覗き込む瞳、覗き返す瞳
ナミの心配そうな顔を振り切るみたいに、私たちは寮の裏門をそっと抜け出した。鉄柵が夜気を吸って冷たく、開くときにわずかに鳴った。頬に触れる風はひんやりしているのに、胸の内側は熱い。
二度目のハウゼン。今夜の目的は、前回のような勝手に決めつけられた恐怖を振り払うことじゃない。もっとまっすぐな――知りたい、という気持ち。この街は本当はどんな顔をしているのか。崖の下に広がるざわめきの道路の海に、私の心は期待に似た震えを覚えていた。
「うわ〜、やっぱ夜は活気あるね〜!」
ユナがきらびやかなネオンの帯を見上げて、素直に声を上げる。音楽とさまざまな言語の呼び込みが入り混じり、層を成して押し寄せてくる。
「未知のエネルギーに満ちているね〜。観測のしがいがあるよ〜」
チルはきょろきょろと周囲を見渡し、瞳に街の光をいくつも映した。
前回感じた、地球人と異星人の間に流れる見えない壁は、たしかにあった。けれどそれだけじゃない。肩を寄せて笑い合う混成のグループ、商談を終えて互いに手を叩き合う姿、踊る子どもを見守る屋台の親父――。この街は、私が思っていたよりずっと複雑で、混沌として、そして生きていた。
そのとき、雑踏の波の切れ目で、ふと視線が止まる。路地の口に、見覚えのある桃色が揺れた。
ダルムシュタットスクールの制服とは明らかに違う、安物の艶やかな上着。
レティカ先輩……?
けれど、そこにいたのは先輩よりも幼く見える少女だった。体格のいい地球人の男と親密そうに言葉を交わし、笑う。その横顔は驚くほどレティカ先輩に似ているのに、纏う空気は違った。危うさと、儚さ。
少女は私に気づくことなく、男と腕を絡め、夜の路地に吸い込まれるように消えた。
(そっくりさん……? それとも――)
新しい疑問が、心の底に小さな泡のように浮かんでくる。
「あーーっ!」
ユナの間の抜けた悲鳴が、考えを断ち切った。
「どうしたの?」
「ポッケに入れてた学生証がない!」
ユナが慌てて来た道を振り返る――けれど、群衆はもう形を変えていて、拾い上げられるものなんて見当たらない。
「おい、そこの嬢ちゃんら。これ、アンタらのもんじゃねえか?」
背後から、粘つく声。振り向くと、屈強なヴァルカリア人を先頭に、バッタのような体躯のクリケトスが二体。三人組の異星人が立っていた。ヴァルカリアンの男が、ひらひらとユナの学生証を揺らす。
「ダルムシュタットスクール……へえ、あの偉そうな特権階級のガキどもか」
その目に、蔑みと羨望が同時に灯る。しまった、と思う。この街から見た私たちの位置が、露わになる。
「返してください」
ユナは一歩踏み出し、はっきり言った。
男は鼻で笑う。
「返してほしけりゃ、ちょっと憂さ晴らしに付き合え。恵まれた巣でぬくぬく育ったお前らにゃ、世間の空気ってもんが分かんねえだろ」
じり、と三人が距離を詰めてくる。逃げ道は薄い。
それより悪いのは、いつの間にか周囲に輪ができていたことだ。騒ぎを嗅ぎつけた野次馬たち――ほとんどがこの街の異星人――が、手は出さず、目だけを光らせて見ている。私たちがどうなるかを見届ける観客。そこに混ざる好奇と、ちいさな悪意。
私たちは、完全に孤立していた。
「ふざけないで! あんたたちにそんなことをする権利はない!」
最初に火花を散らしたのはユナだ。恐怖に飲まれない。だからこそ、言葉は真正面から出た。
ヴァルカリアンの巨腕が横に払われる。
「きゃっ――!」
ユナの身体が軽々と弾かれ、石畳に倒れ込む。
「ユナ!」
駆け寄ろうとした私の前に、クリケトスの細長い脚が交差して立ちはだかった。
「ひっ……」
隣でチルの息が詰まる。彼女の手が震え、顔から血の気が引いていく。
どうする。どうすれば――。
(ここで、私がアウリアンだと明かせば……?)
(同じ異星人として、見逃してもらえるかもしれない……でも、そしたら――)
仲間を置いて、自分だけ助かろうとすること。正体を晒すこと。悪魔の囁きみたいな選択肢が、脳裏で形を持ちはじめる。いやだ。そんな自分は、いやだ。けれど、時間は待ってくれない。
もう、だめ――そう思った、そのとき。
「――そこまでにしとけ」
低く、芯の通った声が群衆の奥から落ちた。
ざわめきが割れ、モーゼの海みたいに人垣が二つに開く。現れたのは、フードを目深にかぶった男。その手には、さっきまでヴァルカリアンが弄んでいた学生証が握られていた。
「なんだ?売春野郎はやっぱり若い女が好みですかい。」
ヴァルカリアンが吐き捨てる。
男は、ゆっくりとフードを外した。若そうに見えるが、眼差しは冷たく澄んでいる。頬に薄い古傷。取り去られたフードの名残のように、羽のように縁の柔らかい耳殻に仄かな影が落ちている――アウリアンだ。
彼は三人組をひと撫でで見渡し、無駄な感情を乗せない声で言った。
「鬱憤晴らしは他所でやれ。ガキ相手に張り合って、そんなに暇か」
わずかな沈黙。三人組の足が半歩だけ引く。場に、短い隙が生まれた。
「――今だよ!」
震えているはずのチルの声が、芯を持って響く。
彼女はいつの間にか懐から小さなドローンを引き出し、親指でスライドスイッチを弾いた。
次の瞬間、シュゴォッ――という音とともに、白濁した熱湯の霧が勢いよく噴き出す。
視界が、一気に乳白色の膜で覆われた。湿った霧が喉に触れ、肌に貼りつく。
「な、なんだこりゃ!」
「ど、どこ行きやがった!」
うろたえる声があちこちで跳ねる。
「走れ!」
太い男の声が、霧の向こうから的確な方向を示す。
私ははっとして、倒れていたユナの腕を掴み、無理やり立たせる。もう片方の手でチルの手首を握る。
「こっち!」
声のする方へ。白い幕をかき分け、石畳の起伏を踏む。ぶつかる肩、追ってくる足音、遠くのクラクション。呼吸が熱く、耳の奥で自分の心音が鳴る。
角を二度曲がる。生臭い運河の匂いがして、そこからさらに細い通りへ。霧が薄くなり、ネオンの光がまた輪郭を取り戻す。
背後で、群衆のざわめきが遠ざかった。
「だ、大丈夫?」
私はユナの肩を支え、チルの額を覗き込む。
「平気……ちょっと、お尻が痛いだけ……」
ユナは顔をしかめつつ、気丈に笑って見せた。
「ドローン、良かった……」
「非常時は水を沸かして視界を切るのが一番だよ〜。あと、屋台の鍋とお湯も借りました〜」
「借りたの!?」
「お湯は返したよ〜。ちゃんと“熱エネルギーの地産地消”」
「それ、言い換えになってない」
肩の力が少し抜ける。生きている、という感覚が遅れて戻ってきた。
同じころ。
ダルムシュタットスクールの寮・E-07。
ナミは薄暗い部屋で、スマートパネルの画面を凝視していた。ハウゼンの簡易地図に三つの光点。位置情報は常時送信、通信は接続済み。設定した合言葉は「にんじん」、逆言は「んじにん」。
光点の動きが荒くなり、速度が跳ねる。ナミは息を詰め、マイクを軽く叩いた。
「こちらナミ。応答を」
耳元の小さなスピーカーがノイズを吐く。
『……こっちは……だい……ぶ……にんじん! にんじん!』
ユナの声。混線しているが、合言葉は入った。
「了解。周辺の人流密度が高い。南東へ百二十メートル先で開ける。路地は避けて。――チル、ドローンはもう使えない?」
『再加熱に三分……でも、屋台の鍋をうば……貸してくれる気配〜』
「買って返しなさい。領収書は後で確認するから」
『……』
「何で黙る?」
コン、コン。
「ナミ・キリサワさん? まだ起きていますか?そろそろ就寝時間ですよ」
寮監の落ち着いた声が扉越しに落ちる。
ナミは反射でパネルの光を落とし、布団の端を掴んで跳ねた。
「は、はいっ! もう、皆とっくに寝ています!」
短い間。
「そっ、そうですか。早いですね…皆さん」
足音が遠ざかる。
ナミは静かに息を吐き、再びパネルを灯した。三つの光点が、さっきよりも安定した速度で動いている。
「……まったく、あの三人は」
小さく、心からの言葉が零れた。
「無事に帰ってきてくださいよ」
指先は震えていない。視線は、三つの灯りを離さない。彼女の後方支援は、まだ始まったばかりだ。
一方フィリカの方では…
「しっ、静かにしろ。もう追手は来てねえ」
低い声が耳に届く。その声の持ち主は、私たちを助けてくれたアウリアンの男だ。
彼がゆっくりと手を離すと、私は止まっていた息をようやく大きく吸い込む。そこは建物の影になった小さな空き地のような場所で、遠くで鳴り響いていたサイレンも、ここまでは届いてこない。
「あ、ありがとうございました……助けていただいて……」
なんとかお礼を口にすると、彼は「別に」と短く答えるだけだった。その声音はぶっきらぼうだったが、不思議と冷たさは感じなかった。
「大丈夫か? お前ら」
彼の視線が、私たち三人に向けられる。
「は、はい……なんとか……。でも、ユナが……」
私は横を見る。ユナは地面に座り込み、突き飛ばされたときについた膝の擦り傷を痛そうにさすっていた。彼女の顔には強がりが浮かんでいたけれど、その瞳はまだ怯えの色を消せずに揺れていた。
アテルさんはそれを見ると、黙って自分のハンカチをユナの前に差し出した。
「え?」
「気休めだ。とりあえず巻いとけ」
ユナは一瞬迷ったが、やがて素直にそれを受け取り、自分の膝に巻き付ける。彼女は声を出さずに小さく「ありがとう」と呟いた。きっと、こんな場所で迷惑をかけてしまったことを気にしていたのだろう。彼女の横顔には、悔しさと安堵とが入り混じっていた。
「それと、これを」
差し出された手の中に、ユナの学生証。
「……ありがとう」
ユナが受け取って、胸に抱きしめる。
「礼はいい。――ここは、見てのとおり混ざり合ってるが、混ざらないものも多い。お前らは“見に来た”。けど“見られて”もいる。覚えとけ」
ふと隣に目をやると、チルちゃんはじっと私の手を握ったまま、彼を見上げていた。その瞳には、恐怖よりも強い好奇心の光があった。震える手はまだ完全に落ち着いていなかったけれど、彼女の中で恐怖と同じくらい「知りたい」という思いが膨らんでいるのが伝わってきた。
沈黙が落ちる。何を尋ねればいいのか分からずにいる私を見透かすように、彼は口を開いた。
「……ダルムシュタットの学生が、こんな夜更けに、こんな場所で何してやがる」
「それは……」
「この街が、お前らみたいなのが物見遊山で来ていい場所じゃねえってことくらい、分かっているはずだ」
その言葉には棘があったが、責めるというよりは、何かを諦めた響きのように感じられた。
私の胸に、あの瞬間の記憶が蘇る。仲間を置いてでも逃げようとした、最低の考え。異星人だから助けてくれるかもしれないと、甘えた期待を抱いてしまったこと。もしこの人に知られたら、きっと軽蔑されるだろう……。
「まあ、今の時代。どの町でもあんなことはよく起きる」
彼は低く続ける。
「この世界で、人間と俺たち異星人がどれだけ複雑な関係で成り立ってるか……お前ら、学校で教わったか?」
私たちは答えられない。ユナが唇を噛み、チルちゃんは目を伏せた。
「『共存』……聞こえのいい言葉だ。だがな、現実は違う。人間は俺たちを『便利な労働力』か『物珍しい見世物』くらいにしか思っちゃいねえ。そして俺たちの中にも、人間にへつらってうまい汁を吸おうとするやつもいれば、今日みたいに鬱憤をため込んで暴れるやつもいる。……どっちも根っこは同じだ。初めから歪んでんだよ」
その言葉はヴァルム教授の講義よりもずっと生々しく、嫌に胸に突き刺さるようだった。ユナは膝に巻いた布を見つめながら、小さく震えていた。きっと「便利な労働力」という言葉が、彼女の心に刺さったのだ。彼女はいつも周囲に気を遣い、人に迷惑をかけまいと必死に振る舞ってきた。だからこそ、人を道具扱いするような言葉に、深い恐怖を覚えたのだろう。
一方でチルちゃんは、彼の言葉を全身で受け止めるかのように、真剣な眼差しを向けていた。彼女の瞳には、怯えだけでなく「もっと知りたい」という強い欲求が宿っている。彼女は恐怖を押し殺し、その先にある真実を求めていた。
「アウリアンが、この街にいないのも……それが理由なんですか?」
私の問いに、彼は自嘲するように笑った。
「俺たちは、特に面倒な立ち位置でな。母星を人間に消されたって背景があるから、同情されることもあれば、過剰に警戒されることもある。どっちにしろ、腫れ物扱いだ。……こんなゴミ溜めみたいな街でも、俺たちみたいなのはうまく馴染めねえのさ」
「俺は必死で毎日を生きている。それはあいつらも、お前らも同じだ。そこに優劣はないさ…無いはずなんだ」
その言葉を聞いた瞬間、私はあのピンク色の髪の少女を思い出した。レティカ先輩にそっくりな、あの危うい雰囲気の人を。
私は二人に聞かれないように、彼の耳元で囁いた。
「あの……さっき、レティカ先輩に似た人を見かけたんです。男の人と、一緒に……」
そう口にすると、彼の眉がぴくりと動いた。
「……レティカ、か」
何かを言いかけて、彼はやめた。ただ苦々しい表情で夜空を見上げる。
「あいつは……あいつで、必死に頑張っている。お前達とは違うやり方なだけだ」
その言葉の意味は、まだ分からなかった。けれど、レティカ先輩の笑顔も、拒絶の顔も、怒りの顔も、すべてが繋がっていくような気がした。
「もし、俺達やあいつらのことが知りたいなら、知れ、学べ。知識はいつだって俺達を救う可能性なんだからよ」
彼はそう言って軽くため息をはいた
「お前ら、もう帰れ。心配してくれるやつもいるだろ?」
そう言い、彼は背を向ける。
「あの、お名前は……」
「……アテルだ」
それだけ言い残し、闇の中へと消えていく。その背中は広く、そしてひどく孤独に見えた。
残された私たちは、顔を見合わせる。
ユナはまだ膝を押さえたまま、小さく「怖かった……」と呟いた。けれどその瞳には、恐怖だけでなく「もっと強くならなきゃ」という決意が宿り始めていた。
チルちゃんは震える手を握りしめながら、「知りたいことが、また増えちゃった」と笑みとも涙ともつかない表情を浮かべた。彼女にとって恐怖は、探究心を押さえ込む理由にはならなかったのだ。
「……帰ろっか」
ユナの言葉に、私とチルちゃんは黙って頷く。
今夜、私たちは多くを知った。この街の、この世界の歪んだ真実を。そして、レティカ先輩とアテルさんという二人の孤独な戦いを。
胸は重くなったはずなのに、不思議と恐怖は薄れていた。むしろ、もっと知りたいという気持ちが、強くなっていた。
この歪んだ世界で、私は、私たちはどう生きていけばいいのか――その答えを探すために。
寮へと続く暗い坂道を登りながら、私は心に誓った。隣を歩くユナとチルちゃんもまた、それぞれの決意を胸に抱きながら。
寮への帰り道、私たちは誰一人、口を開かなかった。
ナミにこっぴどく叱られた後も、ベッドに入ってからも、アテルさんの言葉と、孤独な背中が、私の頭から離れなかった。歪んだ世界。腫れ物扱いのアウリアン。そして、レティカ先輩の、まだ見えない戦い。
知らないことは、罪じゃない。けれど、知ろうとしないのは、きっと罪に近い何かだ。
寮への帰り道、私たちは誰一人、口を開かなかった。
ナミにこっぴどく叱られた後も、ベッドに入ってからも、アテルさんの言葉と、孤独な背中が、私の頭から離れなかった。歪んだ世界。腫れ物扱いのアウリアン。そして、レティカ先輩の、まだ見えない戦い。
知らないことは、罪じゃない。けれど、知ろうとしないのは、きっと罪に近い何かだ。
夜の消灯後、同室のユナとチルが、囁くように話していた。
「ねぇ……フィリカ、まだ起きてる?」
ユナの声は、普段の無邪気な調子ではなく、少し心配を滲ませていた。
「うん。眠れなくて」
私が返すと、上段ベッドのチルが小さく息を吐いた。
「……あたしも。街で見たアウリアンの顔が、ずっと離れないんだ。笑ってる人もいたけど、目が笑ってなかった。あれ、忘れられない」
チルの声は、普段の飄々とした調子とは違って、妙に大人びて聞こえた。
「私も……」ユナが言葉を継ぐ。「知らないままのほうが楽なのかもしれないけど、それじゃ、ずっと変わらないんだよね。ナミは何も言わなかったけど、きっと同じこと考えてると思う」
「……あなたたち…まだ、起きてるんですね?」
ナミが不安げに話に加わった。彼女も今日起きたことがまだうまく実感として感じにくいのだろう。それでも残った強いインパクト忘れられずに眠ることもままならないのは私も同じだ。
「早く寝ないとなのにですね…正直怖かったです。こんなこと初めてだったので、余計。でも、今はとりあえず皆さんが返ってきてくれて、私とっても嬉しいです」
ランプの柔らかな光に照らされたナミの横顔は、いつもの厳しさの奥に、人としての迷いが浮かんで見えた。
四人の間に、言葉にしきれない空気が漂う。
あの夜を共に過ごしたことで、私たちの間には、新しい絆のようなものが生まれた気がした。軽々しく口にできないけれど、それは確かに温かく、そして重かった。
――知らないままではいけない。
今夜芽生えたその思いは、一夜明け、より硬い決意となって私の胸の中に宿っていた…
次回は8月29日金曜16時10分に更新します!=͟͟͞͞(๑╹ω╹三╹ω╹๑=͟͟͞͞)




