真紅の彼岸花 12
(やってしまった……)
目の前で俯き、怯え縮こまる和花を見た蒼弥は、はっと我に返り、無意識に力を込めていた手を緩めた。
和花の手は膝の上で固く固く握られ、鼻を啜る音がする。
蒼弥は和花や奈津子に対して怒りが湧いた訳ではなかった。しかし、大切な和花が理不尽に苦しんでいる姿を目の当たりにして、まるで胸の奥に火を投げ込まれたような怒りが猛烈に湧いたのだった。
怒りが優先してしまったからとはいえ、何も話さずに怒ったような素振りを見せてしまっては、自分が悪いのだと勘違いしてしまうのも無理ないだろう。
蒼弥は一呼吸おくと、なるべく口調を柔らかく、安心させるように声をかけた。
「すみません、和花。違うのです」
「……」
ふるふると震える肩がぴたりと止まった。
「和花自身に怒っているのではありません。……ただ、こんなにも側にあなたの存在に救われている人がいるというのに、それが伝わらずとてももどかしく、自分が情けなく、悔しく思ってしまいました」
「……え?」
恐る恐る顔を上げた和花の目からつぅっと涙が流れた、
(……っ!)
こんな時に思うのは不謹慎だが、月の光に照らされる和花の涙はとても儚く、浮世離れした美しさだった。
潤んだ琥珀色の瞳に目が釘付けになる。
蒼弥はゆっくりと言葉を選びながら、和花に語りかけた。
「私にとってあなたは必要な存在です。居なくては困ります。あなたの声や笑顔に、これまで何度救われたか分かりません。生まれてこなければ良かったなんて口が裂けても言わないで下さい……あなたが居なくては生きていけないほど、私は和花に依存しているのですから」
「……っ」
刹那、和花の目からとめどなく涙が溢れた。くしゃっと歪んだ顔も愛おしい。
「きっと和花のお母さまも皇太后さま達も誰も和花のせいだとは一切思っていませんよ。みんなあなたの幸せを願っている。だから不安にならなくて大丈夫です」
ほっそりとした蒼弥の人差し指が、和花の目の下を優しく擦り、涙を拭った。涙は拭っても拭っても溢れてくる。
「駄目ですね、私」
泣き笑いしながら困ったように和花は言った。その声は掠れ掠れだったが、一言も聞き逃すまいと蒼弥は耳をそばだてた。
「何が駄目なのですか?」
「最近、すぐに涙が出てしまいます。私の周りにいる皆さんがあまりにも優しくて、私のことを思ってくれていることがひしひしと伝わってきて、幸せで……それに甘えてしまいます」
出会った当初の和花は、いつもぎこちない笑顔を作り、辛いことがあっても涙は見せなかった。
きっと泣いてもどうにもならないことを理解せざるを得ない環境にいたことや、泣く暇も与えられないほど切羽詰まった生活を送っていたから感情が鈍ってしまったのだろう。しかし、蒼弥の元に来て穏やかな時間を過ごす中で、自分の心と向き合っていると、自然と涙が溢れることができるようになったのだ。
本人は感じたままに流れてきた涙を、駄目だと恥ずかしそうにしているが、これは良い兆しだと蒼弥は思う。自分の感情に素直なまま過ごしてくれた方が、蒼弥も嬉しい。
「それでいいのです。自分の気持ちに素直になることは良いことです。もし和花が涙を流すことがあれば、私が必ず止めてみせます。だから大丈夫です」
「蒼弥さん……」
「……!」
突然、蒼弥の胸元が衝撃とぬくもりでいっぱいになった。一瞬、何が起こったのか飲み込めず、ただただ目を丸くする。
ちら、と自分の胸元あたりに目を向けると、艶やかな亜麻色の髪が見えた。
和花は蒼弥の胸に顔を埋めたまま、蒼弥の広い背中にぎこちなく手を回す。
和花から抱きつかれることが珍しく、蒼弥は一瞬、置物のように固まった。普段は年上の余裕を持っている蒼弥だったが、和花からの唐突な抱擁に言葉を失った。
「……私いま、とても幸せです」
胸の中で呟かれる麗しい声。いつのまにか和花の涙は止まり、声は晴れやかになっていた。
そっと和花の頭を撫でる。さらさらした触り心地に蒼弥は目を細め、口元を綻ばせた。
「私も幸せです、和花。きっとあなたが隣にいてくれる限り、私は幸せでいられるでしょう」
細く、女性らしいしなやかな身体を包み込む。温かい、愛おしい存在。
和花の心が不安定になり、道が外れそうになったら、何度でも手を差し伸べて幸福へとつながる道へ導いてあげたい。
皇太后たちとのことだって、彩色の手のことだって、問題はまだ山のようにあるかもしれないが、和花一人で大きな荷物を背負うのではなく、二人で分け合い、共に手を取り合って生きていきたい。
「生きていて良かった、幸せだ」と思えることを増やしていきたい。
腕の中に和花を閉じ込めながら、ふとそんなことを考える。
穏やかな時間、空間、愛しい人、美しい三日月、心地良い鈴虫の音。
心地良いものに囲まれた二人の不安や怒りは、風に乗ってどこか遠くへ飛ばされた。そしてただただ幸せを噛み締める。
(和花、あなたは私の生きる意味です)
やや冷たかった風は、二人のぬくもり溢れる雰囲気で温かく変わり、吹き抜けていく。
二人は互いの体温を、存在を確かめ合い、幸せを味わい噛み締めながら、ゆったりとした時の流れを過ごすのだった。




