紫紺の葡萄蔓 5
気付けば、朝晩に冷たい風が吹き込む時期になっていた。
あれから数日、和花とは顔を合わせない生活が続いた。
『和花様が……少しお一人になる時間を頂きたいと……』
和花が宮廷へ行った次の日。
和花に声をかけようと思い、部屋の前に立つ蒼弥に、カナはそう告げた。
和花は食事も取らず、ずっと部屋にこもっているらしい。
心配は勝るが、和花の気持ちを無視したくない蒼弥は、彼女の言葉をのんで、自ら出てきてくれるまで待つことにした。……表向きは。
どれだけ和花が心配でも、蒼弥の仕事は湧いてくるように出てくる。
宮廷の文官長という責任のある立場にいる蒼弥はいつも多忙であるが、最近は比べ物にならないほどに忙しい。
和花のことが気に掛かりながらも、朝早くに出勤し、夜は日付を越すぎりぎりの所で帰って来る生活を送っていた。
心身ともに疲労が蓄積していく。
和花に全く会えない生活は、彩りが欠けていた。
いつもと同じ家にいるはずなのに、部屋は薄暗く、静けさに心が痛んだ。
(本当に、私は駄目な人間だ)
夜,蒼弥が一人で遅すぎる夕食を食べていると、そっと襖が開いた。
「お疲れ様です。蒼弥様」
普段ならとっくに帰っているであろうカナが、静かに入ってきた。
「カナさん、こんな遅くまでどうされましたか?」
問い掛けに答えもせず、カナは蒼弥の目の前に座った。
「今までに見たことがないくらい、お疲れなお顔をされていますよ」
「……」
自覚済みな蒼弥は何も言えなかった。ただ,じっと下を向く。
「……和花は……どうしていますか?」
自分のことよりも、ずっと気になっていたことを口にする。
本当に自分は情けない。
恋人でありながら、和花を守ると言ったくせに、傷付けて、手を差し伸べることもしない。
だが、正直、どうしたら良いのか分からなかった。何と声をかければ、どう関われば、彼女の心を癒すことができるのだろう。
ずっと考えていたが、答えに辿り着けなかった。
だから一人でいたいという和花の気持ちを尊重しているふりをして、逃げた。
本当に最低だ。
そんな自分が苛立たしいし、惨めだ。
膝の上に置かれた拳に力が入る。
「和花様は、お食事は一人自室でされていますが、食欲が無いようです。私もほとんどお顔を合わせられていませんが、一瞬、お会いした時はとてもお辛そうな顔をしていました」
「……そうですか」
和花が思い詰めているのが、ひしひしと伝わる。
「……私は色々間違ってしまったのかもしれません……仕事を理由に、逃げてしまいました」
頼りない、力のない声が蒼弥の口から飛び出た。
時計の針の音がやけに大きく聞こえる。その静けさを和らげたのは、カナの穏やかな声だった。
「蒼弥様はどうされたいのですか?」
胸の奥がざわめいた。カナの言葉に面をあげる。
「どうしたい……か……」
「はい。和花様は今,とても不安に思われていると思います。思っていることを正直に告げた時に、蒼弥様との関係が崩れてしまうのではないか……と」
「私は……和花のどんな言葉でも離れていくことはありません……!」
必死の形相の蒼弥を見て、カナはやんわりと表情を緩めた。
「それなら、それを真っ直ぐにお伝えすれば良いのです」
「真っ直ぐに……」
「はい。こんなにも大切に思っている、ということを伝えられるように」
「……どうしたら伝わるでしょうか?」
その答えが分からなかった。
行き帰りの路面電車の中、仕事中のふとした時、食事中。あらゆる時にこの難題が頭を占め、今までにないほど考えたが、答えが分からない。
解決が難しい問題にぶち当たったことなんて、今までになかった。人との繋がりと知識と、自分の努力があれば仕事なんて大抵のことはすぐに解決できていた。
恋とは、誰かの心に寄り添うとは、こんなに難しいものなのか――
「それはもう、ひたすら向き合うしかありません。拒絶されても、誠実に向き合い、言葉で愛を思いを伝えるしかないのです。何度でも」
和花の優しい笑顔が想起される。
辛いことがあってもじっと堪え、誰かのために動いていた彼女。その優しさと美しさに惹かれるのに時間はかからなかった。
暗く、狭い道を一人で歩いてきたからこそ、その手を優しく取り、明るい日向の道を共に歩きたい、そう思った。
これまで、九条という名で面倒に巻き込まれたことも少なくはなかった。
妬みや嫉み、色目を使われたことも一度や二度ではない。
だが、そこまで大きく気にしてはいなかった。
世間からどう思われても良いと蒼弥自身は感じ、気にしていなかったが、それが彼女を苦しめていた。
そんなことも気付かない自分は、和花に声をかける資格はあるだろうか。
そんな思いが浮かんでは消えていく。
それでも、やはり。彼女と共に歩みたいから――
「色々とありがとうございます」
蒼弥が礼を言うと、カナはにこりと笑った。
◇◇◇
どうしてこんなにも苦しいのだろう。
窓の外の、柔らかい日差しを眺めながら、和花はふとそんなことを思った。
由紀を通して、蒼弥に一人にして欲しいと頼んだからか、あれから蒼弥とは一度も顔を合わせないで、数日が経った。
この数日、部屋を出ることも試みたが、睡眠不足でクマができ、食欲がなくやつれた顔で屋敷内を彷徨うことは躊躇われた。それに、自ら部屋に籠ってしまった手前、変な意地が襖を開ける気を起こさなかった。
(私、このまま、呆れられちゃうのかしら)
悲しいが、そうなれば自業自得だ。
由紀にも、「蒼弥の本心を聞いて、自分の気持ちを届けなくては何も変わりませんよ」と連日励まされているが、動けないでいた。
蒼弥の職場を見て、職場の人と会って、自分に自信がなくなった。いや、蒼弥の隣に立つことが申し訳なくなった。
何の取り柄もない、自分が。
さくらの言うことは悔しいけど、図星だった。
華のあるさくらと、華のない自分。
学のあるさくらと、学のない自分。
どちらが、宮廷の文官たちの長である蒼弥の隣に似合うかなんて、容易に見当がつくだろう。
それに,帰り際に出会った晴子の存在も頭をちらつく。
容姿の整った蒼弥の隣には、彼女のように麗しい人が似合うのも当たり前だろう。
諦めれば、済む話なのに。
諦められない自分がいる。
蒼弥の隣に、好きな人の隣に居続けたいと願ってしまう自分が。
それならば、本心を伝えれば良いと思うが、あいにく、そんな自信も勇気も持ち合わせていなかった。
これからどうするべきなのか。
部屋に篭って頭が痛くなるほど考えたが、一向に答えは見つからなかった。
(こんなにも、考えられない、決断できない自分が……嫌……)
優柔不断な自分に心底嫌気がさす。
自虐的な笑みさえ浮かんでくる和花の耳に届いたのは、久しぶりに聞いたゆったりとした声だった。
「和花?私です」
声につられるように、ゆっくりと首が襖の方に動いた。
「……」
数日ぶりの、蒼弥の声に涙が出てきそうになった。
返事をしようと口を開くのに、喉が狭まって声が出ない。
和花の返事がなくとも、蒼弥は話を続けた。
「突然で申し訳ありませんが、明日、一緒に出掛けましょう。休みを頂きましたので、少し遠くに行きましょう。ゆっくり和花と話がしたいです」
「……え?」
想定外の誘いに和花は小さく声を漏らした。
こんな自分が一緒に行って良いのだろうか。
それに、ゆっくり話せるだろうか。逃げずに、面と向かってきちんと。
そんな思いばかりが、とめどなく溢れていく。
(どうしたら良いの……)
動きにくい唇を何とか動かす。気付いたら勝手に、口が言葉を吐いていた。
「……でも、私なんか……」
ここで断って良いのだろうか?
本当にこのままで良いのだろうか?
せっかく出来た好機を逃しても良いのだろうか?
蒼弥の意図は分からないが、ここで頷かなければ、一生このままのような気がしてきた。
後悔だけはしたくない。
逃げ続けていても、きっと何も変わらない。
出掛けたことで、今後がどう分からないが、覚悟を決めなくてはいけない。
そんな気がした。
言いかけた悲観的な言葉を必死に飲み込む。
「……分かりました」
由紀から言われた言葉の力のおかげもあり、和花はそっと頷いた。
「良かったです。では、楽しみにしていますよ」
蒼弥の足音が遠ざかり、しんと静まり返る部屋。
なぜ今蒼弥が、誘ってくれたのかは分からない。
――でも、何かのきっかけになれば良い。自分が前に進むために。
その気持ちを胸に、和花はゆっくりと身体を動かし始めた。




