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Others-第三者の視点から-  作者: 椋の音
第一部 -ヴェルディアン構成員- 編
2/2

一ノ刻: 「犠牲的な薬師」

《次回の投稿は10/17前後を予定しております》


《記録の修正が入る可能性があることを予めご了承願います》

Other世界には様々な種族が集う国家がある。アビスケイオスがそれにあたり、かつて米国と呼ばれた国と類似する点が多い。それが都市という区域ごとに独立した自治権があることだ。「寄せ集めの国」と呼ばれるだけあって、アビスケイオスには都市ごとに特徴がある。

この特殊地域都市アビスフロンティアでも、それは同じだった。


「レナード、少しは休憩をとれ」

薬品棚の整理をしていたレナードは、思考の海から意識を引き戻す。

腕に抱えたまま声の主の方へ首をひねれば、キャスター付きの椅子で足を組むジークの姿がこちらを見ている。眉間にシワを寄せる彼は、レナードに再度似た台詞を吐く。

「十分でいい。休め」

命令口調に対し、NOと言える選択肢は残されていない。レナードは自身の腕に収まっていた薬品を一番下の棚に置き、素直に従うことにする。

「分かりました。五分休みます」

「全然分かってないな。十分(・・)休めと言ったんだ」

時間を表す単語のところで語気を強めたジークは、盛大なため息を見せつける。ガシガシとかく頭には黒い角が生えている。鬼人のシンボルであるそれをボーっと眺めていると、ジークの小言が飛んでくる。

「レナード、仕事のしすぎだ。大昔なら労基と呼ばれた連中が飛んでくるくらいに」

「一日に七時間半の労働じゃ労基には通報されませんよ」

「それは一時間の休憩をとって成立するものだ。お前の場合はその休憩すらとってないし、時には九時間も働いているのを知らないとでも?」

レナードが口元に笑みをつくって休まない言い訳を試みるが、ジークがそれをバッサリと切り捨てる。

「労基の代わりにエドアルドに文句を言われる俺の身にもなってくれ」

いつかあいつの術で絞め殺されそうだ、とカルテを見ながら彼の小言は続く。

「症状の進行は今のところ止まっている……が、だからといって休みをとらずに仕事をしていい理由にはならん」

パサ、と診察机の上に置かれたファイルには番号が振ってある。レナードはその数字列に心当たりがあった。

当たり前だ。自分のカルテなのだから。

「……ジークさんだって休んでませんよね?」

悪あがきのように呟かれた一言を聞き、ジークは眼鏡をかけ直す。鋭い目を向ける彼は、「俺は小まめな休息をとっているから問題ない」と言って立ち上がる。

革靴がならす音が診察室に響く。レナードの隣までやって来ると、ジークはどこに仕舞っていたのか飲み物を手渡した。

「隣の休憩室で休んでこい。お前の目が充血していて見てられんのだ」



※◆◇◆◇◆◇◆◇※



結局レナードは、ジークの圧に負けて休憩室で休むことにした。

「後で書庫に行こうかと思ってたけど……行かせてくれるかなぁ」

マグカップに注がれた黒い飲み物を口に含めば、苦みが口の中に広がる。ほのかな香ばしさが休憩室に漂っている中、彼は陶器製のそれをコトリと置く。

首にかけた注射器型のペンダントには薄く文字が羅列されていた。


ヴィンセントが僕の病を軽減させるために作った魔導具は、端から見ればただのアクセサリーにしか見えない隠蔽の術式が組み込まれているそうだ。

他にも製作者から色々説明を受けたが、魔術や魔法に関しての知識が全くない僕には理解できなかった。

ただ隠蔽と病の軽減、それから治癒力を向上させる術が刻まれていることだけをなんとか叩き込まれ、

『もし壊したら、命は無いと思え』

夢の中で脅迫じみた台詞を吐かれたことは忘れまい。


レナードはペンダントをいじり、一人思考の海に沈んでいく。



※◆◇◆◇◆◇◆◇※



僕には 前世 と呼ばれる記憶があった。

遠い遠い昔、僕は別の世界からこのOther世界に落とされた「迷い人」だった。

迷い人とは異世界からやって来た者……所謂、異世界転移者のことだ。

この世界にも異世界転生や異世界転移などの「異世界ファンタジー」系の小説はあって、書店でそのジャンルの書籍を手に取ったときは不思議と安堵したことを覚えている。


ただあの時代、僕が落とされたのは崩壊前の、地球と呼ばれた時代だった。


僕がいた場所と唯一違ったのは、科学と魔法が混在していたことくらい。

魔法といっても、本当に小さな奇跡を起こすくらいの、まじない程度のものだったが。

「迷い人」だった僕を拾ってくれたのは、そんな奇跡を起こす一人の魔法師だった。

名前も性別も覚えていないけど、「先生」と呼んで慕っていたことだけは覚えている。

最初は戸惑っていた生活も、その人のおかげですぐに馴染むことが出来た。僕が暮らしていた場所に似ていたのも順応できる要因の一つだった。


そして生活に慣れて一年が経過したとき、あの崩壊が起こった。

きっと僕はあのときに命を消した。その日以降の記憶が無かったから。


次に意識がはっきりしたのは、今の僕の生まれ故郷であるアジルの田舎キラハイだった。

僕は五歳の体で、家の庭にある木に寄りかかっていた。

見上げた空と木漏れ日に既視感を覚えて、あれ?と思った瞬間に前世の記憶が蘇った。

濁流のごとく再生される数々の思い出にその日、今世初の知恵熱を出して倒れた。

それから僕はこの世界に慣れるため、文字や地形、文化、歴史などを調べ始めた。

そこで気づいたのだ。ここは僕が「迷い人」として生きた場所なのだと。


慣れるのは早かった。文字は前世と同じだったから、本を読んで知識をつけることが出来たおかげだ。

地形は結構変わってて、大部分が暗黒大陸と呼ばれる黒い霧に覆われているのには驚いた。

衛星で確認しても暗黒大陸の地形を確認することは叶わず、そのためその辺りの上空を飛ぶことは禁止されていると知った時も、少しというよりかなり落ち込んだ。

僕が生きた場所を現代の地図に当てはめると、ちょうど暗黒大陸にあたる土地だったから。

最初から期待はしていなかったが、実際に行けないと分かると心にくるものがある。


まぁ仕方ない。

今世の生まれ故郷は比較的長閑な場所だ。

長生きできそうなほど平和な地域に感謝して、平々凡々に生きていこう。


……そう思ってたんだが、神様はそれを許してはくれないようだった。


『「神眼病」を発症しているね』

最近、高熱と異様に目が痛むようになったことを心配した両親が僕を連れて病院へ赴くと、医者からそう診断された。


神眼病は「迷い人」特有の病気だと言われている。ある世界から別の世界へと渡る際、神性なる存在が別の世界でも適応できるようにと体を作り変える際、眼だけを異常に発達させてしまうことがあるのだそうだ。

つまり、脳に大きな負担をかけやすくなってしまう。

分かりやすく言えば、「視覚に関する脳の領域が100%発揮されている状態」である。

例えば、すべてのものがスローモーションになって見えたり、一般人は見逃してしまう些細な動きもキャッチしてしまったり……。

そんなフルパワーのまま365日過ごせば、当然脳の視覚野に負荷がかかって損傷を受ける。場合によっては失明、最悪の場合脳死状態となって命を失う。


僕が「迷い人」だったことを知らない両親はなんでウチの子がそんな病気に?という雰囲気だった。

首をかしげる二人に、医者は一つの可能性を提示した。

『おそらく、ご両親どちらかの家系に迷い人がいたのでは?』と。


治療の方法は確立されていないと聞かされた両親、特に母親は号泣していた。

でも僕は、その話を何処か遠い世界のように感じていた。五歳の頃に前世の記憶が戻ったせいで、今世に未練らしいものがほとんどないのだ。

七歳で制御不能の病を患うのは衝撃的だったが、それだけだ。









死がまだ遠くにあるように、感じていたせいなのかもしれない



※◆◇◆◇◆◇◆◇※



この都市は異常が平常運転、何でも起こり得るパンドラの箱だ。

〔レナード、悪いがすぐにアベニール通りへ来てくれ〕

アレが出た、と電話越しに聞こえるエドアルドの真剣さに分かりましたと返事をして、急いで現場へと向かう。

迷うことはなかった。

「何でもアリ」のこの都市では、道が変わってしまうことが度々起こる。しかし、アビスフロンティアで暮らし始めてから早二年。そんな日があっても、気にする暇などない。嫌でもなれてしまう。

それに野次馬が出来上がっているだろうと予想していたから、迷子になったとしてもそちらへ走っていけばいい。

指定された通りに向かって駆けていけば、幸運なことに道の変遷は起こっていなかった。

人だかりもあって分かりやすいなと心の中で呟きながら、レナードは足に力を込める。

ヴィンセントがペンダントの片手間に作ってくれた魔導靴のおかげで、人混みの上空を飛び越えることなど容易だった。

後ろの腰に仕舞っていた短剣を抜き取って構えながら、太ももに仕込んでいた投擲用ナイフを敵に向かって投げる。

〖ギャァァァァァァァァァァ?!〗

叫び声をあげる黒い人影の近くへ走って行くレナードに気づいたラッシュが叫ぶ。

「おいレナード!こっちはいいからフロストさんたちの方に___」

言い終える前に冷気を感じ取ったラッシュが勢いよく振り返って奥を確認すると、黒い影が氷像と化していた。氷越しの影に針状の何かが突き刺さっているのもはっきりと見える。

フロストの手元には赤い針が指の間から垣間見え、後ろから僅かに見える表情は楽しげだ。

紅い瞳に「ありゃテンション上がってんなぁ、フロストさん」と小さく零すラッシュが刀を肩にのせたのと、黒い人型の何かが襲いかかるのは同時だった。

「ッ…ラッシュさん!」

咄嗟に体が動く。

伸ばしたレナードの手がラッシュの背中を押す。

「?!」

ラッシュの視界がぐらりと揺れて、その端にレナードが映る。

テメッ、と思わずこぼれる言葉を耳に入れながらレナードは迫り来る黒い爪を躱そうとする。スローモーションで動くそれに、レナードは心の中で思った。


あ、目測見誤ったな……と。


短剣を胸の前に持ってきて衝撃を和らげようとした彼の前に、巨大な枝が顔をかすめる。

右に首を捻れば、エドアルドが魔方陣を展開している。息切れした様子から、急いでこちらにやって来てくれたのだろう。

「エド、アルドさん」

「間に合って良かった」

安心したような表情で、エドアルドはレナードに向かってニコリと微笑んだ。

「後で説教な?レナード??」

「……はい」



※◆◇◆◇◆◇◆◇※



道路の真ん中でエドアルドが笑顔のままレナードに説教しているところへ、ラッシュがツカツカとやって来る。

それからレナードの胸ぐらを掴むと、

「お前、勝手に俺のことかばってんじゃねぇ!!」

「ラッシュ!」

ラッシュの肩に手を置くエドアルドの声も無視して、彼は不機嫌な声と怒りの表情を浮かべている。

「あんな攻撃、俺からすれば簡単に避けられた!お前が叫べば問題ない距離だった!」

苛立つ声を聞きつけたフロストとフリッツがラッシュたちの方に視線を向ける。今にも殴りそうな彼にフリッツが駆け寄ろうとしたが、フロストがすぐに彼の肩に手を置いて止める。

「うざったいんだよ、お前みたいに犠牲心の強いやつ」

低い声色に怒りをはらんだ彼の顔から苦悶が混じっていることに気づいたレナードは彼の名前を呼ぼうとして、出来なかった。

投げ捨てられるように放り出されたレナードが尻餅をつく。ラッシュを見上げた彼は、けれども相手が足早にその場から離れてしまったため謝りそびれてしまった。

機嫌が急降下した彼の背中を眺めながら、エドアルドは困り顔でレナードに向き直り、手を差しのべる。

「ラッシュが悪いな」

「いえ、こちらこそすみません」

エドアルドの手をとって立ち上がったレナードは、服についた土埃を軽く払う。

その様子を眺めながら、エドアルドは複雑な感情を顔に出して俯く。

「彼のこと、怒らないでやってくれ」

「え?」

服からエドアルドに目線を移した彼は、どこか悲しみを帯びた彼の表情に目を丸くする。

その表情は先ほどラッシュと似たもので、彼は一体何故と疑問符を浮かべる。

エドアルドはそんな彼の心情を察したのだろう。小さく苦笑した声を漏らした後、彼は語り始めた。

「ラッシュには相棒がいたんだ。のんびりとした奴でね……魔法師で彼と同い年だったから特に仲が良くて、ほとんど一緒につるんでた……ある事件で命を落とすまで」

「!!」

「レヴィオン爆発テロ事件、知ってるかな?」


レヴィオン爆発テロ


アビスフロンティア史上で一、二を争う大災害

製薬会社レヴィオンの職員を人質にとったテロリスト数名が、悪あがきとして火薬入りの航空機を建物に突っ込ませた。

その結果、周囲数百メートル付近の民間人にまで被害が及んだ……最悪の人的災害である。


「そこにラッシュさんの相棒さんが……」

「あのときは僕たちも他のとこに行ってたから、報告が届いたのはそれが収束してからだった」

「フロストさん」

レナードたちのところへ歩いてくるフロストとフリッツに気づいた彼は軽く会釈をして、それにフロストが片手をあげて応える。

「結局あの時は、たまたま通りがかった“魔導師”様が鎮圧してくれたんだ……だから死傷者は彼一人だった」

「遺体は見つからず、彼の右腕だけが返ってきたよ」

フロストに続き、フリッツが苦々しい過去を思い出すように話す。

「あのときのラッシュは荒れに荒れたな。酒に煙草に……まぁ初めての相棒で先輩だったから、無理もない」

フリッツはかつての二人を思い出していた。

肩を組んで並び、楽しげに笑って歩く姿は互いを信頼しているようで、それを微笑ましく見ていた自分の感情を懐かしく思った。

「思い出話はここまでにしよう。外野が増えてきた」

エドアルドが二度手を叩いてレナードたちの気持ちを切り替える。周囲を見回すと、確かに多種多様な種族がスマホのカメラを起動させている。無数のスクリーン画面がこちらを向いているその様子は、まるで獣のようだ。

「私はこの虚無の住人(アビスロスト)の処理をしてから戻るので、フリッツさんとフロストさんは先に拠点へ戻っていてもらえますか?」

奥では警察所属の分析班が、アビスロストの処理に追われている。

大きなモップが黒い液体を吸い取り、近くにあったバケツへ器用に捨てる。液状化した黒いソレは、全身が真っ黒に染まった生命体の死体から出た体液だ。

かろうじて固体として残っている死骸は特別な鉄製担架に乗せられ、運ばれていく。有機物を溶かすソレの体は、素手で触れれば肌を溶かし骨すら半液体状にする。

処理班が特別製の黒いトラックへ運ぶ途中、ソレの腕に特徴的な傷があることにレナードは気づく。

緩やかなS字は波打つ蛇のように見えたが、黒い皮膚のせいではっきりとは見えない。

ただその模様に楕円形の何かが沢山付いているのが、彼の心をざわつかせる。


何処か見覚えがある気がするが、思い出せそうで思い出せない


「じゃ、帰るときは気をつけるんだぞ」

「こっちは報告書をまとめておくよ」

二人の声で我に返ったレナードが顔を上げると、フロストが片手をあげて遠ざかっていくのが見える。

それに微笑みで返答するエドアルドに、レナードがおずおずと話しかける。

「あの、エドアルドさん。僕は……?」

エドアルドが彼を見てニコリと笑う。レナードはその作り笑顔に顔を引き攣らせると、

「君は自宅で安静にすること……ジークに負担をかけたくないなら、出来るよね??」

有無を言わさない圧を感じたレナードは心の中で後ずさりながら、頷くほか無かった。


どうやら、休憩時間をとらずに仕事していたことがバレてしまったらしい



※◆◇◆◇◆◇◆◇※



「でも確かになぁ……君って危ない戦い方するよね」

カクテルで満たされたグラスの氷からカラン、と音が響く。

「その献身を通り越して自己犠牲的な精神、いい加減治さないと身を滅ぼすことになるぞ」

グラスを片手で揺らすフロストが隣のレナードに苦笑する。レナードは何も言い返せず、ただ膝の腕に両手を置いて俯く。そんな彼の肩をポンポンと撫でたのは、レナードの反対側に座るフリッツだった。

「まぁ仕方ないさ。癖や性格というのはなかなか治らないものだしな」

透き通るオレンジ色のカクテルを口に含み、喉を潤してからニコニコと話し始める。

オレンジの皮をいじるその姿は、ヴェルディアンのリーダーとは思えないあどけなさがあった。

「俺だって暇な時間に何度も剣を打って歪ませて、最終的に怒られちゃうしさ。酷いときは拳骨も飛んできたし」

「フリッツ、それ癖って言わない」

「あれ?違う?」

フリッツが目を丸くしてフロストを見つめる。

レナードはまた始まったか、といつもの漫才じみたやりとりを聞きながら、頼んでいたバックスフィズをちみちみと飲む。

「多分それは君の天性のものだよ」

「俺には剣を歪ませる才能があったのか!初めて知ったよ」

「うん、君はそのままでいてくれ」

「?あぁもちろんだ!」

あまり意味を理解しないまま強く頷くフリッツに小さく微笑み、それからレナードに向き直る。

フロストのアイスブルーが細まった。

「ラッシュは心配なんだと思うよ。また仲間を失うのかって」

だからさ、と言ってフロストがジントニックを掲げる。カウンターに座る彼は諭すように優しい表情をしていた。

「君はもう少し自分に優しくなった方がいい」

一瞬だけ冷たい瞳になったのはきっと気のせいだと、レナードは思うことにした。



※◆◇◆◇◆◇◆◇※



神眼病と診断されてから10ヶ月後、僕は最初の分岐路に立っていた。

ひどい高熱の中、目の前がグラグラと歪んで吐き気を催し、時々胃の中を床にぶち撒けることもあった。


あぁ、僕死ぬのか


本能でそう直感した。

もう長くないと悟ったがやはり恐怖はなかった。一度死んだ記憶はなくても、死んだという認識のせいで、箍が外れてしまったのだろう。

人間に最も必要な、恐怖という感情を。


そして8歳になる前日、僕は死の瀬戸際を彷徨っていた。

体中の血液が沸騰し、頭は正常に働かず、意識は朦朧としていた。

グニャリと歪む天井と泣きそうな両親をボーッと眺めながら、僕はそのまま目を閉じた。


気がつくと、夢の中に僕は座り込んでいた。

辺り一面が鏡張りになっているような水面は、僕が触れると波紋を作って揺れ動く。

空には満天の星が広がり、この世の美しさを凝縮したといっても過言ではない光景が広がっていた。


この幻想的な世界を最後に死ぬのも悪くないな


そんなことを考えながら星空に目を奪われていると、どこからか水の跳ねる音がする。

後ろを振り返っても誰もいない。

気のせいかと思って前を向いた僕は目を見開く。


そこで僕は出会ったのだ。


〔そうか、お前が俺の……なるほどな〕


腕を組んでこちらを見下ろす彼に。


〔そこの死にかけ、名前は?〕


顔は見えない。まるでそこだけぽっかり穴が空いているようだった。

深い深い深淵がこちらを覗いている。


〔なんだ?聞こえないのか?〕


「あ……えっと、聞こえ、ます」


〔なんだ、喋れるじゃないか〕


不機嫌な声色だが、不思議と恐怖は感じない。

初めて会うのに、どこか懐かしい気がする。


「すみません。ちょっと頭が回ってなくて」


〔深層領域にまで侵食しているようだからな〕


腕を組んだままの彼は、僕をジッと見つめているようだった。

そうしてじっくり僕を眺めた後、つまらなそうな声を出す。


〔このままだとお前は今晩、命を落とすぞ〕


「そうですか……そう」


気の抜けた声色に彼は不機嫌を滲ませる。

指が一定間隔で腕をトントンと叩く。


〔随分淡白だな。それとも単純に馬鹿なだけか?〕


「……多分、一度死んだ経験があるからだと思いますよ」


〔……何だって?〕


驚くような声のあとに、彼はどういうことか尋ねてきた。

僕はかいつまんでこれまでの人生を話した。

不思議と彼になら、本当のことを伝えてもいい気がしたからだ。

全てを話し終えて一息ついた僕は、チラリと彼を盗み見る。

何か考えるように黙り込んだ彼は次の瞬間、僕にとある提案をしてきた。


〔お前、俺と契約をしろ〕


「……え?」


脈絡のないその言葉に、僕の思考は停止する。

今の沈黙で何を思ってそう発したのか、僕には理解できなかった。


「あの、どういう……」


〔俺は今、精神体としてこの場にいる。肉体は訳あってここにはない〕


唐突なカミングアウトに僕の思考は再び止まらざるを得なかった。


〔精神体のみでは不安定でな。丁度、器となる人間を探していたんだ〕


「なるほど……それで僕の体が必要だと?」


〔その通りだ。魔力はほとんどないようだが、まぁそこには目を瞑ろう。このまま消滅するよりはマシだ〕


その代わり、と彼は僕の体を指さす。

彼の指にはめられた銀製の指輪が光り、腕輪に繋がる鎖が揺れる。


〔俺がお前の神眼病を調整してやる〕


「僕のこれを治せるんですか?」


〔治すではなく調整だ〕


何が違うのかと首をかしげる僕に、彼はため息をついてから神眼病の説明を始める。


〔お前たちの前提がおかしいんだ。そもそも神眼病は病などではない。神性存在が体を再構築する際に誤って眼だけを失敗した、要はコピーミス〕


〔神為的に施されたそれは、いわば医療ミスと言ってもいい〕


だから治すもなにもない、と断言する彼の話に、僕は黙って耳を傾ける。

病ではなく神様のミス……そう言われると、なぜか体のこわばりが解けていくのを感じた。


〔恐らく迷い人が家系にいるのは事実だろう。そんな迷い人の遺伝子を保有するお前が、元迷い人だった記憶が戻ったことで何らかの刺激が加わり、発現した……大方そんなところだろうな〕


「だから治療ではなく制御、ということですか?」


〔あぁ〕


頷いた彼は左手で自身の目の部分をトントンと叩く。続く平坦な声は、僕の心を安堵させるのに充分すぎるくらいだった。


〔お前のそれは病気じゃない。一つの個性だ。個性を治療するなど、おかしな話じゃないか?〕


「……確かに」


口元に手を当てて納得する僕は、彼の咳払いによって再び顔を上げる。


〔話しをもとに戻すが、俺がお前のそれを制御する代わりにお前の体を貸してもらう。それが俺の提示する契約だ。拒否権はない。以上〕


淡々と話す彼からは有無を言わさない何かがあった。

きっと僕が首を横に振ろうものなら、問答無用で体を奪いにくるかもしれない。

それはそれでいいが、折角提示された条件なのだ。生きることができるのなら、それに越したことはない。


「分かりました。貴方の提案を受けます」


〔賢明な判断だ〕


鼻を鳴らす彼の態度は、普通なら反感を買うものだろう。

でも僕は、そんな彼を嫌いになれそうにない。

僕は小さく笑って手を差し出す。


〔……なんだ、その手は?〕


「よろしくお願いしますの握手だよ。これから一緒に暮らすんだから、お互い仲良くしよう」


彼は沈黙した。顔は相変わらずポッカリと穴が空いていて表情は分からない。

しかし、その手を取らない彼の声で、今の彼が不機嫌であることは察せた。


〔仲良くする気はない〕


腕を組んだままの彼に僕は怯まなかった。

今思えば、この時の僕は子供の性質に感化されていたのだろう。

今の性格なら、こんな大胆な言動をするなんて考えられないからだ。


「じゃあ名前だけでも教えてよ。ビジネス関係でも、名前は大事なことでしょ?」


〔……〕


不機嫌なオーラに僕は臆さず見つめ続ける。

わずか数秒のち、彼はため息をついて折れることにしたようだ。


〔……魔術師ヴィンセント〕


「僕はレイル……レイル・ヴィト・ウィンチャーズ。よろしく、ヴィンセント」


ニコリと笑う僕に対し、彼は顔をそらす。


〔あぁ〕


何処か遠いヴィンセントの声に、僕は首をかしげる。

まだ彼に壁を感じられるが、そこはおいおいなんとかすればいい。

今僕は、不思議と高揚感があった。

頬を赤くしたまま、ヴィンセントの名前を呼ぶ。

顔を向ける彼に、僕はあることを尋ねたのだった。


「ヴィンセントって魔術師なんだよね?何か魔術披露してよ」


〔……お前、高熱でハイになってるな〕


こうして僕は、契約後に彼の治癒魔術で死の瀬戸際から生還した。


契約の瞬間を覚えていない自分に追加の対価だと言って地獄のような訓練をさせられたのも、ある意味良い思い出かもしれない……多分。









けれども、まさか僕が彼に契約を持ちかけるなんて、


誰が想像できただろうか



※◆◇◆◇◆◇◆◇※



そろそろ帰ると言って店を出るレナードの姿を見送った二人は、数秒の間ジッと扉を眺める。

「どう思う?彼のこと」

フリッツが振り返る。フロストは頬杖をついて小さく微笑んでいて、左手に持つグラスをユラユラと揺らしている。

「どうって?」

フリッツが追加でカクテルを注文してから聞き返す。バーテンダーは一礼し、フリッツたちから離れてカクテル作りを始める。

人の空気を察するのも接客業の一つだが、ここの店主でありバーテンダーである彼は特にそれを読むのが上手い。フロストの数少ないお気に入りの一つとなるのも頷ける。

「レナード君のあの悪癖、下手をすればこちらの首も飛びかねない」

「まぁ敵の懐に飛び込みそうな感じだよね」

残り少ないオールドファッションドを飲み干すタイミングで、店主が追加のグラスをそっと前に置く。フリッツは片手を上げて感謝の言葉代わりとした。

「自分が死んで誰かが助かるならそれもアリだなって思ってると思うよ、彼は」

「君はそれでいいのかい?」

足を組み替えて問いかけるフロストの瞳は冷たかった。

彼は言外にこう尋ねている。


危険因子は排除すべきでは?、と。


無表情の彼を見たフリッツは目を丸くしてから「んー」と考える仕草をし、それからクシャリと笑った。

「フロストは優しいなぁ」

今度はフロストが目を丸くする番だった。先ほどの空気と打って変わって、瞳から冷たさが消える。

「……まったく。今の発言のどこに優しいって言える部分があった?」

「俺の考える組織のあり方を思って言ってくれてるんだろ?」

カクテルに入った氷を指で回し、それを眺めるフリッツは少し間をおいてからゆっくりと話し始める。

「確かに俺の理想を慮るなら、きっとレナードはこれからも要注意人物になる。そのときが来たら、俺は容赦なく捨てるだろうな」

フロストは黙って彼を見つめる。ピンと張りつめた空気が二人の間に漂う。

しかし、フリッツが瞳を閉じてフッと小さく微笑んだ瞬間、すぐにその空気が解かれる。

「でも時には、理想よりも優先したいことだってある……今俺は、仲間であるレナードを追い出してまで理想を追求しようとは思わない」


理想に近づくのは簡単なことではない

現実と理想の差が大きいほど、それは顕著に現れる

それを知っていてなお、彼はあえて茨の選択をするのだ


「仲間を見捨てた瞬間、俺の理想も壊れる」

フリッツがグラスをあおる。コトンと置いた彼の表情に迷いはない。

相変わらず真っ直ぐだな、とフロストは心の中で苦笑する。そして彼は、頬杖をついて誂うようにフリッツに尋ねた。

「それ、結局レナードを置いても追い出しても、フリッツの理想は壊れるんじゃないか?」

「そうなんだよなぁ〜〜、そこが難しいところさ」

腕を上に伸ばして背中の骨を鳴らすフリッツの声色は、困惑に混じってもう一つの感情があった。

「でも難しいくらいが丁度いい。理想は悩んでなんぼだ!人生も理想も、面白さがないとな」

ニコリと楽しそうに笑うフリッツにフロストが呆れ混じりに笑う。

「ほんとに君は変わらないな……昔も今も」

フロストがグラスを持ってフリッツに向けて差し出すような動作を取る。

その意図をしっかり理解した彼も同じようにグラスをフロストの方へ持っていく。

「種族誰しも、変わらない部分はあるだろ?」


互いのグラスを鳴らして、今日も夜は更けていく。



※◆◇◆◇◆◇◆◇※



第二の分岐点はすぐにやってきた。


俺が13歳の頃、妹のユイシアがある病を発症した。


妖精病

またの名を「薄魂病」……この漢字を見れば、おおよその予想はつくだろう。

この病の症状は「体と魂の結びつきが弱くなっていく」こと。ただそれだけ。

治療法はない、不治の病だ。

発症すれば寿命は大きく縮まる。魂が体から離れないようにと、生命力を無意識に消費するためだ。

生命力を使い果たせば、魂は体からスポンと抜けて生命維持活動は停止する。すなわち死だ。

発症例が少ないから研究のしようがなく、結局延命治療すらできずにこの世を去るしかない。


両親はまだ知らない。

ヴィンセントが妹のことを教えてくれたからだ。

妹の病を伝えれば、自然とヴィンセントのことも話さなくてはならない。

何故妹が病にかかったことに気づいたのかと聞かれて、上手い言い訳ができる気がしなかったから。

それに、仮に本当のことを話したとして、それを受け入れてくれるかどうか分からなかった。ただでさえ僕の病で負担を強いている二人に、これ以上の心労をかけたくない気持ちもあった。

ヴィンセントと共生生活を送るようになってから、不思議と二人に余所余所しい感情が芽生えた。例えるなら、養子として来た子供が育て親に対して遠慮してしまう感覚……に近いかもしれない。

元々前世の記憶が蘇ってからも親という認識はあれど、心から休まる相手かと聞かれれば素直に頷けない何かがあった。それがヴィンセントに出会ってより明確になっただけ。


……彼と僕、前に何処かで会ったとか?


そう考えて首を振る。

今はそれを考えるより、妹についてどうするかを考えるべきだ。

初めて彼女が僕に笑いかけて手を伸ばすその姿を見て、守ってやらなくてはと思った。

どうしてかは分からないが、そうしないと僕の心は本当に失われる気がした。

前世でも兄弟はおらず一人っ子、こんな風に初めての妹に思い入れができるのも無理はないのかもしれない。

とりあえず何か出来ることを見つけなくては、と考えた僕は、夜中に妹の様子を見に行くことにした。


思えば、知識を得ること以外に能動的に動いたのは、これが初めてだったかもしれない。



両親が隣の寝室で眠る夜中の23時に、僕はこっそり妹の部屋に忍び込んだ。

赤子用のベッドに近づき、顔を覗く。目を閉じて呼吸を繰り返す彼女は、スヤスヤと眠っている。

「ヴィンセント」


〔……なんだ〕


体の内側からヴィンセントの声が響く。夢の中より会話できる時間が少ないが、それでも話せないわけではないことを彼から教えて貰っていた。だから僕は、妹の様子をリアルタイムで観察しながら今後のことを彼に相談できるという訳だ。

「妹を助ける方法はない?僕のときみたいに魔術で制御するとか」


〔体の制御は複雑だ。ずっと体の内側から調整する存在がいなければ出来ん〕


「それなら僕の体から彼女に移って……」


〔そうしたらお前の病の反動がお前自身に返ってくる。制御も出来んお前にそれを耐えることは不可能だ。今度こそ死ぬぞ〕


「でもこのままだと彼女が危ないんだろ」


〔賢者や魔導師なら彼女を治せただろう。もしくは治癒に長けた魔女や魔術師ならあるいは……だがお前に対価を支払う力は無いだろう?〕


「じゃあ……」

話に熱中する僕の耳に、異音が入ってきた。

妹の方からだ。

視線を彼女のベッドへ向ければ、妹が荒い呼吸で苦しそうにしている。

泣き叫ぶ力はないようだ。赤子なら不快や痛みがある場合泣いて周囲に知らせるもの……しかし彼女はそれすら出来ず、ただ浅く早い呼吸を繰り返すのみ。

「ヴィンセント!これって……ッ」


〔妖精病によるものだな〕


ヴィンセントが淡々と事実を述べる。


〔齢三歳なら魂の結びつきはまだ脆弱。発症前に対処できればとお前に伝えたが……こうなってはもう無理だな〕


「魔術師ならなんとか出来ないの?」


〔あいにく賢者ほど万能ではない。魔術師の力なんて、所詮魔法師と変わりない……〕


声に悲しさが混じっている気がしたが、今はそれを気にしている場合ではない。

とりあえず両親を呼ばなくては、と考えた僕は寝室へ行こうとして、足を止める。


でも魔術師の彼が救えないと判断したこの状況で、二人を呼んでも意味が無いんじゃ……

そもそもどうして僕は彼女を助けたいって思ったんだろう?

両親に対して希薄な感情しか持たない僕が、自分に迫る死というものに何も思わなかった僕が

どうして彼女に関しては、何かしなくてはと焦るんだろう?


分からない

なんでだ?


たった三年間、両親よりも短い時間を同じ屋根の下で暮らしただけなのに……?


彼女の方から呼吸音が止む。

勢いよく振り返ってベッドに駆け寄れば、妹の呼吸音が小さくなっている。

このままだと、彼女は明日を迎えることなく息を引き取る。


あの太陽のような笑顔を、もう見れなくなる



……今世で初めて、死の恐怖を感じた。

そして、置いて逝かれる恐怖も。

「ヴィンセント」

直感的に口が動いた。

何かに導かれるまま、自分の本能に従うまま。

「妹の……ユイシアの病を僕に移せるか?」


〔……本気で言っているのか?〕


僅かな沈黙でヴィンセントが聞き返す。声の中に驚愕が混じっているが、不思議と僕自身に驚きはなかった。

ただ妙な納得感と確信があった。そして絶対的な安心感。

「ヴィンセント、出来るか出来ないかを聞いてるんだ」

いつもなら、僕は彼に対してこんな威圧的な声で話すことはない。

なのにこのときばかりは違った。

「答えて。僕の体に妖精病を移せる?移せない?」


〔……不可能ではない〕


それを聞いた僕はさらに安心した。

「じゃあやって」


〔……契約なしにやることは出来ない〕


後に知ったが、魔術師や賢者などの魔法使いは徒に世界への干渉を制限しなくてはいけないらしい。

世界の理を歪める行為を容易に出来てしまう彼らは、下手をすれば世界を壊しかねないから。

しかし、このときの僕はそんな彼の説明を聞き終える前にある提案を出す。


〔だから彼女を救いたいなら相応の対価を……〕


「じゃあ僕の体を差し出すよ」


〔……何?〕


不機嫌な声を出したヴィンセントが先に声を出す前に、僕は平坦な声で契約を提示する。


「僕の体に病を移してもらう代わりに、もし僕に何かあって僕が死んだら、僕の体をあげる。君に僕の体の所有権を完全に渡すんだ。これで君が精神体だけになって消滅する心配はなくなるでしょ」


〔……なぜそうまでして妹を助ける〕


ふいに、彼の口からそんな疑問が出てきていた。その呟きに僕は「分からない」と前置きを言ってから続ける。


「ただここで見捨てたら、僕の心は完全に“死”から最も遠い場所へ行く気がするんだ」


月明かりが僕と妹を照らす。

彼女の苦しげな顔が目に映る。

僕のこの決意は、揺らぐことは決してない。


「彼女には僕より長生きして欲しい。きっと僕より“生と死”に肯定的な彼女を、僕は助けなくちゃいけないんだ」


どのくらいの沈黙が続いていたのだろう。

僕の中から、今はっきりと彼の声が聞こえる。


〔いいだろう。その契約、受けてやる〕


どこかで指をパチンと鳴らす音が反響する。

急に意識が遠のく中、誰かがクスリと笑ったような声が聞こえた。

それが本当にそうだったのか、意識を手放した僕には分からない。


〔お前はとんだ馬鹿だが、相棒として認めるくらいはしよう……レイル」



目を覚ますと、朝日が昇っていた。

眠気のせいか頭が回らず、ボーッと窓から差し込む朝を眺めていた。

モゾッと何かが動く音がして我に返る。

下を見ようとして勢いよく首を動かしたからか、ビリっと電撃が走って思わず首を押さえる。

痛みを抱えながら覗けば、ニコニコと笑って手を伸ばしている妹がそこにいた。


生きてる


そう思うと体から力が抜けて、床にへたり込んでしまう。

ヴィンセントの声は聞こえない。恐らく眠っているか、中から観察しているのだろう。

「良かった……本当に、良かった」

涙声は掠れていた。思いがこみ上げて胸が苦しい。


妹が生きていて、良かった


彼女の笑い声が耳に入る。

力を振り絞ってベッドから顔を覗かせると、彼女はまだこちらに手を伸ばしている。

口元が思わず綻ぶ。

手が自然と動いて、彼女の手を握る。小さな手は弱々しいけど、確かに生命力に溢れていた。

頬から何かが流れていく。

それと同時に、何かが満たされていく感覚があった。



「おはよう、ユイ……僕の可愛い妹」



※◆◇◆◇◆◇◆◇※



ジークの医院に患者はひっきりなしにやってくる。

その理由は、やはり彼の腕が良いからだ。

的確な指示と治療はレナードから見ても完璧に近く、患者から見ても素晴らしいものだ。

顔は無愛想で死んだ目をしているが、だからといって口調は丁寧だ。患者に対しても礼儀を忘れない。

「先生、ありがとうございました」

お辞儀をして診察室から出ていく年配の女性は、いつもおっとりとしていて穏やかな笑顔を絶やさない。とても病を患っているようには見えないほどだ。

「レナード、次の患者にはトライラモを」

「あ、はい!」

薬品棚の引き戸を開け、目当ての鎮痛剤を探す。カルテとにらめっこするジークに渡すと、彼は無言でそれを受け取る。

それから瓶を眺めてガシガシと頭を掻いた後、レナードを見上げる。

口元に三日月の弧を描いて首を傾げる彼の目元を見て、ジークは目を細める。

「……お前、今日はもう帰れ」

「え?でもまだ患者さんが……」

先を言おうとするレナードをジークが手で制す。

顔を顰める彼を見て、レナードは口を噤む。

「そんな疲れた顔で患者の前に立つな」

「……すみません」

ジークはオフィスチェアを動かしてデスクと向き合う。

「俺たちは医療従事者だ。患者へ適切な処置を施し、彼らの今と明日に尽くす仕事だ……そんな疲れの滲む顔をした人間に、安心して自分を任せたいと思うか?」

「……いいえ」

ぐうの音も出ない。

レナードが俯く先には冷たいタイルが光を反射していた。青緑の床は翡翠と呼ばれる宝石を思わせた。

「明日の仕事に備えて今日は自宅で休め。上司命令だ」

分かったな、と有無を言わさぬ言葉の圧を感じた。

結局レナードはそれに反論できず、勤務時間前に切り上げることとなった。

医院の待合スペースを通り抜けて玄関へと歩く彼は、そこで誰かが言い争っていることに気づく。

女性の方は人間で、男性の方は獣人らしかった。耳の形から察するに人狼族だろう彼は、女性に向かって手を振り上げる。

レナードの体が無意識にそちらへ動く。

防御体勢に入っていた女性は衝撃がこないことが不思議で恐る恐る目を開ける。

獣人の方は突然現れたレナードに動揺を隠せなかった。

獣人と女性の斜め隣で、レナードは男の手首を掴んでいる。ギリ、と何かが軋む音と共に男の表情が僅かに歪んだ。

「ここは病院です。規律を乱す行為は止めていただけますか?」

レナードはニコリと笑う。男の手首に一層力を込めれば、彼の我慢はついに限界を迎えたらしい。

「わ、わかった!分かったから手を離してくれ!!」

パッと手を離すと、男は手首を押さえて病院から足早に去っていった。

自動ドアが閉まるのを見ていると、左から「あの」と声がかかる。

戸惑う女性に、へニャリと弱々しげな笑みを浮かべたレナードは小さく頭をかく。

「すみません。出過ぎた真似でしたかね?」

「い、いえ!そんなことは……」

両手を前に出して勢いよく振る彼女は、それから頭を下げる。

「ありがとうございました」

「いえいえ、殴られることを覚悟してたんですが……あっさり引き下がってくれて良かったです」

「あいつ、内弁慶なんですよ」

眉を顰めて不機嫌を隠そうともしない彼女は、大きなため息を吐く。

そこでレナードは、手首に巻かれた包帯に目がいく。

目を細めた彼に、彼女は苦笑する。

「これはただ転んだだけです。お兄さんが考えるようなことはないですよ」

「……それならいいですが」

確かにレナードの考えていることが本当ならば、他にも傷や打撲痕があるだろう。それが見当たらないところを見るに、日常茶飯事のことではないようだ。

体の見えない部分にあるなら別だが、レナードの眼はある意味で特別製だ。服の下に隠れている傷も、動作からなんとなくその人のことを察せる。それに異常が見当たらないのだから、今は静観で問題ないだろう。

……と、ここまで考えてレナードは苦笑した。

ジークに休めと言われていたのに、これではまた注意されてしまうと思ったのだ。

彼の表情に首を傾げた彼女に何でもないと言って、その場を後にしようとする。

「それではお大事に」

「あの!」

呼び止められて振り返ると、女性はまた深々とお辞儀をしていた。

「傷つくことを覚悟してまで助けてくれて、本当にありがとうございました」

「……いえ」

レナードの胸がチクリと痛んだ。曖昧に微笑んで病院の出入り口を抜ける。

見上げた空は鈍色だ。太陽のほとんど届かない、曇りと霧と混沌の闇に包まれた街にはよくある光景だ。

眩しくもないのにレナードの眼は反射的に細まる。青と灰色の混じったその瞳は罪悪感でいっぱいだった。


覚悟ってほど高尚なもの、持ってなかったんだけどな


レナード自身も自己犠牲の強い性格であることは理解していたし、それを指摘されて怒られることにも慣れていた。

でも感謝されるのは、何度されても慣れることはない。逆に罪悪感がジワジワと胸を支配していくだけ。


犠牲的なのは、“死”という絶対的不変に諦観しているから


献身的と称賛されるより、独善的と批判される方が楽な気持ちになれる……少なくともレナードはそう思っている。


手首につけたスマホが振動する。着信元を見れば、相手はラッシュからだった。

萎縮する心臓を押さえ、なんとか電話に出る。

「……はい」

〔あ、おいメガネ!今どこだ?〕

〔ラッシュ、ここ図書館なんだから静かに…〕

怒鳴るような声の後ろでエドアルドの声が混じる。図書館、と聞いてレナードはエドアルドたちが今何をしているのかを大体察した。

「クロスさんに依頼ですか?」

〔それもあるが、ジエルにも用事があってね。君にも参加してもらいたくて〕

ラッシュと電話を代わったエドアルドの声は穏やかなものだった。切羽詰まった用事ではないのだろう。緊急を要するわけではないことに安堵したレナードは、すぐ行くと伝えてから電話を切る。

ラッシュの声色は普段と変わりないことにも胸を撫でおろすと、レナードは図書館へ向けて歩き出す。

バスを利用した方が便利なのはそうだが、今は歩いていたい気分だった。

歩道橋までの道のりを歩く途中、誰かとぶつかる。

「すみません」

「……」

レナードが謝ると、フードを被った相手はお辞儀をするだけですぐに去っていく。

それを一瞥してから、彼は歩道橋に向かって再び歩き出す。

歩道橋を渡る途中、今度は親子とすれ違う。

「ママ!きょうはハンバーグがたべたい!」

「また〜?昨日も食べたじゃないの〜」

「えぇ~、だっておいしんだもん!」

和気あいあいと話す二人を目で追う。母と子は会話に夢中で、レナードがそれを眺めていることには気づいていない。

道の反対側では誰かが電話越しに謝っている。服装からして会社勤めなのだろう。黒いスーツにシワを作ってレナードとは反対の方向に歩いていく。

通行人を見回せば、みなが何かの役割を持っている。

母親、子供、サラリーマン、ミュージシャン、触手人(オクトシア)、人類、エルフ種、男性、女性……誰一人として、役目のない種族はいない。

あのフードを被った相手も、きっと何らかの役割がある。

レナードは遠くを呆然と眺める。

彼は彼らを見るたび、考えてしまうことがあった。


僕はなぜ前世を思い出したのだろう

僕の役割は……何をさせるためにこの世界へ?


僕は何のために生きる?

期限未定、時間未定の 寿命 という時限爆弾を抱えた僕に意味はあるのか?


レナードはそこまで考えて自嘲する。

答えのない問いをいつまで繰り返す気だ、と嘲笑う声を無視して、彼は歩道橋の続きを渡りだす。









仮に与えられた意味を知ったとして


生死に執着を持てない自分に、果たしてその役は務まるのだろうか


……その疑問にも、今は蓋をして。



other title 「命短し 生 を求めよ」

※◆◇◆◇◆◇◆◇※



レナードとぶつかった相手は、街の中心から外れて路地裏に入る。

それから黄色のフードをとり、空を見上げる。

濃い灰色に染まったその瞳に迷いはない。

〚あと少し〛

声が二重に聞こえる。

老人にも、若人にも、男性にも、女性にも思えるその声には高揚が感じられる。

ニヤリと口元を歪める相手は、これから起こす現象に心躍らせていた。


〚あぁ、楽しみだなぁ……やっと貴方に恩を返せる〛









〚貴方が望んだ終わりを、僕が叶えてあげるからね〛

Others File 1:元「迷い人」レナード


本名 レイル・ヴィト・ウィンチャーズ

種族 人類種

年齢 25歳

職業 薬剤師・組織構成員

血液型 O型


神眼病と妖精病を患っている。献身的を通り越して自己犠牲的な性格で何度か危険な目に遭うが、短剣と薬、それから同居人のヴィンセントが製作した魔道具で切り抜けることが多い。魔術師であるヴィンセントとはビジネス関係で体を共有している。

現在はヴェルディアンの若手構成員として仕事する傍ら、医師のジークが運営する医院で手伝いをしている。

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