夜明けの灰かぶり達
穏やかな昼下がりだった。
ダルムシュタットの中央広場に設置された電子掲示板に、控えめな告知が流れたのは。
『生徒会役員・補充募集のお知らせ』
特に興味はなかった。私がここに来たのは、生徒会活動で内申点を稼ぐためではない。ただ、その告知の下に添えられた「説明会を生徒会室にて実施します」という一文が、私の小さな好奇心を刺激した。
――この学園を、中枢で動かしているのはどんな人たちなんだろう。
社会見学、くらいの軽い気持ちだった。
カイの言葉――「真実は、光だ。暗闇を照らすが、目も焼く。誰かに照らされるのを待ってるうちは、ずっと眩しいだけだ」――を、ほんの少しだけ実践してみようと思ったのだ。
放課後、私は管理棟の最上階へと足を運んだ。ポケットの中では、ヴァルム教授から託された一本のビデオチップが、やけに存在を主張していた。まだ再生していないそれは、不思議な重みを持っていた。
重厚な扉を開けると、意外なほどに室内はがらんとしていた。参加者は私を含めて数人程度。まあ、補充募集なんてそんなものか、と納得しかけたその時、先に座っていた一人と目が合った。
――あの時の。食堂で、上級生たちに囲まれていた、あの少年。
そこにいたのは、ユイチカ君だった。ひどく居心地が悪そうで、今にも席を立ちたげな気まずい空気をまとっている。
壇上に立ったのは、ルームメイトのナミだった。淡々と、しかし一切の淀みなく生徒会の理念や活動内容を語っていく。その姿は、私が知っている彼女そのもの――生真面目で、完璧を追い求めるナミ。
けれど、不意に視線がこちらを向いた時、私はつい軽い気持ちで、小さく手を振って「やっほー」とジェスチャーしてしまった。
……次の瞬間。
「ぶふっ!」
完璧だったはずのナミが、まるで変なものでも飲み込んだかのように、盛大に吹き出した。慌てて口元を押さえ、ゴホン、ゴホンと咳き込む。室内がざわつく。
「な、なぜ……なぜ貴方がここにいるのですか、エアリアさん!」
小声ではあったが、壇上から鋭い咎めの視線が突き刺さった。どうやら、私の軽い冗談は、真面目な彼女の許容量を完全に超えてしまったらしい。
その動揺は連鎖した。ナミが室内を見渡すと、さらに別の人物の姿を認めて、あからさまに顔を顰める。
「それに……ニイガエ君まで……」
ナミが、入学初日の騒動以来、露骨に嫌っている相手。ユイチカ・ニイガエ。その存在が、彼女の進行を確実に乱していた。
「まあまあ、キリサワさん。そんなに固くならなくていい」
やけに芝居がかった声が響く。壇上に現れたのは一人の男。自信に満ちた仕草と、どこかナルシストめいた立ち居振る舞い。彼は基礎教養学部二年、アンビションと名乗った。
「生徒会副会長のアキラ・アンビションだ。よろしく頼むぞ、未来の同志たち」
さらに――。
圧倒的な気配と共に、扉が開かれた。
「アキラ、ナミ。準備は上々かい」
磨かれた銀髪。穏やかな笑み。堂々たる気配。彼こそ、この学園の頂点に立つ男――生徒会長、アゼル・グラード。
「集まってくれて感謝する。そこにいるユイチカ君は、軍学部首席の私が推薦した逸材だ。そして……」
彼はナミの肩に手を置く。
「彼女はかつての伝説の生徒会長、キリサワの妹御。今年の入試で主席合格を果たした才媛だ。我々が直々に推薦状を送った」
主席? 入学試験?
そんなもの受けた覚えはない。けれど――思い出した。入学直前、カイに「頭の体操だ」と言われて解かされた、あの山のような問題用紙。まさか、あれが……?
考えを巡らせている間にも、アゼル会長は参加者を見渡し――そして、私を見た。
……ぴたり、と動きが止まる。
完璧な笑みが崩れる。信じられないものを見たように、その瞳が大きく見開かれていた。ぞくり、と背筋に冷たいものが走る。
「……あ……あぁ。すまない」
硬直ののち、会長はわざとらしく咳払いをした。だが、その声はわずかに上ずっていた。
「ようこそ、生徒会へ。我々は、新たな才能を求めている。特に……そこにいる君のような」
その「君」は、明らかに私を指していた。室内が困惑の空気に包まれる。居心地は最悪だった。
説明会がどう終わったのか、よく覚えていない。私は終わるや否や、逃げるように部屋を飛び出した。
だが背後から、会長の声が追いかけるように響いた。
「待ってくれ、エアリアさん! 君の力が必要なんだ! 生徒会は……いや、この僕が、君を必要としている!」
私は振り返らなかった。
――その声が、なぜか天井から響いていたような気がしたのは、気のせいだろう。
その日の夕食はクリームシチューだった。とろりとした温かさが、緊張を少し解きほぐしてくれる。E-07室のテーブルでは、ユナが目を輝かせていた。
「へえー! フィリカ、生徒会に興味あったんだ! すごいじゃん!」
「いや、だから、社会見学だって……」
「でも、生徒会長に気に入られちゃったんでしょ? それって、もう運命だよ!」
うんうんと一人で頷くユナ。
チルはシチュー皿の縁の一滴を指ですくい、「生徒会室の構造には興味がある。エネルギー効率が悪そうだ」と淡々と呟いている。
ナミは無言でシチューを口に運んでいた。彼女がユイチカ君のことをどう思っているのか、私にはまだ聞けなかった。
「ナミ……怒ってる?」
恐る恐る尋ねる。自分が説明会で余計なことをしたせいで、彼女を困らせたのかもしれないと思ったからだ。
「いえ。ただ、今日は色々あって疲れただけです。……あのあとも、会長は不調続きでしたから。あんな会長、初めて見ましたよ」
くたびれた表情のナミ。その一言で、今日が彼女にとっても大変な一日だったことを知った。
夜も更け、共同シャワールームへと向かう。昼間の喧騒が嘘のように、廊下は静まり返っていた。こっそりと湯を浴びて、今日のことを全部洗い流してしまおう。そう思った時だった。
渡り廊下の向こう、月明かりの下に、見慣れた後ろ姿を見つけた。
――レティカ先輩。
彼女は、まるで夜の闇に溶け込むように、学園の敷地の外へと続く裏門へ向かっていた。
「……先輩!」
思わず声を張った。
びくりと肩が揺れ、振り返ったその顔は、昼間の快活さをすっかり失っていた。張り詰め、怯え、何かを隠しているような影がそこにあった。
「……フィリカ」
「どこへ行くんですか? こんな時間に……」
「……聞かなくてもいいだろ。関係ないんだから」
背を向けて歩き出す彼女を、このまま見過ごすことはできなかった。
「待ってください! あなたが身を犠牲にしていることは知っています。だから、待ってください!」
駆け寄り、彼女の腕を掴む。その瞬間、氷のような冷たさに胸がざわめいた。
レティカ先輩は忌々しげに私の手を振り払い、今まで聞いたこともないほど低く鋭い声を放った。
「……いい加減にしろよ、一年。学校で、それを言うな。……分かんだろ?」
その瞳は私を拒絶していた。昼と夜。光と影。私が知っているレティカ先輩と、私の知らない彼女。その境界線が、残酷なほどくっきりと引かれている。
「だったら、私も連れて行ってください。アテルさんのところでしょう? なんのためかは知りませんが、そんな頑張り方は間違っています」
「は? 何言ってんだ。だから関係ないって言ってるだろッ! つまんねぇ偽善はやめろよ。お前にはわかんねぇだろうな、初めからたくさんのものを持って生まれたやつには……」
「いいえ、関係なくなんてありません。私はレティカ先輩の友達だと思っていますから」
「……友達? 何を言って……」
「友達です。私たちは同じ“隠し事同盟”の友達です」
その一言に、レティカの瞳が揺れた。
「……隠し事? フィリカにもあるっていうのか」
「ありますよ。今の時代、一番煙たがられるような隠し事です」
彼女は小さく息を呑んだが、すぐに表情を強張らせた。
「……だからって連れてはいかない。もう一度言う。友達なんかじゃないから」
「いえ、友達です」
レティカ先輩は、心底うんざりしたような顔をした。その顔からは「うぜー」という声が聞こえてくるようだった。
「もういい。……もう行く」
「私も行きます」
深い溜め息が返ってきた。
「……勝手にしろッ!」
そう吐き捨てて歩き出した背中は、小柄なのに不思議と大きく見えた。彼女の影は、私よりもはるかに強く、遠くに感じられる。
遠くには、街ハウゼンの明かりがきらきらと揺れていた。
ふと空を仰ぐと、青い流れ星が鋸歯状に、普通とは逆の向きへと流れていった。
なぜかその光は、私に勇気を与えてくれたように思えた。
私は無言で追いかけた。裏門を抜けた瞬間、夜の空気が頬を刺すようにひんやりと流れ込み、肺の奥まで冷えを運んだ。昼間の喧騒が嘘のように沈黙した学校を背に、私はただ先輩の背中だけを見失わないように足を動かした。目の前に広がるハウゼン。そのきらびやかで、どこか危うい光は、獣の眼光のように私たちを飲み込もうとしているように見えた。
先輩は一度も振り返らなかった。私がついてきていることを知っていながら、意に介する様子は一切ない。ただ迷いのない足取りで、群衆を縫い、けばけばしく輝くネオンの奥へと進んでいく。その背中は決意のようなものに縛られているように感じられた。
「……先輩、私たちは、どこへ?」
不安に耐えきれず声をかけた私に、返ってきた声は短く、冷たい。
「黙ってろ。今更帰るって言っても、もう遅いからな」
その声には、諦めと、ほんの少しの自嘲が滲んでいた。私の胸はざわつき、喉の奥が乾いた。
やがて辿り着いたのは、高級そうな会員制のバーだった。重厚な木の扉の前には、いかにもな風貌のガードマンが立ちはだかっている。レティカ先輩は何も言わずに視線を合わせただけで、男はまるでそれが当然であるかのように無言で扉を開けた。
扉をくぐった瞬間、紫煙が肌を覆い、甘ったるい香水の匂いが鼻腔を支配する。薄暗いフロアには、金を持て余した男たちが若い女の子を侍らせ、酒と笑い声に溺れていた。その笑いは甲高く、耳障りで、どこか人を人とも思わぬ下卑た響きを帯びていた。
「……レティカ、遅かったじゃねえか」
カウンターの奥から聞き覚えのある声。アテルさんだった。路地裏で見た荒んだ姿とは違い、きっちりと仕立てられたバーテンダーのベストを纏っている。
「……こいつは?」
私に注がれた視線は鋭く、逃げ場を奪う。
「見ての通りだよ。ついてきちゃったんだと」
レティカ先輩はうんざりしたように答え、私の耳元に囁いた。
「いいか、フィリカ。絶対にここを動くな。誰に話しかけられても、愛想笑いだけしてろ。分かったな?」
その言葉を残して彼女はVIPルームへと消えていく。取り残された私は、ただアテルさんが無言で置いた一杯のジュースを前に、息を殺して座っていた。時間の感覚は溶けていき、ただ胸の奥にじわじわとした不安だけが膨らんでいく。
VIPルームの奥からは、時折男の下品な笑い声が響き、それに混じってか細いレティカ先輩の声が聞こえた。その度に胸が締め付けられ、喉に硬い塊が張り付いた。
「……見たくなかっただろ、こういうのは」
静かにグラスを拭きながら、アテルさんが口を開いた。
「……あれが、先輩の仕事、なんですか」
声が震えているのが自分でも分かった。
「ああ。アイツは金を稼がなきゃならねえ。学費と、それから……もっと別の金もな」
ぽつり、ぽつりと語られる言葉は、どれも私の知らなかった先輩の影を映し出す。ヴァルム教授の娘であること。教授が政府に睨まれているせいで、普通の学生生活を送れないこと。そして――
「アイツは、自分の容姿をずっと気にしてた。……だから、整形したんだよ。全部、自分で稼いだ金でな」
「整形……?」
「ああ。今のあの顔は作りもんだ。俺が医者を紹介した」
衝撃に頭が揺さぶられる。あの誰よりも輝いて見える先輩が――作られた姿だったなんて。
「俺みてえな『羽持』は、こういう汚れ仕事でしか生きられねえ。アイツに金持ちのパパを紹介して、その仲介料で食ってんだ。街の奴らが俺のことを『羽持の売春野郎』って呼ぶのも、そのせいだ」
彼は自嘲するように笑ったが、その目には笑みなどなかった。
「でも、勘違いすんなよ。アイツは身体は売ってねえ。ギリギリのところで、自分を守ってる。……それだけは俺も守らせてる」
その時――。
カラン、と硬質な音がフロアに響いた。缶が床に落ちたような小さな音。しかし次の瞬間には、辺りの空気が白く淀み始めていた。
「フィリカ!危険だ!」
「ガス?……なにこれ!」
「白燐弾だ!」
炎が一気に燃え広がり、悲鳴と混乱がフロアを呑み込む。熱と煙で息が詰まり、皮膚が焼けるように痛んだ。私は反射的に最低音波を放った。人間には聞こえないその音――同じアウリアンであるアテルさんには届くはずだ。
[きこえますか]
[いまどこに?]アテルさんは返してくれた。
[ほおるです]
彼の反応を受け取り、私は奥のVIPルームへ走った。
ホールの奥――VIPルームの前に辿り着いた私は、すぐに異変に気づいた。
入り口が崩れ落ちた瓦礫で塞がれている。炎に照らされたその瓦礫は赤黒く、熱でじゅうじゅうと音を立てている。中からは男と複数の女性の叫び声が漏れ聞こえ、必死に助けを求めていた。しかし――。
「……先輩の声が、ない……?」
それに、瓦礫は燃え盛って私がどかすことなんてできなそうだ。
いや、違う
「できない、じゃない……。やるしかないんだ!」
胸を締め付ける不安が広がる。私は両手を伸ばし、瓦礫に触れた。焼けつくような熱が指先を襲い、髪の毛にも火が移った。だが構っている暇はない。
服が焦げる匂いが鼻を突き、皮膚は焼かれるように痛む。だが、私の心の奥で母の声が甦った。
――『痛みは一瞬、命は一生』
歯を食いしばり、全身の力を振り絞って瓦礫を押し退ける。
左手いつもつけていたブレスレット――剣を模したそれが、燃えるような熱を発した。まるで誰かの過去を思い出させるように、強烈な痛みが脈打ち、視界が赤く染まる。
「……っ、あああ!」
痛みに呻きながらも、私は一つひとつ瓦礫をどかした。服は半分燃え落ち、視界は煙で霞む。それでも、ついに通路が開ける。
勢いよく扉を開け放ち、声を張り上げた。
「大丈夫ですか!」
目に飛び込んできたのは、目だけが異様に鋭い男。その男は私を睨み、吐き捨てるように叫んだ。
「なぜもっと早く来なかったッ!!」
吐息と共に唾を浴びせられる。次の瞬間、彼は私を押しのけるように部屋を出て行った。その後ろから怯え切った女性たちが次々と飛び出してくる。皆、燃えた様子はないが、服はほとんど残っておらず、ただ身を震わせていた。
そして、部屋の奥――裸のまま、膝を抱え込んでうなだれるレティカ先輩がいた。
「先輩!」
駆け寄っても、彼女は反応を見せない。ただ涙をこぼし続け、肩を震わせていた。
「大丈夫か! なッ!」
後ろから追いついたアテルさんが、状況を一目で理解し、拳を握り締めた。
「俺が……俺が不甲斐なかったせいか……!」
「まだです、アテルさん! 先輩を外に!」
私は焦げた服の残りとタオルを手に取り、レティカ先輩の身体に巻き付ける。自分は半ズボン姿になってしまったが、そんなことは構っていられなかった。
アテルさんは私を振り返り、短くうなずいた。
「お前が見てろ。俺が道を切り開く……。まったく、こんな最悪な日に炎の海を見るとはな」
「でも、故郷のお祭りも、こんな火じゃなかったですか?」
その言葉にアテルさんは思わず笑った。
「そうだったな……。しかも、踊ってたな」
「何年ぶりです?」
「さあな? ざっと五十年じゃないか」
「頼みますよ!」
「当然だ!」
その声と共に、アテルさんは炎と瓦礫を切り裂くように進んだ。鍛え上げられた肉体が進むたび、障害物はまるで意味を失ったかのように吹き飛ぶ。僅か三分足らずで、私たちは外へと抜け出した。
夜気に触れた瞬間、肺に冷たい空気が流れ込み、胸が焼けるように痛む。それでも、私は先輩を抱きしめるように背負い続けた。
その時、アテルさんの怒号が町に轟いた。
「誰だッァ! 俺の場所を狙ったのはァ!!」
地を揺るがすその声に、街の空気が震えた。
私はふと、周囲の気配を感じ取った。残留するざらついた存在感――いつもより鮮明に感じられる。そうか、帽子がないからだ。素の自分の感覚が剥き出しになっている。
「……見つけた」
「アテルさん! 見つけました! 学校に向かう道です!」
確か、最初にユナたちと絡まれたあの場所の近く……。
「そうか……」
アテルさんは低く呟き、仲間を呼び集め、闇に消えていった。その背中の表情――私は一生忘れないだろう。
ふと、自分の格好に気づき、血の気が引いた。
「ヒャッ! ほぼ服着てないじゃん……!」
羞恥で体を丸めてしゃがみ込む。だが周囲を見れば、似たような姿の人々が少なくない。中には裸同然の者もいる。それなのに、どうして私だけが――?
ざわめきが広がった。
「本物のアウリアンだ……しかも女の」
「嘘だろ、珍しいどころじゃない」
「いや、実は男なんじゃ……?」
「耳の羽を見ろ。あの小ささは女だ。初めて見た……!」
まずい。注目されすぎている。この状況は何があっても危険だ――。
その時、一人の女性が声を張った。
「見せもんじゃないよ! この子は、あたしたちを助けたオンジンなんだからさ!」
次々と人々が私を囲み、隠すように立ちはだかる。
「受けた恩は返すよ。それから服もあげるよ、いきなオンジンさん」
その声は凛々しく、心強かった。
「ありがとうございます!」
服を受け取り、私は先輩を背負ったまま走り出す。学校への道は遠く、足は鉛のように重く、視界はぼやける。
――誰か……助けて……。
地面が反転し、視界が暗転する瞬間、私は必死に先輩を抱き締めたまま、意識を手放した。
……何かが聞こえる。声だ。
目を覚ますと、目の前には恐ろしい昆虫のような顔があった。喉が凍りつき、声も出ない。
「驚かせてしまったか……ならばすまない。生まれてこの顔でよかったと思うことは、つくづくないな」
彼は穏やかな声音で話した。――クリケトスの男。
「私はダルムシュタットの関係者だ。フィリカ・エアリア、もう安心しろ」
気づけば、私は服を着せられ、帽子も頭に戻されていた。レティカ先輩も同じ。唯一気になるのは、彼の服の色合わせが壊滅的に下手なことくらいだ。
「私は他のものより色が分かりにくくてな……色合わせは苦手なのだ」
私が心で思う前に、彼は答えた。そうだ、クリケトスは音から思考を拾うことができる種族だった。
「そうだよ」
「……気味が悪いか? なら、すまない。こういう種族なのだ」
「あなたは……?」
「私はゼス。他に名はない」
彼は立ち上がり、背を向ける。
「私はもう行く。カイ氏には既に連絡を取ってある。……たっぷり叱られてこい」
「えっ……?」
「では、アキラにもよろしくな」
そう言い残し、ゼスは闇に溶けていった。
――って、カイさんに言っちゃったのか……!
カイさんは優しく、しっかり者で、時に私の悪ノリに付き合って母を困らせたこともあった。けれど本気で怒らせれば、誰よりも怖い人だ。私は背筋を震わせた。
「何一人でぶつぶつ言ってんだよ」
先輩が呻くように声をかけてきた。手で身体を押さえながら。
「いッ、いえなみもっ……!」
噛んだ。
「噛んだな? はぁ……全く今日はついてない。本当に」
「先輩……バイト、辞めましょう」
「あ?」
「だって燃えちゃいましたし」
「だったらもう行くなって言うんじゃないのか?」
「いいえ。私、少しだけですけど……先輩が背負ってるもの、聞きましたから」
「……アテルか。後で殴る」
「でも、あの人がいなかったら、私たち死んでましたよ?」
お互いに顔を見合った。その顔は、涙で濡れていてもなお美しい。作り物だと言われても――彼女の顔は間違いなく本物の輝きを放っていた。
なぜか、二人してクスッと笑ってしまう。
「たくさん辛いことも苦しいこともあったんですから……ここで大声で愚痴を言ってみたらどうです? 結構気持ちいいですよ」
「かもな……」
先輩は胸いっぱいに息を吸い込み、叫んだ。
「あのクソジジイー!! 私の顔にも肌にも! 触らせるなんて百億光年早いんだよ―――!!!」
……光年なんだ。
「あはは……なんだかよく分かんないけど、すごく気持ちいい」
そこにいたのは、人を睨むでも笑顔を貼り付けるでもない、本当のレティカ・ヴァルムだった。
私は一拍おいて、口を開いた。
「ごめんなさい、先輩」
「ごめんな」
「え?」
口を揃え、私たちは思わず笑った。
言葉にせずとも――その瞬間、私たちは友達になれたのだと、そう思えた。
夜空を仰げば、鋸歯状の流星が眩しく輝いていた。
そして、左手のブレスレットは再び熱を帯びた、それは何かを語りかけてくるようだった。
そして少しづつ夜明けは近ずく。明るい太陽が果てに見える。
「やっぱり太陽って綺麗だな…」
この時の太陽は私の中で一番輝いて見えた。
次回の投稿は9月5日16時10分です!\( 'ω')/




