新たな学びの予感
あの日のから一夜明けた。
今日の現代史特講の授業。ヴァルム教授の言葉は、いつも以上に私の心に深く染み渡った。
歴史とは、ただの過去の記録ではない。今、私たちが立っているこの場所へと繋がる、無数の人々の喜びと、そして痛みの積み重ねなのだと。
隣に座るユナは、時おり私の横顔をちらりと覗いていた。彼女の胸の内には、複雑な感情が渦巻いているのだろう。――自分の軽いノリで私を危険に巻き込んでしまったのではないか、という後悔。そして、友人として私を止められなかったことへの苛立ち。ユナの指先は膝の上で、落ち着きなく動いていた。
……私だけじゃない。あの夜は、きっとチルの心にも何かを残しているのだろう。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、学生たちが騒がしく席を立ち始める。私は、その場で深く、深く息を吸い込んだ。
アテルの…彼の声が頭の奥で反響するように蘇る。
『もし、俺達やあいつらのことが知りたいなら、知れ、学べ。知識はいつだって俺達を救う可能性なんだからよ』
「――あの、ヴァルム教授!」
教壇で片付けをしていた教授の元へ、私は駆け寄っていた。自分でも驚くほどの行動力だった。ぽかんとした顔でこちらを見るユナ。
「……フィリカ・エアリア君か。何か質問かね?」
教授の鋭い目が、私を真っ直ぐに見据える。その視線に一瞬怯みそうになるのを、ぐっと堪えた。
「質問、では、ないのですが……もし、ご迷惑でなければ、お昼をご一緒させていただけないでしょうか」
私の言葉に、教授は少しだけ目を見開いた。そして、何かを探るように、私の瞳の奥をじっと見つめる。
「……構わんよ。食堂でいいかね?」
「はい!」
学食のテーブルで、私たちは向かい合って座っていた。教授が学生と昼食を共にしている、という光景はかなり珍しいらしく、周囲の生徒たちから好奇の視線が突き刺さるのを感じる。
私は、昨夜ハウゼンで経験したことを、慎重に言葉を選びながら、教授に打ち明けた。もちろん、夜間に無断で外出したことや、レティカ先輩の名前は伏せて。
「……街で、異星人の方々が、地球人に対して複雑な感情を抱いているのを、目の当たりにしました。教本に書かれている『共存』という言葉が、とても……空虚なものに感じられて」
アテルさんの言葉を借りながら、私は続けた。
「この世界は、私が思っていたよりも、ずっと歪んでいるのかもしれない、と。そして、私は、そのことについて、あまりにも無知なのだと痛感しました」
私の拙い告白を、教授はただ黙って聞いていた。しばしの沈黙が流れ、彼はゆっくりと眼鏡を外し、鏡のレンズをハンカチで拭い始めた。それは、次の言葉を選ぶための、時間稼ぎの動作のように思えた。
私は、何か見当違いなことを言ってしまったのだろうかと、不安になって口ごもった。
その時――。
「エアリア君」
教授が、眼鏡をかけ直し、初めて私の姓を呼んだ。その眼差しは、先前よりもはるかに鋭く、真剣だった。
「今日の午後の授業は、確か空きだったな?」
「は、はい。そうですけど……」
「少し、私の研究室まで来てほしい。話しておきたいことがある」
その言葉は、拒否を許さない、静かだが強い響きを持っていた。教授の瞳の奥に、初めて、ほんのかすかな光が灯ったのを、私は見逃さなかった。
それは、ただの教師が生徒に向けるものではない。何かを共有する「同志」を見つけたかのような、そんな光だった。
学部棟の最上階、突き当たり。分厚い扉の向こうにある研究室は、床から天井まで書物とデータディスクが積み上がり、言葉通り歴史の森の様相だった。紙の匂い、古い樹脂の匂い、冷却ファンの微かな唸り。時の堆積が空気の密度を変えている。
教授は中央のデスクに腰を下ろし、真正面から切り込む。
「君は、ウィル・トールをテロリストの首魁だと思っているかね?」
「え……」
「私が若かった頃、彼の思想に光を見た。彼は破壊者ではない。真の共存を願う、誰よりも優しい理想家だった」
言葉に重なるように、空間へ古いホログラムが立ち上がる。
笑っていた。子どもたちに囲まれ、陽の当たる街角で肩をすくめる、若い男。教科書の険しい肖像とは別人の、柔らかな気配。胸の奥がじわりと熱を帯びる。
「だが、理想は時に、もっとも過激な現実を生む。三十年の歳月が言葉の意味を変質させ、七年前の悲劇を呼んだ。そして今の政府は、その歪んだ歴史を利用して、さらなる分断を作り出そうとしている」
教授の声には、抑えた悲しみが滲む。
「君たちの世代にとって、『ウィル・トール』とは何だ? 教科書に載るテロリストか――それとも、シミュレーターの称号かね」
「称号……ですか?」
「ああ。戦闘シミュレータで特定条件を満たした者に与えられる最高栄誉が『ウィル・トール』だと聞く。滑稽だろう? かつて流された血と涙が、今や学生の得点に矮小化されている」
息を呑む音が、自分のものとは思えないほど大きく響いた。知らなかった。英雄の名がそんなふうに消費されているなんて。
「私が敬愛したウィル・トールは、ただの『撃墜王』ではない。悩み、苦しみ、それでも誰かのために飛んだ一人の人間だった。……だが時代は、英雄から人間性を剝ぎ取り、空っぽな記号へ変えてしまった」
ホログラムが消え、光の粒が空気へ散る。教授の視線が、あらためて私を射抜いた。
「エアリア君。君は『真実を知りたい』と言ったな。ならば問おう――『理想』と『現実』、どちらを知りたい?」
胸の内で、昨夜のアテルさんの声が反響する。鋭いが一度きりの真実の痛みか、鈍いが永遠に続く嘘の痛みか。
理想だけでは前に進めない。現実だけでは心が折れる。私が欲しいのは――。
「……両方です」
かすかに震えかけた声を、言葉の終端まで運び切る。
「理想の眩しさも、その理想が踏みにじられた醜い現実も。どちらも知らなければ、私は自分の道を考えられないと思います」
教授の口元に、ごく小さな笑みが浮かんだ。満足と誇りを含んだ、師の顔。だが次の瞬間、厳しさが戻る。
「……なるほど。なぜ君がそこまで『知る』ことに拘るのか、少し分かった気がする」
教授の視線が、私の奥底を覗く。
「ハウゼンでアウリアンを見かけなかったと言ったな。なぜだと思う? 彼らがただの難民だからか?」
返す言葉が見つからない。教授は言葉を継いだ。
「君の落ち着いた佇まい、時間の流れからわずかに取り残されたような瞳の色……。私が若き日に理想を語り合ったアウリアンたちと同じだ」
心臓が跳ね、掌に汗が滲む。見抜かれている。だが、問い詰めるでも断定するでもない、ただ確認するような声音だった。
教授は追及を避け、引き出しから古いデータチップを取り出す。指先ほどの金属片が、燻んだ光を返した。
「……合格だ、エアリア君」
今度の笑みは、はっきりと温かい。
「三十年前、私が記録したソラリス・インクイジティオの個人的な活動日誌だ。公には残っていない。君が求める『理想』と『現実』の入り口が、ここにある」
チップが手のひらに落ちる。ひやりとした感触。小さな重みが、肩口までずしりと伝わる。
「覚えておけ。この扉を開けば、君はもう『ただの学生』ではいられない。君自身が、この歪んだ歴史の『当事者』になる。……それでも行くか?」
迷いは、意外なほど短かった。
「……はい」
その一言で、部屋の空気が僅かに変わった。教授は安堵とも決意ともつかない表情を浮かべ、軽く頷いた。
――この瞬間、私の本当の学びが始まった。
研究室を出ると、夕方の光が廊下の床に長い帯をつくっていた。掌のチップは相変わらず重い。歩くたび、その重みが軋んで位置を変える。
(私に、何ができるんだろう)
大きな不安が、決意の縁を柔らかく噛む。私はまだ、一人の学生に過ぎない。真実を知って――それから、どうするのか。
ぼんやりと歩いていた足が、掲示板の前で止まった。
色鮮やかな告知ポスターが目に飛び込む。
『未来の担い手は、君だ!
生徒会役員・後期補充メンバー募集説明会のお知らせ』
中央には端正な署名――生徒会長 アゼル・グラード。その下に添えられた一文が、いまの私にだけ届く周波数で鳴った。
「共に、この学園の明日を作らないか」
学園の、明日。
世界の真実に手を伸ばそうとしながら、私は同時に、この「箱庭」の明日から目を逸らしていなかっただろうか。遠すぎる言葉のはずなのに、妙に胸に引っかかる。
知らず、スマートパネルが手の中で明滅していた。私は無意識に、説明会の日時と場所を記録する。
アテルさんの低い声、レティカ先輩の閉ざされた瞳、そして教授の問い。点と点だったものが、細い線で繋がりはじめる。
――それが、新たな出会いと、奇妙で騒がしい日々の、本当の始まりになるとも知らずに。
次のエピソードは9月2日19時に投稿します。




