それを踏み潰すもの
アナンケーとネプトは頬を赤くしたまま、小さな笑顔を見せる。
二人の心がわずかに繋がったその夜、ネプトはソラリスの拠点への帰路についていた。
補給網を断った戦いは町に影響はしていないようで、人々は日常を今日も当たり前に享受している。
しかし、その陰には誰も見ない地獄が広がっていた。
ネプトは人気の少ない路地裏で、足音を聞いた。
慌てふためきながら逃げる影がある。よく見ると、それは金髪の少年だった。裸同然の身体に、ところどころ痣や傷跡が走っている。
少年は必死に走るが、転び、石畳に打ちつけられ歯が欠け、血が口から流れた。月明り越し彼の顔が見えた。その顔は酷い腫れで原型をとどめないほどだった。
追ってきたのは大人のヒトたち。
血走った目をした連中は、少年を再び捕まえようとしているのだろう。
ネプトは声を上げた。
「おい、いじめか?こんな子供を!」
声が響く。
男たちは苛立った顔で、ネプトを見つめた。その金髪の少年に向ける眼差しはどこか厭らしかった。
「そいつは俺らの商品だ。君に阻む権利はないだろ」
「商品……?人間をか?」
ネプトの声が震える。
「当たり前だ。子供は高く売れる。特権階級でもなんでもない下層の子供でも買い手がいるんだ。誰が文句を言う!」
その言葉に、胸の奥の何かが爆ぜた。
周りには人が集まってきている。いくら路地裏であろうとも、ここまで声を張れば当然だろう。
しかし、周りの人々は止めるどころかこの光景を気に留めなかった。
この町の人々は関わらないのだ。それどころか一部の野次馬やそれを面白がった人々が撮影デバイスで録画までし始めた。
(これが… 僕が希望を見た世界の現状なのか?)
信じたものが揺らぎそうになる。それもそのはずだ。そも、ネプトは希望とは程遠い世界を今まで見てきたのだ。
気づけばネプトは男の胸ぐらをつかみ、石壁に叩きつけていた。
「人間だ。あんたらの物じゃない!」
男の一人が殴りかかろうとしたが、ネプトは目で威圧するだけで動けなくした。
パイロットとして積み上げた地獄の中での経験が、無言の迫力となっていた。
「二度と彼に触れるな。」
低い声でそう吐き捨てると、男たちは音を立てて逃げ去っていった。
一部の野次馬が歓声を上げ、ネプトをヒーローと持ち上げた。
きっと彼らはネプトが負けていたとしても勝ったほうに歓声を上げただろう。
この世界に希望の灯は確かにある。
しかし、その灯ごと踏みつぶすものの数のほうが、それをはるかに上回るのだ。
残された少年は震えていた。
血と涙で顔がぐちゃぐちゃだ。裸の細い肩が小刻みに震える。声をかけようとしても返事はない。
その目には光がなかった。
ネプトはそっと近づき、自分の外套を脱いで肩にかけた。
「大丈夫だ、もう大丈夫だから。」
少年は恐怖のあまり身を縮めた。その様子に胸が痛む。
「怖くない。俺は敵じゃない」
ゆっくり、できるだけ優しく語りかける。
少年は恐る恐る顔を上げた。
その目には確かに人間としての希望は映っていなかった。ただの獣のような怯えだけが残っているのみだった。
「寒いよな。温かいところに行こう。俺と一緒に」
ネプトは少年の手を取った。
その時だった、町を徘徊する一人の男が少年を見つけ迫ってきていた。
「そこ、そこのガキ!動くなよ」
ネプトは自分のことかと思って溜息を吐き、男の格好を見た。
軍のような恰好をしているが、軍人の胸章も、何も身に着けてはいなかった。
「あなたは?」
そんなネプトの問いは無視され、少年の手を強く引っ張った。
「グッ…!」
痛がるものの、言葉は出ない。
「待ってください、あなたは一体…」
男は呆れたように薄汚い手帳のようなものを見せた。そこには「民間警察機構」と書かれていた。
「我々はパックス・キウィタス。町の守護者だ。このガキはどうせ居住許可書を持っていないだろう?
だから追い出すんだよ街から」
間違ったことなど言っていないといわんばかりに純粋にネプトを見つめた。
「ほうら、立てよ。怯えるんじゃない。ん? なんだ男か… 運がなかったな俺にそんな趣味はないしな」
呆れたように手を放し、舌打ちをした。
「何してるんです?」
ネプトは今の行動に理解ができなかった。
「え?ああ、そうだった。そう言えば町の外に追い出すって言ったんだっけか… うーん、よし、決めたぞ」
男は何かを決めた。ネプトは嫌な予感がしたが、この男にかかわってはいけない。そんな感覚があった。
「今この場を持って、この少年は大罪を犯した。
この少年は民間警察機構に牙をむいた。これは町を無償で守り続ける我らに牙をむいたも同義。つまりはこの町の敵だ。よって反逆罪でこの少年をこの場で銃殺刑とする。」
理解ができなかった。
一歩踏み出そうとしたそのとき、少年は小さく声を出した。
「た……たすけて……」
かすれた声だった。人としての言葉を思い出すかのように、必死に振り絞った声だった。
ネプトはかつて人を殺すときに感じた、自分を俯瞰する視点にもう一度なった。此処に希望はない。そう思い出させられたのだ。
発砲音が夜空に鳴り響く。しかし、その時にネプトは飛び出していた。少年を庇ったのだ。
血が噴き出す。
野次馬の中には、銃を放った男を称賛する声すらあった。
一度掴みかけた希望が、手の中で崩れ去っていく。胸の奥が凍りつくように痛かった。
少年を抱き寄せながら、意識が遠のく。
ネプトは走った。
荒い息を必死に整え、少年を意識的に抱きしめた。こうでもしないと意識がどんどん遠のいていくと感じたからだ。
(埋まったか⁉)
ネプトは銃弾に打たれたところを触り確信した。
民間警察機構… その名はネプトが少し前、ルミナから聞いていた名前だった。公にはニューロンドの治安維持を目的とした、自警団のようなものだった。
彼らは確かにこの街をきれいにした。でもそれはこの町に住む人々を追い出し、時には街中で発砲し、難民や罪なき市民を掃除する。パックス・キウィタスの名に反した平和でも何物でもないディストピアを生み出している張本人なのだ。
「軍人だとでもッ…!」
吐き捨てるように血と共に漏れた声。必死だった。そして改めて希望とは… と頭の中でその疑問がひたすらに響いて五月蠅かった。
ソラリスの医療班に駆け付けると、ネプトは少年の保護を優先した。少年は泣き叫びながらネプトにすがりついていた。
治療に当たったミーアは、少年に応急処置を施しながら顔をしかめる。
「ひどい傷……でも重症は、ネプトさんの方です!」
すぐに銃弾摘出の準備が始まった。
手が血まみれのネプトは笑って少年に言う。
「だい…じょうぶ…か…い…」
意識が暗転する。麻酔の苦い匂いと、慌ただしい医療班の声。
摘出手術は長く続いた。
次に目を覚ましたとき、簡易ベッドの隣でアルケが眠っていた。小さく寝息を立て、疲れ切った顔をしている。
見回すと、ミーアがほっとしたように微笑む。
「奇跡的に内臓を逸れていました。なんとか大ごとにならず済みましたね……」
ネプトは痛む体を動かし、ベッドの上で少年のことを思った。
あの子は、今……どうしているだろうか。そう考えずにはいられなかった。
もう二度と、こんな思いをする子どもを増やしたくない。そう思わずにはいられなかった…
摘出手術から三日が経った。
傷の痛みは残っていたが、ネプトは医療区画に併設された隔離室へ向かっていた。その一角に、小さなベッドを与えられた少年がいる。
あのとき救い出した金髪の少年――名前は「アキラ」と名付けられていた。本当の名を覚えていないというので、簡単な名前をネプトは用意したのだ。
アキラは毛布にくるまれたまま、天井を見つめていた。医療スタッフに世話をされても、目の焦点は合わず、生気がない。
ネプトはそっとノックをして、アキラの視界に入る位置に腰を下ろした。
「傷はもう痛くないか?」
問いかけても、アキラは小さく頷くだけだった。
初日はそれだけだった。
何を話しかけても怯え、名前を呼んでも声は返らない。ただ、生存本能でごくわずかに首を動かすだけの反応だった。
ネプトは、話すことを急がず、とにかく毎日顔を見せることを決めた。
すると子供の世話なんて全くできなそうなダグラスがネプトを待ち受けていた。
「よう!星は見えたかい?」
ネプトは星の見えたあの日を思い出した。それは美しく、一時ネプトの希望を間違いなく見せたのだから。
「ああ、とびっきりのがね」
頑張ってネプトは幸せそうな顔をした。
だが、ダグラスは作られた表情を見て顔をしかめた。
「何を見た?何があった?相談しろよ、人は相談できる動物なんだからさ♪」
ネプトは疲れた顔をしてダグラスの顔を見た
「光を見た。人々の光だ。でも、影も見た。光より小さかったが悪目立ちするほどの影だ。」
「なるほどな。お前、嫌いだろこの世界がさ」
ネプトは迷わずうなずいた。ひどいものをたくさん見てきたからだ。
「俺は好きだ。あいつらと出会えたこの世界が、お前と会えたこの世界が好きだ。でも同時に、くそったれの世界だとも思うさ。
要は――好きの中に嫌いなもんまで含めてるのさ。人はついつい焦って嫌いなものをこの世界すべてだと思い込んで自分に呪いとして背負っちまう。」
「僕のこれは焦っていると?」
「そうだ、頭のいい奴ほど時間の緩やかな流れを嫌う。変革は誰かが作るものじゃない。時の流れという名の一人一人の意思がゆっくりと今を蝕んでできるものが未来なのさ。
「それでは僕らの今やっていることは無駄なのか?」
「また焦ったな?だから言ってるだろ、時代は人の意思が変える。その時まで生きているのが大切なのさ。焦りは禁物だ。そうでなきゃあいつらが救われん」
「肝に銘じるよ。焦り…ね」
焦り、変革を求め散っていったものは後にも先にも計り知れないだろう。ダグラスはそんなものたちとネプトが同じになっていくのを心から止めたかったのだろう。
翌日になった。
ネプトは温かいスープをアキラへと持って行った。食事当番のアルケが用意してくれたものだった。
「食べられるか?」
ネプトはそう差し出すと、アキラはおずおずと目だけを動かした。ネプトは自分でスプーンをすくい、口元へ近づけて見せる。
「ほら、大丈夫。熱くない。」
それでもアキラは震えた唇を噛むだけで、受け取らない。けれど根気よく声をかけていると、ほんの一匙だけ口に入れた。
たったそれだけで、ネプトは心の底からほっとした。
「少しでも食べれば体力がつく。……無理しなくていい。」
そう伝えると、アキラの目にわずかに迷いのような光が差した。完全に心を閉ざしてはいない——そう思えた。
ソラリスの中では、ネプトをウィル・トールの再来だとする噂がかつてないほど広がった。それは長い間、希望が見えず深い霧の中を彷徨っていた彼らの中でブームとなり、それが彼らの希望となったのだ。
もし、自分たちが奪われてきた自分たちがもう一度…そんな期待がウィル・トールの再来という肩書に込められたのだった。
そうなっていくほど、人々はネプト・アンビションという人間そのものを見ることはなくなっていた。
ネプトがアキラの傍につき三日が経った。
アキラは寝たきりから少しずつ体を起こせるようになっていた。
ネプトは怪我が少し癒えた腹に包帯を巻いたまま、また見舞いに来る。
その日も同じように、ネプトはアキラにスープを運ぶ。
前日よりはスムーズに口を開くこの繰り返しがネプトの精神を落ち着かせている。
「……ありがとう。」
かすれた声が聞こえた。
ネプトは嬉しくて思わず笑ってしまった。
「お礼を言うのは俺じゃなくていいんだ。お前自身にだ。」
意味が分からないのか、アキラは首をかしげた。
「これまでお前は頑張ってきたんだ。だから、自分をほめてやるんだよ」
ネプトがそう言うと、アキラは視線を落とし、小さく肩を震わせた。
涙が一筋、頬を伝った。
(もし、もしだ。この先。ソラリスという敵や異星人という敵がいなくなったら…
きっと次はヒト同士が争い合うそんな気がする。
だとしたら人は、常に敵を作らなければ生きていけないのだろうか…)
それはネプトがこれからの未来に向けたたった一つの問だった。
また日は落ち、日は昇る。時間は緩やかでも確実に動いている。
また、少しずつ心を開き始めたアキラが、ようやく自分のことを話し始めた。
「……売られたんだ。家族がいなくて……生まれてから名前ももらえなかった。」
唇が震え、言葉が途切れる。ネプトは静かに頷くだけで、途中でさえぎらない。
「最初は……おばさんのところにいた。……でもそこもだめで、また……売られて」
その言葉の端々に、ひどい扱いを受けたであろう気配がにじむ。少年の体に残る傷の多くは、そうした「取引」の中でつけられたものだった。
「何回も……逃げたけど、捕まって……最後にお客さんを相手することになった。変な格好をさせられてたり、首をぐっと絞めたり、いろいろ… ずっと逃げられるの待ってた。」
ネプトは、痛みが走る腹の傷を無理やりかばいながら、アキラの手をそっと取った。
「もう逃げなくていい。ここは安全だ。」
アキラの目にまた涙が浮かんだ。
「本当に……?」
「本当にだ。俺が約束する。」
信じ切れてはいない。けれど、その言葉に縋りつくように、アキラはうなずいた。
廊下では聞いたことのない曲が流れている。此処へ来てからずっとそうだ。古臭くって、少し怖い。そのメドレーがネプトの不安定な心を余計に歪めるようだった。




