宙を彷徨っている。
イズミはそんな佐倉の呟きに大した反応を示すことなく黙々と歩き続ける。
経験上、知っているのだ。佐倉がこの手の話をしているときは口を挟まない方がいいと。
この場合、否定しようが肯定しようが佐倉のテンションは上がり、良く分からない方向に話を持っていく傾向がある。
だから、とるべき行動はおのずと放置に至る訳だ。
「あ、そういや今さらだけどさ、学校生活は大丈夫? 勉強とか、さ」
イズミは自分の世界に浸りはじめた佐倉を無視し、並び歩くダーシェンカに視線を向ける。
本当に今さらな質問ではあるが、問うのを忘れていたのだから仕方がない。
夏休みの最終日、唐突に幸也から電話があり「ダーシェンカちゃんの戸籍“作って”神代学園への編入手続き済ませておいたから」とだけ告げられて電話を切られたせいで、いちいち細かいことを確認している暇がなかったのだ。
本当にあの日は大変だった。夏休み中に起きたゴタゴタのせいで宿題が残りに残っていたというだけでも修羅場だったのに、その上で一方的なあの電話だ。
折り返しても幸也が電話に出ることはなかったし、それからも連絡が付いていない。
もっとも、音信不通はそう珍しい事でもないのでイズミは気にも留めなかった。生活費もいつも通り振り込まれているし。
「勉強か? それなら問題ない。もしイズミが勤勉な学生でなかったら危なかったが、今のところ苦はない。まぁ、これからは私の努力次第だがな」
心配そうに見つめるイズミに、ダーシェンカは微笑を向けた。
イズミが勤勉な学生、というのはおそらく最初の知識共有で得たモノのなかに学識なども含まれていた、ということを指しているのだろう。
「そう、なら良かった。あ、あとは委員会とかもあるんだけど、もし組む予定の人がいなかったら僕と組まない? その方が何かと都合がいいでしょ」
「そうだな。私もイズミと組むのが一番落ち着く」
ダーシェンカはコクリと頷き、微笑する。
「……なぁ、お二人さん。俺という存在を忘れて二人の世界ですか、コンチクショーめ」
自分の世界からいつの間にか帰還していたらしい佐倉が、イズミとダーシェンカにジト目をぶつけていた。
「佐倉だって僕らの存在を忘れて滔々と美少女転校生とやらについて語っていたじゃないか」
「アレはイズミに向かって……って、そうですな。もう一人の美少女転校生とイチャついてるイズミくんには他の女など眼中に入っていないのですな」
『っ! イチャついてるって……』
イズミとダーシェンカが同時に声を上げ、すぐさま互いの顔を見合わせる。
見合わせるとすぐ、二人とも気まずそうに顔を俯けた。
「あぁ、ハイハイ。朝からどうも御馳走様です」
佐倉は呆れたように肩をすくめると、歩調を速めた。
「おい、どうしたんだ? 佐倉」
イズミは佐倉の不可解な行動に眉をひそめる。
「邪魔者は消え去るのみ……ってのは冗談で、ちょっとやること思い出したんで先に学校行ってるわ」
佐倉は振り返りながら手を振ると、小走りで前方の人混みの中に消えていった。
イズミとダーシェンカは佐倉の行動に首を傾げながらも、そのまま他愛もない会話を交わしながら、学園への道を歩いた。
そして、教室に着いて初めて知ることとなった。
佐倉が言った“やること”というものを。
イズミがいつも通りに教室に足を踏み入れると、奇妙なざわめきが起こった。
イズミとダーシェンカは若干不審には思ったものの、さして気に留めることもなくクラスメイトに挨拶をしながら自分の席に着いた。
だがどうもおかしい。いつもならスムーズに交わされる挨拶はどこかぎこちなかったし、
気のせいでも何でもなくチクチク刺すような視線がイズミに集まっていた。
「なぁ、なんかおかしくない?」
不審に思ったイズミは近くにいた友人に尋ねてみるが、返ってきた答えは。
「自分の胸に手を当ててよーく考えてごらん」
という、よく分からない言葉と、引き攣った満面の笑みだった。
イズミはその答えに首を傾げたモノの、考えても何も出てきそうにないので思考することをやめ、鞄から教科書類を引っ張り出し始めた。
そんなときに、背後から飛んでもない言葉がイズミの耳に飛び込んできた。
「ダーシェンカさんがイズミくんの許嫁っていう話は、ホントなの?」
『ハイ!?』
女子の一人がダーシェンカにおずおずと尋ねた言葉に、イズミとダーシェンカが同時に素っ頓狂な声をあげた。
「え? あ、いやだって佐倉くんがそう言って……って如月くん?」
佐倉という単語を聞いた瞬間にイズミは勢いよく立ちあがる。あまりの勢いに、椅子がガタンと音を立てた。
問いを投げかけた女子がそんなイズミに怪訝な視線を向ける。
「その佐倉くんはどこかな? 教室に姿が見えないけど」
イズミはとても“穏やかな”笑みを女子に向けた。
「えっと……そのうち戻ってくるんじゃないかな?」
そんなイズミに気圧されたのか、ぎこちない笑みを返す。
「ダーシェンカ、佐倉の質の悪いイタズラをどう思う?」
「どう思うって……イズミと私は許嫁ではないが……私は、別に、なんとも」
照れくさそうに顔を俯けるダーシェンカに教室中がざわめいた。
「朝からなんとも満腹なのは俺だけか……?」
「いいえ、私も満腹よ。なんというかストロベリーね、うん」
「あぁ……もうなんというか、如月の野郎はアレだな。車裂きの刑に処したい」
「いや、俺はむしろノコギリ引きか水牢攻めに……」
教室から漏れ聞こえてくるおぞましい処刑方法の数々に、イズミの背筋に悪寒が走った。
だがその悪寒を補って余りある感情がイズミの中にはあった。
静かな、凪のような、殺意。
(佐倉のヤツ……殺す)
イズミは教室に姿を見せない親友のことを思いながら静かに誓うのであった。
もっとも、許嫁と言われて悪い気はしないというのも事実ではあったのだが、口にしたら火に油を注ぎそうなので口にはしなかったが。
その後、すぐに佐倉は現われたのだが、イズミは何一つ手を出すことが出来なかった。加えて言うならば、一日中手を出すことが敵わなかった。
なぜなら。
「おっと、もし俺に手を出してみろよ? 二人っきりで暮らしてるってバラすからな」
と耳元で囁かれてしまったからだ。
そんな佐倉のしたたかな立ち回りで、イズミは心の中でのたうちまわる殺意と戦いながら一日を過ごした。
まぁ、クラスメイト達も『許嫁』などという前時代的な言葉を真に受けているはずもなく、さしたる影響はなかったのだが、それでもイズミとダーシェンカが同じ委員会に決まったときは凄まじい殺気がクラス中の男子からイズミに集中したのはまた別の話である。
そして今。
イズミは再びクラス中の男子から殺意を向けられる、ばかりか投石を受けかねない状況に直面していた。
それは、ダーシェンカとともに参加した体育祭実行委員の集まり。
イズミはなんの気なしに活動する期間が短いこの委員会を選んだのだが、なんとも運が悪かった。
いや、良すぎたというべきか。
体育祭実行委員とは言ってしまえば九月の終りに神代学園中高合同で行われる大規模なクラスマッチを取り仕切る委員会なのだが、まさかこのような偶然がおころうとは、イズミは予想だにしなかった。
「中等部の体育祭実行委員長を務めさせていただきます、中等部三年クレア・ブリンズフィールドです。この学園に来て日が浅いどころか無いに等しい私ですが、精一杯務めさせていただきますのでよろしくお願いします」
大教室に集まった多くの生徒を前に、クレア・ブリンズフィールドははきはきと言い、頭を下げた。艶やかな金色の髪がふわりと揺れ、甘い匂いが広がったような錯覚が起こる。
イズミはその様子を大教室の一席から、ではなく、何故か真横で眺めていた。
ダーシェンカと組んでいるイズミをやっかんだ男子生徒達の悪ふざけでイズミは一年の実行委員代表に選ばれてクレアの真横という好ポジションにいるのだから、なんとも皮肉な話だった。
「えっと……一年代表の如月イズミ、です。よろしくお願いします」
イズミは出来るだけ教室にいる人々(主に男子)を見ないように、視線を宙に彷徨わせながら言い、頭をさげた。
頭を上げる瞬間に見えた、一年どころか全学年の男子が自分を睨みつけていた光景は錯覚であって欲しいと、イズミは心の底から願った。
そして高等部二年、三年の実行委員代表の挨拶が終わり、やっかみのもう一つの原因となる人の挨拶に移る。
教室中の視線がその人に集まっていた。
あまたの視線の先には、腰まで伸びた艶やかな黒髪を一つに結んだ、綺麗、というよりは凛々しい顔立ちの少女がいた。
異性の情報に疎いイズミでも、その少女のことは知っていた。
神代学園生徒会会長・来栖千澄。
高校一年の時より生徒会副会長を務め、二年にあがった今年は周囲の期待通りに会長に就任。
また、薙刀部の部長も務めており、多くの大会でかなり優秀な成績をおさめているという。
品行方正・眉目秀麗・才色兼備などの言葉は彼女のためにあるといって憚らない生徒も多かった。
イズミ達一年は知らなかったのだが、体育祭実行委員は生徒会主導のもとで活動するらしい。
知っていれば間違いなくイズミがこの委員会に参加することはなかっただろう。正確に言うならば参加できるはずもなかっただろう、なのだが。
「生徒会長の来栖千澄です。三年生にとっては今年の体育祭が最後となる訳ですが、それが良き思い出となるように、またそのほかの学年にとっても良き思い出となるように精一杯頑張らせていただきますので、何卒ご協力のほどをよろしくお願いします」
来栖は堅い表情で宣言すると、深々と頭を下げた。
同時に、部屋中から拍手が起こる。
述べた内容は当たり障りのないものであったにも関わらずこの反応というのが、来栖という人となりを表しているのだろう。
来栖は頭を上げ、先ほどの固い表情とはうって変って照れくさそうにはにかんでいた。
イズミはなんとなく、来栖の人気の理由が分かった気がした。
かくしてイズミは学園きっての美少女が集う委員会に参加することとなり、再びクラスでささやかな迫害を受けることとなった。
「はい、如月君。コレ、クラスマッチの種目一覧表ね。とりあえず今日はコレを各学年の委員に配って解散だから」
「あ、はい。ありがとう、ございます」
来栖の朗らかな笑顔とともに差し出されたプリントを受け取り、イズミはぎこちない笑みを返す。
そのぎこちなさは学園きっての有名人を目の前にした困惑であると同時に、小さな違和感から現われたものだった。
(どうして……名前を?)
イズミは他の委員にプリントを配りだした来栖に視線をやりながら心中に呟いた。
来栖がイズミの名前を知っている、などということは当然のことだ。イズミはついさっき自己紹介したばかりなのだから。
そうではなく、来栖が自分の名前を呼んだことにイズミは違和感を感じたのだ。
観察している限り、他の委員は名前を呼ばれていない。
自分だけが名前を呼ばれた。
たったそれだけのことがイズミの頭の中に違和感を生み出していた。
(……まぁ、大したことじゃないか)
イズミは来栖から視線を外し、一年の委員たちが座っている机に向かった。
「はい、コレ。明日の朝のホームルームの時間にでも軽く触れて、各々が参加する種目についてはロングホームルームの時間を利用してください。それで今日はもうこれで解散です」
イズミはプリントを配布しながら、先ほど生徒会長から受けた説明をそのまま口にする。
プリントを受け取った生徒たちは気だるげな返事をしながら、大教室から出ていった。
イズミはそんな生徒たちを見送り、渡されたプリントを食い入るように見つめているダーシェンカに視線を移す。
「ほら、僕たちも帰ろう。というか……何をそんなに見つめてるの?」
「いや、知識では知っていても、スポーツをやるなど初めてだから……上手く力の加減が出来るか心配で」
ダーシェンカはプリントに視線を落としたまま、深刻そうに呟いた。
「そんなのだいじょう……あ」
大丈夫、と言おうとしたイズミは思わず口をつぐんだ。
大丈夫だとは思うのだが、とてつもない不安があるのもまた事実。
人死にが出ることはさすがに無いだろうが、ダーシェンカが少しでも力の加減を誤ったらちょっとした悲劇が起こりかねない。
そのことに思い至ったイズミは苦笑を浮かべ、言った。
「いや、やっぱり大丈夫だよ。力の加減とかなら僕と一緒に練習すればいいから」
「そう、だな。ありがとう、イズミ。日常生活のコツなら掴んだんだが……スポーツはいまいち分からないから」
ダーシェンカはプリントから視線を外し、困ったような笑みをイズミに向けた。
「まぁ、頑張ろう」
イズミは微苦笑をダーシェンカに返す。
そして心の底から安堵していた。
クラスマッチに格闘技の類がなくて本当によかった、と。
「じゃあ帰ろうか、イズミ」
ダーシェンカはプリントをカバンに入れて立ち上がり、歩きだす。
イズミも後に続く。
「それじゃ、先に失礼します」
大教室を出る際、イズミは中に残っていた来栖とクレアに一礼する。
来栖は微笑みながら手を振り、クレアはペコリとお辞儀を返した。
それを確認したイズミは扉を閉め、帰路についた。
** *
「あの子が……そうなんですか?」
イズミの気配が扉の外から消えたことを確認した来栖は浮かべていた微笑みを消し去り、
真剣な表情を隣に佇むクレアに向けた。
見る者によっては圧倒されかねない来栖の表情にも、クレアは全く気負う様子を見せなかった。ばかりか苦笑を浮かべ、肩をすくめてさえ見せた。
「あぁ、そうだとも。アレが禁忌にして消し去られるべき存在のネクロマンサーさ」
「そうは……見えませんでしたが」
「その人間の本質なんて関係ないだろ? それに今は人畜無害でも、いつ核弾頭に変貌するか分からないんだ。危ない芽は早めに摘んでおくべきだ」
「でもやっぱり……」
来栖は言いよどみながら戸惑うような表情を浮かべる。
それを見たクレアは一切の感情の籠らない、冷徹な瞳を来栖に向けた。
「やっぱり? もとよりお前に選択権はないハズだが? お前が如月イズミを殺したくないというならそれでも構わん。まぁ、代わりに? お前の大切な家族はどうなるか知らないがな」
クレアは愛らしい顔には似つかわしくない、いやむしろ愛らしいからこそ際立つ冷笑を口元に湛えながら言い放つ。
来栖はクレアの表情に足が震えだしそうになるのを必死に抑え付けた。それでも、体中に鳥肌が立つのだけは止められなかった。
「……分かって、います」
来栖は苦虫をつぶしたような表情を浮かべながら言葉を絞り出し、歩きだした。
「私はこれで失礼します。クレア様」
「あぁ、心配無用だろうが道中気をつけろよ? 何やらこの国の安全神話はとうの昔に滅んでいるらしいからな」
クレアはクックと喉を鳴らし、愉快そうに言う。
「あぁ、それから」
クレアは思い出したような声を上げる。
その声に来栖は立ち止まり、クレアを見つめた。
「学校でクレア“様”はやめて下さいね? 来栖先輩」
そう言ったクレアの声音は先ほどまでの威圧的なものとは打って変わって、気持ち悪いほどに甘ったるいモノに変わっていた。顔にも、天使のように優しい微笑が浮かんでいた。
いや、むしろ悪魔と呼んだ方がふさわしかろう。きっと悪魔とは、人をそそのかすときには天使よりも優しい笑顔と言葉で近づいてくるのだ。だから簡単に騙される。
常人ではたどり着けぬ頂に辿り着いた偉大な魔術師が、メフィストフェレスにそそのかされたように。
「分かりまし……分かった」
「分かって頂けて幸いですわ。来栖先輩、それではまた明日学校で」
クレアは微笑み、来栖を追い越して大教室から出ていった。
そんなクレアを呆然と見送り、来栖は窓から差し込む夕日に視線を向けた。
赤い、血の色のような夕焼け。
いつもなら美しいと思える夕焼けも、今の来栖にとっては忌々しいもの以外の何物でもなかった。
(きっと私は……地獄に落ちる)
最後は天国に上った偉大な魔術師と自分を比べた来栖は、顔を苦しげに歪めた。
** *
人には向き不向きがある、というのは生きていれば自ずと分かってくることだが、自分がここまで遊び事には向かないなどとは、ダーシェンカは夢にも思わなかった。
ダーシェンカにとって、遊びの記憶など無いに等しかった。
物心つくかつかないかの頃には他の子供と同じように遊んだりしていた記憶があるのだが、家族を失ってから向こうの記憶は心や体に痛みの伴うモノしかない。
それを辛いと思ったことはなかった。自分が心の底から望んでしたことだし、今だってそのことについて微塵も後悔していない。
そのおかげで家族の仇を取ることが出来たし、もう味わうことがないと覚悟していた温かな生活も手に入れられた。
幸せでないハズがない。
だがそれでも、ダーシェンカは現状には多大な後悔を感じ始めていた。
「……やっぱり、私はリレーにだけ出た方がいいんじゃないかな」
ダーシェンカは顔を苦しげに歪め、視線を地面に落した。
視線の先には、腹を抱えながら小刻みにプルプルと体を震わせるイズミの姿があった。
二人は家の近所にある市民体育館に来ていた。申請書を書けば、無料で誰でも利用できるというなかなかありがたい場所。
とは言っても個人や少人数で利用する者はほとんどなく、団体の利用が入っていない日曜の早朝である今は、ダーシェンカとイズミ以外に人影はなかった。
何故そんな所に来ているかと言えば。
「で、でもやっぱり高校生活を送るうえでコレを放置するのはマズイ、よ」
イズミは腹をおさえながらも何とか体を起こし、ダーシェンカを見つめた。
イズミの額には、運動では吹きだすことのない脂汗がびっしりとにじんでいた。
そう、運動ではないのだ。何せダーシェンカとイズミが体育館に来てから五分と経っていないのだから。
イズミとダーシェンカは軽くバスケットのパス練習をし始めた段階に過ぎなかった。
そのパス練習でイズミがダーシェンカのパスを数回受け損ねた、たったそれだけのことがイズミの脂汗の理由だった。
「だ、だが! 男の、さらには多少なりとも戦闘の訓練を受けたイズミでさえ私のパスが取れないのだ……女子にそんなモノを受け取れるハズがない」
「たしかにそうだけど、だからってリレーに逃げるのはダメだよ。これから体育の授業で球技もいろいろとあるだろうし……まぁ、格闘技系は全力で力を抜いてやればいいとしてね」
イズミは苦笑をダーシェンカに向けた。
体育祭で選択できる種目はバレー・バスケ・サッカーの三種目が基本。それにクラスの代表者男女二名ずつが出るリレーが加わる。
リレーに出れば他の種目に出なくてもいいということを知ったダーシェンカは、真っ先にリレーに立候補しようとしたのだが、それはイズミが全力で阻止した。
リレーに立候補すること自体は反対ではなかったのだが、他の種目に出ないというのがダーシェンカにとって良くないと思ったのだ。
イズミはダーシェンカにちょっとした、極々一般的な楽しみを、挑戦する前から放棄するようなことはして欲しくなかった。
だから今こうして、体を張ってダーシェンカのパスを受けようとしている。
まぁ、受け損ねて散々な目に遭っているのだが、当初よりは数万倍マシになっていた。
最初のダーシェンカのパスなど、軽いチェストパスが弾丸並の速さでイズミに襲いかかっていた。
イズミが夏の経験を経ていなかったら、避けられずにモロに喰らい、骨の何本かを持っていかれていただろう。
それほどまでに凶悪なパスだった。
そして反省を踏まえた二度目のパスは弱すぎて使い物にならなかった。素でそういうパスをする者もいる、というようなレベルではあったが、そこで甘んじるほどイズミの覚悟は生半可なものではなかった。
だからこうして練習を続けている。
「だいたい、だいぶマシになったよ? たぶんコートの端から端に届く程度のレベルだし」
イズミは少しだけ痺れる手をさすりながらダーシェンカに告げた。
五分程度でこの程度まで成長しているのだから、ダーシェンカが言うほど悲観するレベルでは全くない、というのがイズミの見立てだった。
シュートやらドリブルやらと問題は残っているが、そちらはさして問題ではないだろう。
よっぽどなミスをしない限り他者に被害が及ぶことはない。
「だ、だがもし万が一……」
「大丈夫だって。僕だって訓練を積んでなんとかしたんだから、ダーシェンカだってなんとかできるよ」
不安げに顔を俯けるダーシェンカに、イズミは励ますように明るく声を掛ける。
「そうだと、いいのだが……」
それでもダーシェンカの表情が優れることはなかった。ばかりか顔を俯け、思案に耽りだしてしまう。
イズミはそんなダーシェンカに溜息をひとつ漏らし苦笑する。
考えてみればおかしな話だ。イズミにとっては、夏に起きた“異常”を乗り切る方がよほど大変だったというのに、ダーシェンカは“日常”を過ごすことに多大な苦労を覚えている。
クラスメイト達との何気ない会話、他愛もないスポーツの練習、特に気の張る必要のないイズミとの生活。
その一つ一つにダーシェンカが戸惑いを覚えているということなど、イズミはとっくに察知していた。それでもその戸惑いが、これからのダーシェンカにとって大切なものとなる以上、無理に排する気は毛頭なかった。
イズミはダーシェンカに、クラスメイトと普通に会話して欲しかったし、なんなら何かしらの部活動などに参加してもらってもいいとも考えていた。
今はダーシェンカにとって負担にしかならなくても、これから一緒に生きていく以上、日常を知ることは必要不可欠なのだから。
「ま、とにかく頑張ろうよ。せっかくあの父さんが学園生活っていう、マトモなプレゼントをくれたんだからさ」
イズミはコートに転がったボールを拾いあげ、ダーシェンカに向かって軽く放る。
戸惑いながらもしっかりとキャッチしたダーシェンカは、ボールに視線を落とした。
「あぁ……頑張って、みる」
そう言うとダーシェンカは適度な強さのパスをイズミに出した。