象牙色の手毬 3
朝食を終えた和花は、ふわふわと気持ちが浮ついたままだった。
些細なことで舞い上がっている自分は、なんて子どもっぽいのだろう、と冷静に思う所もあったが、好きな人に褒められて嬉しくない訳がない。
そんな和花の気持ちなんてつゆ知らず、目の前の蒼弥は涼しい顔で革靴を履いていた。
着流し姿の蒼弥も落ち着きがあって魅力的だが、茶色のスーツに身を包んだ彼は、きり、と顔つきが変わって素敵だった。
人を寄せ付ける優しい表情はそのままだが、和花の前で見せる、柔らかい、甘い表情は一切なく、凛々しい顔をしている。
鞄を手に持ち、振り返った蒼弥はふわりと笑った。
「朝食ありがとうございました」
「いいえ、私にはこのくらいしかできませんので」
「そんなことありません。とても美味しかったですよ」
「それなら良かったです」
外で騒がしく鳴く蝉の声も、今は耳に入らない。そのくらい蒼弥の声しか和花の耳に届かなかった。
「それでは、いってきます」
にこやかに身体を翻す寸の所で、和花は蒼弥の服の小さな異変に気付き、声を掛けた。
「蒼弥さん」
「どうしました?和花?」
蒼弥の問いに答えることなく、勢いよく足を一歩前に進める。
和花は無意識に、細くて白い腕を蒼弥の首元に伸ばした。そして襟足辺りに触れ、指先で丁寧にスーツの後ろ襟を直していく。その間、蒼弥は驚き、目を瞬かせていた。
「襟がおかしくなっていました。これで大丈夫で……」
直し終わり、ふと視線を上にあげる。鼻先がぶつかりそうなほど近くに見目麗しい顔があった。
時が止まったように思え、思考回路が停止する。
優しい蒼弥の匂いが、鼻を掠めた。
蒼弥は背が高い。おおよそ頭一つ分くらい違う。いつも隣に立つ時は見上げて話しているのに、今はどうだ。
和花より一段下の土間に立っている蒼弥とは自然と顔の距離も近くなる。さらに後ろ襟を直そうと、少々前のめりになったから、余計に至近距離になっているのだ。
「……っ!」
は、と正気を取り戻した。浮かれていたせいで、何も考えず大胆なことをしてしまった気がする。
とてつもない羞恥で身体が動かず、離れようとしても難しかった。襟を整え終えた手が、帰る所を失い、宙を彷徨う。
(わ,私なんてことを……)
「和花」
「……っは、はい……!」
蒼弥は、そのまま何を言う訳でもなく、固まる和花をそっと包み込むように抱きしめた。
和花の背中に、蒼弥の温かい手が触れる。スーツ越しに蒼弥の体温が感じられ、どくんどくん、と蒼弥の規則正しい心音が聞こえてきた。
彼の腕の中は心地良い。そして、蕩けてしまいそうなくらい、甘い。
「朝から大胆ですね」
ふっ、と和花の耳元で笑う蒼弥の声には、若干のからかいが含まれていた。
「そ、そういうつもりでは……」
顔が上げられない。蒼弥の胸に顔を押し付け、必死に羞恥心と闘う。
和花の頭からもくもくと湯気が上がりそうだった。もう限界。恥ずかしすぎておかしくなってしまいそう。
「可愛らしい和花と離れるのはとても心苦しいですが……早く帰れるように、仕事頑張ってきますね」
そっと離れた蒼弥は、和花の頭を優しく撫でると、「いってきます」と微笑みながら戸の向こうに消えていった。
「……いって、らっしゃいませ……」
誰もいなくなった玄関に、放心状態の和花の小声だけが響いた。
(恋人と一緒に過ごすと、こんなにもどきどきするものなの……?)
蒼弥を見送り、何とか意識を取り戻した和花は、炊事用手袋をはめ、由紀と二人で朝食の後片付けをしていた。
たらいにぬるま湯を張り、布巾で汚れを擦っていく。念入りに擦れば、食べ物の跡はするすると落ちていくが、和花の心の火照りは落としきれない。
これまでの一年、感情を押し込めていた和花は、今まで鈍かった心が大きく揺れ動く度に戸惑ってしまう自分がいた。
蒼弥との生活はとても心地良い。
しかし、この二ヶ月、生活を共にする中で気付いたことがある。
蒼弥はとても優しく、そして、とても甘いのだ。
誰に対しても分け隔てなく優しい所はよく見る。部下にだって使用人にだって丁寧に接し、いつも穏やかだ。もちろん和花にだってとても優しい。
そして、胸焼けがするほどに和花にとても甘いのだ。
「可愛らしい」「美しい」と思ったことは堪えきれず、すぐに口に出てしまうらしい。さらに和花の頭を撫でたり、手を握ったりしてくる。元々の垂れている目を一層下げて、慈しみの籠った目で見つめられながら――
その度に和花は心臓が破裂しそうな、止まってしまいそうな感覚に陥るのだった。これでは心臓が一つではとても足りない。毎度のことながら恥ずかしさでいっぱいになりつつも、まっすぐな愛に和花の心はどろどろに溶かされていくのだった。
「わたし……おかしくなってしまいそう……」
「え?」
心の中で呟いたはずの言葉が、いつの間にか声になって、体外に流れ出ていた。
ため息混じりな和花の呟きを聞いた由紀は、茶碗を拭く手を止め、ぎょっと和花の方を見た。
「和花さん?どこか具合でも……?」
「……あ、いや、いえ……」
具合は決して悪くない。すこぶる元気だ。しかし、朝から立て続けに激しく揺り動かされた心臓は、まるで誰かに握られてるようにぎゅっと痛かった。
「九条様と何かありました?」
「……っそ、そういうわけでは……」
由紀に的確に当てられ、ぐうの音も出ない和花は、曖昧に言葉を返した。
「あら?そうなんですか?朝、仲睦まじいお姿見ましたけど」
「いや……言い合い……とかそう言うのでは全くなくて……」
「?」
年上の由紀に聞けば、何か分かるだろうか。
この前まで婚約者はいたが、名ばかりの、形式だけの婚約であり、恋愛感情は全くなかった。そんな和花は恋愛の経験がなく、何もかもが初めてだった。
好きな人と共に過ごすだけで、こんなに幸福感に満たされるのか。
好きな人の言葉で、あんなにも心が揺れ動き、一喜一憂できるものなのか。
好きな人に少しでも触れられただけで、こんなにも心臓が壊れそうなくらいどきどきするもなのか――
加納家にいた時は負の悩みしかなかったが、これは幸せな、贅沢な悩みだと思う。だが、動揺が隠しきれないのも事実だ。
「……蒼弥さんと一緒にいると、こんなにも苦しくなるなんて……思いもしませんでした」
洗い物が全て終わり、炊事用手袋を外した和花は、レースの手袋越しに右手を自分の胸に当てた。
「……苦しいのですか?」
「……はい……あの優しさに触れるたびに、まるで心を鷲掴みされているように痛く感じます。脈を打つ衝撃が大きく、胸が痛いのです。呼吸がままならなくなりそうな時もあります……私はこんなに幸せになって良いのかと、思ってしまいます」
苦しいと言うものだから、何か良くないことでも起きたのかと身構えた由紀だったが、和花の言葉を聞き、緩む口元を手で押さえた。
「……あの……由紀さん?」
(私、やはりおかしいのかしら……?)
初めての感覚に戸惑うばかり。やはり自分はおかしいのだと、足元を見つめた。
そんな和花の肩に由紀はそっと手を置いた。
「……笑ってしまいすみません」
「いえ、やはり私はおかしいので……」
ふるふると由紀はゆっくりと首を横に振る。
「いいえ。何もおかしくありません。私が笑ったのは、和花さんがあまりにも愛おしくて」
「え?」
優しく微笑む由紀の顔が目に入る。
「和花さんは九条様のことが本当にお好きなんですね。苦しさを感じるくらい誰かを想えるのは、素敵なことだと思います。焦らず、その気持ちを大切にして欲しいです」
「そういうものなのでしょうか……」
「えぇ、えぇ、何もおかしくありませんよ」
「……人を好きになるとは難しいですね」
ぽろん、と本音が溢れた。
「そうかもしれません」
戸惑いを隠せない和花をよそに、由紀はふふふ、と優しく笑った。
「和花さんは変わられましたね」
「え?私が?」
「はい。とても良い顔をするようになりました」
「……」
由紀の言葉の真の意味がよく分からず、和花は首を傾げた。
「こうやって、今のお気持ちを素直に教えてくれるようになり、私はとても嬉しいです――大丈夫です。何かありましたら、いつでもお話聞きますから。砂糖のように甘いお話たくさん聞かせて下さいな」
「そ、それは、ちょっと……」
慌てる和花を見て、由紀は声を上げて笑った。
頬を赤らめながらも、和花もつられて笑みが溢れる。
「ありがとうございます、由紀さん」
由紀の優しさに触れ、縮こまっていた心が、ふわりと解けていくのが分かった。




