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純白の手袋と怪雲の兆し 2



 


 初冬の風は肌を突き刺すほどの冷たさはなく、それがどこか心地良い。

 青い空に浮かぶ形の良い白い雲は、和花が着こなしている着物に描かれた雲柄とよく似ていた。

 生成色の生地の至る所には、金箔で縁取られた雲取りが描かれており、その雲の中に菊や、あやめ、萩、桔梗、もみじなどの繊細な草花が描かれている華やかな着物。


 明るい色の着物に身を包みながらも、心のうちには黒い不安を抱えていた和花は、外の天候の良さと清々しい空気に、先程まで抱いていた負の感情が薄くなり、落ち着きを取り戻していることを実感した。

 大きく息を吸い込むと、鼻から入るやや冷たい空気が気持ち良い。


「もう冬ですね」


「はい。朝晩はもうかなり冷え込みますね」


「これからもっと寒くなるのでしょうね」


 二人は手を繋ぎながら、のどかな道を歩いていく。蒼弥の屋敷の裏手には、緩やかに流れる小川へ続く道がある。二人は行くあてもなく、ただひたすら自然豊かな道を歩いた。


 聞こえてくるのは控えめな風の音と、川のせせらぎ、遠くの鳥の鳴き声のみ。決して会話が多い訳ではないが、沈黙の時間もどこか居心地が良かった。


「ここの川はいつ見ても穏やかですね」


 小川に辿り着くと、清らかな川の音が大きく聞こえた。その音を耳に入れるとひどく落ち着き、心の中の靄が少し引いた気がした。


「やはり外に出て正解でしたね。顔つきが先程より良くなった気がします」


 まだ完全にとは言えないが、固かった表情が解けていく和花を見た蒼弥は、小さく微笑んだ。


「蒼弥さん、ありがとうございます。外に出られて良かったです」


「それは良かった」


 二人を穏やかな自然が包み込む。

 川の音、小川の周りに広がる野原の緑、鼻をくすぐる草の匂い。

 自然の中に身を置き、深呼吸をすると、綺麗な空気が身体中を巡り、新たな自分になれるような気がする。


(本当に気持ちが良い……)


 そんなことを考えながら、風が吹く度にたおやかに揺れる草たちに目が釘付けになっていた和花は、遠くの方の草の中にある物を見つけた。「あ……」と小さく声を漏らすと、まるで磁石のようにそちらの方向に引き寄せられていく。


「どうかしましたか?」


 蒼弥の問いに答えることもなく、和花は蒼弥の手を離すと、夢中に足を進めた。目的のものに向かって一目散に進んでいく。


「和花?何かありましたか?」


 突然、一人で歩き出した和花の後を、訳も分からずに蒼弥は着いていく。


「和花?ちょっと待って下さい……!」


 野原の真ん中あたりに着くと、和花は急に足を止め、後ろを振り返った。


「見てください!蒼弥さん!」


 わくわくと弾んだ和花の声。嬉しそうに何かを指差す方を蒼弥が見ると、そこには深い赤色の薔薇が咲いていた。

 緑色の草の中に咲く赤い薔薇の花々はとても目立ち、映える。数十本の小ぶりな薔薇が咲くここ一帯は、赤い絨毯が敷かれているようだった。


「これは薔薇……ですか?」


「正解です」


「とても美しいですね……しかし、薔薇はこの時期に咲くものなのでしょうか?春や夏を想像していました」


 蒼弥が首を傾げていると、和花は薔薇をじっと見つめながら、その場にしゃがみ込んだ。


「きっとこれは秋薔薇だと思います。薔薇は、種類によって春や夏に一度きりしか咲かないものと、四季咲きと言って一年のうちに繰り返し咲くものがあるんですよ」


 斜め後ろに立つ蒼弥を見上げ、和花は嬉しそうに話す。


「夏の暑さを乗り越えて咲く秋薔薇は、大きさこそ小さいですが、色が鮮やかに濃くなって、香りが強くなるのが特徴なんです」


 薔薇の花の近くに立っているだけで、風にのってふわりと甘く優雅な香りが漂う。和花は前屈みになり、薔薇に顔を近づけて匂いを嗅いだ。「ふふ、やはり良い匂い」とさっきまで固い表情をしていた和花の顔が一気に綻んだ。


「確かに、春に見る薔薇に比べると小さいですね。それに良い匂いがします」


「はい。でもすごい生命力ですよね。寒い冬を乗り越え、春に花を咲かせる。そして、暑い夏をじっと耐え抜き、また凛とした美しい花を咲かせる……きっとこの薔薇たちは、これから来る寒い冬にも耐え、また春に花を咲かせるのでしょうね」


「そうですね」


「……少しのことですぐに折れてしまう私とは大違いです」


 雄弁していた和花は途端に言葉を詰まらせ、小声になった。

 花はすごい。

 夏の暑さや大雨など、人の力では防ぎようがない天候にも負けずに、じっと耐えて耐え抜き、やがて美しい花を咲かせる。

 苦しみを耐えることの辛さを知っている和花は、ここで凛と咲く秋薔薇を逞しく思うと同時に、自分が情けなく、弱い存在であると痛感した。

 なんとも言えない表情で薔薇を見つめる和花の横顔を眺めていた蒼弥は、隣にしゃがみ込んだ。そして和花と同じように花の匂いを嗅ぐ。


「……苦しみに耐えた後、美しく咲く……か。そうですね。とても素敵ですね。まるで和花みたいです」 


 そう呟きながら、蒼弥は隣の和花に笑いかけた。


「え?」


 きょとん、と和花は目を丸くして蒼弥を見た。


「今色々考えて、悩んで苦しみ悶えている和花もきっといつか、この薔薇のように美しく咲けますよ。あなたは今まで折れてきてなどいません」


「……」


「何か問題が起こった時、もしかしたら逃げ出したくなったり嫌になったりはしたかもしれません。どん底に突き落とされて心が折れたように感じたこともあったでしょう。しかしあなたは一度たりとも逃げていない。いつも真摯に問題に向き合い、解決しようと努力する……それはなかなか簡単にできることではないですよ」


「……蒼弥さん」


「だから今は、あまり力みすぎないで過ごしていきましょう。大丈夫です、和花は一人ではありませんから。折れそうになったら私がいつでも支えます」


 優しい眼差しが向けられる。蒼弥の綺麗な瞳には嘘偽りはない。真っ直ぐに和花を見て、和花の全てを受け止めようとしてくれていた。


「ありがとうございます、蒼弥さん。私、少し焦っていたのかもしれません」


 ここ最近、彩色書記を早く読み終え、何か手がかりを探さないとと自分に重圧をかけていた気がする。それが一気に消え去り、身体が軽くなった。桃色の口元が自然に弧を描く。


「やはり外に長居すると少し冷えますね。家に戻りましょうか」


「はい、蒼弥さん」


 二人は微笑み合い、静かに立ち上がった。足を一歩踏み出したその時、つきん、と足に衝撃が走った。


「あっ……!」


 長い時間しゃがんでいたことが災いし、和花は足が痺れ、よろける。

 体制を立て直そうも足に力が入らず、和花の身体は赤色の絨毯の方に大きく傾いていった。


(こ、転んでしまう……!)


 なす術もなく、和花は近づいていく赤い絨毯に思わず固く目を瞑った。



 

 

 

 

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