「サイドストーリー〈ナミ〉」見える景色
私の正しさは、ずっと「規則」だった。
決められたルールを守り、逸脱せず、常に最善を尽くすこと。それが、自分と、そして大切な人を守る、唯一の方法だと信じていたから。
フィリカの秘密を守ると決めるまでは――。
仲間と共に、規則の外へと一歩踏み出したあの日から、私の「正しさ」は、音を立てて揺らぎ始めていた。そうして、心の奥底にずっと封じ込めていた問いが、蘇る。
兄さんは果たしてどうだったのだろうか…。
兄、イオリ・キリサワはダルムシュタット前生徒会長。
HIの操縦技術も、整備の手際も、人望も、全てにおいて完璧だった、私のたった一人の兄。
でも、彼は卒業後、何も告げずに姿を消した。忽然と、兄だけが溶けてこの世界に消えたように、誰も足取りはつかめなかった。
でも、私だけは違った。兄が失踪する前日、私に言ったのだ。
「俺はナミが卒業するくらいまでは傍で見守ってるさ。心配…だからな」
兄は優しい音楽が好きだった。暗い曲もうるさい曲も嫌いだった。
私も兄が聴く曲が大好きだった。『西暦』と呼ばれた時代の後期に出た曲――静かで、どこか懐かしい旋律。それが兄の好みの曲だった。
でも、兄が消えて、私の世界から曲が消えた。兄と一緒にあるはずの曲が。それからというもの、私は音楽を聴くと兄を思い出してしまい、あまり聴かなくなっていった。
その時、学校のチャイムがそんな私をあざ笑うように鳴り響いた。
私は今でも、兄がダルムシュタットの近くにいるんじゃないか、そんな気がしてならなかった。もし、兄がいるのなら。おそらくその場所は…ハウゼン。
そして私は、校舎の中庭からハウゼンの街並みを見下ろした。
あの町のどこかに兄さんが…。
私はこのダルムシュタットに入学してからというもの、兄の居場所のことをアゼル会長に聞いても、当時をよく知るミカミ先生を頼っても、ろくな情報は得られなかった。ただ、「責任に押しつぶされるような人間ではなかった」や、「彼こそ模範的生徒だった」その程度だった。
そうではない。私が知りたいのは、そんな過去の兄ではなく、今の兄なのだ。
私が最後に尋ねたのは、私の友人の中で一番にハウゼンを知るレティカ・ヴァルム先輩だった。
「悪いが、知らない」
しかし、最後の頼みの綱であったレティカ先輩ですら、私の兄のことは知らなかった。
「そうですか……」
するとレティカ先輩は片手で、頭をかいた。
「……行くぞ、ナミ」
「え?」
「ハウゼンの情報屋を使えば、何か分かるかもしれねえ。……お前、兄貴に会いたいんだろ」
彼女のぶっきらぼうな優しさが、私の心を後押しした。
私は初めてハウゼンへと降りた。
私が住んでいたニューロンドとは違い、その町は本で読んだニューロンド以外の人の町の姿と瓜二つだった。
7年前の異星人支配体制から、異星人達が管理区域として動いてきた町、ハウゼン。ここには昔から人の営みがあった。
ニューロンドでの戦いがあった後、かつての管理区域には異星人と私達人間が共生する、不思議な空間となっている。
「なあ?」
「はい…」
私は自信なさげにレティカ先輩へと返事をした。彼女は周りにはよくかわいらしい顔をしているが、フィリカや私たちの前だと恐ろしく鋭い顔をよくする。正直、怖い。
「兄さんってさ、いるとどんな感じ?私兄妹ったことないからさ、気になるんだよ」
意外だ。そんなこと気にもしていないと思ってた。
「あまり変わりませんよ。でも、少しだけ色恋に敏感になるかもしれません」
「じゃあ、あんまいなくてもいいかもな。私は…」
レティカ先輩は難しそうな表情をして、目線は明後日の方向を向いていた。
「それと、兄の背中がすごく大きく感じます。私じゃどうやっても越えられないんだろうなっていうくらい、大きく強く見えるんです」
「好きなんだな、兄さんってやつのこと」
「尊敬してます。いつかあの人と同じ景色を見られたら… そう思わずにはいられません」
すると先輩は、少しだけ考えるそぶりをした。
私は、レティカ先輩の案内で、ハウゼンの場末にある、情報屋へと足を運んだ。そこで、お金を出し、イオリという名前について尋ねた。
すると――。
「イオリねぇ、あたしその男知ってるわよ」
と情報屋の屈強な男は話始めた。
「何ヶ月前かしら、イオリって名前の出来の良いつかいっぱしりができたとか、昔の男に言われたのよぉ~」
私の動悸が高まる。
「その人、今どこで?」
「ここハウゼンから、あのダルムシュタットを越えた先に、かつて村だった場所があるの。そこは今、ジャンク屋たちの巣窟となってるの。そこにきっといるわ」
私はようやく兄の行方の手がかりを見つけられた。そんな興奮がとめどなく私の中をのたうち回る。
「本当か?おっさん。金だけ巻き上げてバイバイ。は、ただじゃ置かねえぞ?」
レティカ先輩は鋭くそう言った。きっとこの手の世界ではこのくらいの緊張感が必要なのだろうと、私の表情が固まった。
「やーね、だったら今回はお代は結構。次に会ったときにしましょう」
情報屋の男はそう言ってウィンクをした。
「乗った。だったら、報酬1.5倍でいいぜ」
指同士を弾き、音を鳴らすとレティカ先輩は興味深そうな顔をした。
「あら、いいの?その言葉忘れないでね。私はラーライ」
「私はレティカ。こっちはナミだ」
私はお辞儀した。
「ナミです」
すると、ラーライさんは何か思い出したかのように口元を丸めた。
「うん?レティカってアテルのところの?」
「知ってたのか…」
レティカ先輩は意外そうに声のトーンが低くなる。
「これで少しは信用度は上がったかしら?」
「1.25倍くらいにしておけばよかったくらいには、だけどな」
そうして私たちはラーライさんの店から出て、情報を信じ、兄のいる町はずれのジャンクヤードへと歩みを進めた。
私達は3時間ほど歩き、巨大なジャンクヤードにたどり着いた。錆びた鉄の匂いと、オイルの匂いが混じり合う場所。そこには、役目を終えた機械たちの残骸が、墓標のように立ち並んでいた。その中で、黙々と作業を続ける、一人の男がいた。
油に汚れた作業着。伸びた髪。プレイヤーから流れる女性の歌声。かつての輝きを失った、けれど、その瞳の奥に宿る、静かで、強い光。
「……兄さん」
私の声に、男はゆっくりと顔を上げた。
「……ナミ…そうか、見つけられたのか」
兄、イオリ・キリサワは、そこにいた。ダルムシュタットの伝説の生徒会長は今、過去を捨て、一人のジャンク屋として静かに生きていた。
再会は、ぎこちないものだった。
「元気そうで良かったです」
「ああ、そうだね。ナミは…大きくなったね。顔つきも母さんに似てきて…すごく綺麗になった」
私は兄を責めることはできなかった。姿を消したのはきっと兄さんなりの理由が必ずあるはずだから。
でも…。
「どうしてですか?理由が知りたいんです。兄さん」
「理由は言うほどのものじゃない。俺は、俺のやりたいようにやった。……ただ、それだけさ」
『~When I saw the break of day~』
古い音楽が流れる小さな事務所で、彼はそう言って、寂しそうに笑った。理想だけでは生きていけない。この理不尽な世界で、彼は新たな苦悩を抱えているようだった。
そんな時、レティカ先輩はふと口を開いた。
「変な曲だな。最近流行りとは全然…方向性っての?が違うな…」
すると兄は優しく、すごく古い音楽プレイヤーを撫でるように取り出した。
「この曲は『西暦』時代の曲でね、俺はこの曲を聞くと今日も頑張ろうって思えるんだ。
ノラ・ジョーンズ。彼女の声は美しいよ」
「ふーん」
レティカ先輩はつまらなそうに返した。
その時だった。
ドガァンッ!!
事務所のドアが、凄まじい音を立てて吹き飛んだ。そこから転がり込んできたのは、血塗れの同僚と思われる男の人だった。
「……イオリさん……逃げろ……!」
「タキ! 何があった!?」
兄さんが駆け寄るより早く、ドアの外から、下品な笑い声が響き渡った。
「よぉ、社長はいねえみてえだが、お前らで遊んでやろうじゃねえか!」
兄さんの目は震えるように揺れた。
「……どうして僕らのHIを!?」
イオリ兄さんの口から驚愕の声が響く。その瞳から、諦めの色が消え、冷たい光が宿る。
「ナミ、それから君! 君達は、動ける奴らを連れて、裏から逃げろ!」
「兄さんはどうするんですか!?」
「時間を稼ぐ」
彼は、言葉を終えるより早く、事務所の窓を突き破り、外へと飛び出した。
「逃げはしないさ」
その背中は、私が知っている、ただの優しい兄ではなかった。それは、かつてダルムシュタットで、「生徒会長」とまで呼ばれた男の背中だった。
生身の兄さんが、スクラップの山を、まるで重力を感じさせない身軽さで駆け上がり、ゴロツキの一人が操る作業用HIの背後へと回り込む。そして、分厚い装甲の隙間、メンテナンス用のラッチに指をかけると、ハッチをこじ開けた。パイロットを引きずり出し、地面と突き落とした。コックピットへと飛び込むように乗り込む。
ゴロツキの一人が、嘲笑う。
「ハッ、オンボロの作業機一機に乗って、俺達相手に何ができるってんだ!」
しかし、次の瞬間、その嘲笑は驚愕に変わった。
兄さんが駆る《モール》は、先ほどまでとは別次元の、まるで猛禽類のような動きを見せ始めていた。鈍重なはずの機体が、信じられないタイミングで、掘削用のドリルアームを地面に突き立て、それを軸に、巨体をコマのように高速回転させる。遠心力で振り回された、もう片方のクレーンアームが、予測不能な軌道で敵機を強かに二機、三機と次々と撃墜していく。
「なっ……なんだ、あの動きは!?」
それは、もはやHIの操縦技術ではなかった。機体の重量、重心、関節の可動限界、地面の摩擦係数、その全てを瞬時に計算し、物理法則そのものを味方につけるような、神業の領域。本来は資材を「掴む」ためだけの、トルクの弱いマニピュレーターで、地面の鉄骨を鷲掴みにすると、それを即席の棍棒として振り回し、敵の攻撃を弾き、いなしていく。
すると…
「貴様、これ以上暴れれば、お仲間が無事じゃあ、すまないぜ?」
ゴロツキのHIは私たちが居る事務所の天井を掴みそういった。私たちは体のいい人質となってしまった。
でも、兄さんはすぐ手を打った。
『――ナミ、聞こえるか!?』
インカムから、兄の緊迫した声が飛んでくる。
「兄さん!」
『もう一人の子もいるな!? 事務所の中に、もう一機の《モール》があったはずだ。それを動かせ! 君達ならできる!』
私とレティカ先輩は、ほとんど同時に、シャッターの奥にある、もう一機の《モール》のコックピットに飛び乗っていた。
30年前から変わらない、ノーマルタイプの複座式のコックピット。私が操縦桿を、レティカ先輩が、隣で火器管制のコンソールを握る。
「ナミ、動かせるか!?」
「やってみます!」
メインエンジンを起動させ、鈍重な機体を無理やり立ち上がらせる。
「舐めるなよ、ジャンク屋が!」
ゴロツキたちが、一斉にこちらへ砲口を向ける。
しかし、私が操るこの《モール》は、彼らが思うようなただの作業用HIではない。
レティカ先輩の、開発実用学部としての機体構造への深い理解。そして、コックピットの外から、戦場全体を俯瞰しているかのような、兄さんの、戦術指示。
ただのHIではない。この人たちと一緒にいて、負けるというビジョンは一切見えなかった。
『ナミ、右足を軸に、慣性ドリフト!
奴らの死角に入いって溶接用のバーナーだ!
奴の関節部の、油圧ケーブルだけを狙らえるな』
兄さんの《モール》が、予測不能な動きで敵の注意を引きつけ、陣形を完璧に崩す。そして、その隙を突いて、私たちが、まるで外科手術のように、敵機の弱点だけを正確に破壊していく。ドリルを盾に、クレーンアームで敵を薙ぎ払い、リベット打ち出し機が火を噴く。
私たちは、圧倒的な数の不利を、覆していく。そして、ゴロツキたちのHIは、全て煙を吹く鉄屑と化していた。
しかし、その代償は大きかった。ジャンクヤードは、完全に崩壊。そして、タキは、瓦礫の下で、もう動かなくなっていた。
兄さんは俯いて、子供が泣きべそをかくような、そんな表情をした。
日光が瓦礫と、犠牲者の亡骸を、静かに照らし出す。生き残った同僚たちは、呆然と、その光景を見つめていた。
兄さんは、静かに、彼らに告げた。
「……ここは、もう終わりだ。でも、僕達の人生はまだ終わっちゃいない」
同僚たちは何も言わずに、しかし、その目には確かな感謝の色を浮かべて一人、また一人と街へと消えていった。
そして、兄は、私たちに向き直った。
その顔には、もう、諦めの色はなかった。
「……ナミ。お前いつの間に、そんな腕を上げたんだ?」
「……兄さんこそ。無茶しすぎです」
「はは……違いないな」
彼は、瓦礫の山となった、かつての職場を見つめた。
すると、兄さんのポケットから音楽が漏れ出る。
『~But you‘ll be on my mind
Forever~』
「……ここも、潮時か。俺も、行くよ。」
「どこへ……?」
「さあな。でも、今度は、もう少しうまくやるさ」
兄さんは、私の頭を、ふんわりと一度だけ撫でた。それは、昔と少しも変わらない、優しい兄の手だった。
「もう心配いらないな、ナミ。……いい友達、持ったじゃないか」
兄さんは、レティカ先輩に一度だけ感謝を込めたように頷くと、陽光で揺れるの中を一人、私たちに顔を見せることなく手を振りながら歩き去っていった。その背中はもう、少しも寂そうではなかった。
ナミは、その背中を、今度は、涙ではなく、「希望」をもって、見送ることができた。
「……はい、兄さん」
いつか、また会える。
その時、自分は、もっと強くなっている。
なぜか、そんな確信があった。
レティカ先輩と私は静かに帰路へと歩み始めた。それは奇しくも兄さんが進んだ方向とは真逆だ。そして、レティカ先輩がようやく口を開けた。
「やっぱりさ、ナミはあの兄さんと同じ景色は見れないよ」
その言葉には皮肉も貶しもなかった。私自身レティカ先輩の言いたいことが嫌というほどわかっていた。
兄さんと私は考え方も生き方も違う。だから、同じ景色を見る必要はない。きっと、そういうものなのだ。
「そうですね、レティカ先輩」
私の「正しさ」は、もう、規則の中にはない。この、信頼できる仲間たちの隣にこそ、きっとある。
それが私の見える景色だ。
次回のエピソードは9月23日19時に更新します。




