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灰陽航路(かすがいこうろ)  作者: Asuga
第二章 陽
29/48

知らないこと、知りたいこと

 その夜、私は夢を見た。

 ハウゼンの薄暗い裏路地。濡れた石畳の匂いと、甘く焦げた煙の匂いが、鼻の奥で絡み合っている。ガラクタの山に背中を押しつけられ、逃げ場を失った私の前に、レティカ先輩が立っていた。いつものように笑ってはいない。無表情――凍った湖面みたいに、光を弾くだけの顔。瞳だけが鋭く、生き物を測る肉食獣のそれだった。

 彼女がゆっくりと手を伸ばしてくる。空気が指の形に沿って歪む。私は反射的に身を引こうとするのに、身体は鉛の塊になったみたいに動かない。喉に声を集めても、漏れるのはかすれた空気の音だけ。

 ――助けて。

 言葉が音にならないまま、煙の膜に吸い込まれていく。


「……はっ!」


 自分の荒い息遣いに押し上げられるように、私は目を開いた。胸が激しく上下し、心臓が肋骨の檻を内側から叩いている。パジャマはじっとり汗を含み、素肌に冷たく貼りついて気持ち悪い。

 窓の外はまだ夜の気配を引きずったまま、東の縁が薄く白く解けはじめていた。鳥の声はなく、寮の廊下の遠いところで、誰かのスリッパがぺたぺたと二度鳴った。


「おはよ〜、フィリカ」

「……おはよう、ユナ」


 朝は、いつもどおりに始まる。ユナが洗面用具を抱えて髪をひとつにまとめ、あくびを飲み込む。ナミはすでに制服の襟をきちんと整え、静かに本を開いていた。チルは布団の中でミノムシになり、「宇宙時間であと五分」と意味のわからない抗弁をする。

 つい昨日までなら、その光景は私の心を温める“日常”だったはずなのに。今朝の私は、分厚いガラス越しに眺めているような、遠さを感じていた。みんなの声が、遠い国の言葉みたいに少し遅れて耳に届く。


 食堂の湯気は、いつもより白く見えた。パンの甘い匂い、スープの湯気、食器の触れ合う音。私はトレイの端を両手で押さえ、息を整える。


「フィリカ、まだ顔色悪いよ? 大丈夫?」

「うん、大丈夫。ちょっと、寝不足なだけだから」


 笑顔を作ろうとするのに、頬の筋肉がうまく動かない。自分の顔がひどく引きつっているのを、内側から見ているみたいに分かった。

(もし、ユナたちにレティカ先輩のことがバレたら? 私が、あの夜のことを話したと、先輩に思われたら?)

 最悪の想像が、頭の中で黒い渦になって回る。胸の真ん中に、小さな針が一本刺さったまま、呼吸のたびにちくりとする。


 食堂を出て、教室へ向かう廊下で――。


「やっほー、フィリカちゃん! おはよ!」


 向かいから、レティカ先輩が来た。昨日と同じピンクの髪は朝の光を受けて柔らかく、笑顔は完璧に整っている。

「あ……お、おはよう、ございます」

 喉が乾いて、声が震える。私はまともに彼女の顔を見られない。

 けれど先輩は、私のこわばりに気づいた様子もなく、友人たちとの談笑に滑らかに戻っていく。足取りは軽く、笑い声は澄んでいた。

 ――あの人は、全部を隠して笑える。殺意も、汚い言葉も、あの底なしの目も。

 背筋に、細く冷たいものがすっと走った。


 私は授業に逃げ込んだ。難しい公式や古い年号を、盾のように並べる。理解しようとする集中力が、恐怖の隙間を一時的に埋めてくれるから。

 とくに、ヴァルム教授の「現代史特講」は、今日に限ってやけに胸に刺さった。

 教授は黒板の前に立ち、どこか祈りのような静かさで言う。


「歴史はしばしば、記録されたものの総和として語られます。しかし、記録とは“勝者の文字”である場合が多い。ページの余白に押しやられた声に、あなたがたはどれだけ耳を傾けられるか」


 ニューロンドの戦い。テロリスト集団ソラリス。公式記録に“載っていること”と“載っていないこと”。教授の声が、レティカ先輩の“表”と“裏”の距離に重なる。

 真実だと思っていたものが、真実ではないのかもしれない。

 知らないままでいる方が、怖い。

 その思いは、やがて抑えきれないほどの欲求に変わっていた。


(知りたい。もっと、知らなくちゃ)


 放課後のチャイムが鳴ると同時に、私はひとりで大図書館に向かった。校舎から少し離れた丘の上に、淡い灰色の建物が静かに座っている。高い天窓から入る光は冷たく、床の石を均一に照らしていた。

 受付で閲覧許可を取り、奥の特別閲覧室へ。重い扉が音を立てて開き、ひんやりとした空気が頬を撫でる。壁一面のホログラムパネルが薄く明滅し、指先の動きに合わせて記録が呼び出される。

 七年前の事件――ニューロンドの戦いに関する一次資料。断片化された映像記録、出動記録のタイムスタンプ、匿名化された証言音声。

 私は閲覧記録のログを開いた。どのファイルに誰がいつアクセスしたのか、淡い青の文字で整然と並ぶ。

 そこに、最近の履歴があった。同じファイル群へ、つい数日前にアクセスした誰かがいる。


 ――《レイ・ソーン》。


 初めて見る名前。なのに、胸の奥がざわりと鳴り、鼓動が一拍遅れて強く跳ねる。喉が乾く。指先が冷たくなり、画面を触る自分の指紋が妙に生々しく見えた。

 誰? 学生? 教員? それとも――。

 名前の周囲にだけ、空気の密度が変わって見える。夢で見た“冷たい瞳”の残像が、紙の上の活字と重なった。


 図書館を出て寮に戻ろうと、外階段に足をかけたとき、スマートパネルが短く震えた。ディスプレイに映った名前――「カイ」。

『久しぶりに二人で話しましょう。放課後、第三演習場の準備室で、』

 短い文面。余白が多いほど、こちらに委ねられている感じがした。


 重い防音扉を押し開けると、油と金属の匂いが一度に押し寄せてきた。薄暗い格納庫に、同じ型番のHI(汎用作業機械)が数体、眠る巨人のように背を丸めて並んでいる。青と白の装甲には、ところどころに古い擦り傷が残っていた。

 《テラスク》。十年以上前、政府が主に利用していた作業用HI。教科書の写真の中では無機質だった機体が、目の前では重量と存在感をまとって沈黙している。

「これが、授業で使うHIかぁ……」

 思わず声が漏れる。鉄骨の梁に反響して、少し遅れて自分に返ってくる。


 その足元で、カイが腕を組み、私を見ていた。袖をまくった作業服、手の甲の油汚れ、目だけが冷静で明るい。

「……何か、あったようですね」

 挨拶代わりに投げられた言葉は、観察の結果というより確信に近かった。

「……ちょっと、寝不足なだけです」

「寝不足の目では、無いと思いますがねえ」


 近づかれている、と思った。取り繕っていた板が、音もなく外される。

 私は、胸の中からひとつだけ取り出せる言葉を探す。


「……知らない方が、幸せなことって、あるんでしょうか」

 出てきた声は、思っていたより小さく、少し掠れていた。

「真実を知るのが、怖い。知ってしまったら、もう元には戻れない気がして」

 口にした瞬間、胸の奥に眠っていた本音が自分でも驚くほどはっきりした形になる。


 カイは少しだけ目を細め、それから視線を機体に向けた。

「真実は、光だ。暗闇を照らすが、目も焼く。誰かに照らされるのを待ってるうちは、ずっと眩しいだけだ」

 言葉は静かで、押しつけがましさがない。スパナがボルトに触れる乾いた音が、合いの手みたいに挟まる。

「自分でスイッチを入れて、自分の足で見る。そうすれば、焼ける痛みも、自分の責任」

 彼は私を見た。

「どっちの痛みを選ぶ? 一度で鋭く刺す真実の痛みか、じわじわ続く嘘の痛みか。……決めるのはフィリカだ」

 そして、少しだけ口角を上げる。

「覚悟が決まったらいつでも言いなさい。私も可能な範囲にはなるが、手は貸せます」


 説教ではなく、彼自身が何度か噛みしめて飲み込んだ言葉の重さ。格納庫の冷えた空気に、ゆっくり沈む。


 準備室を出たとき、心はもう決まっていた。

 怯えて縮こまるのは終わりにする。嘘の痛みに慣れるのも、終わりだ。

 私は、真実を知りたい。たとえそれが私を傷つけるものであっても。


 寮の部屋に戻る。扉を閉めた瞬間、空気がやわらぐ。ユナがベッドの上で雑誌をめくっていて、ぺらりという紙の音が、妙に愛おしい。


「ねえ、ユナ」

「んー? なあに?」

「この前の話なんだけど……もう一度、ハウゼンに行ってみない?」


 ユナがぱっと顔を上げ、私の表情を読み取るように目を見つめ、それからにやりと笑った。

「……望むところだよ!」

 私も思わず笑う。胸の奥の炎が、空気をもらって少し大きくなる。


「面白そうだね〜。私も行く〜」


 背後からチルの声。振り向けば、さっきまで分解していたはずの小さなドローンが、いつのまにか元どおりに浮かんでいる。

「チルちゃんまで!」

「未知の事象を観測するのは、科学の基本だからね〜。あと、屋台の甘いやつも観測したい」

「それは観測じゃなくて食欲」


 三人の視線が、自然と机に向かうナミへ集まる。ナミはペン先を一度空中で止め、深い深いため息をついた。

「正気ですか、あなたたち。前回のことをもう忘れたのですか」

 椅子を回転させ、こちらに向き直る。眉はきゅっと上がり、口元はきゅっと結ばれている。

「前回は私がなんとか庇いましたが、次はありません。今度こそ謹慎処分は免れないでしょう。それでも行くと?」

「うっ……」

 ユナが目を泳がせる。正論はいつだって眩しい。


「でも、どうしても気になるんだよ」

 ユナはそれでも言う。

「見てもないのに“怖い”って決めるの、やっぱり嫌で。それに、謹慎覚悟で真実を見に行くって――ちょっとカッコよくない?」

「よくありません。ただの規則違反です」

 ナミはぴしゃり。けれど、その声の奥に、薄い不安の気配が混じっているのが分かった。


 沈黙が二拍。ナミが視線を落とし、少しだけトーンを柔らかくする。

「……心配なのです。あなたたちが。本当に危険な目に遭ったら、どうするのですか。私ひとりでは、全員を守り切れないかもしれない」

 規則のためだけじゃない。ナミは私たちの無事のことを、本気で考えている。胸が温かくなる。


「ありがとう、ナミちゃん。でも、大丈夫だよ」

 私はできるだけ明るく言う。

「それに、ナミちゃんも一緒なら百人力」

「……は?」

 ナミの目がまんまるになる。ユナがすかさず乗る。

「そうそう! ナミちゃんがいてくれたら、危ないことなんて起きないって! ね、お願い!」

「いや、だから私は行かないと……」

「じゃあ、ナミちゃんは、私たち三人が危険な目に遭ってもいいって言うの〜?」

 チルが絶妙な角度で追い打ちをかける。

「そ、そんなことは言っていません! ですが、私まで行けば、四人そろって規則違反に――」


 しどろもどろになるナミが、少し可愛く見えてしまって、申し訳ないのに口元が緩む。


「じゃあ、こうしよう」

 ユナが手を叩く。名案がひらめいた顔。

「私たち三人が無事に帰ってくるまで、ナミちゃんはこの部屋で見張り。門限までに戻らなかったら、寮監に通報してOK。通信は常時接続、五分おきに位置情報を送信――で、どう?」

「それ、けっこう合理的」

 チルがうなずき、ドローンが同意するみたいに小さく点滅した。


 ナミは腕を組んだまま、長く息を吐く。目が私たちを順番に撫で、やがて観念したように頷いた。

「……分かりました。ただし、条件を追加します」

「「「なになに?」」」

「門限は二一時。必ず守ること。通信は常時接続に加え、合言葉を設定し、異常時にはそれを逆に言う。人通りのあるルートのみを使用し、路地は原則禁止。屋台で飲み物を買うときは封が開いていないものだけ。――絶対に」

「了解!」

「賛成」

「合言葉は……『にんじん』?」

「覚えやすいけど、恥ずかしい」

 笑いが弾ける。ナミも「まったく……」と呟いた口元の端が、ほんの少しだけ上がっていた。


 こうして、E-07室の意見は、不思議な形でまとまった。

 私とユナ、チル。三人での、二度目のハウゼン行き。

 今度こそ、私は自分の目で、この街の“真実”の欠片を見つけ出す。


 胸の内側に宿った小さな炎は、もう恐怖だけでは揺れなかった。

 光は眩しく、きっと痛い。けれど、その痛みは、私が自分で選んだものだ。

 ――誰にも消せない、とても個人的な灯りとして。

次回は8月の26日火曜の19時に更新します。(。>ω<)ノ

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