黒紅の桜 2
「あら、珍しい!今日は和花ちゃんが店番なの?」
「いらっしゃいませ。お久しぶりです」
食事をとり、朝食の後片づけを終えた和花は、義父に言われた通りに加納屋の店に出ていた。
店に出るのは実に一カ月ぶり。
義父に言われた時だけ店に出られるので和花の存在を知っている人は珍しかった。
帝都の一角にある老舗呉服店「加納屋」
和花の義父である加納忠信が店主を務めるこの店は、先祖代々、名家から贔屓にされている帝都で名の知れた呉服屋だった。
加納家自宅の隣に建てられた加納屋は、二十畳ほどの広い座敷を持つ大きな店である。
畳敷きの座敷には、壁に沿ってずらりと衣桁が並べられており、美しい着物や反物が展示されていた。
季節は暖かい春。
春の訪れを感じさせるような桜色や若葉色、空色の振袖や色留袖が飾られており、店内を華やかにする。
入学式や新学期、新生活の為に新しい着物を新調する人々で店は朝から賑わっていた。
ここに暗い顔をしている人は誰一人いない。皆、春のあたたかいひだまりのような柔らかな笑顔をしている。
結局、信忠も微かな笑みを浮かべながら、紗栄子と一緒に甘味処へ行ってしまった。
忙しい時期だというのに自由すぎる二人に嘆息してしまう。
和花は従業員と一緒に休みなく、てきぱきとお客様の対応をしていった。
「和花ちゃん、この前注文したお着物出来ているかい?」
優しい顔をした六十路過ぎの老女が穏やかに和花に問いかけた。
常連の斉藤さんは、帝都で有名な名家のご婦人で、よく加納屋を贔屓にしてくれる。
名家のご婦人ということを鼻にかけずに、いつも丁寧に腰を低く接してくれる彼女が和花は好きだった。
義家族からは絶対に向けられることのない穏やかな顔が今自分に向けられるている。それだけでも心が温かいのに、ご婦人は和花のことを名前で呼んでくれるのだ。
加納家の人々は和花のことを「おい」や「お前」と呼ぶ。和花の名を知っているのか疑いたくなるほどに、決して和花の名を口にしようとしない。家で聞くことができない自分の名を呼ぶ優しい声に和花の心が満たされていった。
「出来ておりますよ。只今お持ちいたしますね」
「お願いします」
店の裏には大きな棚があり、煌びやかな反物や長細い箱にきちんと畳んで仕舞われた着物が並べられている。
店内と裏、合わせておおよそ三千点。
膨大な量の着物が所狭しと並んでいる棚から、一つの着物を探すのは毎度苦労する。これを見れば、加納屋がいかに種類豊富で大きな店だということが一目瞭然である。
「お待たせ致しました。こちらですね」
「まあ!素敵なお色味だこと……!」
「ありがとうございます」
藍色に落ち着いた水色と白の花が描かれた上品な着物。
それを見たご婦人は、まるで少女のように顔を輝かせた。
彼女の喜ぶ姿に、自然と和花の口元も緩む。
人が喜んでいる姿は見ているだけでこちらも嬉しくなる。
和花が店に出ることは少ないが、こんなに和やかな気持ちになれるのであれば毎日ここにいたいと思ってしまう。
色とりどりの美しい着物と人々の笑顔に包まれた穏やかな空間。
嫌なこと、悲しいことがあってもここに身を置くと癒され、少し気が紛れる気がした。
「加納屋さんの着物はここで職人さんが仕立てているの?」
「はい。そうです」
「一度会ってみたいわ。その職人さんに」
ご婦人との会話を楽しみながらも和花の手は止まらない。手際よく商品を包んで会計を済ませる。
「他のお店とは比べ物にならないくらい繊細で美しいお着物だから欲しいと旦那様に無理言ってお願いしたのよ」
「年甲斐もなくね」と恥ずかしそうにはにかむご婦人につられて和花も笑顔になる。
「そうだったんですね」
「なんでだか、ここの着物を着ると幸せな気持ちになれるから不思議よね」
「幸せな気持ち……?」
「えぇ!そうよ。良いことがありそうなね」
幸せそうに微笑むご婦人。
彼女の言葉に忙しなく動いていた和花の手が止まり、目を見開いた。
「……和花ちゃん?どうかしたの?」
嬉しかった。救われた気がした。目頭が熱くなった。
薄墨色に染まる空間に金色の光が差し込み、天にも昇る心地で心が震えた。
「……いつもありがとうございます」
感謝の気持ちを最大限に込め、美しく一礼する。
下を向くと涙が溢れそうになった。
あぁ、駄目だ。
最近優しさから遠のいた場所にいる和花にとって、誰かの何気ない温情のこもった言葉や振る舞いは涙腺を緩めてしまう。
「またのお越しをお待ちしております」
それを必死に堪え、笑顔でお客様を見送る和花だった。