動き出す影
雨が上がったニューロンドの空気には、焦げたような鉄と油の匂いが漂っていた。
それはソラリスでも同様であった。ネプトが去った後、寝台で横たわるエリナは腹部をおさえ、小さく呻いた。
「……あれ……?」
不意に、自分の中でうごめく違和感を覚えた。
こわばった表情のまま、その違和感を確かめるように手を当てる。
ぞっとした。冷たいものが脊髄を走った。
「いやだ……いやだ……こんなの……」
高官に相手を強制された日々。
何度も身体を汚され、そのたびに心を締め付けられた。
そして今、この腹の中に芽生えてしまった「何か」。
それはあまりにも理不尽な罰のように感じられた。
「嘘… 嘘ッ、うそ。こんな…」
涙が流れても声は思うように出ない。助けを求める声は誰にも届かない。
息は荒くなり続ける。
エリナは部屋を飛び出した。
部屋を飛び出したエリナは狼狽して走った。その様子は誰の目にも異常で、その姿を見たものは全員「人の表情をしていなかった」と、後に語った。
雨が上がったばかりの路地に靴音が響く。空気が冷たく張り詰めていた。
ニューロンドの街の人々は、夜更けのうねりの中でまだ眠れずにいた。彼らは外を知らない。この狭量な場所が世界のすべてとさえ思うものもいるほどに。
「いや……いやだ……」
震える声で繰り返しながら、エリナは街を彷徨った。不安と恐怖、罪悪感。
その全てに押し潰されそうだった。
そんな彼女を見つけたのは、|民間警察機構《パックス・キウィタスの男だった。
男はエリナのくたびれた格好を見るや否や、血走った眼で笑みを浮かべた。
「おい、おい。お前……身分証明書は?」
答えることなどできない。
ただ立ち尽くし、泣きじゃくることしかできなかった。
その恐怖に満ちた表情が男の好奇心をくすぐった。
「おかしいな……泣くなよ、ほら……」
その手が、強引に腕をつかむ。
エリナは抵抗できず引きずられていく。
その後、その男とエリナの行方は、誰にもわからなかった。
ダグラスは、走り出すエリナを止めることができなかった。
一度あの表情を見た時、ダグラスは自身の無力さに改めて痛感したのだ。あれほど元気だった彼女が、ふいに消えたことを理解しながらも、必死に自分を納得させようとした。
「エリナはもう死んだんだ……もう……終わったんだ……」
けれど心の底では諦めきれなかった。
あまりにも簡単に切り離せない感情が、彼を苛んでいた。
それでも。
それでも戦争は止まらない。
傷つく人は増え続ける。
そんな考えがダグラスの背中を後押ししてしまった。ただ、敗北の未来に怯えながら、彼は震えるペンで最後の手紙をしたためる。
「エリナ、俺もすぐそばに行く。一人は寂しいもんな」
整備ドックのオブリヴィオン胸部の足場からダグラスは飛び降りた。
バキッ
鈍く音が鳴った。
静かだった。誰もいなかった。
ドックで重たい音が夜の静寂を裂いたのは、午前三時過ぎのことだった。
その音を聞きつけたものたちがダグラスのいるドックへ駆け寄った。当然ネプトも飛び起きて騒ぎのする方へと向かった。
「何が起きたんだ?」
すると一人の男たちの会話がざわつく人混みから聞こえた。
「ダグラスが…ダグラスが血を流して倒れている‼ きっとこの高さから…」
ネプトは人をかき分けダグラスのいるドックの床まで下りた。
ダグラスの体は地面に叩きつけられ、骨が砕け、肉が潰れ、血が散った。
だが、死には至らなかった。打ちどころが良かったのか、いや、悪かったのかもしれない。致命傷は避けた代償に、彼の身体は二度と動かぬものとなった。
「ン、ンー」
動かない腕、動かない脚、言葉も、まぶたすらも動かせない。すべてを失っていたのだ。ただ、意識だけを除いて。
(生き残ったのか… よかった…)
彼はひどく安心していた。落ちているときに彼はずっと死を恐怖していた。自身の終わりを感じなくて済んだのだ。
しかし、彼にとっての地獄がこれから始まったと気づくのにそう長くはかからなかった。
その数時間後、全身を固定されたダグラスは医療班に搬送された。目は開かずとも、涙だけが乾いた頬を伝っていた。
(しゃべれない… お願いだ誰か… 俺の声を聴いてくれ‼ ネプト――)
ネプトに、彼の心の声を聴けるようなテレパシーはない。これから、ダグラスの声は自身の脳内で永遠に反響し続け誰にも届くことはないのだ。
ネプトはボロボロになったダグラスの体をそっと見て、悔しそうな表情を浮かべた。
医務室の外で、硬く封がなされた一通の封筒をミーナから手渡された。差出人の名前には、震えるような文字で「ダグラス」とだけあった。
部屋の端に立ち尽くし、ネプトは無言で封を破った。
中には一枚のメモが折り畳まれていた。それは、まるで報告書のように事務的で、けれど途中から崩れていく文字が痛々しかった。
《ネプトへ。
ボイスチェンジャーは完成した。お前の要望通りに作ったがあと、もう一つだけ追加したものもある。
それはこの手紙の裏に書いてあるが、この機能はお前の意思とは何ら関係なく、俺の独断でつけたものだが文句は言わないでほしい。
それからエリナの奴は死んだよ。もしかしたらどこかで生きているかもしれないが、あの顔はもう、お前に合わせる顔がないっていう顔だった。だからあいつのためにも探さないでやってくれ。
エリナ… カイ… ウィル… ごめん、俺には耐えられそうにない。
だから最後に遺言として、言葉を残そうと思う。
かつて… かつてウィル・トール本人が俺に言った言葉だ。
「世界は僕らに与え奪うために存在している。それは生きる僕たちにとって恐怖でしかない。
でも、それは絶対じゃない。
いつか、未来を託せるその先に希望の可能性はある。もし、その可能性を感じると思ったら、この言葉を残せ、受け継がせろ。
それが、僕の最後の命令だ。」
これは弱っちくて惨めだった俺にウィルがくれた言葉だ。あの時のあの人は今の俺よりずっと若かった。
それでも、この言葉をもっと若かった俺に受け継がせ、そして年を食った俺は、若いお前にその言葉を残している。
それが俺がお前に言いたかったことだ。頑張れよ… 次の為に。
それじゃあな。後は頼むぞ。》
それを読み終えたネプトは、震える手で手紙を折りたたみ、静かに胸ポケットに忍ばせた。
ドックの鉄の匂いがまだ残る夜の空気の中、彼は一人でその場を歩き出した。重たい何かを背負うように、言葉を一つも発さず、ただ歩いた。
【政府高官会議室・地球本政府中枢】
椅子が擦れる音、指で机を叩く音、喉を鳴らす音。
遮断された重厚な合金扉の奥。あらゆる空調により、空気すら調整された会議室に、十数人の男女が集まっていた。
それぞれの顔は光の届かぬ陰に沈み、壁面には連合軍の活動圏、異星人勢力の配置図、そして“ソーラ・コア:進捗99.7%”という赤文字が浮かんでいる。
「――明日には完成するんだぞ。なぜ今さら問題を出す?」
軍事部代表のロワード少将が苛立った声を上げる。目元には深い隈、顔は赤らんでいる。
「問題があるのは、完成のその“後”だ。制御権の割り当てはどうなる?エネルギー出力の配分に関しては我々産業側の承認が――」
産業省代表のシン・クラートが机を叩いた。
「馬鹿馬鹿しい、誰がどう使おうと関係ない。重要なのは“見せつける”ことだ。連合に。異星種族に。そして地球人の下層どもにだ」
内政統制局の老人が鼻を鳴らす。
「ソラリスが動きすぎている。あの女……ルミナは信用できん。今からでも切るべきだ。ソーラ・コアが完成すれば用はない」
「……だが現場を抑えているのはソラリスの戦闘部隊だ。我々が動かす兵力など残されていないだろう?」
行政官のバレンが首を傾げながら冷笑する。
「その通りだ。だが、ソーラ・コアに接続する兵器群の制御コードは誰が?その登録は政府技術部にある。つまり――」
「俺の部署が鍵を握っている。忘れるなよ」
エネルギー開発庁長官のラツィオがゆっくりと指を折って笑う。
誰もが自分の利を確保しようと、次から次へと口を開いた。
「情報公開はどうする?異星種族との交渉は?」
「連合軍はどうする?彼らを黙らせるためには……」
「このままでは“地球の理想”とは名ばかりの――」
――その瞬間、ひときわ鋭い声がそのすべてを遮った。
「黙りたまえ」
全員の視線が集まる。
静かに立ち上がったのは、地球外交調整官・リュウジ・ニイガエ。
黒い手袋をはめた両手を机に置き、淡々と、だが強制力をもった声で言う。
「お前たちの喉元にある果実が、まさに落ちようとしている。なぜそれを争う?」
誰も答えない。
「いいか。明日、ソーラ・コアが完成する。それは――我々にとって、ひいては地球にとって連合軍が不要になるということだ」
誰かが息を飲んだ。
「彼らの存在が消えればどうなるか?本来連合の法で制限されていたはずの、あらゆる開発、統制、経済投資、軍事力、思想表現が――我々の裁量で動かせるようになる」
声が低くなる。
「お前たちがやりたかったこと。手を出せなかったこと。握りつぶされてきた野望。今すべてが現実になる」
「……地球が、地球だけのものになるんだ。いや、宇宙が我々のものになるのだ‼」
沈黙。
数人がゆっくりと目を伏せ、やがて口を閉じる。
反論はしなかった。
しかし、それに切り込む形でロワード少将はリュウジ・ニイガエに疑問を口にした。
「ソラリス残党共はどうするつもりなのだ。確かに彼らは我々の役に立っている。しかし、究極的には彼らのやっていることはテロ行為だ。この作戦が終わり次第彼らを軍事法廷で地球の決まりに則って裁かなければ民衆も納得しませんでしょう。」
ロワードの見方は正しかった。
しかし、それは民衆から見た印象でしかない。
「確かにそういう見方はできる。しかし、だ。例えばソラリスを名乗っている今の組織は準軍属組織だとすればどうだろうか?」
ほかの高官たちもざわつき始める。
「ソラリスは準軍属組織であり、私たちが連合軍という名の地球を支配するゴミムシへの反逆の剣だとすればどうだろうか?」
「取り込むというのですか?」
ロワードは怪しげに睨みつけた。
「これからの時代は連合軍と政府がいがみ合い、お互いを監視し続けるような関係ではなくなる。我々は軍隊を持ち、連合を牽制する立場となるのだ」
リュウジがそう息巻くと、あらかじめ取引をしていた3人の高官が立って拍手を次々に行い始めた。その流れに乗せられるように一人また一人と拍手が増えていった。
そのとき、会議室の端にあったスクリーンが静かに切り替わった。
《ソーラ・コア:完成予定時刻まで残り 23:58:12》
その文字を見ながら、リュウジは静かに椅子に腰を下ろした。
「さあ、我々の時代が間もなく来るぞ」




