黒紅の桜 3
「いらっしゃい……あ、お,お帰りなさいませ」
ご婦人との温かいやり取りの余韻に浸りながら仕事をこなしていると、紗栄子が帰ってきた。
彼女の声が聞こえただけで、急に緊張感が走り、背筋が伸びる。
紗栄子は店内を見回し、和花を見つけるとつかつかと近寄ってきた。
「後は貴方は自分の仕事をしてちょうだい」
いつものように心のこもっていないあっさりとした言葉だが、幾分か声色が明るいような気がする。
甘味処に行けたことが余程嬉しかったのだろう。
「……はい」
「怠けたりしたら承知しないんだから」
耳元でささやかれる声に息を吞む。
「……かしこまりました」
一つ会釈をして紗栄子から距離をとった。
彼女の機嫌が変わらないうちに、この場から立ち去ろうと片付けもそこそこに座敷を後にする。
「あら〜こんにちわぁ」
去り際、常連客に明るく話しかける紗栄子を見て、和花の胸はちくりと痛んだ。
いくら願っても、いくら努力しても自分には向けてもらえない笑顔と優しい声。
……お客様が少しだけ羨ましい。
どんよりした気持ちになりながらも和花は静かに座敷を出て、隣の部屋に移った。
やっと一人の空間になり、張り詰めていた糸がぷつりと切れた和花は大きなため息をついた。
朝から今まで働き詰めで身体が重い。動きっぱなしも堪えてしまう。
忙しくて気付かなかったが、とっくに昼食の時間を過ぎていた。
(ふぅ……)
一人は安心する。誰からも何も言われない、誰の目も気にならない此処はまさに天国のよう。
衣桁がぎゅうぎゅうに置かれた、決して広いとはいえない洋風の部屋。
畳敷きではなく、焦茶色の床板に同系色の机や椅子や棚がある。
この部屋は和花にとって第二の自室、仕事場である。
加納家に来て自由に使うことを許された唯一の場所だった。
机上には様々な大きさの筆や多彩な染料の瓶がきちんと整頓されている。
和花はここで手描き職人として仕事をしているのだ。
手描き職人とは着物や羽織、帯などに絵柄や模様を入れる職人である。型紙や機械を使わず、筆と染料のみで着物一枚一枚丁寧に四季折々の花や鳥や模様を手描きで描いていく。繊細な画力と集中力を必要とする仕事。
幼い頃から絵が上手だったと和花の才能の噂を耳にした信忠は、和花を加納屋の手描き職人にさせ、一生自分たちの元で働かせる為に婚約を持ちかけたのだ。
お金の為、家業繁盛の為の婚姻。
息子の婚約者だが、和花の存在意義はお金のみ。
加納家を豊かにする為の道具にすぎない。
だから義両親が和花に対して丁寧に接する必要もないし、使用人と同等な扱いくらいがちょうど良いと思われた。
明るく器量が良い和花は、同居したばかりの頃、加納家の使用人に好かれ、慕われた。それを面白く思わなかった義父母は日を追うごとに和花に対し冷たくなっていったのだ。
心が折れ、従順になると思っていたが、音を上げるどころか何食わぬ顔で過ごす和花を見てどんどん当たりがきつくなっていく。
そんな家族の態度にも挫けず、加納家で暮らすこの一年で、加納屋に売られている着物や反物の絵付けを全て一人で行い、多くの着物に魂を吹き込んできたのだ。
「よいしょ……」
椅子に座り部屋の中を眺めていると、一気に眠気が襲ってくる。うつらうつらしていると、襖の外から和花を呼ぶ声が聞こえた。
「和花さん、いらっしゃいますか?」
聞き馴染みのある声に、はっと意識を取り戻し、目をこする。
「は、はい。おりますよ」
「入ってもよろしいでしょうか?」
「どうぞ」
「失礼致します」と顔を覗かせたのは、垂れ目の優しそうな使用人だった。
「由紀さん!どうしたのですか?」
由紀は、和花が加納家に来たばかりの時から、困っているとそっと助けてくれる使用人である。
和花より少し年上の由紀は、唯一和花のことを気にかけてくれる、和花にとってはお姉さん的な存在だった。
今、この家で信じられるのは彼女くらいである。
表情が明るくなる和花を見て、由紀は困ったように笑った。
「どうしたんですか?じゃないですよ。お昼ご飯食べました?」
「……あ」
由紀はお盆を和花の目の前に置いた。
形のいいおにぎり二つとまだ湯気が沸き立つ湯呑み。
「お身体を壊してしまったら元も子もありません。しっかりお食べくださいね」
「ありがとうございます」
両手で包み込むように湯呑みを持つと、手袋越しにじんわりと熱が伝わる。
一口飲むと、疲れた身体に温かいお茶が染み渡った。
「美味しい……」
「それは良かったです……和花さん、今日もお仕事たくさんあるのですか?」
ぐるりと部屋を見回しながら由紀は眉を八の字にする。
「本来であれば午前中もここでお仕事されたかったですよね……それなのに旦那様たちは……」
いつからだろう。自分の本心を隠すようになったのは。
いくら和花が文句を言おうが嘆こうが加納家の人たちは誰も助けてくれなかった。そのうち、自分の気持ちを表しても意味がない、無駄だと思うようになり意見することを辞めた。
さらにことごとく批判されてきた為か、自分の考えや気持ちは間違っているのではないかと錯覚してしまう。
和花が思っていることを言えない代わりに代弁してくれ、怒ってくれた由紀の気持ちが嬉しく安堵した。
こんな私の気持ちを理解してくれる、私が感じた気持ちは間違っていなかったのだと。
「そうですね……でも今から頑張ります」
「私はこのくらいのことしかできませんが、何かありましたらおっしゃって下さいね」
「ありがとう……ございます」
静々と立ち去る由紀の背中を見送ると、目の前のおにぎりに手を伸ばした。
握りたてのおにぎりはまだ温かい。
普段、義家族の食事の支度をしてから食事をとる和花は、冷めたものを口にすることが多かった。
久しぶりの温かい食事に食指が動く。
彼女の握ったおにぎりはちょうど良い塩加減でとても美味しかった。
「ごちそうさまでした」
(よし!)
お腹が満たされた和花は、自分を鼓舞しながら、右手に嵌めていた手袋を外し、割烹着を着た。
一気に気が引き締まる。
衣桁に掛けてあった藤色の着物を机に広げ、筆や調色板、白、赤、青の染料を用意した。
仕事は強制的にさせられてはいるが、別に嫌いではない。
大好きな絵と向き合える時間は心が躍った。
調色板に各色の染料を出していく。それらを少しずつ筆で取り、空いている所で混ぜ合わせ、自分の思い通りの色を作っていった。
色を調合する工程は毎度和花の心をくすぐった。
ほんの少しの配合の違いで新しい色に出会えることがとても楽しい。
理想の色を一発で作れるのか、はたまた全く予想していない新しい色ができるのか、まるで運試しをしている気分。
(素敵な紫色……)
鮮やかな紫色が調色板に広がり、それに比例するように和花の口元も緩んでいく。
満足のいく色を作り終えた和花は、今しがた作った紫色を筆に取り着物に描き入れていった。
細い筆で菖蒲の花の輪郭を描き、その中を紫色で塗っていく。色が斑らにならないように、はみ出さないように一筆一筆慎重に心を込めて……
筆を握る手には力が入り、うっすらと汗が滲んでいた。
これを手に取る方の嬉しそうな顔を思い浮かべて。
これを身に付ける方の幸せを願って――
黙々と描き続けていくのだった。