夜は更ける。どうしようもないくらいに
薄曇りの空のように、ここ最近のソラリスは沈んでいた。
アキラと出会ってから一か月。ネプトは日に日に歩ける距離を伸ばし、傷も癒えていった。医療班のミーアの報告では軽い運動程度はこなせるほど回復したとのことだった。
アキラの表情は日に日に明るくなっていき、今やネプトの隣にはアキラがいた。会話は多くなかったが、互いに食事をとったり、共に工具の手入れをしたり、時には黙って空を見上げたりしていた。ネプトにとって、それは奇妙な安堵の時間だった。アキラの目には、かつての自分が映っているように思えることがあったからだ。
少年はまだ無邪気ではなかった。
それでも、彼の中にわずかに灯る「普通であろうとする」意志が、ネプトを支えていた。
一方で、ソラリス全体に広がる空気は、どこか淀んでいた。
原因は、誰の目にも明らかだった。
エリナ。
かつて太陽のように賑やかだった彼女は、ほとんど口を利かなくなっていた。食事の場にも現れず、訓練にも顔を出さない。いつも冷たい部屋の一角に膝を抱え、何かを睨みつけるようにじっとしているという話だった。
「エリナさんっていつも暗いよね?」
ある日、アキラがぽつりと呟いた。
「そうだな」ネプトは工具を握った手をわずかに強く締めた。
その隣に置かれた小型モニターには、隊員の健康状態が一覧で表示されていた。エリナのバイタルは通常値だが、心拍数は異常に不安定な変動を見せていた。
ミーアも彼女の変化に心を痛めていた一人だ。この数値を見て心配しないはずがない。
「声はかけないのか?」
「今はダメなのよ」
ミーアの泣きそうな声が静かに空気をざらつかせる。
女の感かであろうか。ミーアの言葉には確信が確かにあった。
そして、ルミナも最近部屋から出てこないことが増えた。、高官との連絡に忙殺されているという情報はネプトは知っていたが、それだけでは説明できない張り詰めた沈黙が拠点には漂っていた。
隊員の中には訓練を休む者も増え、無線室には意味もなく雑音が流れていた。整備班のダグラスも以前のような元気はなく、それもまたソラリスの空気を淀ませている原因の一つだった。
ソラリスは、ゆっくりと沈み込んでいく。
誰もがわかっていた。
この沈黙の原因が「何であるか」を。
そしてそれを口にすれば、音を立てて何かが壊れてしまうのだと。
翌日の夕方、アキラは珍しく眠そうにあくびをした。
「……今日は、少し休むよ。ネプトさんの側にいると、なんだか安心しすぎて……眠くなる」
無防備な笑顔に、ネプトはわずかに口角を上げて頷いた。アキラは毛布にくるまって、すぐに深い呼吸を始めた。
その寝息を確認すると、ネプトはゆっくりと立ち上がった。
傷跡はまだ痛んだが、今夜はやるべきことがあった。
――エリナに会う。
アルケも、ミーアも、誰も彼女に近づこうとしない。
それでも、ネプトは「知ってしまって」いた。彼女の目が、日に日に色を失っていく理由を。
ネプトは隔離区画の隣、個室用の廊下をゆっくりと歩いた。 医療室の前を過ぎ、調整班のデータラボを抜けたところに、エリナの部屋はあった。セキュリティは解除されており、灯りも漏れていない。
彼はノックもせず、静かに扉を開いた。
――部屋の中には、かつての彼女の笑顔の面影はなかった。
薄暗い部屋の隅に、エリナは座っていた。肩をすぼめ、何もない床を見つめている。
机の上には開封されていない食事パックがいくつも積まれていた。部屋は湿った布のにおいがこもっており、換気もなされていない。
彼女の髪は乱れていた。肌も青白く、口元には乾いた亀裂があった。
「……エリナ」
ネプトの声が響いたのは、その名前を久しぶりに聞いたからか、あるいは本当に聞こえたからか
――エリナの肩がびくりと動いた。
「帰って……」
か細い声だった。
「君がそんな風だから、みんな戸惑ってしまっている」
ネプトは数歩、彼女に近づいた。
「エリナ。聞かせてくれ」
「……知らないほうがいい」
「言えよ…」
ネプトの声が低く、そして真っ直ぐだった。怒りではなく、哀しみに満ちた声だった。
その声に、エリナは、ついに言葉を搾り出す。
「……あの夜、ルミナに呼ばれたの。任務だって言われて……政府の高官に、笑って愛想をふるって。そうして女として……使われたの」
沈黙。
ネプトは、その言葉をただ黙って受け止めた。反射的に拳を握りしめていたが、彼女が震えるのを見て、その手をゆっくりと解いた。
「嫌だった。誰も守ってくれなかった。終わった後に吐いて、泣いて、なのに次の日、また普通にみんなの前に立って――笑ったのよ、私」
「……君は、僕たちに心配をかけないように頑張ったまでだ。君に罪はない」
その言葉に、エリナの表情が歪んだ。目元にうっすら涙が浮かぶ。
「ネプト……なんでここに来たの。もう会いたくなかったのに。……私、あなたの前では、ちゃんとしてたかったのに……」
涙がぽろぽろとこぼれた。
「でも私、もうちゃんとなんかできないの……!」
ネプトは迷わずその場に膝をつき、彼女の前に座った。そして、そっと、震える手を握った。
「悪かった」
「……やめてよ」
「残念だけど君の苦しみも屈辱も男の僕にはわからない。女の論理は男の論理とは違うものな……でも、これだけは言える。僕らソラリスは家族のようなものだ。君は強い女だ、僕なんかよりもね」
その言葉が、エリナの中で何かを緩めた。
――その夜、彼女は初めて、誰にも隠さずに泣いた。
人前で、兵士としてではなく、ただの人間として。
ネプトは、彼女の手を離さなかった。アキラと交わした「怖くない」という言葉を、今度はこの壊れかけた仲間にも向けるように、静かに、繰り返した。
だが彼は気づいていた。
この涙も、この優しさも、きっと永遠ではないことを。
燃え上がる夜が、すぐそこまで迫っていることを――
「みんなひどいよぉ。なんで私ばっかりこんな…」
咽ぶエリナにネプトは憐れみの目を向けた。
(本当にひどい。地球政府は…彼らこそ粛清すべき対象じゃないか‼
それなのに、彼らが出資者?
あくまで僕らは時代の犠牲者、生贄に等しいか…)
エリナがようやく落ち着きを取り戻し、久しぶりに彼女は寝た。その寝顔にはひどい隈や引っ搔き傷があった。
重い腰を上げ、整備ドックへと歩いた。今はただ、頭を空っぽにして気持ちの整理がしたかった。そのためにオブリヴィオンを一目見ようと思ったのだ。
ドックを下から見上げると、整備を終えたところなのか、クレーンを戻し伸びをしているダグラスを見つけた。
ダグラスはネプトを見つけた途端、顔色を変えた。
「やあ、ネプト… こんな時間にどうしたんだ?」
ダグラスはどこか怪しい様子だったが、それを指摘する余裕もネプトには残されていなかった。
しかし、彼はダグラスに一つのオブリヴィオンにある機能を追加してほしいと伝えた。これでオブリヴィオンが真の意味で完成されると提案したのだ。
「ボイスチェンジャー?何にそんなものを…」
「ばれたくはない。意外と面倒な人生を歩んでいるからな」
「分かった。それで俺の最後の仕事は終わりだ…」
「頼む。ダグラス」
言葉数の少ない会話。それが以前のダグラスとは違うとネプトは感じ取っていた。
前のような関係は偽りという一つの壁がなければ成り立たないものだったのだ。
ネプトはゆっくりと自室へと歩いて行った。
その時、ふと何かを思い出すようにアルケの部屋の前まで歩いた。
コンコンッと数回ノックし、「今、いいか?」と優しい口調で言った。すると部屋の中でガサゴソと何か焦るような音が鳴ったが、それも急にスンと止んだ。
「いいよ。」とアルケは優しく返した。
ネプトは扉をゆっくり開けた。
「アルケ、この前の――」ネプトの言葉はそこで途切れた。
目の前には服を纏っていない彼女の姿があったからだ。
突然のことで思わず部屋の扉を閉め、目をそらした。
「アルケ… 着られてないなら外で待つが…」
ネプトの指がそう言ってドアノブに伸びる。
「廊下で通りかかった人に見られちゃうかも… 私、それは嫌だな」
アルケは少しずつネプトに迫る。
「それで… なんのよう?」
アルケが体を密着させて耳元で囁いた。唇が耳に触れそうなのが息遣いで伝わる。
「いや、前にオーシャノア付近で一度療養してもらったことがあるだろ? そこの座標が知りたくて…」
否が応でもアルケの体に目が行ってしまう。ネプトは彼女の目を見れなくなっていた。
するとアルケは体をネプトの背後に滑るように回り込み、ネプトの持っていた鉛筆と紙に座標を書いて渡した。
「これはオーシャノアの座標。ここからおよそ20メートルほど下げれば、あの場所よ」
ネプトの背中にアルケの胸の感触が伝わる。
「それじゃあ、僕はもう…」
ネプトはドアノブを握っていた手に力を入れた。
しかし…
「寂しい日があるのよ… 私にも」
そう言ってアルケはネプトの手を包み込むようにしてドアノブから離した。
「アル…ケ」
ネプトも困惑した。自分は今何をやっているのか理解ができなかった。
次の瞬間にはネプトは全身から気力が抜けたような感覚に陥った。アルケがドアのカギをガチャリと閉める。
「あなたは優しいわ。だから今日くらい私の為に。私を慰めてよ…」
アルケの声は悲痛な叫びにも聞こえた。
それからネプトとアルケはお互いの肌を触れ合わせた。不思議とお互い声は出なかった。むしろお互いを求め合いながら、悲しみが膨らんでいき、涙がこぼれるほどだった。
「私はあなたを愛しているわ。ネプト」
アルケの告白。
遅い告白はアルケの胸を締め付けるように痛んだ。
「アルケ… 僕は…」
「いいのよ。気づくのが遅かったのは私のほうだったから」
夜は更ける。時間は少しずつ動く。それは、どうしようもないくらいに止めようがなかった。
そしてここでも止めようのない時間が動きつつあった。
一方、ソラリスの心臓部とも言える作戦室では
「正気か⁉ルミナ、明日の作戦をどうするつもりだ。」
ユンボの声が冷たい金属壁に反響した。
ユンボは声を張り上げたのだ。願わくばこの声が誰かに聞こえないものかと淡い期待をもちながら。
「明日の夜、作戦は開始する。それは前から私たちの間で決めていたし、それぞれの部隊長にも伝えてある。」
「でも、ネプトには伝えていないんだろ?」
ユンボの声が低くなる。
「彼は私の考えとは違う。ウィル・トールの再来ともてはやされても、所詮は20にも満たない子供だ。変な気でも起こされて計画を狂わされることないよう。ネプトをこの任務から外す。そうすれば少なくとも明日の戦場でネプトは死なない」
ルミナは血走った目でユンボを睨んだ。
「しかし…」
ユンボの中にも迷いがあった。ルミナの言葉通り、任務から外れれば死ぬことも無い。それならばいっそ…
そう考えてしまった。
「分かった。」
結局それを承認してしまった。誰も近しい関係の人間が死ぬのを見たくはない。
「うれしいよ。あの時から貴方は利口だった。今のソラリスではネプト・アンビションを恐れて誰も関わろうとしない。
彼と仲のいい者たちも彼の死の可能性をなるべく遠ざけたいと願っている。利害は一致してるんだ」
「それで…ソーラ・コアが完成した後。ソラリスはどうするんだ。」
もはやユンボの目にはソラリスのリーダーとしての彼女は居ないように見えた。
「政府が軍の立場を上回れば、私たちを軍直属の兵として正式に認めるとも言っている。そうすれば、いつ彼が戻ってきても…」
ルミナの声が少しづつ大きくなる。
「そうか…」
ユンボは顔を歪めた。ルミナは未だに30年前にとらわれたままだと改めて分からされたからだ。




