凶器
医療区画の窓から差し込む柔らかな陽光に、アキラが目を細めた。ネプトが来ると、かすかに笑顔を見せた。
それはまだ小さくて弱いけれど、確かに「人の顔」だった。
「……ねぇ、ネプトさん。」
「なんだ?」
「……これから、どうなるの?」
不安げな声。
ネプトはゆっくり考え、できるだけ正直に言った。
「分からない。でも……君はもう脱したと考えてもいい。まあ、ここで生きていいということだ。」
「生きて……いいの?」
「縛る余裕もないのさ。」
アキラの目に、希望がともる。
ネプトはその変化を見逃さなかった。
「明日も来る。……だから、もう少しだけ僕を信じてほしい。」
「……うん。」
その日、アキラは眠る前に、自分から「おやすみ」と小さな声で告げた。
アキラは朝に眠る。彼は夜ほど目をまん丸くし、絵本を読んだり少しずつネプトと会話する。これはきっと彼がそう教育されたのだろう。
ネプトはずっと頭の中で、アキラと出会った日のことや、アナンケーと愛をささやいた日を思い出していた。自分の中にある2つの結論――希望と絶望、それに葛藤していた。
そこに、いつもと打って変わって酷く疲れたエリナがネプトの目の前を通り過ぎた。
「エリナ…」
ネプトの声は彼女には届かなかった。しかし、物陰から彼女を心配そうに見つめる姿があった。ダグラスだ。
「やあ、エリナ……変な空気だったが?」
ダグラスもひどい顔をしていた。ネプトと会わなかったこの数日で何が起こったのだろうか……ダグラスはゆっくりと口を開いた。エリナの身に何が起こったのかを。
「あいつは、ソラリスの顔役としてルミナと共に、お得意様のところに行ったんだ。」
「お得意様?」
「政府高官さ。リュウジ・ニイガエ。その人が今のソラリスの出資者だ。彼は俺たちと軍が戦っているのを横目に、例の人口太陽建設に力を入れてきた。」
「初めから、協力関係だったと」
「ああ、そしてその高官は要求したのさ。一夜を共にする女性が欲しいとな」
ネプトは顔をしかめる。それはつまり、エリナがそれに選ばれたということだからだ。
「大丈夫なのか?」
「分からない。俺も何が何だか。いくら出資者といえど、そんなわがままが通じるなんてな。形骸化した特権制度、それはずっと存在するものだ。だからこそ、いつかは…」
その時ネプトはダグラスの話し方に違和感を感じていた。
「ダグラス…」そうネプトがつぶやくと、
「なんだ?」と男らしく強く聞き返した。
「あなたは、いったい誰の言葉をしゃべっているんだ?」
その瞬間、ダグラスは口を小さく開けたまま困惑した表情を浮かべた。ネプトは以前から、ダグラスの話し方に時々違和感を感じていたのだ。
「あなたの本当の言葉を僕は聞きたい。いったい誰のふりをしているんですか?」
「な、なにを言っているんだ。俺は…」
ダグラスの言葉が詰まる。
「あなたの言葉は、時々自分の意思でしゃべっていない時があるんです」
ネプトはダグラスが何かを隠しているのではと疑った。彼は頭がよかった。ダグラスの本心や本音を覗こうとしたのだ。
「ウィル・トールですか?それとも、ヴァルター・ホフヌングですか?それとも…」
「いい加減にしろ… これは俺の言葉だ。死者に心を惹かれているわけが…あるはずがない‼」
取り乱すダグラス。ネプトは確信した。ダグラスの偽りの言葉は死者の言葉だ。それも、仲間のように近い関係性だった者の。
「いいんだ。俺は…」
そんな風に正気を保てないダグラス。
「ダグラス…?」
それはネプトから見ても信じられない光景だった。兄貴肌でみんなが頼るダグラスが今、目の前で震えて何かにおびえているのだ。
「俺は…」
ダグラスは小さく、誰に話しかけたのかもわからない声でしゃべり始めた。
ネプトは自分の探求心を呪った。前にダグラスに言われた「焦るな」という言葉。それが今、明確な過ちとして動いているかに思えた。
「俺は、ただの小心者のガキだった。ある日、ウィルさんとカイに拾われた」
その言葉にネプトは耳を疑った。カイ、その名を持つ男をネプトは知っているからだ。
「ソラリスは明るかった… 目の前が辛くてもあの時のあいつらは家族のように接してくれた。でも、今の此処は違う。エリナも…家族も守ってくれる存在じゃなくなっちまった」
暗い顔をしたダグラスは立ち上がった。胸を張っていた頃とは違い、今の彼は猫背だ。取り繕ってきたものを、ネプトは剥がしてしまったのだ。
「カイという名の人は?」
ネプトは、これ以上ダグラスに話しかければ、今までの彼に戻れなくなるかもしれないという危険性を承知したうえで、つい口を滑らせてしまった。
「カイは… 忘れもしない」
ダグラスの指がぴくッと震える。
「目の前で死んださ。あと少しだって時に。あいつは逞しい奴だった。我慢強い奴で、でも、頭は空っぽなんじゃないかって位無鉄砲で、いつも明るかった。だから… あいつの我慢を俺たちは気づけなかった」
ネプトは自分の知っているカイとの差に困惑していた。ネプトの中でのカイは、頭脳明晰そうで冷静だったと記憶しているからだ。
「あいつは戦いの中で受けた傷を隠してた。もう補給も受けられなくなったソラリスで、自分に使うものがあれば他の人に回そうと考えたんだろう。最期に、言葉を俺に告げてあいつは逝っちまった」
「ダグラス…」
ネプトも言葉を詰まらせた。
「お前の言う通りだ。俺はあの日死んだカイの代わりをやっていたんだよッ!!」
今までのダグラスとは違う、きっと本来の彼の表情を見て、ネプトは人の死がどれだけの影響を他人に与えるかを痛感した。
その光景を物陰からユンボが見ていた。
「そうか…ダグラス。お前もまだ。カイ、やはりお前は必要な人間だったぞ。君がいなければ、ウィルがいなくなることもなかったかもしれないのだから…」
ダグラスは頭を抱えたまま廊下をふらふらと歩いた。そのおぼつかない足取りに、ネプトは後悔していた。
(人の心を覗き込み丸裸にしてしまえば、その人を殺すかもしれない…)
確かに言葉は希望だ。言葉があることで人は愛を伝えられ、幸せを言葉にできる。
しかし、同じ言葉は時に人を殺す凶器にもなる。見えない凶器は誰にも気づかれず、その苦しみは刺された者だけが知るのだ。
エリナ、ダグラス。彼らの笑顔が消え、ネプトからも笑顔が消えつつあった。
果たして希望とは何なのか、と再び考え始めた。その時、ふとアナンケーの顔が浮かんだ。
ネプトは彼女に会いたくなった。自室に戻り、机の引き出しを開ける。そこには白い正方形の箱が置いてあった。蓋を開けると、装飾のない指輪が二つ入っていた。
「会いたいな…アナンケー。君に…」
その姿をアルケが静かに見ていた。彼女の顔には、涙をこらえているような表情が浮かんでいた。




