真紅の彼岸花 10
(おかしい……何故居ないのでしょう……)
時は少し前に遡る。
部下に連れられていた蒼弥は、仕事が終わり書庫に戻ったものの、和花の姿がないことに焦っていた。
広い書庫を早歩きで回ったが、そこに姿はない。
(和花……また、あのようなことになっていないと良いのですが……)
深い深い海底に潜り込んだように、心を閉ざしてしまった和花の記憶が蘇る。また同じことが起きないように、そばに居ると約束したはずなのに、もうすでに破りつつある自分に嫌気がさした。
(何かしらの理由で、書庫から出てしまった……?)
律儀な和花だから、蒼弥の許可なく勝手に宮廷内を彷徨くはずはない。書庫を出なくてはならない何かしらの理由があったのか、はたまた何かに巻き込まれたのか。
さっと血の気が引いた。
とりあえず和花を探そうと、書庫を出た途端に聞こえる女性の声。耳を澄ますと、猛烈に怒っている声色だった。
(この声は、清野さん……?まさか……)
嫌な予感が膨れ上がり、声を頼りに、その方向へ走り出した。
蒼弥は珍しく焦っていた。普段冷静で温厚な彼だが、和花が絡むと落ち着いてはいられない。
優しい和花の心は、薄いガラスでできているようで、少しの振動や圧ですぐにヒビが入り、壊れてしまう。一度粉砕されたガラスはなかなか元に戻すのは大変で、戻ったとしても、またすぐに壊れてしまいそうだった、
そんな和花の心を壊さないように、優しく包み込んで守りたい。その思いが蒼弥を動かした。
左の角を曲がると、すぐに人だかりが見えた。
「すみません、通してください」
文官長としての威厳も忘れ、人混みの中に突っ込んでいく。前に進むたびに、女性の怒り声が大きくきつくなった。
「あんたさえ、あんたさえ居なければ……!」
最後の一押しのような、辛辣な言葉が空気を冷やした。まるで雪に覆われている山のように、場の温度が急激に下がっていく。
(……!)
人を掻き分ける中で、ちらっと見えた和花の横顔。さくらの声を真正面から受けている無表情な顔つきに、蒼弥は胸が痛んだ。
(また、和花を傷付けて……)
後悔先に立たず。
平気で和花を傷付けようとする、さくらにも腹が立ったが、それ以上にまた何もできなかった自分にも憤りを感じた。
最後の人並を掻き分けて前に躍り出た途端、聞こえてきたのは凛とした、でも柔らかい和花の声だった。
「……私は、九条蒼弥の恋人、いえ、婚約者です。ここにいることに何か問題でもありますか?」
その一言で、今まで抱いていた暗い感情が、すっと引いていくのが分かった。
和花の言葉に心が晴れ、救われる思いだった。
(ふふ、和花はとても強く、そしてさらに美しくなりましたね。本当に私には勿体無い女性です)
自然と口元が緩んだ。勝手に身体が動き、気が付いたら輪の中心に自ら出ていた。
真正面には引き攣ったさくらの顔。さくらの背後に見えるのは、口をあんぐり開けて固まる人々。
(ど,どうしましょう……)
勢いで大口を叩いたが、あまりにも静まり返る場と人々の目に冷や汗が出てきた。
「さすが、私の婚約者ですね」
その時、心地良い声が和花を包み込んだ。
顔を後ろに向けると、ゆっくりとこちらに歩み寄るのは、和花の心を支えてくれる愛しい優しい人。
上品に微笑む蒼弥は、和花の元まで来ると、ふわりと彼女を後ろから抱きしめた。
和花の小さな身体は、蒼弥の大きな身体にすっぽりと埋まった、
「そ、蒼弥さん……!皆様がいらっしゃいます……!」
突然の抱擁に、和花はぽっと顔を赤らめる。大勢の人の前で恥ずかしげもなく、涼しげな顔で和花を抱く蒼弥から離れようともがくが、男の人の腕から逃れるのは難しかった。
恥ずかしくて穴があったら入りたい。
顔を上げられず、視線を床に向けた。すると、あろうことか蒼弥は和花の耳に息がかかりそうなほど顔を近づけてきた。
「いいんです。見せつけてやりましょう」
「……!!」
刹那、和花の身体の中は熱が駆け巡った。暑すぎて気絶してしまいそうだった。
羞恥で目を回しそうになる和花を見た蒼弥は、愛おしさが込み上げてきた。そのままの姿勢で蒼弥は話し出す。
「……それで?」
にこやかだった蒼弥の表情は、前を見据えた瞬間、すっと笑みを引いた。
凍てつくような冷たい視線がさくらに突き刺さる。
「清野さん、これはどういうことでしょうか?」
「……」
「私の婚約者が何か失礼でも?」
蒼弥は「婚約者」を強調して言い放った。
「……えっと、い、いや……」
類稀なる蒼弥の冷酷な態度に、さくらはおろおろするばかりだった。
「あなたがどう思おうと、和花は私の大切な人です。傷つけることは私が許しません」
和花を包み込む蒼弥の手に力が込められた。もう離すものか、傷つけるものかと言われているかのように。
「そ、そんなつもりは……」
さっきまで毅然とした態度だったさくらの声が細くなり、身を縮こまらせる。
「それならば彼女に謝って下さい。和花はとても素敵な女性です。私には勿体無いくらいの方です」
殺気がこもった蒼弥の態度に、さくらは恐怖を覚えた。
「……ご,ごめんなさい……!」
深々と頭を下げて謝罪するさくらの肩は震えていた。
「……私は大丈夫です。……私も清野さんに認めてもらえるような素敵な女性になれるよう精進します……!」
蒼弥の腕の中で花のようにふんわり笑う和花を見たさくらは一瞬目を見開くと、どこか寂しそうに笑う。そして、一礼するとそそくさとその場から立ち去った。
「ふふっ。やはりあなたは素敵な女性ですね、和花」
やっとのことで蒼弥の腕から解放された和花がほっとしているのも束の間、蒼弥は優しく彼女の頭を撫でた。
いつも穏やかな文官長の怒った顔、今までに見たことがない和花に対しての甘い顔を目の当たりにした人々はぽかんとしている。
しかし、それは和花も同じだった。
何故かおかしそうに笑う蒼弥を見上げ、不思議そうな顔をする。
「ちょうどいいですね」
「……?何がですか?蒼弥さん」
ぼそっと呟いた蒼弥は和花の肩を抱き直し、周りの人々を見渡した。
「皆さん、突然申し訳ございませんが、ここで一つ報告があります。私はこの方、藤崎和花さんと婚約し、ゆくゆくは結婚しようと思っております」
蒼弥の突然の公表に周囲はざわめく。
「え?あ……そ、蒼弥……さん?」
驚きが隠せない和花も口元に手を当て目をぱちくりしている。
「ですから、今後ここ宮廷に出入りすることが増えるかと思われますので、以後お見知り置きを」
蒼弥が丁寧に頭を下げ、慌てて和花も続いた。
「九条さんと和花さんお似合いですねぇ。見てるこっちが暑くなりますよ本当に〜」
沈黙の中、聞き覚えのある間延びした声が響いた。
「冴木さん……」
「九条さんが幸せそうで良かったです」
「小山さん……」
いつの間にか蒼弥の側近二人が輪の真ん中に出てきていた。
一人,二人と手を叩く音が鳴り響く。拍手の輪はだんだん大きくなり、廊下中に響き渡った。
「和花」
「はい?」
「こんなにも温かい拍手に包まれて、とても幸せですね。さっきも自分の気持ちをちゃんと言葉で伝えられていて、格好良かったです」
「……蒼弥さん」
「よく頑張りました」
温かい拍手と周囲の目と、蒼弥の手の温もりに、和花はこの上ない幸福を感じるのだった。




