知ること
教室には、わたししかいなかった。
こんなに早く来る必要、なかったかもしれない。というか、多分なかった。だけど人のいる場所に最初から飛び込むのが怖くて、つい、ずっと前に来てしまった。まだチャイムすら鳴っていない。
ここは一年生のクラスで、たしかにこの教室で合ってるはず……だけど、間違ってたらどうしよう。わたしだけ別の空間に入っちゃったみたいな、そんな居心地の悪さが喉の奥に詰まる。
わたしは鞄をぎゅっと握りしめて、窓際の最後列に腰を下ろした。視線を外にやると、空が、びっくりするほど近かった。ガラスの向こうに世界が広がっていて、どこまでも明るくて、逃げ場がなかった。
落ち着かない。身体がここにある感じがしない。深呼吸の代わりに、わたしは鞄の中から毛糸玉と編み針を取り出した。
この作りかけの帽子は、入学が決まったときからちくちくと編みはじめた。誰かにあげられるかもしれないって、そんな都合のいい期待をかけながら。……実際に誰かと仲良くなれるなんて思ってない。でも、何かを編んでると、少しだけ、自分という輪郭をとらえられるような気がするのだ。
編み針を動かしながら、わたしは教室の入り口をちらちらと気にしていた。誰も来ない。誰も来てほしくない。でも誰か来てくれたらうれしい。怖い。でも待ってる。
そんな矛盾で胸がぎゅうっと痛くなっていたとき——
「……へ?」
がちゃり、と勢いよく扉が開いた。
思わず編み針を止めて、わたしは顔を上げる。
入ってきたのは、びっくりするくらい髪のピンク色が鮮やかな女の人だった。女の人? 制服を着てる。生徒だ。でも、すごく大人っぽくて、自信に満ちた雰囲気。わたしと同じ一年生とは、たぶん思われないタイプ。
彼女は一歩、教室に入ってきて、ぱちくりと目をしばたいた。
「……あれ? え、なんでいるの? おっかしいな~?」
そう言って、わたしのことを指差した。いや、指差されたっていうのは語弊があるかもしれない。でも実際、指、伸びてた。
「もしかして新入生?ってことは私、教室間違えちゃったのか~」
あれ~?っと聞こえてきそうな独特なフワフワした声は私をじっと見つめた。
わたしは首をすくめ「ご、ごめんなさい……」と、とっさに謝った。
「えっ、なんで謝るの? 私が間違えたんだよ~」
彼女はまだ私の手元を見ている。もしかすると編み物が気になっているのかもしれない。
「もしかして編み物に興味ある…んですか?」
恐る恐る私は聞いた。おそらく彼女は先輩だ。彼女は新入生には絶対にない「余裕」があった。もし、これで「興味ないよ」なんて言われた日には溶けてなくなってしまうかもしれない。
彼女の口元がスローモーションのようにゆっくり私の瞳に映った。
「いや~可愛いな~っと思っただけだよ。私って、開発実用学部なんだけどあそこ待遇はいいけど暑苦しいしすぐ煮詰まっちゃうからさ~、私もそういう趣味があればな~ってね」
「趣味…無いんですか?」
「無いよ」
ここで会話が途切れた、どうやらあまりよくないことを聞いたらしい。さっきのふわふわした喋り方から一転して冷たく言われてしまった。
もう一度会話を始めてみようかな… いや駄目、絶対よくない気がする。でもどうしたら…
次に口に出す言葉を頭でひねり出そうとしていると、彼女の方から口を開いた。
「ごめんね~なんだか変な空気になっちゃった~ とりあえず私戻るよ。教室に間違えて入っちゃってごめん。私レティカ・ヴァルムって言うの、ヨロシクね~」
「えっと、フィリカ…です。フィリカ・エアリア。よろしくお願いします。
彼女は笑顔で教室から出て行った。
バタン!
音を立てて扉が閉まる。
……しん……と静けさが戻ってくる。
わたしは、しばらく固まってから、そっと毛糸を持ち直した。編み針の動きが止まってたけど、不思議と手の震えは収まっていた。
なんだろう、優しかったな…
さっきより心が軽い気がした。
ほどなくして教室には生徒が何人も何十人も流れ込むように入ってきた。
講義室の窓からは、朝の光が細く差し込んでいた。薄いカーテン越しに、木洩れ陽のような影が床に伸びている。
ふと教室の中にユナの姿を見つけたが、彼女は既にできた友達と楽しそうに話しているように見えて、ちょっぴり悲しくなった。
教壇に立った女性教師は、迷いのない動きでホログラムパネルを操作した。スライドが切り替わるたびに、教室の前方に光の文字が浮かび上がる。
「それでは、社会歴史学部一類の新入生ガイダンスを始めます。私はクラーラ・エレンズ。基礎科目の担当をしています。今日は最初に、この学部で履修可能な五つの主要講義について、簡単にご案内しますね」
声は明瞭で、どこか落ち着いていた。けれど、それ以上に印象的だったのは、彼女の話す言葉がまるで“物語”のようだったこと。
私は、手のひらの中でペンを握りしめた。何もかもが新しくて、知らないことでいっぱいだったけれど、それでも——この世界に触れたいと思った。
「まずはこちら。『現代史特講Ⅰ』」
スライドに浮かび上がったのは、《大戦後からニューロンドの戦いまで》という副題だった。
「これは、連合が正式に再建されてからの七十年間を扱います。いわゆる“大戦”以降、世界がどう変わったのか。そして、七年前のニューロンド市街戦が、人類と異種族社会に何をもたらしたのか。各地から集めた記録と証言に基づいて学んでいく講義です」
その言葉を聞いた瞬間、私は、少しだけ胸がざわついた。
(——ニューロンド……)
その戦いの直後、私は空を失った。星を浴びることを、恐れるようになった。
けれど、それでも。あの日々がなければ、きっと私はここには来れなかっただろう。
「次に『星間文化比較論』。副題は“移民と融合の現在”です」
クラーラ先生は、身振りを添えて話す。
「この世界は今、多種族共存の時代にあります。ヒト、アウリアン、ヴァルカリアン、クリケトス……それぞれの文化、価値観、社会構造が混在する中で、軋轢もあれば共生もあります。この講義では、日常に溶け込んだ“ちがい”を理解することがテーマです」
ちがい。
私は、帽子のつばにそっと指を添えた。
「三つ目の科目は『政治構造と連合憲章の基礎』です。少し硬い内容ですが、非常に重要な講義です」
光のパネルには、いくつかの図が映し出されていた。連合の中枢機関、ソラリス代表会議、旧地球政府の変遷など。
「連合の仕組みを知ることは、世界の“今”を理解することと同義です。国境ではなく“軌道”で分けられる現代社会において、政治的な連携がどのように形成されているかを学びます」
(むずかしそう……でも、知らなくちゃいけない)
母がよく言っていた。「知らないことを怖がらないで、知ろうとしなさい」と。
たぶん、ここに来ることも、その延長だったんだと思う。
「続いて、『言語と伝承:種族を超えた語り』です。これは比較的やわらかい科目ですね」
スライドには、異なる種族の神話や寓話の一節が浮かんでいた。
海の底に生まれた歌。空の上で交わされた契約。虫たちの記憶する季節の夢。
「言葉は、記録だけではなく“心のかたち”を残します。それぞれの文化が語り継いできた物語には、私たちが共に生きるための鍵が隠されているかもしれません」
私は知らず、頷いていた。
物語は、何より私の生きてきた時間と重なる。
そして、私がここにいる理由とも重なっていた。
「最後に、希望者のみ対象の『実地調査基礎演習』」
クラーラ先生の目が、少し柔らかくなる。
「この講義では、学期中に二〜三回、地球の遺構や定住区跡地へのフィールドワークを行います。博物館や保護区、あるいは再生都市の視察などもあります」
スライドには、深い森に包まれた廃都市、空に浮かぶ水上区画の写真、そして地中に埋もれた旧世界の施設が次々と映された。
「机の上だけでは学べないことも、世界にはたくさんあります。記録が失われつつある今だからこそ、自分の足でその痕跡を追う意味があります」
……世界を、知る。
それは、ただ“生き延びる”だけの暮らしでは出会えなかったこと。
私は、ここでそれを始めたいと、心から思っていた。
金曜16時10分にこれからは投稿していきます。




