紫紺の葡萄蔓
(ここが帝都の中心地……賑やかな所ね……)
紫色の風呂敷包みを片手に、路面電車から降り立った和花は、目の前に広がる景色に圧倒された。
まず驚いたのは人の多さ。
仲睦まじい家族連れや学生服を着た若者、仕事中であろう背広姿の男性など多くの人が様々な方面から行き交っている。和花と同じように着物姿の人も見かけるが、異国の洒落た服を着ている人が多かった。ご婦人のひらりと揺れる白いワンピースの裾に、思わず目が向いてしまう。
和花は生まれからずっと帝都に住んではいるが、中心地に来るのは何気に初めてだった。
両親と住んでいた家は、帝都の西部に位置し、中心地からかなり距離があった。今住んでいる蒼弥の家も、やや中心寄りではあるが、路面電車で四半時かかる為、用事がないと立ち寄らない。日常的な買い物は、家付近で済んでいたのでわざわざ出てくる必要もなかったのだ。
赤煉瓦造りの洋風な建物が建ち並ぶ大きな通りを、和花は視線を彷徨わせながら進んだ。
(こっちで合っているかしら……?)
見知らぬ土地を歩くのは、とても心細い。
右往左往しながらカナに教えられた通りに進むが、不安は尽きなかった。
燦々と太陽の強い光が降り注ぐ午後。
和花は淡い水色の日傘を差しているが、それだけでは暑さを凌ぐのは難しく、うっすらと汗が滲んでくる。
だが、正直な身体とは反対に、これから起きるであろうことの不安や緊張から、和花の心は冷水に浸っているように冷たかった。
一歩一歩足を進める度に、息が詰まりそうになる。
(でも、早く行かないと……)
前に進まなくていけない。分かってはいるが後退したくなる……そんな葛藤を胸に抱きながらひたすら歩くと、目前に見えてきたのは大きな立派な門だった。 門の前には、黒服の男二人が立っており、慎重に周囲の様子を伺っていた。
(ここが……宮廷……)
ごくり、と唾を飲む。
初めて来る場所はどうしても身体が強張ってしまう。それが、こんなに敷居の高い所なら尚更だ。
(カナさんはあぁ言ってくれたけど……やっぱり……)
大きな門の前にたどり着いた和花の緊張は最高潮に達していた。
(だ、だめ……!蒼弥さんが困ってしまうから、頑張らないと)
躊躇いながら、目の前の男に声を掛けた。
「す、すみません……」
自分でも驚くほどか細い声が出た。
「如何されました?」
「えっと……あの……」
背の高い二人の男に見下ろされ、言葉に詰まってしまう。風呂敷包みを待つ手に力が入った。
「この先は、要件をお伺いしないとお通しすることはできません」
威圧的な男の態度に、思わず目を逸らした。
「九条蒼弥さんに用事があります」そう告げれば良いはずなのに、声が出てこない。
まるで喉に大きな何かが詰まってしまったような感覚だった。
「お引き取り下さい」
何も答えない和花に不信感を抱いた男たちは、怪訝な顔で和花を追い返そうとした。
「あ、あの……!」
手の中の風呂敷をぎゅっと握る。
引き返すわけにもいかず、覚悟を決めた和花は半歩踏み出した。
「く、九条……蒼弥さんに用事があって参りました……!」
「九条さん?」
「文官長に何の用だ?」
和花の必死の訴えに、二人の門番は顔を見合わせた。
「文官長に女性の客人が来るなんて連絡あったか?」
「いやぁ?特に聞いていなかったが……」
和花を見ながら、ひそひそと話す。
(ど,どうしたら良いの……?)
完全に置いてけぼりの和花は、この状況をどうしたら良いのか狼狽えた。
(蒼弥さんに会うのは、こんなに難しいの……?お偉い立場だから……?)
暑さからなのか、焦りからなのか、じわりと汗が背中を伝う。
「あ、あの……」
和花が控えめに声を掛けた瞬間、背後から間の抜けた声が聞こえた。
「あれれ?こんな綺麗な方がここにいらっしゃるなんて珍しいですねぇ」
声につられるように振り返ると、見覚えのある人が立っていた。
和花の顔を見たその人は、やっぱり、と声を漏らし、勢いよく駆け寄ってきた。
「あなた、和花さん?ですよね?」
「え?あ、はい……」
「お久しぶりですねぇ!ますますお綺麗になられて……」
「は、はぁ……」
「あ、忘れてしまいました?以前お会いしたんですけど……」
「……」
神妙な面持ちだった和花の気も知らず、砕けた話し方で流暢に話す男に茫然自失になった。
「それでは改めまして、九条さんの部下の冴木と申します」
「……あ」
ようやく思い出した。
一度会ったこともあるし、蒼弥が仕事の話をする時に時折出てくる人物。
蒼弥からはとても頼りになるが、やや軽率な人だと教えてもらっていた。
「そのお顔は思い出して頂けましたね」
にやりと笑う冴木に、蒼弥が話していたことは間違いないのだと確信した。
「冴木さん、お知り合いですか?」
和花と親しげに話す冴木を見て、門番二人は思わず声をかけた。
「あー、うん、そうだね。俺の知り合いというか、九条さんの知り合い……かな?」
冴木は含み笑いを浮かべた。
「そういえば、どうしたんです?こんな所まで」
そう問いかけられ、和花は自分の目的を思い出した。
「蒼弥さんがお忘れ物をしてしまったようで、カナさんの代わりに届けに参りました」
すっと風呂敷を見せると、冴木はあーあ、と苦笑いし、ぼやいた。
「全く。九条さん幸せすぎて頭がボケてしまったのかなあー」
「え?」
「いや、なんでもないです。よし、では私が九条さんのところに案内しますよ」
「本当ですか?」
正直、一人で宮廷内を歩くのは勇気がなかった。ここまで辿り着くのにいっぱいいっぱいだったので、顔見知りの人と一緒だと和花も安心だ。
「彼女は九条さんの知り合いなので通しても大丈夫ですよ。きっと今後もいらっしゃる回数が増えると思うので、顔をしっかり覚えてあげてくださいね」
いひひ、といたずらっ子のように笑う冴木は、未だ戸惑っている和花の手を引き、宮廷の中に入って行った。