4 朽葉色の柏
目を開けたら見知らぬ天井だった。
頭をゆっくり左右に動かし周囲を見回すも見たことのない家具に間取り。
(ここはどこ……)
まだ寝ぼけて働かない頭を必死に動かし、昨日の事を思い出す。
(そうだわ……私……)
徐々に昨日の記憶が蘇る。
(きっとここは九条様のお家……?)
自分でここまで来た記憶がないから、きっと彼が運んでくれたのだろう。恥ずかしさや申し訳なさが和花を襲う。
身体を起こしふと目を布団の上に向けると、あの白い兎が転がっていた。
うろ覚えだか、確か昨日袂にしまい込んだはず。
(落とさずにここまで持ってこられたのね)
手のひらに乗せると、癒しの目が向けられる。心地よい布団の温もりと静かな部屋、愛らしい兎。
和花の脳裏に母の笑顔が浮かび、自然と涙が頬を伝った。
「……っ」
ぽたぽたと兎に涙の雨が降る。
あの家から出られたことには安堵したが、その分、母を失った悲しみが大波のように和花を襲う。
加納家出たさに大口を叩いたが、これからどうしたら良いのだろうか?
母も失い、家も職も失った。後先考えなかった為にこのような事態になり、これから先が怖くなった。
(これから先、私一人でどうしたら良いの……)
助けてもらったとはいえ、蒼弥にいつまでも縋るのはいけない。彼は彼の仕事が、生き方があるのだから、和花の事情に巻き込むのは違うだろう。
せっかく明るい光が差し込んだのに、逆戻りしてしまった。結局どんな決断をしても自分は駄目なのだと自覚せざるを得なかった。
「藤崎様?起きていらっしゃいますか?」
不意に聞こえたのびのびとした女性の声に和花の思考は一時停止した。
「は、はい!起きております……!」
素早く涙を拭い、声を掛けると「失礼します」と襖が開いた。
「お初にお目にかかります。蒼弥様付きの使用人のカナと申します」
丁寧に頭を下げる彼女に、目が釘付けになった。
「初めまして、藤崎和花と申します。あの……昨日は色々と申し訳ございませんでした」
布団の上で姿勢を正しくした和花は深々と昨夜の詫びをした。突然の訪問、しかも挨拶もなしにとても失礼だっただろう。
けれどもカナは咎めることもなくにっこり笑った。
「そんなそんな!こちらのことはお気になさらずに」
若々しいカナの笑顔に和花は少しだけ肩の力が抜けた。
「和花様……とお呼びしてもよろしいでしょうか?」
「も、もちろんです!」
「それでは和花様。こちら、よろしければお使い下さい」
カナが差し出したのは、朽葉色の着物だった。
朽葉色の生地に薄くかすんだ霞文が柔らかく横たわり、ところどころに青々とした柏の葉が舞い踊っている。
ぱっと目を引く華やかさはないが、落ち着いた色味が心を穏やかにした。
「これは……?」
「あ、突然すみません。和花様のお召し物が昨日と同じだと思いまして。私の物でババ臭くて申し訳ありませんがよろしければお使い下さい」
恥ずかしそうに笑うカナを見てると、こちらまで笑顔になる。
「ありがとうございます。ではお言葉に甘えてお借りします」
「もちろんです。あ、そうそう」
カナは思い出したように一つ手を叩く。
「和花様にお電話が入っておりますよ」
「……電話ですか?」
にこにこ笑うカナを見ながら、自分宛てに電話をよこす人なんていたかしら?そんな疑問がよぎった。
「はい、電話です。こちらへどうぞ」
誰からの電話かも分からないまま、戸惑いながらカナの後をついていく。昨日から泣き続けているからか、丸一日なにも口にしていないからか身体に力が入らない。ふらふらになりながら懸命に後を追う。
書斎のような部屋に置かれた黒い電話。重厚な木製の台座に据え付けられ、上部に受話器がひっそりと掛けられている。
「ごゆっくりお話し下さい」とカナが立ち去ると、和花は恐る恐る受話器を取り耳に当てる。
大きく息を吸い込み声を発した。
「も、もしもし……」
頼りない程に弱々しい声。
この受話器から信忠や紗栄子の声が聞こえてきたらどうしよう。一瞬そんな不安が和花を襲う。
だが、電話口から聞こえてきたのは、和花が今一番聞きたかった穏やかな柔らかな声だった。
「和花?」
その声に息が止まりそうになる。声の代わりに出たのは暖かい涙だった。
「え……?」
訳が分からない。これは幻……?
いや、大好きな母の声を間違えるはずがない。母は生きていたのか……?
「っおかあさま……どうして……?」
絞り出すように出した声はひどく震えていた。混乱が収まらない。
「ごめんね、和花、たくさん心配かけてしまって……」
悲しそうな母の声が耳に入る。
「……っよかったぁ」
力が抜け、堪えていた涙がどっと溢れる。滝のように流れる涙は和花の心の中の強固なわだかまりを溶かして流していく。
拭っても拭っても涙は止まらない。和花は途中で涙を止めることを放棄した。
「でも……どうして……」
「あのね、九条さんが助けてくれたの」
「え……九条様が……?」
唐突に出た彼の名に和花は小さく声を漏らした。
「数日前、突然病室にいらっしゃってね、頭を下げられたの。『和花さんを助ける為に協力いただきたい』と」
母の話によればこうだ。
加納信忠の不審な動きを感じ取った蒼弥は、信忠が母を殺す可能性があると考え、病院と協力し表向きは『死亡』したことにして、地方の別邸を用意してもらったそうだ。
元々体調は回復傾向にあった為、今のところ身体の調子はすこぶる良いらしい。自然に囲まれた地方の田舎でのんびり過ごしているのだという。
やはり彼には敵わない。和花のことはもちろん、母のことも救ってくれた蒼弥に頭が上がらない。
「九条さんはとても良い方ね。霞んだ景色を吹き飛ばし、青々とした素敵な景色を作れる人だわ」
「素敵な景色……」
「えぇ」
和花が蒼弥を特別に想っていることも母には全てお見通しのようだ。電話越しでも母がにこやかに笑っている姿が想像に容易い。
「自分を、相手を信じるのよ。和花には幸せになって欲しいから」
子を想う母の愛。ひしひしとそれが伝わってくる。
母の生存が確認できたらもう怖いものはない。万が一何かが起こっても安全基地として逃げ込める所がある。
この事実が和花を安心させた。
「……ありがとうお母様。私頑張ってみるわ」
「何か困ったらすぐに連絡ちょうだいね。それから落ち着いたらぜひこちらにきて欲しいわ」
「……はい!」
目覚めた時と心の温度がだいぶ違う。血が通っていなかった心に湧き出るように暖かい何かが溢れて全身を巡る。久しぶりの感覚だった。




