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灰陽航路(かすがいこうろ)  作者: Asuga
第二章 陽
42/48

「サイドストーリー〈チル〉」あなたに憧れて

 その通知は、一本の、装飾のないテキストメッセージだった。


『お父さんが亡くなりました。』


 送信元は母。

 その短い文面は、冷たい金属片のように私の手の中に落ちてきた。画面を閉じても、脳裏には文字が焼き付いたまま離れない。


 だが、私の心はほとんど揺れなかった。観測された事象に対して適切な対応を思考する――ただ、それだけ。悲嘆ではなく計算。感情ではなくデータ。


 私はユンボ先生に事情を伝え、三日間の帰省許可を得た。体育祭を間近に控えた、日常のリズムに重なる不幸。

 だが、避けられないものは避けられない。波形が打ち消し合うように、心のざわめきはすぐに無音になった。


父の葬儀は、彼が強く望んだという古い様式の聖堂で執り行われた。


 重厚な木の扉を押すと、冷えた空気が肌を撫でる。中に足を踏み入れた瞬間、世界は色を変えた。高い天井から吊り下がる燭台、壁一面に並ぶ石像、そして、ステンドグラスから差し込む光が床に広がる。赤、青、緑の幾何学模様が冷たい石畳に落ち、まるでこの世の理とは別の秩序を描き出している。


 美しい――確かにそう思った。

 だが、私にとってそれは「神の御業」ではなく、光の屈折と波長という物理現象に過ぎなかった。


……そう言い聞かせた。

 それでも、なぜか目を逸らすことはできなかった。理屈を越えて、胸の奥に微かなざわめきが生まれる。


「……チル」

 母の声が私の思考を断ち切った。


「あなたは、涙の一滴も流せないのですね」

 その言葉は刃物のように鋭く、私を切り裂いた。悲しみよりも、蔑みの色が強い声だった。


「悲しいとは思うよ。でも、死んでしまったものは変えられない。

 私にできる義務は、もう何もないよ。ママ」


 私は母を見つめ、静かに言葉を紡いだ。自分でも驚くほど冷静な声だった。


「だってパパはずっと言ってたじゃん。休みたい、疲れた、気持ちが悪いって。

 もう苦しまなくていいなら、それでよかったんじゃない?」


 母の目が大きく見開かれ、息を呑んだ。その数秒後、乾いた音が聖堂に響いた。


――頬に痛み。

 母が私を平手でぶったのだ。


「……っ!」


 周囲の視線が一斉に突き刺さる。

 母の顔は怒りと悲しみでゆがんでいた。

「あなたは……本当に、あの人の娘なのですか!」

 

 私は頬をさすらず、ただ母を見返した。

「ひどいよ。なんで私がぶたれなきゃならないの?」

 空気は一層重く張り詰め、口の中がしょっぱくなった。


 ふと棺の中の父に視線が吸い寄せられる。眠っているように穏やかな顔。誰もがそう言うだろう。

 だが私には、それがただの停止した生命活動の残骸にしか見えなかった。


――そう思っていた。

 だが、次の瞬間、観測が私を裏切った。


 爪の根元に僅かな変色。首筋に漂う、ごく微かな化学薬品の臭い。そして死後硬直の進行具合。

 どれも、医師が下した「持病の悪化」という診断と致命的に矛盾している。


 目に映る情報は、私の脳内で高速にデータへと変換された。

 方程式の不整合を見抜いたときの感覚――それと同じ。


 これは事故ではない。事件だ。

 そしてこの謎を解けるのは…解こうとする者は私しかいない。


 自室に戻ると、私は即座に全ての力を一点に集中させた。薬学の専門知識はない。だが、物質は物理法則に従う。

 私は学園のデータベースにアクセスし、残留臭の分子構造を解析する。頭の中で、情報が光の速さで組み替えられていく。


 次々と浮かぶ仮説と否定。リストアップされる化合物群。脳裏に広がるのは、無数の数式と可能性の分岐。

 けれど、その一つひとつを潰していく過程で、私の思考は研ぎ澄まされていった。


――仲間たちの顔が脳裏に浮かんだ。

 無駄口ばっかだけどみんなに笑顔をくれるユナちゃん、真面目ぶるけど恋愛小説が好きなナミちゃん、異星人だけどそんなこと忘れちゃうくらい優しいフィリカちゃん。

 みんなと過ごした時間が、思考に新しい変数を与えている。「仲間」という非合理な要素が、かえって私を人間らしい精度へ導くそんな気がする。


 数時間後、私は完全に一致する薬物を突き止めた。

 毒性と代謝経路、そして父の症状――符合する。さらに、家に出入りする人間の動線を重ね合わせると、犯人像は一つに絞られた。


 葬儀の二日目。

 親族たちが次々と棺に手を置き、最後の別れを告げていた。

 聖堂に漂う空気は、抑圧されたすすり泣きで湿り気を帯びていた。


 私は一歩前に出た。

 鼓動が速まる。だが声は震えない。


「待った!!」


 空間が一瞬で凍りついた。ざわめきが消え、百の視線が私に突き刺さる。


「この葬儀は……茶番だよ」


 重たい言葉が石造りの聖堂に響く。


「父は、病死なんかじゃない。――殺されたんだ」


 空気がざわめいた。

 私の声はそれを突き破り、さらに響いた。


「政府軍ソラリスの調査では、持病が急激に悪化したと結論づけられた。

 でも、それは間違い。真実の犯人は――そこにいる叔父さん、あなたです」


 私は父の弟である叔父を指差した。その顔が瞬時に青ざめた。


「な、何を言うんだ、チル! 冗談も大概にしろ!」


「冗談じゃない。トリックは単純。あなたは氷を使ったんだ」


「氷……?」


「そう。猛毒を特殊な製法で凍らせ、氷塊にして水差しに混ぜた。父が決まった時刻に薬と一緒に飲む水に、それが体内に入るよう仕組んだ」


 叔父はかすかに笑った。

「そんなもの、すぐに溶けるだろう。色だって変わる。馬鹿げている」


「普通の部屋なら、そう。でも父の部屋には常に除湿器が稼働していた。乾燥した空気の中では水の蒸発 速度が遅く、氷が溶ける時間を正確に制御できる。あなたはそれを『タイマー』に使ったんだ」


 沈黙。人々の息が止まった。


「さらに――薬物を凍らせる際、ごく微量の示温インクを混ぜた。 

 特定の温度に達するまで無色透明のまま。父の部屋の温度では、毒が解ける瞬間まで誰にも気づかれなかった」


 私は一歩進み出て、叔父の目を射抜いた。


「物理学と化学の、美しい融合。

 でも、それを人殺しに使った。……あなたなんだ、叔父さん」


 叔父は唇を震わせた。

 否定の言葉は口をついて出なかった。


「さらに調べた。父が運営する工場から特許証がなくなっていた。

 軍事利用されるはずのHIパーツの技術を、父は共有しようとしていた。

 それを止めたかったのは、あなただ」


 人々の視線が一斉に叔父へ集中する。軍関係者が動き、叔父を囲む。


「……っ」


 叔父は崩れるように膝をついた。その姿は、かつて父と肩を並べていた面影すら失っていた。


 全てが終わったかに思えた夜。

 静まり返った家の中、私は父の書斎に足を踏み入れた。


 本棚には経済学や神学の書は一冊もなかった。

 並んでいたのは、最新の宇宙物理学の専門書。

 机の上には、幼い私が描いた土星の絵が、黄ばんだまま置かれていた。


――そして、一冊の古い日記。


 手に取ると、紙の匂いが懐かしさと共に鼻をくすぐる。

 最初の頃は毎日のように記されていたが、数か月を境に途切れがちになり、一年後にはほとんど書かれていなかった。


 ページをめくるたび、心が締めつけられる。

 そこに書かれていたのは、私のことだけ。


 話した内容、ささいな喧嘩の理由、私でさえ忘れていた日々の小さな断片が、丁寧に記録されていた。


――父は、私を見ていた。

 私が思っていた以上に。


 震える指先が、一つの書き込みで止まった。


『軍は、私の技術をただの殺戮の道具としてしか見ない。

 私は利用されているだけだ。あの子を、この道にだけは進ませてはならない。』


『あの子には、戦争など関係ない世界で生きてほしい。

 神学や経済学を学び、誰かを救い、世界を豊かにする人間になってほしい。

 それが、罪深い私にできる唯一の償いだ……』


 視界がにじむ。

 熱いものが頬を伝って落ちていく。


 ――涙。

 ただの塩化ナトリウムを含んだ水溶液。

 でも、この熱さは理屈では説明できなかった。


「ばか……パパのばか……なんで……なんでこんなに早く死んじゃうの……」


 声が震え、嗚咽が絡み、呼吸が乱れる。

 私は書斎に崩れ落ち、泣き叫んだ。


 日記を胸に抱えたまま、私はふらふらと書斎を出た。

 足は自然と、再び聖堂へと向かっていた。


 夜の聖堂は冷え切っていた。

 キャンドルの灯がわずかに揺れ、棺の上に置かれた白い布を淡く照らしている。

 そこに眠る父は、もう何も答えてはくれない。


 私は棺の前に立ち尽くした。

 涙でかすんだ視界の奥に、ただ静かに横たわる父の顔。


「パパ……」


 声は震えて掠れ、誰にも届かない。

 けれど、吐き出さずにはいられなかった。


「私、もう迷わない。

 この世界で生きる。科学を捨てたりしない。

 でも、あなたが願った通り、誰かを傷つけるためじゃない。

 私の学びは、人を救うために使うから……」


 唇が震え、涙が止まらない。

 それでも、声は確かに棺に届いた気がした。


「だから、見ててよ……パパ」


 その夜、私は父と本当の意味で別れを告げた。


 葬儀が終わった翌朝。

 私は母と向かい合っていた。

 重苦しい沈黙が、細い廊下に長く伸びていた。


母の目は赤く腫れている。

私と同じように、泣き尽くした跡だった。


「……ごめんね」

 母の声は小さく、今にも消えそうだった。

「ずっとあなたを縛ってきた。お父さんの願いだと、言い訳して。

 本当は、私も怖かっただけなの。

 あなたが父親と同じ道に進んで、遠い場所に行ってしまうのが」


 私は首を横に振った。

 胸の奥から、自然に言葉があふれてきた。


「大丈夫。私は行かないよ。

遠くへなんか行かない。……たとえ宇宙を見上げていても、ここに帰ってくる」


 母は驚いたように私を見つめ、それから静かに頷いた。

 その瞳に、ほんの少し光が戻っていた。


「……体育祭、見に来て。会場ここから近いんだ」

 私はそう付け加えた。

 母の瞳がさらに揺れ、やがて涙とともに微笑みが浮かんだ。


「ええ……必ず」

 その約束は、不器用で、でも確かなものだった。


 翌日。

 私は学園の仲間たちの中にもう戻っていた。

「ふぅ~朝から活動すると疲れるね~」


「朝からHIの点検とは、精が出ますね」

 ナミちゃんは本を読みながら私にそう言う。真剣な表情で呼んでいるが、中身はただの恋愛小説だ。


「おっはー…くぅぅ……」

 眠りこけながら口を開けるユナちゃん。昨夜は夜更かしして勉強していたことを、私は知っている。


「おはよ!チル。そう言えば長い間編んでた帽子が今朝やっと完成したの!かわいい?」

 フィリカちゃんは、かわいらしいニット帽を見せてくれる。


「かわいいね~ 私も欲しいなそういうの」


「じゃあ、今度楽しみにしておいてよ!

 あれ?チルなにその絵?」

  フィリカちゃんがベッドに貼ってある絵を指さした。


「土星の絵だよ~ 最近実家で発見して持ってきたんだ」


「かわいい~。チルが書いたの?」


「大昔にね~」

 照れくさくなって私は頬をかいた。


「よーし、明日はいよいよ体育祭本番だからね~。頑張るよ~」 

 空を仰ぐ。

 青く、果てしない空。

 そこに浮かぶのは、父と一緒に眺めたあの星々。


「パパ……見ててね」

 心の中でつぶやいた。

 父の願いも、私の願いも、矛盾なんかしない。


 私は科学を武器にしない。

 それを、光に変える。

 人を救い、未来を紡ぐために。


 そして今はただ――

 体育祭という、小さな舞台で、仲間と笑い合う日を大切に生きよう。


 それが、父への最初の誓いだった。

次回の更新は10月10日16時10分です!!

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