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緋色の紅葉 10





 目の前には、作ったパンを頬張り、喜ぶ和花と蒼弥がいる。

 自分の知らないところで、娘がどんどん成長していく姿に大きな嬉しさと、少しの寂しさを覚えた。


(幸せそうで、よかった)


 こんなに幸せそうな娘の笑顔を引き出してくれる蒼弥には本当に頭が下がる。

 家柄や立場を重んじず、その人の内面を見て判断をするのは、あの人も同じだった。


「このパン、すごく美味しいです」


「本当ですか!お母さまから作り方は聞いたので、今度おうちでも作ってみますね」


「それは楽しみですね」 


 ――奈津子の作る菓子は世界一だな。


 ――そんなに喜んでくれるなら、もっともっと作ります!


 ――ははは。それは楽しみだなぁ!


 遠い記憶が呼び起こされる。

 今はもういない、明るい温かい笑顔が。

 自分を救い、支えてくれたあの人と、蒼弥はどこか似ているように思えた。


(それにしても……)


 ふと、目線は和花の右手に移った。先程、和花の手を握った時に感じた違和感は何だったのだろう。

 昔、自分が贈った手袋を付けている右手は、見た目こそは何も変わっていないが、触れた時に感じた不思議な感覚に疑問を抱いた。必死に思考を巡らす。


(そう、そうよ。冷たすぎたのよ、和花の手が)


 奈津子の夫、和花の父である治人も、和花と同じ彩色の手の持ち主だった。

 これは治人から聞いた話だが、この手は代々藤崎家の者が受け継がれているらしい。この国の誰もが一度は伝承話として耳にしているが、藤崎家はその力を公にすることなく、ひっそりとだけど確かに子孫に残してきた。


(治人さんの手、あんなに冷たくなったことなかったわ。和花の手に何かあったのかしら)


 正直いえば、奈津子もこの手のことについて語れるほど詳しくは知らない。

 ただ、さっきの和花の手は異常なほどに冷たかったのだ。

 まるで右手だけ死んでしまっているように、きん、とした冷たさが手袋越しに伝わってきた。それは思わず身震いしてしまうほどに……


(このまま何かあったらどうしましょう……)


 パンをちぎる手を止め、考える。

 大切な娘を助ける方法が、全く無いわけではない。一つ案がある。

 しかし、それを実行していいのか躊躇う気持ちも強い。


「お母さま?どうかした?」


 食事の手が止まり、会話の輪に入らない奈津子を、心配そうにこちらを向く和花と蒼弥が目に入る。希望に満ちたその瞳に、奈津子の心がゆらゆらと震え出した。


「いいえ。何でもないわ」


 笑顔を取り繕うも、心の中は葛藤が繰り広げられていた。


 和花は勇気を出して、ようやく蒼弥と思いが通じるようになったのだから、なんとか手の問題も解決してあげたい。でも、その為には、奈津子自身が向き合わなくてはいけない問題があった。

 助けたい。しかし、勇気がない。でも――

 そんな葛藤を胸に、奈津子はちびちびとパンをちぎって食べるのだった。




「お母さま、本当にありがとう」


「ありがとうございました。お邪魔しました」


 食事を終え、荷物をまとめた和花と蒼弥は、帰路に着こうと、庭に出ていた。

 奈津子と離れるのは少し寂しいが、ここへ来た時に比べ、和花の気持ちはとても清々しく、軽かった。


「またいつでもいらっしゃい」


(……お母さま?)


 にこりと微笑んでいる奈津子だが、和花は朝食時から彼女の様子がどこか違うように感じていた。

 ふと遠い目をしたり、我に返ったり。何かを考えているような、悩んでいる素振りだったが、何となくその疑問を口にできなかった。


「それでは、またね」


 気持ちに若干のモヤがかかりながらも、身を翻した和花と蒼弥の背に、奈津子の声が届いた。


「和花、待ってちょうだい」


 足を止め、ゆっくり振り返る。


「なあに?お母さま?」


 視線は合わないし、もごもごと口籠る。こんなに歯切れの悪い奈津子は初めてで、和花も戸惑った。


「お母さま?」


 奈津子の元に一歩戻ると、彼女は震える手で、和花の右手を握った。


「……」 


 沈黙が流れる。和花も蒼弥も奈津子も、誰も身動きが取れず、風だけが、三人の周りを飛んでいく。

 すぅ、と奈津子が息を吸う音が聞こえた。


「和花」


「はい?」


「和花の手はどうしちゃったの……?」


 絞り出された震える声。その声を聞いた途端、和花は鳩が豆鉄砲を食ったように目を大きく見開いた。


「……え、どうして……それを……」


「……こんなに冷たくなってしまって。この手は、ただ今だけこんなに冷たい訳じゃないでしょう?」


 苦しそうに話す奈津子から思わず目を逸らした。

 図星だった。

 和花の右手は、爪の色が漆黒に染まってから、ずっと冷たいのだ。お風呂や暖炉で温めても駄目で、それは氷漬けにされているような冷たさだった。

 正直に伝えたら、怒られるだろうか。呆れられるだろうか。でも、もしかしたら奈津子ならば治す手立てを知っているかもしれない。

 そう思った和花は、批判される覚悟で口を開いた。


「お母さま、ごめんなさい。私……絵が描けなくなってしまったの。爪の色が変わって、絵が描けなくて……で、でも、どうしたら良いか分からなくて……」


 不安に沈む和花の声と表情に、奈津子は息を呑んだが、やがてきりっと顔つきを変えた。

 それは、心の中の霧を無理矢理に晴らし、娘のために決断した、母親の顔だった。


「九条さんは宮廷にお勤めされているのですよね?」


 奈津子は、和花の手を握りながら、その後ろに立つ蒼弥を見遣った。それにつられ、和花も振り返る。


「? はい、そうですが……」


 突然話を振られ、蒼弥は驚いた顔をしたものの、すぐに返事をする。


「……それなら、宮廷の書庫に行ったら良いわ」


 奈津子は躊躇いながら、少し苦しそうな顔をしながらも笑みを作り、そう告げた。


「え?」


「そこになら、何か手掛かりがあるかもしれない」


「どうしてそれを……」


 その問いには答えず、奈津子はただ微笑んでいた。


「九条さん、お願いしてもよろしいでしょうか?」


(お母さまは何故、そんなにも苦しそうな顔をしているの……?)


 奈津子の心情が読み取れなかった。ただ、何かを隠しているような、辛そうな苦しそうな笑みに和花の心がきゅっと締め付けられた。


「分かりました。調べてみます」 


「ありがとうございます。和花を、娘をよろしくお願いします」


 奈津子は蒼弥を見て、軽く頭を下げる。動揺している和花を置き去りに、二人はどんどん話が進んでいった。


「大切な娘さんを必ず守っていきます」  


 同様に蒼弥も頭を下げる。


「和花」


「……はい」


 母の手が和花の右手と左頬に触れた。


「きっと大丈夫――また描けるようになるわ」


「……お母さま……」


 母は今、何を思っているのだろう。

 触れられた部分から、自分の負の感情を無理矢理に押し殺し、母としての勤めを果たそうと優しく強くあろうとする気持ちがひしひしと伝わってきた。


「ありがとう……お母さま……」


 気がかりなこともあるが、和花は温かい奈津子からの励ましを胸に、蒼弥と共に帰路に着くのだった。

 


「お父さま、お母さま、お兄さま、お姉さま……自分勝手な私をお許しください……」

 そう呟いた奈津子の声は、風にのってどこかへ飛ばされ、和花や蒼弥の耳に届くことはなかった。

 

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