真紅の彼岸花 6
十五年ほど前に亡くなった先帝と私の間に生まれた子どもは、息子と二人の娘の三人だった。
これまで皇族内では、皇后が自ら積極的に子育てをすることはあまりなく、お付きの人に任せていた風習があった。しかし、私は大切な子どもたちをなるべく自分の手で育てたいと、自ら母親としての仕事を請け負った。
皇族として、どこから見られても恥ずかしくないように厳しく育てた自覚はある。礼儀や美しい所作、言葉遣い。人との距離のつめ方など細部まで徹底的に教え込んだ。
それでも、深い愛は持ち合わせていた。母親として、厳しくするところは厳しく、愛情を注ぐところは目一杯と三人とも平等に、大切に育ててきた。
きっと子どもたちも自分の立場を分かっていたのだろう。厳しい教えにも弱音を吐くこともなく、一生懸命で、私の愛を受け入れ、返してくれた。
一緒にお菓子作りをしたり、絵を描いたり、子どもたちとの思い出は山程ある。今でも目を瞑ると、あの時の光景が蘇るほどに。
優しい夫と可愛い子どもたちと過ごす幸せな日々。皇后としての務めもあり、忙しない毎日だったが、苦ではなかった。
いずれ息子の俊太郎は皇帝になり、娘たちはどこかへ嫁いでいくのだろうと漠然と考えていた私たち夫婦が衝撃を受けたのは、十八年前のことだった。
当時、帝都は私の夫である先帝が治めていた。息子は二十八歳、晴子は二十一歳、末っ子の奈津子は十八歳。
「お母さま、最近奈津子がおかしいと思いませんか?」
ある日,本を読んでいると奈津子の三つ上の姉、晴子が部屋を訪れ唐突にそう告げた。
本を読んでいた手を止め、晴子を見ると、困ったような何か言いたげな顔をしている。
「どうしたの、突然。奈津子が?具合でも悪いのかしら?」
「いいえ、そういうわけではないと思うんです」
「どういうことかしら?」
「お母さま、見てください」
晴子の視線を追い、部屋の外を見ると、いつも明るく天真爛漫な奈津子が、回廊からどこかぼんやりと空を眺めていた。
空は晴天で、雲一つない。澄んだ空を見上げる奈津子は、何かを考えているような無表情な顔つきだったが、その表情さえも自分の娘ながら美しかった。
見られていることに気付かない奈津子は、深いため息をついたり、かと思えば挙動不審にあちこちに視線を彷徨わせたり。
長く子どもを見ている母の勘が働き,直感で何かに悩んでいるのだと気付いた。
(昔から、人に相談するのが苦手だったものね。どうしたのかしら)
「確かに何か悩んでいそうね。でも、奈津子ももう良い歳だし、きっと大丈夫よ。少し見守ってあげましょう?」
「……そうですか?まぁ、お母さまが言うのであれば……分かりました」
腑に落ちていない晴子が立ち去る。なんとなく奈津子の様子が気になり、その後も部屋から見ていると、遠くから回廊を歩く足音が聞こえた。
足音の大きさ的に男性だろう。この皇族の私邸にはお付きの人がいるが、それはほぼ女性である。私邸の門番は男性だが、中まで入ってくることは滅多とない。だからここに立ち入る男性といえば、夫か息子かその側近くらいである。
(もうお帰りになったのかしら?)
仕事詰めな夫と息子がこんなに早く帰ってくるのは珍しい。そんなことを思いながら音の先を見ていると、そこに現れたのは、ほっそりとした茶髪の優しそうな人だった。
(……どなた?え?)
初めて見る人に背筋が伸びる。お付きの人が家事をやってくれているとはいえ、この私邸のことを全て知り尽くし、管理している自分が知らない人がここに入ってくるなんて……不法侵入の言葉が頭をよぎった。それに足音的に一番先に向かうのは奈津子のところ。奈津子が危ない。
(だ、誰かを呼ばなくては……!)
冷や汗が滲み、本を持つ手に力が入る。人を呼ぼうと口を開いた途端,あろうことか奈津子の弾んだ声がした。
「治人様……!」
(どういうこと……?治人……そんな名前、聞いたことがない。皇族にも、仕官の中にも、そんな者は……)
目の前の光景に驚き、息の仕方を忘れてしまった。それくらい衝撃的な場面を目の当たりにした。
「奈津子さん、こちらにいらしたのですね」
「はい……!とてもお会いしたかったです……!」
「私もです」
奈津子の口調はまるで恋に浮かされた少女のようだった。
人目がないことを良いことに、二人は回廊の真ん中で向き合う。そして、奈津子は治人と呼んだ男性の胸に身体を預けた。
「治人さんと、ずっと一緒にいたいです。でも……」
「私もそう思っていますよ。大丈夫です。一緒にいられる方法を考えましょう」
治人の胸に抱かれる奈津子は、家族に見せたことがない至福に満ち溢れた顔をしていた。
(奈津子……)
影から一部始終を見ながら、複雑な気持ちが押し寄せてきた。
娘の幸せそうな姿を見ることができ、嬉しさと少しの寂しさ。彼は何者か、どこで知り合ったのかという疑問。それらが複雑に絡み合う。一度芽が出たら、すくすくと止まることなく成長する木々のように、記憶に新しい今の場面が胸の中に根を張り、瞬く間に育っていく。喜びと不安と恐れが、森のように胸の奥を覆い尽くしていった。
皇族としての面子、女性としての幸せ――色々なことに頭が追いつかず、そっと本を閉じたのだった。




