ウィル・トールの再来
焦げた風が街を吹き抜けていた。
ネプトは、瓦礫にまみれたニューロンドの通りを駆け抜けていた。上空には、まるでゆっくりと沈みゆく月のように、巨大な人工太陽――ソーラ・コアの外郭がわずかに動いているのが見えた。
あれが動き出すということは、もう“その時”が来たのだ。
ネプトの額には汗が滲んでいた。緊張でも焦燥でもない。
それはきっと、血のように熱い何か――自分自身が“ウィル・トール”であるという、亡霊と化した理想の重みによるものの方がずっと強かった。
アジトへ戻ると、そこにユンボが待っていた。
「…ネプト…」
ユンボの声には疲労が滲んでいた。だが、その目はどこか澄んでいる。狂気を乗り越えた者にしか宿らない静かな諦観と、最後の期待が交錯していた。
「アルケは死んだよ。他のHIすべて発進しているのか?」
ネプトが問うと、ユンボはわずかに顔を伏せ、口を開いた。
「ルミナの指示だ。あいつは……政府と手を組んだ。ソラリスを“彼らのもの”に差し出す代わりに、ウィル・トールの存在を認めさせようとした。あいつはまだウィルが宇宙から帰ってくるかもなどと考えている…」
「……!」
「アルケたちも、あいつに言われて動いた。連合軍に政府の…ソーラ・コアの動きが察知されないよう、陽動としてな」
「つまり、全員……」
「踊らされてる。」
ユンボはそう言って、壁に背を預け、ポケットを探った。
「これを…」
ユンボが紙を渡すと、そこには町の地図が書かれていた。そして町中に6つの赤いマークがあった。
「これは人口太陽の要…キャノピー・グロウで見たものと同じの…」
「クローン人間の場所か… 破壊してもいいと、いうことだな?」
「頼む」
ユンボは苦痛に耐えるような表情でネプトの手を握った。
ネプトは、黙って奥の格納庫へと歩き始めた。視線の先には、オブリヴィオンの巨体が静かに佇んでいる。冷たい無骨な銀色の装甲。その胸部には、戦火を越えてなお汚れのひとつもなく、今もただ孤独に立ち続けていた。
ネプトは迷わずコックピットに向かう階段を登る。パイロットスーツには手を伸ばさなかった。
ただ、汗と煤にまみれた今の自分こそが、すべてを背負った人間としてふさわしいと思えたからだ。
オブリヴィオンのハッチが開く。ひんやりとした操縦席へネプトは身を沈めた。
全起動系統チェック。
すべての装置が、何の躊躇もなく応じた。
そのとき、通信端末にユンボの姿が映る。
「…行くのか」
「……ああ」
ネプトは静かにうなずいた。
「この町はもう持たない。ユンボ、あなたはアキラを連れてここを離れろ。どこでもいい。空を見られる場所で生きてくれ」
「……」
ユンボは黙っていた。そして、小さく頷いた。
ネプトは通信を切ると、コックピットの脇に置かれていたあの飛行機のオブジェに目をやる。小さな品だが彼にとって大きな存在感を放っている。それをそっと指先で撫でた。
「エリナ、ダグラス、アルケ……」
「……すまない。救えなかった」
誰にともなく呟いた。
そして、ポケットから取り出したふたつの指輪。それらを紐に通し、首に掛ける。互いにぶつかり合って小さな音を鳴らす指輪に、そっと目を閉じた。
「ネプト・アンビション……いや、違うな」
ネプトは深く息を吸い、そして言い放った。
「ウィル・トール。オブリヴィオン、行く――!」
機体が咆哮のような駆動音を上げ、巨大なコンプレッサーが脈動を始めた。銀の巨影がゆっくりと立ち上がり、格納庫の天井を突き破って、夜の空へと昇る。
ネプトの瞳には、もう迷いはなかった。
ただ、すべてを終わらせるために。亡霊となった意志を生きるために。
暗闇の街を裂きながら、オブリヴィオンは飛び立った。
政府ビルの最上階に位置する会議室は、怪しく光る。
磨かれた黒曜石のような長机の上に、複数のデータ端末が無造作に置かれていた。巨大なディスプレイは地球周回軌道にあるソーラ・コアの映像を映し出し、その金属の巨躯はすでに完全起動を迎える直前にあった。
リュウジ・ニイガエが、椅子にもたれたまま、細い目をルミナに向ける。
彼の周囲では、他の高官たちがざわついていた。軍部の老将ロワードが問うた。
「状況は?」
ルミナは無表情のまま答える。
「問題ありません。政府からの支援体制は維持され、残党部隊の収容も進んでいます。いまや彼らは“あなた方政府の戦力”に過ぎません」
ざわつきが大きくなった。ある者は皮肉に笑い、ある者は不快感をあらわにした。
「ずいぶん冷たい言い方だな、ルミナ・サーヴェリオ」
低い声で、別の高官が言った。
「君は仲間を裏切るのかね?」
その瞬間、ルミナの瞳が刃物のような眼差しで、その男を見据えた。
「……裏切りませんよ。“ソラリスの仲間”は。」
少し間を置き、彼女は続けた。
「でも、彼らは所詮残党です。ウィルの意思も知らず、真実に触れず、理念さえ忘れた本当の意味での残党。」
小さく笑みが浮かぶ。
「裏切ったのは、むしろ彼らの方です。」
ざわめきが部屋を包んだ。
「君はずいぶんと計算高い、強かな女性のようだ」
とリュウジ・ニイガエが言う。だがその目には不快感ではなく、興味があった。
「計算? 違いますよ」
ルミナは立ち上がった。
「私は、見えてる未来に合わせて動いているだけです。」
そして彼女が次の言葉を発しようとしたとき、会議室の端末が甲高いアラーム音を発した。
情報端末を操っていた女性が、緊張した面持ちで声を上げる。
「緊急報告――ニューロンド市街、爆発を複数検知。未確認HIを確認。識別信号――不明です。」
空気が変わった。
リュウジが立ち上がる。
「なんだと?ソラリスのものではないのか?」
「しかし、町を破壊しているどころか、クローン人間のストックをいくつも破壊されています‼これは明らかな政府への敵対行為です!」
ルミナは静かに操作卓へ歩み寄る。無言で巨大モニターを操作し、町の監視映像を幾つか選択して拡大する。
――そして、映った。
燃える夜のニューロンド。
瓦礫と悲鳴の中、銀色の巨影がゆっくりと旋回し、戦場を切り裂いていた。
「……オブ……リヴィオン…」
ルミナは声に出さなかった。ただ、かすかに唇が動いた。
背後で、高官たちの声が交錯する。
「何をやっている、反乱か?」
「これは想定外だぞ」
「制御コードは? 誰か止められんのか?」
ルミナはゆっくりと振り返った。そして慌てるようにして言った。
「こ、これは、残党の最後の足掻きです。」
その瞬間、ディスプレイの中で、オブリヴィオンがビル群を超えて跳躍し、ミサイルを放つ姿が映し出された。
黒煙と火の手が、政府中枢区域にまで迫りつつある。
ルミナは、誰にも聞かれないほどの小声で、ひとつだけ呟いた。
「ユンボね」




