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緋色の紅葉 8





 外はとても涼やかで、少し肌寒くも感じた。

 バルコニーに出た和花は欄干を両手で握り、ゆっくりと月を見上げた。

 これから自分が踏み出す一歩のことを考えると、胸が詰まったように思えたが、明るすぎない月の光を見ていると心がひとりでに落ち着いてきた。


(大丈夫、蒼弥さんを、私自身を信じて……)


 和花の決意に返事をするように、ふわりと穏やかな風が吹いた。亜麻色の髪が柔らかく靡く。

 美しい月も風も、夜空の下で凛と咲いている花たちも、自然の全てが優しくて、まるで和花を見守ってくれているようだった。


 背後から戸が開く音が聞こえ、右側に人の気配を感じる。誰なのかは見なくても分かる。嗅ぎ慣れた爽やかな匂いは、和花に緊張感を与えた。


「寒くないですか?」


「はい、だいじょ……うぶです……」


 ふと隣を見た和花は、すぐに後悔した。

 蒼弥の寝巻き姿はとても心臓に悪い。

 髪をきちんと整え、きっちりとスーツを着こなしていたり、落ち着いた雰囲気の着流しを着ていたりする姿からはかけ離れた無防備な姿。髪は若干濡れ、寝巻きは首元が少しはだけそうなほど緩い。

 寝巻き姿を初めて見たわけではないが、毎度のことながら目のやり場に困ってしまった。

 蒼弥も和花の隣で欄干に寄りかかり、空を見上げる。


「和花のお母さまは、とても素敵な方ですね」


 蒼弥の声は心地良い。和花の耳を優しく撫でた。


「はい、自慢の母です」


「それに、和花の幼い頃の話もたくさん聞けて嬉しかったです」


「……それは、忘れてください……」


「何故です?」


「えっと……それは……」


 ぴくり、と欄干を握った手が身じろいだ。

「恥ずかしい」なんて、今まで口にしたことなかった。恥ずかしい気持ちは自分の中で留め、悟られないようにしていたつもりだった。目ざとい蒼弥にはバレていただろうが。

 ついさっき固めたばかりの決意が、すでに揺らぎそうになる自分に喝を入れる。


(このままでは駄目よ。素直に伝えるって決めたじゃない)


 すう、と鼻から細く息を吸い込んだ。視線をバルコニーの下に広がる庭に向け、ゆっくりと口を開く。


「……は……」


「ん?」


「は、ずかしいから……です……」 


 言葉を放った途端、心臓の動きが速く大きくなる。自分の鼓動の音で他の音が聞こえない。ぎゅっと目を瞑ることしか出来なかった。


 沈黙が痛い。

 固く閉じた目を薄く開け、横目で蒼弥を見た。

 蒼弥は大きく目を見開いたまま、和花を見ている。

 やはり言うべきではなかったと後悔が押し寄せた。

 前言撤回しようと、勢いよく蒼弥の方を向く。


「あ、あの……ご、ごめんな……」


 頭を深々と下げ、謝罪の言葉を述べた途端――優しく肩に触れられたかと思えば、ゆっくりと後方に押され、強制的に頭を上げさせられた。

 それでも、抗おうと視線は左右に彷徨わせる。


「何故,謝るのですか?」


「……」


 うまく答えられず、口を噤んだ。 


「嬉しかったです。それが和花の本音なのでしょう?本音を聞けて嬉しいです」


「……どうして、ですか?」


「和花の口からなら、何を聞いたとしても嬉しいですよ」


 今度、目を見開いたのは和花の番だった。

 ゆっくりと面を上げた和花は、蒼弥の顔を見上げた。月の光に照らされる蒼弥は、儚く、とても美しい。

 目が離せなかった。


「和花、今まですみませんでした」


「……え?」


 突然の蒼弥の謝罪に、和花は戸惑った。

 蒼弥は何に対して謝っているのだろう。想像しても思い付かない。


「和花が苦しんでいると分かっていたはずなのに、寄り添うことが出来ませんでした」


 ふるふると和花は頭を振る。


「そ、そんな……悪いのは、私です……蒼弥さんにお話すれば良いものを、ごめんなさい。怖くて逃げてしまいました」


 和花の唇が微かに動く。その口から紡がれたのは、頼りない声。


「怒りでも悲しみでも、和花のどんな気持ちでも受け止めます……ですから、あなたの口からあなたの言葉で教えてください」


 肌寒い風がさらに冷たく感じた。感覚が鈍くなり、頭を動かすことに苦戦する。

 負の感情が渦巻く中、蒼弥の温かさが和花の心に刺さった棘を少しずつ抜いていった。

 ――言うなら、今。蒼弥と幸せになる為に、自分の気持ちを伝えなくては。

 和花は左右の手をぎゅっと握り合い、真っ直ぐに蒼弥を見た。


「……私なんかが、蒼弥さんの隣にいていいのか……分からなくなってしまいました」


 ようやく溢れた言葉に、蒼弥は目を細めた。


「どうしてそんなことを?」


「蒼弥さんは……素敵な方です……皆さんに優しくて信頼されていて、お仕事もできますし、知識もある。私とは全然……違いすぎます」


「……」


「宮廷に行った時に、嫌でも実感させられました。私たちの住む世界の違いに」


「……それで?」


 蒼弥は発する言葉は少ないものの、真剣に話を聞こうとしてくれている。和花は一度口を開くと止められなかった。


「……私、自分に自信がありません……こんな私と一緒にいることで、蒼弥さんが嫌な思いをしてしまうのでは、と思ってしまいます。周りの目が気になります。蒼弥さんにはきっと、私なんかよりも、もっと、もっと……」  


 まだ言葉を紡いでいるにも関わらず、蒼弥の手が和花の肩に伸びた。そして、蒼弥の麗しい顔が近付き、そっと和花の唇に自分の唇を重ねた。

 突然のことに思考回路が絶たれ、頭の中が真っ白になる。

 触れられている肩と唇が熱い。その熱から逃れるように、和花はそっと目を閉じた。

 一瞬の出来事が、長く感じた。

 ゆっくりと顔が離れていく。恐る恐る目を開くと美しすぎる顔が見えた。その顔には微かな笑みが浮かんでいる。


「和花」


 自分の名を呼ぶ声が、とても大きく響いて聞こえる。ぎゅっと胸の奥が熱くなった。


「私が一緒にいたいと思うのは、愛おしいと思うのは、あなただけです」


「……」


 月の光のような柔らかな目から、目が離せない。


「人と比べる必要も、自分に落ち込む必要もありません。私が愛してやまないのは、そのままの和花なのですから」


「……蒼弥さん」


 にこり、と蒼弥が優雅に微笑む。彼の笑みに嘘偽りはない。

 どうして、こんなにも真っ直ぐに自分を信じてくれる人を、信じられなかったのだろう。

 他人の言葉ばかり耳に入って、信じてしまおうとしていた。

 気持ちを伝えても、受け入れてもらえないと決めつけていた自分がいた。


(本当に、私は馬鹿ね……蒼弥さんはこんなにも思ってくれていたのに)


 嬉しさと情けなさが入り混じり、和花の目から雫が溢れた。

 蒼弥は指先でその雫を拭う。温かい手と目は、さらに涙を加速させる。


「私は和花を愛しています。だから、私の隣にいてくれますか?いつまでも」


「わ,私も――私も蒼弥さんを愛しています。ずっとおそばにいさせて下さい……」


 勢いで出た素の言葉。照れるが、言い放った瞬間、微笑んで頷く蒼弥の顔を見たら、伝えて良かったとも思う。 


「はい。何も心配しないで、そのままの和花で、私の隣にいてください――私はあなたの手を離すことは絶対にしません。信じて下さい」


「信じます。私は蒼弥さんのことを、信じます……!」


 もう、何も迷いはない。

 和花の冷え切っていた心と身体は、優しい眩しい色に包まれて、この上ない幸福感を感じていた。ほかほかと心が温かい。


 目の前の蒼弥が愛おしい。

 彼の隣にずっといたい。彼の隣でたくさん笑っていきたい。困難も正直に伝え合い、乗り越えていきたい。彼と一緒に――幸せになりたい。


 月が見守る中、二人は微笑み合う。そして、もう一度唇を重ねた。

 お互いの存在を、愛を確かめ合うように――

 和花の中にあったわだかまりは、蒼弥からの愛によって、跡形もなく溶かされていった。

 この夜の日のことは、生涯、和花の心に残る美しい色になったのだった。

 

 

 

 

 

 

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