黒紅の桜 7
「そういえば……」
一言呟くと、蒼弥はピシッと着こなした茶色のスーツの左ポケットからハンカチーフを取り出し、それをスッと和花に差し出した。
不思議に思い彼を見上げると、ぱちりと目が合い、優しく微笑まれる。
美しい人に間近で微笑まれたら、誰でも赤面するだろう。
和花も例外ではなく、頬を薄らと赤らめ息を飲んだ。
「これを貴方に」
蒼弥の手の中にある卯の花色のハンカチーフには桜の刺繍が施されていた。
「地方を出立する際に立ち寄った店で見つけたんです」
誰かにあげる為に買ったのでは?と疑問に思った和花の心を読み取ったのか、蒼弥はふっと笑った。
「実は、帝都にいる知り合いに土産として渡すつもりでした。ですが、会う機会が無くなり渡せなくなってしまい、どうしようかと思っていたのです。人に渡そうとしていた物をお渡しする感じになってしまい失礼だと思いますが……」
「ですが……」
こんな高級そうなハンカチーフを頂いても良いのか、蒼弥の顔と手元のハンカチーフを代わる代わる見る。
「よろしければ貴方に受け取って頂きたい。この美しいハンカチーフは、親切に心を砕いてくださった、心までもが美しい貴方に似合う」
人から真正面に褒められる機会など最近ほぼなかった和花は戸惑いと気恥ずかしさに襲われ、思わず目線を彷徨わせた。
受け取らない和花を見兼ねた蒼弥は、彼女の元に一歩足を踏み出した。
距離を詰められ後退りしようとしたが、蒼弥はそれよりも先に和花の胸の前で組まれていた手から右手を優しく取り、自分の方に引き寄せた。そして、和花の手のひらをそっと上に向かせる。
呆気に取られている和花なんてお構いなしに、手の上に優しくハンカチーフを置き、その上に自分の手を重ねた。
和花の小さな右手は大きな温かい蒼弥の手に挟まれる。
これまでに無いくらい大きな心臓の音が和花の身体の中を駆け巡っていく。
重なっている手を伝って、心音が蒼弥に聞こえてしまいそう。
きっと和花の顔は今までに見たことがない程に紅くなっているはず。
「はい、どうぞ」
動揺している和花とは対照に、蒼弥は落ち着いていて、優しい眼差しをこちらに向けている。
彼から目が離せない。
繋がっている目と手からは温かさを超えて、熱さを感じた。
手袋をしていて良かった。きっと直接手が触れていたらどうにかなっていただろう。
人の温もりを久しぶりに感じた瞬間だった。
しばらくの間見つめ合う二人の間には、沈黙が続く。
(こ、これは頂かないと帰ってもらえないのね。ありがたく頂こう)
「……ありがとうございます」
受け取らないと先に進めないと察した和花は言葉を詰まらせながらお礼を言うと、蒼弥は満足そうな笑みを浮かべ、そっと手を離した。
ぬくもりが無くなり、急に手が冷たくなった気がした。離れた事が少し寂しくも感じられる。
それを悟られないように、慌てて視線を手のひらに置かれたハンカチーフに向けた。
淡い桃色の桜の花々と、その周りには花びらが至る所に散りばめられている。
卯の花色と桜の花々がとてもよく合っており、春らしさと美しさが伝わってくる素敵な物だった。
(なんて綺麗なハンカチーフ……)
あまりの美しさに笑いが込み上げ、今までどこかぎこちなく笑っていた和花の口元が綻んだ。
彼女の顔付きの変化に気付いた蒼弥は、目を丸くした。
桜色の薄い唇は柔らかく弧を描き、頬はほんのり赤みを帯びている。目尻を下げて微笑む姿は固い表情だった先程と打って変わってあどけなくも見えた。
「その様に笑われるのですね」
蒼弥の一言に和花の動きが止まった。
「……え?……あの……私……笑っていませんでしたか?」
蒼弥と出会った瞬間から自分は彼に笑顔を向けていると思っていた。笑っているつもりだったが自分は笑っていなかったのか?頭の中が混乱する。
「いえ。私の勘違いだとしたら申し訳ありませんが、心から笑っていらっしゃる感じではなかったので」
「……心から……」
「少し寂しそうにお見受けしました」
心の中を見透かされたようだった。
この一年、穏便に過ごそうと嫌なことがあっても面白くなくても常に笑顔を浮かべるよう心掛けていた。
そしたらいつの間にか意識をしなくても上手に作り笑いができるようになったのだ。
それなのに初対面の蒼弥に寂しそうだと気付かれるなんて思ってもみなかった。
ハンカチーフのあまりの美しさに目を奪われ、いつの間にか自然と口元が緩んでいた自分がいる。
どんな顔で彼を見れば良いのか分からなくなり視線を泳がせた。
「貴方の素敵な笑顔が見られて私も嬉しいです」
それでは、と軽く会釈し、立ち去る蒼弥の背中を立ち尽くしたまま見送った。
去り際の麗しい笑顔が脳裏に浮かぶ。
最後まで気を確かに見送ることが出来なかった。
蒼弥が去った店内は、しんと静まり返り、急に寒くなった気がした。
◇◇◇
時同じくして、加納宅では久しぶりに親子で酒を酌み交わしていた。
それなのに場の空気は最悪だった。理由は話の内容である。
「そういや直人。最近あの娘と話しているか?」
「あの娘」で誰のことを言っているのか理解した直斗は顔を顰めた。
「いや?話すどころか会ってもいない」
直斗は幼い時からそうだった。周囲の人に興味を持たないし、必要最低限しか話をしない。この先一生を共にするであろう婚約者ができれば彼の性格も変わるかと思ったが、どうやら間違いだったようだ。
「私的には今すぐに結婚をして加納の姓を名乗ってもらいたいと思うのだが。そろそろ孫もみたいしな」
盃を片手に平然と言う信忠に直斗は憤慨し、手に持っていた盃を勢いよく机に叩きつけた。
「勝手なこと言わないでくれよ!」
「何をそんなにいきり立っているのだ?今後の加納家、加納屋のことを考えたら誰でも理解できることだろう?」
あまりにも勝手な信忠に怒りで声が震える。
「親父もお袋も自分勝手すぎるんだよ!!結婚?孫?笑わせんな。俺は興味がないと言ったじゃないか。それなのに、それなのに……」
昔から加納屋が好きだった。綺麗な模様に囲まれ人々が喜んでいる空間が。いつか自分も手描き職人としてこの店で働き、家族を支えていくのだと物心ついた時から思っていた。そのために今も大学で美術を専攻し勉学に励む日々。それなのに……
突然言い渡された結婚。しかもその相手は美術についてろくに勉強もしていない癖に手描き職人として働くことを条件にやってきたのだ。どんな腕前かと思ったが、彼女が仕事を始めてから売り上げは鰻登り。みるみるうちに繁盛していった。
手描き職人業は彼女にすべて一任するから、大学を辞め次期店主として接客や経営の修行することも提案された。のちのちは二人でこの店を大きくしていくのだと。
全く面白くない話である。
自分勝手な両親も、自分の存在意義を、夢を潰した和花も到底許せそうにない。
だが、大好きな店を存続させることを考えると婚約しない他なかった。
「とりあえず大学を卒業するまでは婚約者という肩書にすること」
これを条件にやむを得ず了承したのだった。
それでいてこの仕打ちは許せなかった。
(自分の息子のことより、この家の繁栄、金のことしか考えていないじゃないか)
「まあ良い。どうせあと一年で大学も卒業だろう?それからでも遅くないわい。十年だと待てないが、たった一年ぐらいどうってことないわ」
下品な笑い声が響く。
(あと一年、あと一年で自由を奪われてしまうのか……自分のやりたいこともできないのか?)
直斗は俯き、唇を噛みしめて怒りに耐えるしかなかった。