「サイドストーリー〈ユイチカ〉」王子の憂鬱
しんと冷えた空気が、肌を刺す。窓の外はまだ薄暗く、星々の名残が淡く光っている。アラームが鳴るより早く、僕の意識は覚醒していた。軍学部と開発実用学部の生徒にだけ与えられた個室は、静寂そのものだ。広すぎる部屋は、孤独の色をより一層濃くする。
僕はベッドから起き上がると、机の上に置かれた、ひどく古びた音楽プレイヤーのスイッチを入れた。無骨なデザイン。傷だらけの筐体。父が見れば、「まだそんなガラクタを使っているのか」と眉をひそめるだろう。だからこそ、これは僕だけのものだった。唯一、僕だけの意思で選び、手に入れたもの。
スピーカーから、掠れた音質のメロディーが流れ始める。男性ボーカルの、ゆっくりとした曲。
――『太陽のせいで…』
この世界で、「太陽」という言葉は、特別な意味を持つ。希望、絶望、神、悪魔。その全てを内包した、重い言葉。そんなタイトルを冠したこの曲を、僕は毎朝、儀式のように聴いていた。まるで、自分自身に呪文をかけているかのように。
寸分の狂いもなく制服を着込み、机に立てかけられた一枚の写真に向き直る。そこに写っているのは、一度も笑った顔を見たことのない、僕の父親。リュウジ・ニイガエ。彼の視線は、いつだってカメラ越しに、僕を貫いていた。
僕は、無意識に息を止め、完璧な角度で敬礼をした。父へ。そして、僕を縛り付ける「ニイガエ」という名へ。この毎朝の儀式が、一日を縛る最初の鎖になる。
部屋を出て、軍学部の校舎へ向かう。廊下ですれ違う生徒たちが、僕に気づくと、一様に道を開け、どこか畏怖の混じった視線を向けてくる。期待。嫉妬。羨望。それらの無数の視線が、僕の身体に突き刺さる。息をしている感覚は、ずっと前から感じていない。
「あれ?」
「そうそう、軍学部の王子よ」
ほらね、みんな僕に王子という肩書を期待するんだ。僕自身ではなく『ニイガエ』という名前と、シミュレーター上の数字に。
今日は特別な授業と、ミッシャー先生は言っていたけれど、不安だな。何かが変わる、そんな予感が胸を掠める。
しかし、僕の予想に反し、午前中の授業はいつも通りだった。基礎トレーニングに最新鋭のシミュレーターでの模擬戦闘。
成績は常にトップを維持していた。誰よりも速く、誰よりも正確に、仮想の敵を撃ち落とす。先生は僕を賞賛し、周りの生徒たちは、僕を「天才」と呼んだ。
けれど、みんな知っている。これは、ただの虚像だ。シミュレーターの中でなら、誰だって英雄になれる。痛みも、死の恐怖も、そこには存在しないのだから。血も匂いもない、清潔な戦場。
体育祭は、既に二週間後に迫っていた。僕は最強という呼び声も高いアゼル・グラード会長と同じチームになったが、当然。僕が選んだわけではない。当たり前のように初めから、HIに乗ることを決められ、みんなは当たり前のように僕とアゼル会長がチームを組むことを望んだ。そこに僕の意思はない。ただ、流れに従うだけだ。
その日の午後、軍学部の全生徒が、いつもの第二演習場に集められた。軍学部の規模は200人ほど、集められたといっても、はなはだ多いわけではないが、整然と整列した生徒たちの群れは、さすがに威圧感があった。
「諸君に、特別講師を紹介する。本物の軍人で、少尉階級のエリートだ」
ミッシャー先生の声が、スピーカーを通して響く。生徒たちの間に、緊張と好奇のどよめきが広がった。特別講師? 前触れもない発表に、僕も眉をひそめる。
演習場のゲートが、ゆっくりと開く。油圧の唸るような音が重く響く。そこに立っていたのは、一人の男だった。
タイトな軍服。無駄のない立ち姿。そして黒いサングラス。
政府軍ソラリスから来た、特別講師。
その姿を認めた瞬間、僕の心臓が、大きく、高鳴った。知っている。あのシルエットを。
「――なんだ、このザマは」
男は、開口一番、そう言い放った。高圧的で、一切の感情を感じさせない、しかしどこか深くで滾る熱を帯びた声。
「俺はレイ・ソーン少尉だ。お前たちの訓練データを全て見てきたぜ。……たるんでるな。あまりにも、たるみすぎだ」
彼は、生徒たち一人一人を、まるで値踏みするかのように、ゆっくりと睨めつける。
ミッシャー先生は慌てて「じゃ、じゃあ基礎トレーニングから…」と口を挟むが、レイさんは、それを一瞥で制した。
「そんなトレーニングなんかで、強くなれるかよ。実践に近ければ近いほど、力はつくんだ」
彼の言葉に、生徒たちの中から「エリート気取りかよ…」「何様?」という、小さな呟きが漏れる。
「てめぇらもな、無駄口挿む暇があるなら体動かしてろ!一分一秒が貴重な時間なんだ。無駄な時間はコンマ一秒作るな!!」
そうしてレイさんは言葉を続けた。その叱咤は、演習場の重い空気を震わせた。
みんなは嫌々そうに聞くが僕は違った、彼の叱責の中に隠された、的確な指摘。それは、僕がずっと悩んでいた、シミュレーションの動きの僅かな癖や、判断の甘さ。その全てを、彼は完璧に見抜いていた。
僕は、思わず口元が緩むのを、必死で堪えた。目が、輝いてしまうのを、止められなかった。彼だ。間違いない。
「――今すぐ、格納庫から全機、出せ。模擬戦を始める」
軍学部が保有する、百三十機のテラスク。それは、他学部の生徒たちが見れば、喉から手が出るほど羨む、恵まれた環境。整備も行き届き、常に最高の状態で出撃できる。
だが、僕は、その恵まれた環境から、ずっと逃げ続けていた。鉄の巨人の陰に、自分自身を隠して。
「ニイガエくん。君も、早く乗るか」
ミッシャー先生にそう促される。周りの生徒たちが、僕を期待の眼差しで見ていた。彼らの視線が、僕の背中を押し、同時に縛り付ける。
「すみません……僕は、シミュレーターで参加します。」
その一言に、演習場の空気が、一瞬だけ凍りついたのが分かった。失望と、少しの嘲笑。そして理解不能な好奇の目。それらが一斉に僕に向けられる。
シミュレーター室に、一人で籠る。外界の喧騒が嘘のように、そこは静かだった。
僕は、ゴーグルを装着し、ヘッドホンもつけて操縦桿を握る。ここが、僕の唯一の戦場。僕が、唯一「みんなが期待する王子」でいられる場所。
血も汚れもない、無菌室のような戦場でいつもどおり、決まった時間にコンピューターが操作する敵機が分散する。それを僕が空から撃ち抜くだけの簡単な動作だ。そこに迷い当然ない。全ては計算通り。
しかし、その日の模擬戦は、何かがおかしかった。
コンピューターが操作するはずの敵機の一機が、明らかに、人間じみた動きをしていた。壁を蹴って軌道を変え、予測不能なタイミングで攻撃を仕掛けてくる。動きに無駄がなく、凶暴で、そして美しい。
なんだ、こいつは……?
僕は、分析と思考をフル回転させ、完璧なカウンターを叩き込もうとした。しかし、敵は、僕の思考のさらに上を行く。あっさりと武器を捨て、死角に潜り込み、僕の機体を地上へと叩き落とした。
そして、最後は――演習場に設置されていたクレーンを使い、僕の機体を、無慈悲に押し潰した。
『You Lose』
赤い文字が、視界いっぱいに広がる。僕の完璧な記録に、初めての汚点が刻まれた。
僕は、呆然としながらゴーグルとヘッドホンを外した。手の平に冷や汗がにじんでいる。
すると、どこからか、聞き慣れたメロディーが流れてきた。僕が、毎朝聴いている、あの曲だ。『太陽のせいで…』。
僕は、はっとして隣のシミュレーターブースを見た。
そこには、サングラスを外した、レイさんが立っていた。口元に、わずかな笑みを浮かべて。
「……まだ聴いてるんですか、この曲」
僕が問うと、彼は肩を軽く揺すった。
「ああ、『太陽のせいで…』。お前が気に入った、俺のお気にだからな。」
「オグマ・ラングの?」
「いや、ジュピット・イオのカバーだ。原曲はしみったれた歌い方だが、こいつの歌声には力がある。だから、好きなのさ」
「……ほんとだ」
僕は頷いた。確かに、あの力強い嗄れ声には、原曲にはない絶望と希望が混ざり合っていた。
僕たちは、どちらからともなく立ち上がり、向き合った。そして、ごく自然に、互いの身体を抱きしめていた。彼の軍服の硬い生地が、僕の頬に触れる。オイルと微かな煙草の匂い。懐かしい匂いだった。
「久しぶり、レイさん」
「久しぶりだな、ユイチカ」
声は互いに震えていた。長い時間が、一瞬で消え去るような感覚。
私たちは、まるで失われた時間を取り戻すように、他愛のない言葉を交わした。
最近のお気に入りの曲、新しく出た音楽プレイヤーの性能、軍の食堂の飯がまずいだとか、そんな、本当にどうでもいい話。でも、その一つ一つが、僕の心を縛り付けていた見えない鎖を、少しずつ解きほぐしていくようだった。
周りの生徒たちの、驚きと戸惑いが入り混じった視線が突き刺さるのを感じたが、もうどうでもよかった。レイさんがいる。ただそれだけで、僕の世界は色を取り戻し、息をすることが、ずっと楽になる。彼は、僕の過去と現在を繋ぐ、たった一つの確かな存在だった。
遠巻きに見ていた女生徒たちが、「なんか意外とありかも」なんて話しているのが聞こえてきたが、今は気にならなかった。彼女たちの目には、王子と呼ばれる僕が、謎の軍人と抱き合う奇妙な光景が映っているのだろう。
「そういえば、アゼル・グラードとかいう、腕の立つ奴がいるんだってな」
ふと、レイさんが思い出したように言った。サングラスをかけ直し、教官の顔に戻っている。
「ああ、生徒会長だよ。でも、体育祭の準備で、最近は授業も休みがちだ」
「ふぅん。会長様ねぇ……」
レイさんは、どこか面白くなさそうに、鼻を鳴らした。彼はそういうタイプの権威が大の苦手だ。
一通り話が落ち着いた後、レイさんは、僕を格納庫の片隅へと連れて行った。ひんやりとしたオイルの匂いと、静かに眠る鉄の巨人たちの寝息が、僕たちを包み込む。巨大な影が、私たちを見下ろしている。
彼は、訓練用のテラスクの、巨大な脚部に背を預けると、ポケットからくしゃくしゃの煙草の箱を取り出し、一本くわえて火をつけた。紫煙が、ゆっくりと天井へと昇っていく。その煙が、鉄の匂いをわずかに霞ませる。
「……で?」
その声は、さっきまでの親しげな響きとは違う、低く、鋭いものだった。刃物のように、僕の皮膚を剃ぎ落とす。
「いつまで、ままごと遊びを続けるつもりだ?」
心臓が、どきりと跳ねた。来たんだ。この問いが。
「……何のこと」
「とぼけんなよ、ユイチカ。お前が、一度も実機に乗っていないことくらい、データを見ればすぐに分かる」
見抜かれていた。いや、最初から、分かっていたのかもしれない。彼が、この学園に来た本当の理由の一つが、これなのかもしれない。僕を、この檻から引きずり出すために。
「なぜ、乗らない?」
その問いは、刃物のように、僕の心の最も柔らかな部分を抉った。
誰もが、僕に期待し、僕を羨んだ。ニイガエ家の血筋。誰もが、僕が実戦で、戦果を上げることを望んでいる。父も、先生も、周りの生徒たちも。
誰も、僕が「怖い」なんて、思ってもみないだろう。英雄の息子が、鉄の巨人を怖がるなんて、あり得ないことだから。
「……怖いか?」
レイさんの声は、責めているわけではなかった。ただ、静かに、事実を確認するように、響いた。まるで、傷ついた小動物に話しかけるように。
僕は、何も答えられなかった。肯定も、否定も、できなかった。ただ、拳を強く握りしめ、俯くしかなかった。恥ずかしさと情けなさで、喉が詰まった。
怖い。
怖いんだ。
この鉄の塊に乗って、誰かと向き合うことが。引き金を引くことが。そして、その先に待っているであろう、父と同じ道へと進んでしまう、自分自身が。血と泥に塗れた、現実の戦場へと足を踏み入れてしまうことが。
僕は顔を暗くして、うつむいたまま、微かに頷いた。
レイさんは、深く煙を吸い込むと、ゆっくりと吐き出した。煙の輪が、ゆらゆらと浮かび上がる。
「……だろうな」
その声は、不思議なほど、優しかった。僕を否定しない優しさ。
「俺も、昔は怖かった。初めて実戦に出た時、死ぬほど怖くて、ションベンちびりそうだったぜ」
「……レイさんが?」
信じられなかった。ソラリスのエース。数多の戦場をくぐり抜けてきた男。僕にとっての英雄。そんな彼が?
「当たり前だろ。怖くねぇ奴なんて、ただのイカレ野郎か、ホラ吹き野郎だけだ」
彼は、僕の隣に、どさりと腰を下ろした。軍服が、少しだけオイルで汚れるのも構わずに。その肩が、僕の肩に軽く触れた。
「けどな、ユイチカ。俺たちが乗ってるこいつは、ただの人殺しの道具じゃねえ」
彼は、テラスクの装甲を、まるで愛しいものでも撫でるように、そっと叩いた。鈍い音が格納庫に響く。
「こいつは、盾だ。……守りてぇもんがある奴が、最後に握りしめる、クソ重たくて、クソ不格好な、クソカッコイイ最後の盾なんだよ」
守りたいもの。
その言葉が、僕の胸に重く響いた。
今、僕に、そんなものがあるだろうか。父の期待? 家の名誉? そんなもののために、僕は、この鉄の塊に乗れるというのか?
「レイさんが守りたいものって…なに?」
僕は試すようにレイさんに向かってそう言った。
レイさんは少し考えたように俯くと、思いついたのか天井を見上げた。
「俺は……俺はずっと前から意識が戻らない妹のために戦っている。初めはそうだった。」
「始めは?」
「そうだ。戦っていくうちに俺の中に余裕が生まれたんだろうな。いつしか俺は、母なる地球に住む人間を守るために戦うようになった。だからそいつを苦しめ続けるくそったれた害虫を殺し続ける。それが今の俺さ」
「害虫って?」
「別の星からのこのこやってきた異星人共だよ。あいつらがこの地表にいる限り、この地球にいる限り、 平和な世はやってこない。だから俺が作るのさ、平和な世ってのを。その世界はサイコーさ、妹もいて、お前もいて、俺は戦わなくて済んでる世界」
彼の目は綺麗な黄色をしている。僕初めてそのことに気づいた。
「それは綺麗だね。ロレーナさんもいれば、レイさんだって無理して戦わなくていいものな」
「ないのか? お前には守りたいもの」
「……僕には、ないよ。守りたいものなんて」
声が、震えていた。自分自身が、空虚に感じられた。
「だから、乗れない。乗る資格が、ないんだ」
レイさんの手が、僕の頭の上に、優しく、しかし少しだけ乱暴に置かれた。そして、ぐしゃぐしゃと、髪をかき混ぜる。昔と同じように。
「……馬鹿野郎」
その声は、呆れていて、そして、どこまでも温かかった。
「なら作るために戦え、今はまだつらい時代だ。戦って殺しまくったやつが賞賛されるし、のどかに暮らすことを世界が、宇宙が許しちゃくれない」
彼の視線が、格納庫の天井へ、そして遠くを見るように向けられる。
「この格納庫みたいに、お前はまだ出撃していない。いわば整備中なんだ。そして、出撃にはまだ時間がある。そのうちに探しとけ。戦う理由を。守る理由を。」
悔しかった。憧れてたその人にそう言われてなお、HIに乗ることを拒んでいる自分自身に。その優しさが、逆に胸を締め付けた。
守りたいもの…そんなもの僕にはきっとない。あるとするならばレイさんとのこの関係ぐらいだ。この、誰にも理解されない僕を、あるがままに認めてくれるこの温もりだけが、僕の全てだ。
だから僕は…戦う理由を探すために、生きる理由を探すために戦って見せる。彼の隣で。
「……レイさん」
僕は、顔を上げた。涙で、視界が滲んでいた。恥ずかしいけど、止められなかった。
「模擬戦…しませんか」
「シミュレーションで俺に勝ったことないのにか?」彼は悪戯っぽく笑った。
「いや、実機で」
レイさんは目を丸くした。そしてどうしようもなくうれしそうな顔をすると、僕の頭をわしゃわしゃと揉んだ。
「お前のためのテラスクは、とっくに準備してあるぜ。……まだ怖いか?」
その目は、悪戯っぽく笑っていた。でも、その奥には、絶対的な信頼の色が浮かんでいた。僕を信じている。たとえ僕が自分自身を信じられなくても。
僕は、涙を拭った。そして、今まで出したこともないような、大きな声で、叫んだ。
「怖いよ…でも、迷いは…不思議とない」
「……乗れるよ」
僕は、僕の「盾」が待つ、コックピットへと、真っ直ぐに、歩き出した。足は震えていたが、歩みは止めなかった。
夕暮れが、演習場を茜色に染めていた。雲が燃えるように赤く、長い影を落としている。
僕が乗り込んだテラスクのコックピットは、シミュレーターとは全く違う、鉄とオイルの生臭い匂いがした。シートに伝わる、機体の微かな振動。モニターに映し出される、どこまでもリアルな風景。そして、操縦桿を握る手のひらに伝わる、ずしりとした重み。全てが、ここが虚構ではないと告げている。
——これが、本物。
『―——あー、聞こえるか、ユイチカ』
通信機から、レイさんの声が響く。雑音混じりだが、くっきりと聞こえる。
『準備はいいか?』
目の前には、同じテラスクに乗り込んだ、レイさんの機体が静かに佇んでいた。夕陽を背にしたその姿は、まるで伝説の騎士のようだ。圧倒的な存在感が、空気を歪ませている。
「……ああ。いつでも、いい」
『そうか。……なら、手加減は、しない』
その言葉と同時に、レイさんの機体が、爆発的な加速で地を蹴った。砂塵が舞い上がる。
速い!
シミュレーターのデータとは、比較にならない。ホバー走行の滑らかさ、重心移動の精密さ。払い下げの旧式機が、まるで生き物のように、躍動している。彼の意思が、そのまま機体の動きになっている。
僕は、咄嗟にシールドを構え、後退する。脳が、警鐘を乱れ打っていた。本物の脅威を前に、本能が畏怖の叫びを上げる。
怖い……けれどそれと同時に、身体の奥底から熱い何かが込み上げてくるのを感じた。震えが、少しずつ高揚へと変わり始めるのが自分にもはっきりと分かった。
「――当たらなきゃいいんだろ!!」
シミュレーターで培った、完璧な予測射撃。僕は、レイさんの機体の未来位置を計算し、威力を抑えた訓練用のペイント弾を連射する。弾道が、夕焼け空に赤い軌跡を描く。
しかし。
レイさんの機体は、まるで僕の思考を読んでいるかのように、最小限の動きで、全ての弾道を紙一重で見切っていく。彼の機体が風のように舞う。
『甘いな、ユイチカ!』
通信が、僕の思考を嘲笑う。
『お前の動きは、教科書通りすぎる。綺麗で、正確で、そして、だからこそ、死ぬほど読みやすい!』
レイさんの機体が、模擬ビルの壁を蹴って、ありえない角度から僕の死角へと回り込んでくる。その動きは、シミュレーターの敵には決して再現できない、予測不能な機動だった。
その手には、訓練用の短いナイフ――CQCが握られていた。
まずい、近接戦闘は……! 僕の最も不得意な領域だ。
僕は、慌てて同じナイフを抜き、その一撃を受け止めた。
ガギンッ!
耳を劈く金属音と、コックピットを揺らす、凄まじい衝撃。シートに体を強く押し付けられる。
シミュレーターでは決して味わえない、本物の「痛み」。衝撃が、骨の髄まで響く。
『戦場ではな、馬鹿真面目なやつから、死んでいくんだよ!』
レイさんの機体は、一度距離を取る。ゆっくりと、こちらの様子を窺うように。
そして、信じられない行動に出た。
彼は、持っていたペイント弾のライフルを、あっさりと投げ捨てたのだ。武器が砂塵に転がる。
何をする気だ!?
『弾切れだ。……さて、どうする?』
その挑発に、僕の頭に血が上る。冷静さが吹き飛ぶ。
好機! 相手はナイフ一本。こちらはまだライフルが使える。距離を取れば絶対的に有利だ。
僕は、距離を取り、射撃で決着をつけようと後退した。マニュアル通りの、正しい選択。
しかし、それこそが、彼の罠だった。
僕が後退した瞬間、レイさんの機体は、地面スレスレの低姿勢で、猛然と距離を詰めてきた。まるで地を這う獣のように。
「なっ……!」
慌ててライフルを撃つが、上下左右に不規則なステップを踏む彼の機体には、一発も当たらない。弾は全て虚空を裂く。
そして、僕のライフルの射線が、一瞬だけ途切れる、そのコンマ数秒の隙。
彼は見逃さなかった。
ナイフを逆手に持ち替えた彼の機体は、僕のテラスクの腕を潜り抜け、関節の継ぎ目に、正確にブレードを突き立てた。
『メインアーム、制御不能』
無機質な警告音が響く。ライフルを持つ右腕が、だらりと垂れ下がった。感覚がぷつりと途切れる。
『戦場で、お前みたいマニュアル通りの指示待ち人間は、真っ先に死ぬぜ』
レイさんの声は、どこまでも冷徹だった。教官の声だ。
『武器を捨てることも、泥に塗れることもできず、自分の「綺麗さ」に固執する。……だがな、ユイチカ。生き残るってのは、もっと汚ねえもんなんだよ』
彼のナイフが、今度は僕の機体の脚部関節を狙う。銀色のブレードが夕日に赤く輝く。
僕は、残った左腕で必死に抵抗するが、体勢を崩した機体では、もうどうすることもできなかった。もがけばもがくほど、彼の罠に深くハマっていく。
脚をやられ、片膝をつく僕のテラスク。機体が軋み、哀れな声を上げる。
そして、その目の前に、レイさんの機体が、静かに、しかし絶対的な勝者として、立ちはだかった。ナイフの先が、僕の機体のコックピット――僕の眼前を、静かに指し示している。
勝負は、決した。
僕は、呆然としていた。コックピットの中の自分自身が、小さく、無力に感じられた。
負けた。
完璧な、完膚なきまでの敗北。理論でも、技術でもなく、生き残るための「何か」が、決定的に欠けていた。
ハッチを開けて外に出ると、レイさんが、腕を組んで僕を待っていた。夕日が彼の背後で輝き、顔は影になっている。その顔は、厳しい教官の顔だった。
「分かったか、ユイチカ。それこそが、お前の弱点だ」
「……僕の、弱点」
「ああ。お前は、綺麗に戦いすぎる。プライドが高いんだよ。だから、武器を捨てることも、泥に塗れることもできない。最後の最後で、生き残るための、汚ねえ一手が出せないんだよ」
その言葉は、僕の心の奥底まで、深く突き刺さった。胸が熱くなり、また涙が滲みそうになる。
その通りだった。
僕は、いつだって「ニイガエ家の王子様」でなければならなかった。父の影から逃れられず、完璧で清らかな勝利だけを追い求めてきた。
汚れることも、負けることも、許されなかった。
それが、僕を縛り付けていた、最大の呪い。自分で自分に課した、見えない檻。
「……どうすれば、あなたみたいになれる」
僕は、絞り出すように言った。喉が渇いていた。
レイさんは、ふっ、と小さく笑った。そして、僕の頭を、もう一度、ぐしゃぐしゃと撫でた。
「――なる必要は、ねえよ」
その声は、驚くほど、優しかった。厳しさの裏に、大きな慈しみがあった。
「お前は、お前のままでいい。……きっとお前のその無垢な剣じゃなきゃ守れねえものもある……かもな♪」
「なんだよ、それ」
僕は苦笑した。相変わらず、わかりにくいことを言う。
夕陽が、僕たち二人の影を、演習場に長く、長く伸ばしていた。敗北と、新たな始まりを告げる、濃い影。
「ユイチカ俺はな、いつかお前みたいのが一番強くなるんじゃないかって思ってる。汚れず、定めなことが求められる時代が…な」
「そうなってほしいよ、ほんとは」
彼の言葉は、希望のようにも、祈りのようにも聞こえた。
僕は、この日、初めて、本当の意味で「敗北」を知った。
そして、本当の意味で、パイロットとしての、第一歩を踏み出した。汚れと傷とともに。
僕達はテラスクに腰掛けると、レイさんの端末からオグマ・ラングの「太陽のせいで…」が流れた。掠れた音質が、茜色の世界に溶け込む。
この夕日は僕が初めて知った景色であり、生涯忘れないだろう。そして僕にとっての太陽はこの橙色に染まった太陽になった。苦くて、痛くて、それでいて、どこまでも温かい、現実の光だ。
次のエピソードは10月3日16時10分です。




