悪魔
朝露が肌を刺すように冷たい。
その一角、ソラリス基地内の医務区画に併設された待合室で、ネプト・アンビションは白く乾いた手紙の封筒をポケットに仕舞ったまま、無言で椅子に腰掛けていた。
ダグラスの転落。
そして残された“遺書”のような報告。
彼の精神は深い霧に沈んでいた。言葉も、感情も、まとまらずにただ、胸の奥で鈍い音を立てていた。
(ダグラスは死を選ぼうとした… エリナももういない。)
そこに、ルミナが姿を現した。いつもと変わらぬ、冷静で無表情な顔――だが、どこか目の奥に、深く沈んだ何かを抱えているようにも見える。
「今日は……少し街に出てみない?」
ネプトは顔を上げた。問いのような視線でルミナを見つめる。
「息抜き、よ。無理にとは言わない。でも、あなたは行きたいんじゃないの?」
ネプトは、ほんの僅かにだけ目を伏せ、それから頷いた。
ルミナは、何も言わずに踵を返し、廊下の奥へと去っていった。
それから20分経った頃、格納庫ではアルケが目を皿のようにしてネプトを探していた。
「おーい、ネプトー!どこに行ったんだろ…朝ごはんまた抜くのかな?」
あたりにネプトの姿はない。整備兵に聞いても、誰も彼を見かけていなかった。
「どこ行ったんだろ、ネプト……」
そこへ、ひそやかな足音を立ててルミナが現れた。
不意に現れた彼女にアルケがやや驚いたように振り返る。
「あ、ルミナさん! ネプト知らないですか?」
「それより今日の任務、あなたに直接話すわ。重要な任務よ。ネプト抜きで動かすからそういうつもりで。」
その声に、一瞬アルケは抗議の言葉を飲み込んだ。
しかし、ルミナの目にこびりついているような何かを感じ取り、恐ろし気に首を縦に振った。
アナンケー・ウンブラは今日も聖堂へと足を運んでいた。
彼女にとって聖堂で世界のために祈ることは、休日の実感そのものだった。
――彼と会いたい。そう思いながら、彼女は聖堂の扉を開けた。
そこには、先に待っていた人影――ネプトがいた。
聖堂の窓から差し込む斜めの光が、彼の横顔を照らしている。祈りではなく、ただ誰かを待っているような背中だった。
「……来てくれたんだ」
ネプトは彼女の声に気づくと、わずかに振り返り、静かに微笑んだ。
「来るさ。祈りにではないが……今日は、少し違う気分でね」
「……なら、デートにお誘いしても?」
アナンケーは少しネプトを試すように言った。
「祈りはいいのかい?」
「今日はもう奇跡が起きたんですもの、これ以上を世界に強請るのは我儘というんですよ?」
「そうかも」
二人は並んで歩き、聖堂をあとにした。
ニューロンドの昼下がり。かつては活気あふれる商業区画だった通りを、今は二人だけが静かに歩いていた。
屋台の匂い、遠くで子供がはしゃぐ声。
アナンケーは小さな飴屋で色とりどりの果実を指さした。
「これ、好き。小さい頃、毎年一本だけ、誕生日に買ってもらったの」
ネプトは少し驚いたように目を丸くした。
「……意外だな。軍人とはいえそれなりに大きな家だろ?」
「ええ、だからこそ…ね。大きい家だとあまり融通も利かないものよ」
「そうかい、じゃあ買ってあげるよ。一年に一回が今日でも構わないだろう?」
アナンケーは顔を赤らめて、視線を逸らす。
「さ、さっきのは忘れて」
「ふふ、忘れないよ。可愛かったし」
ネプトは適当な苺と葡萄の串飴を買い、アナンケーに手渡した。
「苺がいいかい?それとも葡萄?」
「な、なら両方いただいても?」
照れた表情から期待を込めた表情へと移り変わる。
「奇遇だね、僕も同じこと思ってた」
二人はそれから、広場のベンチに腰掛け、夕暮れまでお互いの飴を食べさせ合ったり、他愛のない会話を続けた。その時間が二人にとって真に居心地の良い空間だった。
その間、ネプトはずっとポケットに隠した小さな箱の存在を意識していた。中には、小さな指輪。ささやかな想いと決意を込めたものだった。
この世界に期待しているかはわからない。でも、この気持ちは本物だとネプトは信じていた。
夕暮れは、夜に染まりきらずに留まっていた。
街路灯が灯り始める中、ネプトとアナンケーはまだ街にいた。路地裏の細い飲み屋通りを抜け、夜の広場へと歩いていた。
「ここ……私、好き。光が、優しい」
ネプトも立ち止まり、隣で笑った。口元には言えずにいた言葉が灯りかけていた。
「アナンケー、俺、実は……」
だが、言葉は空へ溶けた。
轟音が空を割いた。
地面は震え、周りの人々も夕焼けから見える煙を目にした。
次の瞬間、ビルの一つが根元から折れるようにして崩れ、広場に砂煙が噴き上がった。市民たちの歓声が悲鳴へと変わり、人々は蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。
空を裂いて、現れた巨影群。ソラリスのHIが街にその姿を見せた。
爆発。ビーム。
炎の柱。破砕音。
アナンケーは迷わずネプトの手を強く握ると、声を張り上げた。
「こっち!」
ネプトは一瞬だけ、空に視線を走らせた。
――そこに、見た。
18メートルの巨体が空を切っていた。
都市の屋根を踏みつけ、石造りの道路を割って進む鉄の巨人たち。
その姿は戦場で見るものとはまるで違った。ビルの隙間から、街の明かりを切り裂くように現れる異物。まるで神話の神々が地上に降臨したかのように、あるいは地獄から来た悪魔のように、あまりに異様だった。
悲鳴、逃げ惑う市民の列。小さな子供が手を離れ、母親が叫ぶ。砕けたコンクリートが散り、道路を這うように火が走る。
ネプトはアナンケーの手を握り返したまま、必死に走る。
それでも――その光景から目が離せなかった。
「——ッ⁉」
戦っているHIの一機。その機体色、肩の意匠、背負う武装。
それは彼にとって、見間違えるはずのないものだった。
「プロミスティン!」プロミスティン、アルケのHIだ。
ネプトはそう呟いた瞬間、足を止めた。
だがアナンケーの手は強く、ネプトを逃がそうと必死になる。
「ネプト‼止まっちゃいけない!」
その声は轟音が響く街中で何とかネプトに伝えようと声を張り上げていた。
アナンケーは再びネプトの手を強く握って走った。ネプトも同じく走った。
それでも、目はアルケのプロミスティンをじっと見つめていた。
「アルケ……」
何が起こっているのか理解できなかった。数多の可能性を探った。
そして導き出された一つの可能性。
(そういうことか、ルミナ‼)
その瞬間だった。
天から突風のような風圧が襲いかかった。
空中に浮かんでいたプロミスティンが、スラスター部を破壊されて墜落。機体の全重量が一気に地面に叩きつけられ、風爆のような余波が広がったのだ。
巻き上げられた瓦礫が飛び、ネプトとアナンケーの体を吹き飛ばした。
地面を転がるネプトの視界に、まっすぐに伸びるHIの機影があった。
膝をついたまま、立ち上がろうとするプロミスティン。その生物的な動きは民衆に恐怖を与えた。その背後に、人の乗る特殊なHI部隊――エインヘリャル隊の量産型HI、ヒルド・スカウトが二機、舞い降りた。
一機が――槍を構えた。
鋭く、滑らかに、呼吸のように。
そして一瞬後、槍の刃はHIの背中から、関節部を串刺しにした。
アルケの機体がのけぞる。
「ああ…」
地面から見上げるようにネプトはプロミスティンを眺めた。
さらにもう一機、ヒルド・スカウトが跳躍し、重力の加速度と共に槍を振り下ろす。狙いは一点――コックピット。
「まッ――」
バギャン!ギリリリ…
金属が裂ける音。内部に血の飛沫は見えなかった。
ただ、死が確定した瞬間の冷酷な静寂だけがあった。
槍を引き抜く刃の軌跡から、美しい火花が弾けた。
たくさん、たくさん溢れた。
それは――まるで花火のようだった。
大小無数の高温の粒子が、空へと、街へと散った。
だが、それは死をまき散らす光だった。
火花が人を焼き、燃えた服が地面に崩れる。
腕を失い、泣き叫ぶ声が夜に吸い込まれる。
ネプトは、ただ、立ち尽くしていた。
その火花を見つめながら。
破壊されたHI、消えゆく命、燃える建物。
そして、無言のまま崩れ落ちたアルケの機体を、心で呼び続けながら――。
「……アルケ」
その名を口に出すことさえはばかられた。なぜなら今、目の前で、確実に、彼女は殺されたのだから。
彼には、ただ見ていることしか、できなかったのだ。
(彼女まで…失ってしまうなんて…)
棒のように足は動かなかった。ただ、ひたすらに涙を堪えた。
そんな時だった。プロミスティンの破壊されたコックピットから、パイロットスーツを纏ったアルケの体が見えた。
その瞬間、ネプトの顔に一瞬、希望の色が走った。
――しかし、その希望は瞬時に砕かれた。
彼女は腹から下を失い、這い出るように姿を現したのだ。
するとその光景を見たひとりの女が声を上げた。
「化け物よ!助けて!おぞましい化け物が――!」
人々をかき分けるように、武装した若い男が現れた。
「もう、安心しなよ。俺が来た!」
その男の服装は民間人もいいところだった。異常なのはその装備だ。
しかし、ネプトはそんなことを考える余裕もなかった。
いっそ、見えなければとすら考えてしまう目の前の惨状に、ネプトは表情を歪ませた。
「俺は民間警察機構所属。レイ・ソーンだ。テロリストだか何だか知らないが… 異星人の化け物は俺が裁く。なぁ?」
レイの拳銃が火を噴いた。アルケの片目を吹き飛ばす。
叫びをあげるアルケ。
ネプトは我慢できずレイの元へ走り、袖を強く掴んだ。
「ああ?なんだ。どうしたよ?」
「あそこまでやる必要はないんじゃありません?」
ネプトの言葉は一言一言、涙を堪えるような声をしていた。
「ああ、かわいそうに。こんな爆風が鳴る街でショックで気が動転している少年が出てきてしまった。これだけは…これだけは防がねばならなかった。俺がいながら…不覚だ」
レイは感情を爆発させるように言った。
「これは由々しき問題だ。民衆よ!この健気な少年を誑かしたやつを…俺に続いてあのHIと異星人の化け物を殺せ!」
男がそう叫んだ時、その声に続いた何人かの男女がアルケを目いっぱい殴りつけた。HIの配線をはさみのようなもので切ろうとして感電する者もいた。まさに地獄の光景だった。
アルケの手が最後にネプトのほうに伸ばしたように見えたところで、その動きは止まった。
ネプトはこの光景をもはや直視できなかった。自責の念に駆られ、頭を押さえる指から伸びる爪が皮膚に刺さり、血を流した。
そのとき、街の奥で再び悲鳴が夜空に響いた。
レイはその声を聞きつけると、沈んだ表情のネプトの肩に手を置いた。
「いいか少年、悪魔ってのは自分が思うよりずっと近くで蠢いているもんだ。そんな悪魔に誑かされるなよ、少年。」
レイはウィンクをして走り去った。
彼は民衆から見たら英雄かもしれない。ヒーローだとでも言われるかもしれない。
しかし、ネプトの目には、その男こそが悪魔そのもののように映った。
「今ここにいましたよ、悪魔が…」
ネプトはもう、希望というものがこの世界にないと断言できてしまった。目の前の惨状が、これまでの凄惨な悲劇がネプトの考えを後押しする。
「なら僕も…僕は……悪魔になる」
炎に照らし出された夜の街を、ネプトは走り出した。




