静寂な激戦を抜けて
ペリカンユニットを装備したガーディアンは、暗黒の水底から光へ向かって上昇していた。深度計の数字が刻一刻と減少するにつれ、機体の外殻が軋む音は高く鋭くなっていった。神経接続ケーブルから流れる過負荷の警告がネプトの視界を歪ませる。ザーンを貫いた剣の感触が、操縦桿を握る掌に蘇る。
「深度800メートル。減圧シーケンス開始」
アルケの声がわずかに震えていた。彼女は輸血後の虚脱感と戦いながら、生命維持システムを監視している。
「…大丈夫か?」
ネプトが問うと、
「心配するより前を」とアルケはモニターを指さした。
「連合の境界監視網が起動している!」
スクリーンに無数の青い光点が浮かび上がる。ヴァルカリアン正規軍の自動哨戒ドローン群だ。深度600メートル地点に張られた生体電流ネットが、侵入者を感知すると蜘蛛の巣のように収縮を始めた。
「強行突破だ」断層を抜けるネプトは即座に決断した。
[警告:左腕機能停止]
[背部装甲損傷率82%]
警報の断末魔がコックピットを歪ませる。深度計は600mを示し、下降する水圧で外殻が呻く。ネプトの視界は神経接続の過負荷で歪み、虹色のノイズが踊る。スクリーン一面に無数の青い光点が蜘蛛の巣状に収縮する──ヴァルカリアン正規軍の自動哨戒ドローン群「シーフェンス」だ。生体電流ネットが獲物を感知し、光点は瞬く間に密集した殺意の壁へと変貌した。
「アルケ!左腕の残存油圧、全量バラストタンクへ注入!」ネプトの声は渇いていたが震えていない。
「了解!でもこれで姿勢制御は──」
「いいから!」
ガーディアンの損傷した左肩部から油圧オイルが黒い煙幕のように噴出。深海の闇に濃密な墨の雲が炸裂する。同時にネプトは操縦桿を思い切り右に倒し、ペリカンユニットの背部スラスターを逆噴射。機体は急減速し、ほぼ停止した。
「動きを止めた!?自殺行為だ!」アルケが叫ぶ。
その刹那、先陣のドローン群が煙幕に突入。生体電流センサーが油煙に惑わされ、青い光点が乱舞する。彼らは「動く標的」に反応するようプログラムされていた。静止したガーディアンは、網の目をすり抜ける塵となった。
「今だ!全速前進!」
ペリカンのメインスラスターが深紅の炎を噴く。機体が重い水の壁を押し分け突進する。神経接続率は危険域の138%に達し、ネプトの頭蓋に釘を打ち込まれるような痛みが走る。視界がさらに歪む──代わりに水流の圧力変化が数式として脳裏に浮かぶ。ドローンの動きを予測する軌跡計算だ。
「右から三機、クロスファイア!」アルケが警告する。
「分かっている!」
ネプトは操縦桿を微速で前後に揺らす。ガーディアンが奇妙な小刻みなジグザグ運動を開始。ドローンが放つ生体電流ビームが、機体の数メートル後方の水を沸騰させる。
[被弾予測軌道 計算完了]
仮想ディスプレイに無数の赤い線が走る。ネプトはその中で唯一の「隙間」を見つけた。海底から突き出た熱水噴出孔の列──「煙突の森」だ。
「アルケ!医療レーザー出力最大!噴出孔の基部を狙え!もう一度やってやる」
「何を──!?」
疑問はあれど、アルケの指は即座にキーを叩いた。ペリカン右腕の患部焼灼用レーザーが発射される。細い赤い光線が熱水噴出孔の根元を掠める。
ズドォオォンッ!!
地盤が揺れる。レーザーの熱刺激で噴出孔の活動が暴走、沸騰する熱水とガスの大噴流がドローン群を飲み込んだ。生体電流ネットが熱擾乱で乱れ、青い光点の網が一瞬痙攣する。
「突破口!」ネプトが歯を食いしばる。
ガーディアンは噴煙の中へ突入。視界は真っ白な湯気に遮られる。モニターはノイズまみれだ。ここではセンサーよりネプトの拡張された感覚が頼りだった。機体の外殻が高温で軋む音、水流の微妙な圧力変化、それらが「目」となる。
「深度400m!減圧シーケンス最終段階!」アルケの声が緊張で鋭い。「外殻の歪み限界を超えてる!」
「黙って数えろ!」ネプトの額から冷や汗が操縦桿に滴る。
白い熱煙のカーテンを抜けた瞬間、待ち構えていた第二波のドローン群が放つ生体電流ビームの豪雨が襲いかかる。回避不可能──ネプトは直感で操縦桿を押し込み、ガーディアンを急降下させる。ビームが頭上を掠め、代わりに機体の背部装甲が水圧に押し潰される鈍い音が響いた。
[警告:背部装甲損傷率97%]
[コックピット隔壁 圧力異常]
「くっ…!」アルケの頭が座席に叩きつけられる。
ネプトは視界の歪みを利用した。虹色のノイズの中に、ドローン群の生体電流ネットの「節点」──指揮系統を司る大型制御ドローンが浮かび上がる。ペリカンのコアを限界まで駆動させる。神経接続ケーブルが過熱し、肉焼ける臭いがコックピットに充満する。
「アルケ!最後の医療用ナノパッチ!外殻の亀裂に貼れ!」
「そんなことしたら──!」
「やれ!」
アルケが緊急ハッチを開け、命綱で機体に縋りながら、ペリカンの背中に輝く医療用接着パッチを叩きつける。ナノマシンが瞬時に亀裂を塞ぐが、それは一時的な止血に過ぎない。
その隙にネプトは動いた。ペリカンの残存した右腕で、海底の沈没船の残骸を掴み、巨大な鉄の塊を制御ドローン目掛けて投擲する!
ドローン群が反応、ビームを残骸に集中させる。その0.5秒の隙。
「行くぞ…!」
ペリカンは自らも残骸の影に潜み、ビームの集中と同時にスラスター全開! 投げた残骸を「盾」にしつつ、その真後ろに密着して突進する。制御ドローンが眼前に迫る──!
「これで終わりだ!」ネプトの叫びと共に、ペリカンの右腕が医療用高周波メスを展開し、制御ドローンの生体センサー群を無惨に掻き切った!
青い光点の網が一瞬で消滅。残存ドローンは統制を失い、互いに衝突し火花を散らす。
「突破…!」アルケの声は安堵と疲労で震えていた。
頭上には、深い藍色から薄い群青色へと変わりゆく水の光が差し始めていた。深度300m。ガーディアンの外殻は限界を超えた減圧で無数の歪みを生じ、ペリカンユニットからはオイルと冷媒液が細い糸を引いていた。しかし、機体はなおも光を目指し、血と油と深海の闇を混ぜた航跡を残して上昇を続ける。ネプトの掌には、操縦桿の握りしめた感触と、消えぬザーンの血の重みが、同時に刻まれていた。
「…っ!?」
ネプトの視界に、海底断層の詳細な3Dマップが重なり、所々に「×」印が点滅する。父が密かに記録した危険区域だった。
「こんなものが…!」アルケが息を飲む。
「あの人は…いや父さんか…この脱出路を既に用意していたのか」
コックピットの隅で、アルケが微かに身震いした。深度200m──減圧による水の青さが、彼女の顔に柔らかな陰影を落としている。ネプトがバックアップシステムのチェックを終え、振り返った時、彼女は無防備に眠っていた。軍用規格の神経接続痕が首筋で微かに光る。その傷跡は、ネプトが修理したプラグよりも深く、複雑に枝分かれしている。
(…ヴァルカリアン軍の養成課程でしか使われない「第2世代直結型プラグ」の痕だ)
ネプトの指が、コントロールパネルに埋めた父の飛行機オブジェに触れた。アルケの吐息が浅い。輸血の影響か、それとも──
「私の母はヒトだった」アルケの目は閉じたまま、唇だけが動いていた。
ネプトは黙った。スクリーンに映る深度計の数字が、ゆっくりと190mへと変わる。
アルケの声は、深海の水のように冷たく澄んでいる。「ヴァルカリアン軍情報部の諜報員…任務で地上に潜入し、父と出会った」
彼女の指が、首の傷跡を撫でる。その動きは、忌々しい記憶を押さえつけるようだった。
「生まれは『希望』だった。混血児として、軍の広報塔に祭り上げられた」口元が歪む。「…でも『希望』なんて、所詮は実験材料に過ぎなかった」
深度180m。機体の外殻が軋む音が鋭くなる。
「軍は私の身体を調べた。ヒトの遺伝子がヴァルカリアンの深海適応能力を阻害する『欠陥』を探すために」アルケのまつげが微かに震えた。「15歳の時、純血派の上層部がクーデターを起こした。『混血は穢れ』と…」
彼女はゆっくりと目を開けた。深海の光が、彼女の瞳の縦長の瞳孔を青く染める。
「追放されただけならまだしも…」アルケの手が左肩を押さえる。戦闘服の下に、くっきりとした三本爪の傷痕がある。ザーンのマークと同じだ。「軍の『資産』である私の身体から、軍用プラグを『回収』しようとした連中がいた」
ネプトの息が止まった。剥ぎ取られたプラグの痕──あの複雑な傷跡の意味を、ようやく理解した。
「その時助けてくれたのが、ソラリスの海中支部だった」アルケの目がネプトを真っ直ぐに見つめる。「君が嫌悪する組織に、私は命を救われた」
コックピット内が重い沈黙に包まれる。深度計は170mを示し、水面の光がモニターを青白く照らす。
「…なぜ今?」ネプトの声は渇いていた。
「ザーンを殺した時、君の手が震えていた」アルケの指が、ネプトの操縦桿を握った手の甲にかすかに触れる。「私も初めて人を殺めた時、同じ震えが止まらなかった…君の手に、嘘は似合わない」
ネプトは己の掌を見つめた。鉄の味と、青い血の記憶が蘇る。
「ソラリスは過激だ」アルケの声に苦みが滲む。「私も…君の父レオンのように、彼らの思想には賛同できない」彼女の目が、ネプトの飛行機オブジェを見た。「でも、私を人間扱いしない連合にも、混血児をモルモット扱いするヴァルカリアン軍にも、居場所はなかった」
深度150m。ペリカンのスラスター音が変化する。間もなく水上だ。
「君の母を助けるためなら…」アルケの背筋が伸びた。軍人時代の名残が、その姿勢に滲む。「この命は使って。それが、ソラリスの医療プラグを修理した恩返しだ」
ネプトは深く息を吸い込んだ。スクリーンに、薄く光る水面が映っている。父の飛行機オブジェが、その光を受けて微かに輝いた。
「一緒に地上へ行こう。母を助けるために」ネプトが静かに言った。「それが僕にとっての恩返しなる」
彼は操縦桿を握りしめ、上昇スロットルを押し込んだ。ペリカンが最後の深い水を切り裂き、青い光へと突き進む。アルケの頬を、一粒の水滴が伝った。それが海水か、それとも別のものか──ネプトは敢えて問わなかった。
深度0メートル。
ガーディアンが海面を破った瞬間、ネプトは初めて本物の太陽光を浴びた。スカイ・ミラーが映す偽りの星空とは比べ物にならない、肌を灼くような光と熱だった。モニターには荒れ果てた地上の風景が映る──崩れたビル群、錆びた構造物、そして遠くに微かに緑をたたえる「キャノピー・グロウ」保護区。
「…これが、父さんが命をかけて守ろうとしたものか」
ネプトの目に涙がにじむ。視界の端で、アルケが無言で彼の震える手を握り返した。
[警告:大気組成適合不全]
「まずい…」アルケの顔色が青ざめる。「私の体が地上環境に耐えられない。ヴァルカリアンの血が拒絶反応を…」
彼女の首元のエラ器官が痙攣し始める。カイの警告はここにもあった。ヴァルカリアン混血の弱点だ。
地平線に軍用VTOLの影が迫る。連合の追跡部隊だ。
「アルケ、しっかりしろ!」ネプトはペリカンユニットの医療モジュールを起動する。「ソラリウムE3は君の体にも必要だ。ここで倒れてはいけない…!」
機体は瓦礫の街を跳ぶように進んだ。父の航路図は地上でも点滅を続けている。その先には──
巨大な風車群が回る緑の谷間。そこが「キャノピー・グロウ」だった。
しかし入り口には、羽耳を煌めかせたアウリアンの監視兵が待ち構えている。彼らは優雅に弓を構え、先端に光る特殊な矢をネプトの機体に向けた。
「侵入者よ。ここは連合管理下の聖域だ」
アウリアンの声は音楽のように美しく、そして冷たい。
「お前たちの『罪』は、天翔人の裁きを受けるがいい」
ネプトはコックピットの父の飛行機オブジェを見つめる。
(父さん…あなたはこんな時、どうした?)
すると、オブジェの翼が微かに震え、一筋の光がキャノピー・グロウの奥深く──風車の陰に隠れたソラリスの「静かなる太陽の輪」が刻まれた地下ハッチへと指し示した。
ソラリスの真実と母の命が天秤にかかる。
ネプトはアルケのため息のような呼吸を背に、操縦桿を握りしめた。
「…僕たちは“罪”など犯していない。通る!」
ガーディアンはアウリアンの矢をかわし、緑の園へと突入する。その機体を包むのは、レオンが夢見た本物の太陽の光だった。父の意志は、今、確かに息子の手の中で鼓動している──
「ヒデェ有様だな~あれが海中支部から報告のあったやつか」
「大切なお客様だ、馬鹿な真似はするなよ」
「この大地に誓ってそれはしないね」
そう言って二人の男はボロボロのガーディアンを見上げた。