石竹の舞扇 4
一歩外に踏み出すと心地よい風が髪を揺らし、火照った身体に染み渡った。
(……気持ちいい)
日が落ち始めた空は、茜から橙へとゆるやかに色を変えてく。
久しぶりに見た夕焼けの眩しさに和花は目を細めた。
蒼弥は振り向き様にそっと手を差し出した。
「足元、気をつけてください。では、行きましょうか」
「はい」
その手に戸惑いながらも和花は自分の手を重ねた。
指先が触れた瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなる。
繋がれた手は温かい。もちろん物理的な温かさのさもあるが、穏やかな時間に和やか空気感から滲み出るものもあった。
二人の影が並んで伸びていく。
ひとつ、扉を開けた和花の足取りは、もう迷っていなかった。
少し歩くと、ゆるやかに流れる川と小さな橋にたどり着いた。
川のせせらぎが耳に心地よく、夕陽に照らされた水面がきらきらと光っており、目を奪われた。
吸い込まれるように橋を渡っていく。
「ここ……綺麗ですね」
和花が足を止め、橋の欄干に手を添える。蒼弥も隣に並んで立った。
「何かに行き詰まったり、自分が分からなくなった時に私はよくここに来ます」
「九条様もそう思う時があるのですね」
驚いて蒼弥を見上げると、蒼弥はクスッと笑っていた。
「もちろんありますよ。私も人間ですから。でもこの景色に身を置くと不思議と気持ちが落ち着いてくるのです。明るい色は人を穏やかな気持ちにさせてくれる」
「本当に不思議です……心が洗われていくよう……」
再び視線を前に移すと遠くまで続く川の流れと沈みそうな夕陽を眺めた。
ひらりと風が和花の髪を撫で、蒼弥が目を細める。
「風、冷たくありませんか?」
「……いいえ。心地良いです」
しばしの沈黙。けれど、それは決して気まずいものではなかった。
ただ、和花は胸の奥で言葉を探していた。
ちらりと隣を盗み見ると、蒼弥は穏やかな目をしていた。
茶色の瞳に夕陽が映り、きらきらと輝いている。それがより麗しい容姿をより一層際立たせた。
「全て片付きました」
沈みかける夕陽を見据えながら蒼弥は呟いた。
「え?」
「もうあなたを縛るものは何もありません」
「……」
蒼弥が和花の方に身体ごと向けた。それにつられるように和花も向き合い、二人は静かに見つめ合った。
「和花さんはもう自由です。好きなことをして良いですし、好きな所にだって行けます。お母様の所へ行かれますか?それならば手配を……」
(駄目!今、ここで伝えなくては……!)
母の所に行くよりも居たい場所がある。隣にいて欲しい人がいる。それを伝えなくては――
胸に手を当て深呼吸をする。心臓はこれまでにないくらい速く動いていた。
意を決して口を開く。
「九条様」
思ったよりも大きな力強い声が出た。もう後には引けない。後悔のないように、全てを伝えなくては。
「九条様、私、まだあなたに伝えられていないことがあります」
蒼弥は一瞬驚いた顔をしたが、すぐにいつもの優しい表情に戻った。一生懸命伝えようとする和花の言葉に静かに耳を貸している。
「九条様と出会い、私は温かさを知りました。あなたはどんな私も受け入れ、温かく包み込んで下さいました。そして、自分の思いを伝えて良いこと、勇気を下さいました」
静かな川辺には和花の声だけが響く。
「私のそばにいたいと言って下さった言葉、とても嬉しかったです。ですが、ごめんなさい……」
突然の謝罪に蒼弥の瞳が揺れた。それでも続きを聞こうと微動だにしない。
「私は想いに応えることが怖くて、九条様の言葉から逃げてしまいました」
目頭が熱くなった。言葉を紡ごうとすればするほど目に涙が溜まっていく。
「でも、もう逃げません。器に入っている水がとめどなく湧き出てこぼれ落ちるように、私はあなたに対しての想いが溢れて止められないのです」
涙でぼやけながらもしっかり蒼弥の目を見た。
「私も九条様と一緒にいると幸せを感じます――私は九条様のおそばにいたいです」
次の瞬間、和花の目の前は暗くなった。
身体中に感じる温かいぬくもり。蒼弥に抱きしめられていると気付くのにそう時間は掛からなかった。
大きなその身体に抱きしめられ、この上ない安心感を感じる。
「……ありがとうございます」
頭上から優しさに溢れた声が降ってきた。
「怖かったと思います。……昨日、私が想いを伝えたとき、きっとあなたは戸惑った。それでも、今こうして……自分の言葉で想いを届けてくれた。それがどれほどの勇気だったか伝わってきます」
背中に回る手に力が入るのが分かった。和花もぎこちなく蒼弥の背中に手を回す。
「あなたの想い、きちんと届きました。私もその想いにきちんと言葉で返そうと思います」
逞しい腕の中に包まれながら和花はゆっくり顔を上げた。至近距離で目と目が合う。
「和花さん、あなたが好きです」
その言葉に、和花の目から再び涙が溢れた。
「これから先、あなたのそばで、一緒に笑って、泣いて、生きていきたい。嬉しさも不安も分け合っていきたい」
和花は黙って何度も首を縦に振った。話そうと口を開くも胸がいっぱいで言葉にならなかった。
「これから一緒に彩豊かな明るい未来を作っていきましょうね。あなたが今着ている石竹色のように」
「……はい!」
和花は再び彼の胸元に顔を埋めた。とくんとくんと規則正しい蒼弥の心音が聞こえる。
生きる温かさを、想いが通じ合う喜びを彼の胸の中で噛み締めた。
(こんなにあたたかい気持ち初めて……これからも九条様と一緒にいたい。そうすれば私は幸せになれるわ)
夕陽はゆっくりと地平へと沈んでいく。
ふたりの影が、橋の上でぴたりと重なり、一つになる。
茜色だった空は、いつの間にか朱を深め、やがて紫がかった紅に溶け込んでいった。
水面に映る光も、金から琥珀、そして薄い葡萄色へと変化しながら、きらきらと揺れている。
(私は……彼が好き……これは私の素直な気持ち。やっと自分の気持ちに正直になれたわ)
今までの苦労は今日の為の試練だったに違いない。辛かったこと、悲しかったこと全てを水に流すことは難しいが、何故かそれらを少し許せてしまいそうなほどに今は幸福感が勝った。
頭上には星が瞬き始め、抱き合う二人を優しく見守っている。
沈む夕日は終わりを告げるのではなく、彩り溢れる新たな日々の幕開けを予感しているようだった。




