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灰陽航路(かすがいこうろ)  作者: Asuga
第二章 陽
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夕映えの海で

 亜熱帯特有の湿った風が、まとわりつくように肌を撫でていく。息をするたび、胸の奥にまで重い湿気が入り込み、肺の中まで粘り気を帯びてくるような感覚があった。ここは、かつて「ユーラシア海」と呼ばれていた海域の果て。今では「地球中央大海」の端に浮かぶ、忘れ去られたような孤島群。そのひとつ――ギフ島。古びた桟橋と簡素な軍事施設があるだけの小さな駐屯地で、もう地図に記されることもない辺境の地だ。


 私は、その拠点の一室で、捕虜として拘束した男――エルビス・コロンから得た断片的な情報を、何度も繰り返し分析していた。


『静かなる太陽の円環』。


 それが、彼の属していた組織の名である。ディスプレイの中に並ぶデータには、彼らの活動記録や声明文がいくつも残されていた。そのすべてに、ある一人の名が繰り返し刻まれていた。


『ネプト・アンビション。我らが救世主』

『彼の御心を継ぎ、偽りの平和を打ち砕く』


 狂信に近い熱を帯びた言葉の群れ。まるで神を讃える祈りのように、その名は掲げられていた。七年前、世界を震撼させた男――ウィル・トール。だがその名は仮初めであり、彼の本名がネプト・アンビションであったことを知る者は、私たちごく一部の関係者か、そして『静かなる太陽の円環』の構成員以外に存在しない。彼はもういない。そう信じられてきた。しかし、彼を「信仰」し続ける者たちが、今なおこれほどの規模で暗躍しているという事実は、私の頭を鈍く締め付け、静かな頭痛を生じさせた。


――ネプト。あなたが望んだのは、本当にこんなことだったの?


 「これ以上の情報はない。俺はただの使い走りだ」


 再びエルビスを尋問しても、返ってくる答えは同じだった。光を失った瞳。やせ衰えた頬。すでに彼は、利用できるものをすべて失った抜け殻に過ぎない。苛立ちを覚えながらも、それを飲み込み、私は尋問室を後にした。


 自室に戻り、ひとりモニターの光に向き合う。そこに映し出されているのは、約一ヶ月前、地球の衛星軌道上で一瞬だけ捉えられた巨大なHIの不鮮明な画像だった。


 コードネーム――『オーファン』。所属不明。詳細不明。連合軍のデータベースのどこを探しても一致する機体は存在しない。だからこそ孤児の字名を連合は授けた。


 だが私には分かった。あのシルエット、あの圧倒的な存在感。モニター越しですら伝わってくる異様な威圧感。間違いない。あれは七年前、ニューロンドの空を轟音とともに切り裂いた、あのHIだ。


――ネプトは、生きている?


 胸の奥で凍りついていた時間が、急激に溶け出していくのを感じた。七年間、心の奥底に閉じ込めていた疑念と後悔が、再び炎のように蘇る。もしも、あの日。ウィル・トールと名乗った彼が、実はネプトであったと知っていたなら……。私は、どうしていただろう? 何を選んでいただろう? 答えのない問いが、過去の迷宮へと私を引きずり込む。


「――大尉。少し、よろしいでしょうか」


 低い声が、思考を断ち切った。振り返ると、トラスト中尉が端末を手に立っていた。彼は淡々とした表情のまま、しかし目には確かな疑問の光を宿している。


「この組織の前身となる残党の件ですが、どうにも腑に落ちない点がありまして」


「何?」


「彼らの資金源と……HIの供給源です」


トラストは核心を突く問いを口にした。


「記録によれば、地球政府軍がHIの独自開発と量産体制を確立したのは五年前。つまり、七年前の時点では、地球側に秘密裏にHIを製造できるような大規模工場は存在しなかったはずです」


「……どういうこと?」


「七年前、大尉の言うネプトが操っていた大型HI。そしてソラリス残党が有していた数多のHI。さらに彼らの活動を支えた莫大な資金。――あれは一体、誰が、どこで作り、提供したのか。その最大の謎はいまだ解明されていません」


 稲妻のように鋭い衝撃が、脳を駆け抜けた。おそらく、背後に存在したスポンサーは政府だ。新設された準軍組織『ソラリス』という名の裏に、巧妙な目くらましを仕込んでいた。ソーラ・コアの使用も、その一端に違いない。だが――。


 あの時のソラリス残党が、独力でHIを造れたはずがない。


 だからこそ、どこかに「供給者」がいた。彼らに戦力を授けた黒幕が。そいつは今も、影の中で息を潜めている。もしかすると、ネプトの再来すら、その「誰か」の意志によって導かれているのかもしれない。


「……トラスト」


「はっ」


「捜査方針を変更する。これから我々が追うべきは『静かなる太陽の円環』ではない」


私はモニターに映る青い地球を、真っ直ぐに見据えた。


「七年前、ソラリス残党にHIという戦力を提供した――影の供給者。それを突き止める。彼に繋がる道は、そこにある」


 止まっていた時が、再び動き始める。真実へと続く新たな糸口が、確かに見えた気がした。


 その時だった。


「――失礼します、大尉」


 静かな声とともに入室してきたのは、エアリーゼ曹長。端末を抱え、無駄のない敬礼をしてから報告を始めた。


「ロレーナ・ソーンの件、定時報告です。容体に変化はなく、依然として意識不明の状態が続いています」


「そう。ご苦労様」


 淡々と告げられる報告。その言葉に耳を傾けていたトラスト中尉が、訝しげな表情を浮かべた。


「……大尉。ひとつお伺いしてもよろしいでしょうか」


「何かしら、中尉」


「なぜ我々が、ソラリスの若きエース――レイ・ソーン少尉の妹君の面倒まで見なければならないのですか? 彼が優れたパイロットであることは認めます。しかし我々は連合軍。政府軍の、しかも一介の少尉の家族の世話など、筋違いではありませんか」


 声には隠しきれない軽蔑が混じっていた。連合軍と政府軍は理念も目的も相容れぬ敵。彼にとって、レイ・ソーンは疎ましき存在にすぎないのだろう。


 私は窓の外、夕陽に照らされ赤く染まる海を見やった。


「……感傷よ、中尉。ただの、連合の自己満足に過ぎない」


 この海域が、かつて「ユーラシア海域」と呼ばれていた頃のこと。トラストは知らないだろう。小さな沿岸都市に、ひとつの家族が暮らしていた。父と母、三人の子供たち。ささやかだが穏やかな日々。しかし、ある日――異星人の襲撃がその町を襲った。


 誰が、何人で行ったのか。詳細は分からない。ただ、現場は惨憺たる有様だった。


「死者は計八名。その中に、レイ・ソーンの両親と姉が含まれていた」


「……!」


「そして、頭部に重傷を負い、意識不明の状態で発見されたのが、彼の妹――ロレーナ・ソーン。惨状の中から、彼女を保護したのは我々連合軍だったのよ」


 私はトラストに向き直り、視線をぶつけた。


「レイ・ソーン。彼がなぜ異星人をあれほど憎むのか。なぜソラリスに身を投じ、エースと呼ばれるほどの戦果を上げたのか。そのすべての始まりは、この出来事にある」


 それは、レイ・ソーンという男の物語の原点。決して癒えることのない傷の記録。


「我々が彼の妹を保護した以上、最後まで責任を持つ。それだけのことよ」


 トラストは、言葉を失い、ただ唇を噛み締めていた。


 窓の外。落日の光が海を赤く染め上げている。その色は、七年前の町を覆った血の色と、あまりに酷似して見えた。

次回のエピソードは9月12日金曜の16時10に更新します!

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