「サイドストーリー〈チル〉」あなたに憧れて
その通知は、一本の、装飾のないテキストメッセージだった。
『お父さんが亡くなりました。』
送信元は母。
その短い文面は、冷たい金属片のように私の手の中に落ちてきた。画面を閉じても、脳裏には文字が焼き付いたまま離れない。
だが、私の心はほとんど揺れなかった。観測された事象に対して適切な対応を思考する――ただ、それだけ。悲嘆ではなく計算。感情ではなくデータ。
私はユンボ先生に事情を伝え、三日間の帰省許可を得た。体育祭を間近に控えた、日常のリズムに重なる不幸。
だが、避けられないものは避けられない。波形が打ち消し合うように、心のざわめきはすぐに無音になった。
父の葬儀は、彼が強く望んだという古い様式の聖堂で執り行われた。
重厚な木の扉を押すと、冷えた空気が肌を撫でる。中に足を踏み入れた瞬間、世界は色を変えた。高い天井から吊り下がる燭台、壁一面に並ぶ石像、そして、ステンドグラスから差し込む光が床に広がる。赤、青、緑の幾何学模様が冷たい石畳に落ち、まるでこの世の理とは別の秩序を描き出している。
美しい――確かにそう思った。
だが、私にとってそれは「神の御業」ではなく、光の屈折と波長という物理現象に過ぎなかった。
……そう言い聞かせた。
それでも、なぜか目を逸らすことはできなかった。理屈を越えて、胸の奥に微かなざわめきが生まれる。
「……チル」
母の声が私の思考を断ち切った。
「あなたは、涙の一滴も流せないのですね」
その言葉は刃物のように鋭く、私を切り裂いた。悲しみよりも、蔑みの色が強い声だった。
「悲しいとは思うよ。でも、死んでしまったものは変えられない。
私にできる義務は、もう何もないよ。ママ」
私は母を見つめ、静かに言葉を紡いだ。自分でも驚くほど冷静な声だった。
「だってパパはずっと言ってたじゃん。休みたい、疲れた、気持ちが悪いって。
もう苦しまなくていいなら、それでよかったんじゃない?」
母の目が大きく見開かれ、息を呑んだ。その数秒後、乾いた音が聖堂に響いた。
――頬に痛み。
母が私を平手でぶったのだ。
「……っ!」
周囲の視線が一斉に突き刺さる。
母の顔は怒りと悲しみでゆがんでいた。
「あなたは……本当に、あの人の娘なのですか!」
私は頬をさすらず、ただ母を見返した。
「ひどいよ。なんで私がぶたれなきゃならないの?」
空気は一層重く張り詰め、口の中がしょっぱくなった。
ふと棺の中の父に視線が吸い寄せられる。眠っているように穏やかな顔。誰もがそう言うだろう。
だが私には、それがただの停止した生命活動の残骸にしか見えなかった。
――そう思っていた。
だが、次の瞬間、観測が私を裏切った。
爪の根元に僅かな変色。首筋に漂う、ごく微かな化学薬品の臭い。そして死後硬直の進行具合。
どれも、医師が下した「持病の悪化」という診断と致命的に矛盾している。
目に映る情報は、私の脳内で高速にデータへと変換された。
方程式の不整合を見抜いたときの感覚――それと同じ。
これは事故ではない。事件だ。
そしてこの謎を解けるのは…解こうとする者は私しかいない。
自室に戻ると、私は即座に全ての力を一点に集中させた。薬学の専門知識はない。だが、物質は物理法則に従う。
私は学園のデータベースにアクセスし、残留臭の分子構造を解析する。頭の中で、情報が光の速さで組み替えられていく。
次々と浮かぶ仮説と否定。リストアップされる化合物群。脳裏に広がるのは、無数の数式と可能性の分岐。
けれど、その一つひとつを潰していく過程で、私の思考は研ぎ澄まされていった。
――仲間たちの顔が脳裏に浮かんだ。
無駄口ばっかだけどみんなに笑顔をくれるユナちゃん、真面目ぶるけど恋愛小説が好きなナミちゃん、異星人だけどそんなこと忘れちゃうくらい優しいフィリカちゃん。
みんなと過ごした時間が、思考に新しい変数を与えている。「仲間」という非合理な要素が、かえって私を人間らしい精度へ導くそんな気がする。
数時間後、私は完全に一致する薬物を突き止めた。
毒性と代謝経路、そして父の症状――符合する。さらに、家に出入りする人間の動線を重ね合わせると、犯人像は一つに絞られた。
葬儀の二日目。
親族たちが次々と棺に手を置き、最後の別れを告げていた。
聖堂に漂う空気は、抑圧されたすすり泣きで湿り気を帯びていた。
私は一歩前に出た。
鼓動が速まる。だが声は震えない。
「待った!!」
空間が一瞬で凍りついた。ざわめきが消え、百の視線が私に突き刺さる。
「この葬儀は……茶番だよ」
重たい言葉が石造りの聖堂に響く。
「父は、病死なんかじゃない。――殺されたんだ」
空気がざわめいた。
私の声はそれを突き破り、さらに響いた。
「政府軍ソラリスの調査では、持病が急激に悪化したと結論づけられた。
でも、それは間違い。真実の犯人は――そこにいる叔父さん、あなたです」
私は父の弟である叔父を指差した。その顔が瞬時に青ざめた。
「な、何を言うんだ、チル! 冗談も大概にしろ!」
「冗談じゃない。トリックは単純。あなたは氷を使ったんだ」
「氷……?」
「そう。猛毒を特殊な製法で凍らせ、氷塊にして水差しに混ぜた。父が決まった時刻に薬と一緒に飲む水に、それが体内に入るよう仕組んだ」
叔父はかすかに笑った。
「そんなもの、すぐに溶けるだろう。色だって変わる。馬鹿げている」
「普通の部屋なら、そう。でも父の部屋には常に除湿器が稼働していた。乾燥した空気の中では水の蒸発 速度が遅く、氷が溶ける時間を正確に制御できる。あなたはそれを『タイマー』に使ったんだ」
沈黙。人々の息が止まった。
「さらに――薬物を凍らせる際、ごく微量の示温インクを混ぜた。
特定の温度に達するまで無色透明のまま。父の部屋の温度では、毒が解ける瞬間まで誰にも気づかれなかった」
私は一歩進み出て、叔父の目を射抜いた。
「物理学と化学の、美しい融合。
でも、それを人殺しに使った。……あなたなんだ、叔父さん」
叔父は唇を震わせた。
否定の言葉は口をついて出なかった。
「さらに調べた。父が運営する工場から特許証がなくなっていた。
軍事利用されるはずのHIパーツの技術を、父は共有しようとしていた。
それを止めたかったのは、あなただ」
人々の視線が一斉に叔父へ集中する。軍関係者が動き、叔父を囲む。
「……っ」
叔父は崩れるように膝をついた。その姿は、かつて父と肩を並べていた面影すら失っていた。
全てが終わったかに思えた夜。
静まり返った家の中、私は父の書斎に足を踏み入れた。
本棚には経済学や神学の書は一冊もなかった。
並んでいたのは、最新の宇宙物理学の専門書。
机の上には、幼い私が描いた土星の絵が、黄ばんだまま置かれていた。
――そして、一冊の古い日記。
手に取ると、紙の匂いが懐かしさと共に鼻をくすぐる。
最初の頃は毎日のように記されていたが、数か月を境に途切れがちになり、一年後にはほとんど書かれていなかった。
ページをめくるたび、心が締めつけられる。
そこに書かれていたのは、私のことだけ。
話した内容、ささいな喧嘩の理由、私でさえ忘れていた日々の小さな断片が、丁寧に記録されていた。
――父は、私を見ていた。
私が思っていた以上に。
震える指先が、一つの書き込みで止まった。
『軍は、私の技術をただの殺戮の道具としてしか見ない。
私は利用されているだけだ。あの子を、この道にだけは進ませてはならない。』
『あの子には、戦争など関係ない世界で生きてほしい。
神学や経済学を学び、誰かを救い、世界を豊かにする人間になってほしい。
それが、罪深い私にできる唯一の償いだ……』
視界がにじむ。
熱いものが頬を伝って落ちていく。
――涙。
ただの塩化ナトリウムを含んだ水溶液。
でも、この熱さは理屈では説明できなかった。
「ばか……パパのばか……なんで……なんでこんなに早く死んじゃうの……」
声が震え、嗚咽が絡み、呼吸が乱れる。
私は書斎に崩れ落ち、泣き叫んだ。
日記を胸に抱えたまま、私はふらふらと書斎を出た。
足は自然と、再び聖堂へと向かっていた。
夜の聖堂は冷え切っていた。
キャンドルの灯がわずかに揺れ、棺の上に置かれた白い布を淡く照らしている。
そこに眠る父は、もう何も答えてはくれない。
私は棺の前に立ち尽くした。
涙でかすんだ視界の奥に、ただ静かに横たわる父の顔。
「パパ……」
声は震えて掠れ、誰にも届かない。
けれど、吐き出さずにはいられなかった。
「私、もう迷わない。
この世界で生きる。科学を捨てたりしない。
でも、あなたが願った通り、誰かを傷つけるためじゃない。
私の学びは、人を救うために使うから……」
唇が震え、涙が止まらない。
それでも、声は確かに棺に届いた気がした。
「だから、見ててよ……パパ」
その夜、私は父と本当の意味で別れを告げた。
葬儀が終わった翌朝。
私は母と向かい合っていた。
重苦しい沈黙が、細い廊下に長く伸びていた。
母の目は赤く腫れている。
私と同じように、泣き尽くした跡だった。
「……ごめんね」
母の声は小さく、今にも消えそうだった。
「ずっとあなたを縛ってきた。お父さんの願いだと、言い訳して。
本当は、私も怖かっただけなの。
あなたが父親と同じ道に進んで、遠い場所に行ってしまうのが」
私は首を横に振った。
胸の奥から、自然に言葉があふれてきた。
「大丈夫。私は行かないよ。
遠くへなんか行かない。……たとえ宇宙を見上げていても、ここに帰ってくる」
母は驚いたように私を見つめ、それから静かに頷いた。
その瞳に、ほんの少し光が戻っていた。
「……体育祭、見に来て。会場ここから近いんだ」
私はそう付け加えた。
母の瞳がさらに揺れ、やがて涙とともに微笑みが浮かんだ。
「ええ……必ず」
その約束は、不器用で、でも確かなものだった。
翌日。
私は学園の仲間たちの中にもう戻っていた。
「ふぅ~朝から活動すると疲れるね~」
「朝からHIの点検とは、精が出ますね」
ナミちゃんは本を読みながら私にそう言う。真剣な表情で呼んでいるが、中身はただの恋愛小説だ。
「おっはー…くぅぅ……」
眠りこけながら口を開けるユナちゃん。昨夜は夜更かしして勉強していたことを、私は知っている。
「おはよ!チル。そう言えば長い間編んでた帽子が今朝やっと完成したの!かわいい?」
フィリカちゃんは、かわいらしいニット帽を見せてくれる。
「かわいいね~ 私も欲しいなそういうの」
「じゃあ、今度楽しみにしておいてよ!
あれ?チルなにその絵?」
フィリカちゃんがベッドに貼ってある絵を指さした。
「土星の絵だよ~ 最近実家で発見して持ってきたんだ」
「かわいい~。チルが書いたの?」
「大昔にね~」
照れくさくなって私は頬をかいた。
「よーし、明日はいよいよ体育祭本番だからね~。頑張るよ~」
空を仰ぐ。
青く、果てしない空。
そこに浮かぶのは、父と一緒に眺めたあの星々。
「パパ……見ててね」
心の中でつぶやいた。
父の願いも、私の願いも、矛盾なんかしない。
私は科学を武器にしない。
それを、光に変える。
人を救い、未来を紡ぐために。
そして今はただ――
体育祭という、小さな舞台で、仲間と笑い合う日を大切に生きよう。
それが、父への最初の誓いだった。
次回の更新は10月10日16時10分です!!




