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黒紅の桜 4




 

 描き始めてからどのくらい時間が経っただろう。明るかった外は日が完全に沈み、反対側からは星が瞬き始めていた。


(これでおしまい)


 最後の一枚を描き終えた和花は筆を机に置くと伸びをした。

 ずっと同じ体勢だったからか肩や首辺りが痛む。ゆっくり首を回しながら柱時計を見ると思わず二度見してしまう程に時間が進んでいた。


(続きはまた明日)


 没頭して気が付かなかったが、狭い部屋一面、和花が描いた着物や反物で埋め尽くされていた。足の踏み場がないくらいに。

 菖蒲、藤、牡丹など春を感じさせる季節の花柄の反物から、豪華な手毬や熨斗丈模様の着物など、色鮮やかで上品なもので溢れている。

 完成度の高い出来栄えに得々としたのも束の間、すぐに現実に引き戻された。


(早く片付けなくては……) 


 和花の周囲には染料が入った瓶や筆が散乱している。夢中で仕事をしているとこの部屋はいつも酷い有様になってしまう。

 片付け程面倒くさいものはない。憂鬱になりながらも散らかっているものを一つずつ元の場所に戻していった。

 畳の至る所には赤や青の染料が垂れた跡があり、ある意味芸術的な模様が浮き上がっていた。ため息をつきながらも雑巾で懸命に擦り、次々と消していく。


 すると突然、何かを叩く音が店の方から聞こえた。

 ほんのわずかな音に一瞬空耳かと疑ったが、手を止めよく耳を澄ますと、こつこつという音が長い間続いている。店と作業部屋は襖一枚で仕切られてる為、簡単に音が届いてしまう。


 (な、何の音かしら……)


 ぞくり。背筋が凍る。

 想像もしたくない嫌な予感が頭の中を駆け巡った。


(も、もしかして幽霊……?)


 みるみるうちに顔から血の気が引き、青ざめていく。

 和花は怪談話や怪奇話などそういった類の話が昔から苦手だった。

 子どもの頃は、強風に揺られる木々が幽霊のようで眠れなくなったり、雨音が声のように聞こえ怖いと父や母に助けを求めたりもした。

 夜道を一人で歩くこともままならなかった。


 だが、それは昔の話。ここでは誰も助けてくれない。和花が自分で何とかしなくてはならないのだ。


(っどうしましょう……)


 焦ると良案は全く思い浮かばないし、恐怖のあまり足が棒のようになって動かない。

 一定のリズムで鳴り響く音を遮断するように耳を塞ごうとした途端――


「……みません。どな……っしゃい……せんか……」


 何かを叩く音から途切れ途切れ、微かに人の声が聞こえた気がした。


(……人?)


 とりあえず幽霊ではないと分かりほっと息を吐くが、まだ完全に安心できる訳ではない。

 誰かが店の表戸を叩いているのだろうか?こんな夜更けに何用で?

 加納屋の従業員はとっくの前に退勤しているし、義父母や使用人は隣の家にいるから今出られるのは和花だけになる。

 行かなくてはならないことは分かっているが、素性の分からない人の元へ向かうことも勇気がいる。


(それでも行かなくては……)


 頼れる人は誰もいないからどうにか切り抜けなくては。

 意を決して外していた手袋を素早くつけると、恐る恐る襖を開けた。

 店の電気を付けると、すりガラスでできた表戸にぼんやりと人影が浮かんだ。音の正体はやはり表戸を叩く音だったらしい。

 向こうも人が来たことに安心したのか、戸を叩く手を止めた。


「夜分遅くに申し訳ありません。私は九条と申します」


 戸越しに聞こえる声は低い。きっと男性なのだろう。

 聞き覚えのある名に和花は動きを止め、頭を働かせた。 


(九条……?どこかで聞いたことがあるような……)

 過去の記憶を呼び起こす。


(……! 九条ってまさか帝都で有名な九条家!?)

 どうやら凄い人が来ているかもしれない。和花は肝を潰した。


 九条家といえば、ここ帝都で有名な名家中の名家である。

 古くから代々、帝の片腕――宮廷一の文官として仕えている由緒正しき家柄だ。

 巷では「頭脳の九条、武力の宮本」と言われており、武官の頂点である宮本家と並んで、文官の頂点として、文官を取りまとめているらしい。

 文官は宮廷にて軍事以外の行政業務を取り扱い、国を支えている。

 帝都内で「九条家」の名を知らない者はいないはず。


 彼はどのくらいここにいたのだろう。聞こえなかったとはいえ、お偉方をしばらくの間放っていたことに対し、今更ながら悪寒が走った。

 声色から怒りは感じられなかったが、戸の向こうはどのような佇まいでいるのだろう……

 待たせたことに対して白い目で見られるかもしれないし、罵倒されるかもしれない。

「名家の者を侮辱した」と訴えられる可能性も無きにしも非ずだ。

 これくらいのことでと思われるかもしれないが、権力のある九条家にはそれくらいのことも簡単にできてしまう。


 思考を巡らせるばかりで何も動かない和花を不思議に思ったのか、また向こうから声がかかった。


「驚かせてしまい申し訳ございません。お部屋の明かりが付いていまして思わず声を掛けてしまいました……お願いがあります。妹を助けていただきたいのです」


(妹さん?何かあったのかしら?)


 確か九条家にはご子息とご息女が一人ずついると聞いたことがある。ご令嬢の方は和花と同い年だったはず。

 物腰柔らかな彼の声と話し方に、和花の警戒心はだいぶ解けていた。


「只今参ります」


 広い座敷を突っ切って表戸に急ぐ。

 土間で草履を履くと鍵を開け、戸に手を掛けた。

 ゆっくり引き戸を開けると、少しできた隙間にスラっと長いが、骨張っているきれいな指が入り込み、ガラッと勢いよく開いた。

 急な出来事に驚き、戸から手を放して二、三歩後退る。

 ……開けたのは良いものの何と声を掛けたらよいか迷い、思わず俯いてしまう。

 和花の視線は相手の足元を捉えていた。

 綺麗に磨かれた高価そうな革靴。靴一つとっても家柄が良いことが分かる。


「……あ、あの……」


 しどろもどろになる和花の声に被ぶせるように男性は話した。


「突然申し訳ございません。私、九条蒼弥と申します」


 俯く和花の耳に聞こえてきたのは、優しく穏やかな声だった。

 名家の出でもあろう人が、こんな一般庶民に下手に出るような丁寧な話し方をするものだから和花は驚き、そっと顔を上げ、目を見開いた。


 (……!)


 熟した栗の皮のような黒みがかった赤褐色の髪、スッと通った綺麗な鼻筋、透明感あふれる白い肌。

 顔のパーツ一つ一つどれもが上品で、女である和花も思わずうっとりとしてしまうような中性的な、端正な顔立ちをしている。

 だが、和花をゆうに超える背の高さと、しっかりした骨格からは男性らしさを感じることができた。


 何より印象的なのは薄茶色の瞳。奥二重の目は少し垂れており、それが優しさを醸し出していた。

 優しげな瞳が和花を捉え、ぱちりと目が合う。


 (綺麗な優しそうな人……)


 綺麗な瞳に吸い込まれそうな感覚に陥る。

 何も答えない和花を不思議に思ったのか蒼弥が小さく首を傾げた。

 蒼弥の仕草にはっと我に返り頭を下げた。


「長らくお待たせしてしまい申し訳ございません」


「いいえ。突然だったにも関わらず出て下さり助かりました」


「あの……何かございましたか?」


 問い掛けると蒼弥は困ったように薄く笑った。


「実は本日、妹と二人で地方から戻って参りました。しかし、長旅ということもあり、妹が体調を悪くしてしまったのです」


「まぁ……」


「熱が高くうなされております。自宅までもう少しではありますが、かなり弱っておりまして、お水を一杯頂けないでしょうか?」


 そう言うと丁重に頭を下げた。

 蒼弥は容姿も美しいが、所作までも繊細で美しい。目が釘付けになる。

 そしてなんといっても目を引くのは腰の低さ。

 偉い立場の人はもっと傲慢で威張っている印象を勝手に抱いていたので、蒼弥の奥ゆかしい佇まいに拍子抜けする。

 和花は高貴な方に失礼のないように背筋を伸ばし、笑みを作った。


「承知致しました。只今持って参りますので少々お待ち下さい」 


「感謝致します」


 一言告げると和花は蒼弥から逃げるように足早に立ち去った。



 

 

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