純白の手袋と怪雲の兆し 3
「……っと……大丈夫ですか?」
いつまで経っても痛みは感じられない。痛みどころか、蒼弥の爽やかな匂いと逞しい腕に包まれていた。
恐る恐る目を開くと、隣にいた蒼弥が寸のところで抱え込むようにして和花を支えてくれていた。
「ご、ごめんなさい……ありがとうございます……」
「怪我はないですか?」
和花を支えながら起こす蒼弥は、心配そうに顔を覗き込んだ。
「はい、蒼弥さんが支えてくれたので……」
蒼弥の腕から身体が離れた後も、まだ心臓がどくどくと脈を打っている。転倒しなかった安堵から和花は胸の前で手を組み、大きなため息を一つ吐いた。
「何ともなくて良かったで……あれ?和花?」
怪我がないか、和花の身体を上から下へ見回していた蒼弥は、不自然なところで言葉を切り、和花の胸の前で組まれた手をまじまじと見た。
「蒼弥さん?」
和花は首を傾げながら、蒼弥の視線を辿ると、右手に嵌められたレースの手袋の手首部分が破れ、その奥にはうっすらと赤い血が滲んでいた。
「私、いつの間に……?きっと倒れそうになった時に薔薇の棘にでも触ってしまったのかもしれませんね」
正直記憶にはないが、他に危険なものが無いところを見ると、そう考えるのが妥当だろう。草花を触っていれば気付かぬうちに、葉や木の小枝で手を切ってしまうことなんてざらにある。それを知っている和花は特に気に留めなかった。
「このくらいの小さな傷、すぐに良くなります」
手袋の手首部分を少し押し上げると、細い手首が露わになる。傷を確認した和花は、心配ないと蒼弥に笑いかけた。
だが、蒼弥は違ったらしい。
一瞬言葉を詰まらせた後、和花の左手を取り、早足にその場を離れた。
「そ、蒼弥さん……?」
強く引かれる腕に和花は戸惑いが隠せない。連れて行かれるがままに蒼弥の後を追う。
「早く家に戻り、止血しましょう」
「え?あ、あの……!このくらい問題ありま……」
「そんなことありません。跡になったら大変です!」
(えぇ!?)
食い気味に言われると,何も言い返せなくなる。蒼弥は本当に心配性だと思いながら,和花は手を引かれ帰路に着くのだった。
幸い、手首の傷は軽傷だった。
棘のようなものに引っ掛けてしまい、シュッと短い一本線が入ったくらいで、止血も消毒もすぐに終わった。
「はい、これで大丈夫ですよ。……それにしても、蒼弥様のあの慌てようぶり、初めて見ましたわ」
和花の手当を終えたカナは、数分前この事を思い出し、くくっと手で口元を抑えて笑った。
散歩に行った二人が大慌てで帰ってきた際には何事かと思ったが、普段落ち着いている蒼弥らしからぬ理由にカナも拍子抜けしてしまった。
「すみません、つい……」
和花が手当される様子を真剣に見ていた蒼弥は、どこか恥ずかしそうに頭を掻いた。そんな蒼弥の姿に和花の口元も自然に緩む。
(怪我より蒼弥さんの驚きように驚いたけど……何だかとても可愛らしかったわ)
決して口に出すことはしないけど、和花を想って慌ててくれた姿が可愛らしく、嬉しく思えた。
「それでは私はこれで」
「カナさん、ありがとうございました」
「いえいえ」
薬箱を片手にカナが部屋を立ち去ると、二人の間は静寂に包まれた。
「すみません、必要以上に騒いでしまいましたね」
「いいえ。心配して下さり嬉しかったです」
照れくさそうに笑う蒼弥に和花もつられて笑う。
蒼弥は和花に向き合って座り直すと、膝の上に置かれた右手を取る。そして、今しがたカナが丁寧に巻いた包帯部分を優しく撫でた。
「少しの傷でも、あなたが傷付くのは嫌です」
「……蒼弥さん」
本当に優しい人。和花のことを第一に考えてくれ、大切に接してくれる蒼弥の姿に胸がいっぱいになった。
「ご心配をおかけしました。色々とありがとうございます」
「私の大切な婚約者ですから、これからも心配をさせて下さい」
蒼弥は笑みを浮かべながら、たくし上げられていた手袋の端を指でつまみ、包帯を覆うように元に戻そうとしたその時、手袋の異変に気付き「あ……」と小さな声を上げた。
よく見ると、引き伸ばされた手袋の手首部分の一部が大きく裂け、中の包帯が覗いていた。
和花も破れていたことを思い出し、「そうでした」と呟いた。
「手袋ごと引っ掛けてしまったんですね」
今後使えないこともないが、見栄えは良くない。それに、これからもっと大きく壊れてしまっては使い物にならなくなってしまうだろう。
「新しい手袋を買いましょうね」
裂け目を触りながら蒼弥は提案してくれたが、和花はゆっくりと首を左右に振った。
蒼弥の心遣いはとても嬉しい。しかし、和花は新しい物を用意する気にはなれなかった。
「お気遣いありがとうございます。ですが、これはお母さまから頂いた大切なものなんです。縫えばまた使えるので新しい物は大丈夫です」
「そうですか、分かりました。これはお母さまからの贈り物だったのですね」
「はい。私にとってはお守りのようなものです」
和花は昔を思い出しながら、手袋をはめる自分の右手を見つめた。
『これから先、あなたのことをずっと守ってくれるわ』
加納家へ嫁ぐ日の朝、優しいけど寂しそうな笑顔を作った母からお守りとしてもらったこの純白の手袋。当時は深く意味を考えず、母が近くに居てくれるような気がすると肌身離さずつけていたが、後々になって本当の母の思惑を知った。
和花の持つ彩色の手のことを知られ、悪用されないように――と。
母の思いがたくさん詰まったこれを破れたからという理由のみで手放すことは考えられなかった。
「私、カナさんに裁縫道具をお借りしてきます」
和花は音を立てずに立ち上がると、蒼弥を置いて部屋を後にした。




